菜々美と菜乃の無難な一日
――静謐な空気というのがどういう雰囲気を指すのか、そう言えば一度も調べたことなかったな。
降魔菜々美はとりとめもないことを考えながら、今しがた読み終えたばかりの文庫本を裏表紙を上に向けて机の上に置いた。
小さくため息を一つ。
物語に入り込む質の私は、本を一気に読み切った後はいつも、ちょっと夢見心地で周囲の現実感がぼやける。特に図書館や地下鉄の車内、落ち着いた雰囲気のカフェテリアみたいな、人の気配はあるけどあまり声が聞こえない、ある種の静けさに包まれたような環境で本を読んでいた時などは、声を掛けられてもすぐには気が付かない事も多く、周りから「集中しすぎ」と指摘されることもしばしばだ。
「お、読み終わった?」
隣から周りを気にした無声音で、私に声がかけられた。声の主を振り向くと、春らしいシニヨン&バレッタが目を引くクラスメイトが、右手を口に添えて話しかけてきていた。
「あ、うん」
すごく良かった。私も声のトーンを落として隣の席に座る友達に小声で返す。
「へー、じゃあ私にも貸してよ。菜々美の好きな話なら私も好きかも」
隣に座るその友達――名前を酒匂菜乃というのだけれど――が、机の上に伏せたままの本を指して聞いてくる。
「もちろんいいよ。というか、菜乃ちゃんも多分好きだよ、コレ」
今しがた読み終えた文庫本を表返し、彼女にタイトルと表紙絵を見えるように差し出す。
この物語は、高校生の主人公がヒロインに出会い、ヒロインを取り巻く陰謀めいた事件に巻き込まれながら、ヒロインを守るアドベンチャーもので、超能力者や魔術師などといった色々な敵とのバトルやその裏で繰り広げられる人間ドラマが魅力的なシリーズものの一巻目だ。
「おー、マジマジ?」
「基本バトルものでテンポも良いし、菜乃ちゃんの好きそうなカワイイ二枚目キャラも出てるよ」
私の一言に彼女は「それはそれは」と口許を緩ませつつ、ページをパラパラとめくって見る。
私個人の見どころとしてはバトルの裏の人間ドラマにあるのだけれど、そこはそれ、色々な読み方楽しみ方があっていけない道理はない。
ページを繰り終えた菜乃ちゃんは、一旦本を私に返し「じゃあさ」と続けた。
「お昼休みにあらすじとか聞かせてよ」
何気なく彼女が言った言葉に、私は思わず「え、でも」と二の足を踏んだ。というのも、私は相手の状況に合わせて何かを説明できるほど器用じゃないから。
小学生の頃に学校で書いた読書感想文は、場面一つ一つや登場人物の表情にまで言及した作文用紙15枚にも渡る力作になってしまったし、中学生で友達にミステリー小説を勧めてたときなどはあれもこれもと紹介している内にうっかり犯人の名前まで上げてしまった。
「おーい? 奈々美ー?」
「あ、ごめ……っ!」
過去の恥ずかしい思い出に心中悶えていた私を、菜乃ちゃんの声が現実に引き上げる。感謝の合掌(ただし心中で)。
「昼休みにさ。あらすじ、聞かせてよ」
駄目を押す菜乃ちゃんに、私は「私は別に良いんだけど……」と尻込みする。
「私に解説させるとネタバレ入っちゃうよ?」
「ああ、そんなの良いって」
あっけらかんという彼女にまた困惑。
「私基本キャラが好みならそれで良いかなってタイプだし。ネタバレとか、そんなの気にしない気にしない」
はにかむような笑みを見せて顔の前で手を振る彼女――って、ソレ割と作家さん達には鬼門なんじゃ……?
「うんまあ、それなら」
それはそれとして、説明する側の私は菜乃ちゃんの言葉を聞いて一通り胸を撫で下ろす。ネタバレOKなら、いくらだって語りつくせる。「分かった」と私が菜乃ちゃんに言おうと振り向いた時だった。
「交友を深めるっていうのは別に構わないんだけどね、君たち」
不意に背後から掛けられた声に、私と彼女の顔が瞬時に固まる。気がつくと、さっきまでノートに授業内容を書き付ける音や先生の講義の声で静かに賑わっていた教室が、居心地の悪い静寂に沈んでいる。
一瞬、お互いにお互いの青ざめた顔を見つめ合ったまま、ほとんど同時に振り返ったそこには――
「そういう事はせめて私の講義が終わってからにしてくれるかな?」
一切笑っていない笑みを浮かべる先生の顔があった。
「……せ、先生」
「何かな酒匂さん?」
菜乃ちゃんが恐る恐ると言った様子で控えめに手を挙げ、先生がにこやかに応える。
「その言い方ですと、他の授業ならやっていいことになりません……?」
「お二人とも、終わったら私の所に来るように」
学生食堂、今日は混んでないといいなぁ……。
先行きに不安を覚えつつ、私は乾いた笑いを交わし合う先生と菜乃ちゃんの傍で、黙って首を垂れるのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「この子なんだけど、どうさ?」
「おー! これは割と期待高っ!」
業後、先生にひと説教貰った直後、私たちはまだ賑わいのピークを越えない学生食堂の一席に場所を移し、遅めの昼食を取りながら懲りもせずライトノベル談話に戻っていた。
本の巻頭のキャラクター紹介ページを見て、菜乃ちゃんが前に身を乗り出して来る。
「この子は一体どう言う子なのか、教えてくれるかな?」
同性同士でもちょっとと思う勢いで迫ってくる彼女を何とか席に戻し、私は今しがた紹介したキャラを思い出す。
「えっとー、元々ヒロインの女の子を追っかけてきたチェイサーで……」
「いやいや菜々美ちそういう事じゃなくってさ」
登場人物の説明に入りかけた私への、突然のダメ出し。……嫌な予感しかしない。
「良い感じのカプは出来そうなのかな!? それこそクロスクの――」
「待ーった待った! 菜乃ちゃん!?」
賑わう店内でも気に留まれば会話の内容が筒抜けになりそうな声量でとんでもない事を口走りかけた菜乃ちゃんの口を、私は慌てて塞ぐ。
最近人気のアニメタイトルが出た所で、明らかに数人分の目がこちらに向けられた気がするけど、とりあえず気にかけない様に努める。……見た感じそのまんま同類と分かる女子の目はともかく、リア充感漂うファッショナブルな彼女とか、レジカウンターに並ぶ男子グループの中で最後尾に立つ線の細い彼とかの目が一瞬煌めいたのはすごく――すっごく気になるけど、今はとにかく全身全霊で菜乃ちゃんの興奮を冷ます方が大事だ。
「とりあえずそう言うお話は今度聞いてあげるから――」
「あ! 何この子超かわいー」
そう言った逡巡の果てに切り出した私のセリフを呆気なく遮って、突然菜乃ちゃんが本の表紙を指差した。白くしなやかなその指が指し示す先を辿ると、小さく一人の女性キャラが写っている。
「なんて言うのかなぁ。……服のセンスは良いんだけど、若干目立たない感じ? ほっとけないキャラっていうの? 私こういう子好き」
「あーうん。確かに菜乃ちゃん好みかもね」
私は菜乃ちゃんの手から本を取り、本のページをパラパラとめくる。確かあのシーンはこの辺りに――っと、あった。
「ハイ、これ」
「おー」
物語の中盤のチェイサーとの戦闘シーンを描いた挿絵。主人公と対峙するチェイサーの中に、その少女もいる。
「あれ?この子もしかして魔術師?」
「うん。そうみたい」
挿絵を見て菜乃ちゃんが首を傾げ、私はすぐに頷く。
「流派までは書いてないけど、見た目だとルーン魔術かな?」
「いや、これ多分混沌魔術かな。ちょっと細かい所で気になる箇所あるけど」
読みながら思った疑問に、菜乃ちゃんが即座に応える。私もすぐに「あーやっぱり?」と相槌を突いた。
「菜乃ちゃんの同業さんかー」
一巻だけ見た限りではルーン魔術ぽい描写しか出ていなかったけれど、聞いたところでは3巻当たりで邪神召喚の魔術を使うらしい。そんな事を考えながらしみじみとそのイラストを眺めると、なんだか親近感がわいてくる気がする。
「一巻ではずっとルーン使いなんだよねこの子」
「そりゃルーン魔術はルーン杖必須だし。体系からして他の魔術体系と噛み合わせ悪いからパラダイムシフト大変なんだよ。ただでさえ普通ノーシスってゼロから始めないと大変なのに、よっぽど極めてないとそうポンポン魔術形式変えらんないって」
あははー、と声を落としたまま小さく笑う菜乃ちゃんに、私は更に爆弾を落としてみることにする。
「ちなみに次出てくるときは、この子クトゥルフの儀式使うけどね」
「エグくないっ!?」
若干ボリュームが大きすぎて、菜乃ちゃんは慌てて周りに頭を下げる。
「ラヴクラフト魔術かぁ……私もアレちょっとかじったけど、究める気にはなれなかったなぁ」
しみじみと、「強力なんだけど、対価がねー」などと言いつつ、菜乃ちゃんは食堂の箸をカチカチと鳴らす――と思うとすぐにこちらに身を寄せ直し、「でも凄いよね」と私の肩を箸のお尻でつつく。
「なにが?」
「だってこれって革命以前の作品なんでしょ?」
菜乃ちゃんの一言に、私は「あー」と同意する。
人類社会に大変革をもたらしたという、世界革命。その歴史上の一大イベントは、私たち世代には教科書の上か、親世代の話でしか知らないものだ。
「ちょっと違和感あっても、概ね合ってるんだよね? どんな時代だったんだろ」
「作家が本職か専門家だったんじゃない?」
「ありえるかも」
実際の所は、私たちにはよく分からない。大きなテロがあって、世界を巻き込む騒動があって、その過程でそれまで一部の人が隠してきた呪術や魔術が芋づる式に暴露されていって、今みたいな世の中になったという話だけだ。
戦争があってとか社会の仕組みが根底から覆ったとか、でもやっぱり大元は変わってないとか――大人たちは昔の事を色々言っているけれど、経験のない私たちには今の世界がまごう事なき現実だ。生まれた時からこうなのだから、昔はどうだったとか言われても、やっぱりよくは分からない。
とその時、お昼休みが終わるチャイムが鳴った。食堂で談笑に耽っていた同級生たちが一斉に席を立ち始める。
「菜乃ちゃん、今日はもう授業ないっけ?」
どうせならさっきの話の続きをどこかで話そうと切り出した私に、菜乃ちゃんは「あー……」と渋い顔を見せて、すぐに「ごめん菜々美!」と手のひらを合わせた。
「私これから出勤だ」
「あれ?今日バイトの日だっけ?」
確か菜乃ちゃんのアルバイトは毎週火曜日だけだったはず。それなら昨日で今週分は終わってるハズだ。
「昨日臨時で頼まれちゃってさ」
「いつもの基地?」
菜乃ちゃんのバイトは、ほとんどがすぐそばの自衛隊基地での訓練相手だ。
「前に二回くらい行った何とかって武器試験場の方」
という事は、海岸通りの方か……。
頭の中でこの辺りの地図を組み立てる。
「じゃあバス一緒じゃない?途中までいっしょに行こうよ」
「アレそうだっけ。じゃあ一緒に行こっか」
そんなこんなで、私は菜乃ちゃんに時間を合わせて、少し早めにバスに乗る事になった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
学校の正門から少し入った敷地内に、うちの学校の名前を冠したそのバス停はある。駅前から海岸沿いに走って学校を結ぶ特別線の終着駅だ。
「また居るよあの連中」
バスの座席から窓の外を眺めていた菜乃ちゃんが正門の方を見て呆れたようなため息をついた。隣に座って目線を追うと、正門の前にたむろしてフリップや横断幕を掲げる集団が目に留まる。フリップや横断幕には、『危険な不穏分子に退去を』『地元の安全を取り戻せ』などと大きく書き連ねられていた。
「怖いね」
「私はいざとなったら蹴散らすから良いけど、奈々美は気をつけないとダメだよ?」
菜乃ちゃんは「あんた戦う術ないんだからさ」ともう一度物憂げにデモ隊の様子を見て、窓枠に頬杖を突いて不快そうに目をつむる。
「……ごめんね?」
「なんで奈々美が謝るの?」
思わず出た一言に、菜乃ちゃんは少し不機嫌そうに聞き返して来る。
「や、なんて言うか……心配かけちゃってごめんね、みたいな」
「奈々美が悪いわけじゃないし。むしろそこで謝られると、私が悪い空気になっちゃわない?」
言われて初めて気が付いて、私はまた「あ、ごめん」と謝る――とここで、バスの運転手さんが車内スピーカーのスイッチを入れた。
「ご乗車ありがとうございます。バスは定刻通り、間もなく発車いたします。走行中、やむなく急ブレーキを踏むことがありますので、走行中は何かに掴まり、停車するまではお席をお立ちにならないようにお願いいたします」
いつもと同じアナウンスを終え、続いて女声の自動アナウンスに切り替わる。
「扉を閉めます。ご注意ください。扉を閉めます。ご注意ください」
アナウンスと共に閉じかけた自動扉が寸での所で止まり、音を立てて開いた。運転手さんが遅れかけたお客さんに気が付いて、扉を開けたのだろう。とにかく、その扉が開ききる前に扉をこじ開けるように手が差し込まれた。
「妙な真似するな! このままバスを発進させろ!」
開いた扉からバタバタと騒々しく乗り込んできたのは、ジャケットを着込んだ男で、その手には鈍く光る拳銃が握られている。
窓際に座っていた菜乃ちゃんが私をかばうように身を乗り出して廊下の先の犯人を睨んだ。
「ちょっ、アンタちょっと落ち着いて……っ!」
「うるせぇ! いいからドア閉めろ!」
言いかけたバスの運転手の額に、乱暴に拳銃の銃口が押し当てられた。仕方なく、運転手はバスの扉を閉め、デモ隊が騒ぐ正門を抜けてバスを走らせる。
「奈々子。あいつの武器はアレだけ?」
菜乃ちゃんの質問に、私はすぐに「ううん」と密かにかぶりを振る。
「お尻のポケットに折り畳み式のナイフと、最後尾の座席に仲間が一人。そっちも鉄砲持ってるよ」
犯人から目を離さないようにそう答えた私に、菜乃ちゃんは「なんだ」と気楽に口を開いた。
「余裕じゃない」
言うなり、菜乃ちゃんは自分の鞄を探って、小さなプラスチックの器具を取り出す。ペンより少し大きいくらいの白い筒状のそれは、聞く所では最新式の注射器だという事だ。
菜乃ちゃんはその器具をそのまま右手に持ち、先端をおもむろに自分の二の腕の内側に押し当てた。そのまま頃合いを見計らい、バスの排気ブレーキが鳴らす排気音に合わせてお尻のノック部分を押し込む。
「来た来たぁ……」
途端に菜乃ちゃんの頬に赤みが差し、呼吸が早くなる。
あまりよくは知らないけれど、注射器の中身は本来的な意味での『媚薬』に相当するらしい。神経系に与える外的な刺激や運動神経はそのままに中枢神経の興奮状態を高める、ある種の向精神薬だという事だ。
「さて」
菜乃ちゃんが小さくそう言うと、上気した様な顔色のままスッと表情が抜け落ちた。
「一なる者よ……今ここに我が愛を捧げます……」
真顔とも違う、表情筋が全て活動を停止したような脱力した顔で菜乃ちゃんは一言そう呟き、ゆっくりと立ち上がった。
「お、おいお前! 何勝手に立ち上がってんだ!!」
すぐに、立ち上がった菜乃ちゃんに気がついた犯人が運転手の脇に立ったまま拳銃を菜乃ちゃんに向ける。しかし、菜乃ちゃんは男の怒声に怯むでもなく、ゆっくりと私の足を避けてバスの通路に歩み出た。
「お、お前、”魔女”か!?」
すぐに菜乃ちゃんの様子が妙なことに気がついた男が、拳銃を両手で構え直す。
「クソっ! 魔女相手なら容赦はしねぇ!!」
言うが早いか、バスジャック犯はためらうことなく拳銃の引き金を引いた。
ガァン!
身も竦むような発砲音がバスの車内に鳴り響く――が、まるで空砲でも撃ったかのように、どこかに弾が当たったような音はしなかった。
「な、何だよこれ!?」
男は一瞬手の中にある拳銃を見直し、すぐに気を取り直して構え直して引き金を引く――が、弾が出るどころかうんともすんとも言わない。
「おいおい!?」
男が銃のスライドを引くと黄金色の空薬莢が宙を舞い、床の上で甲高い音を立てた。
「運転手さん。落ち着いて、前を見て運転していて」
表情のすっぽり抜け落ちた顔のまま、菜乃ちゃんが呆気にとられて注意が散漫になっている運転手に声をかける。
「舐めやがってクソガキャぁ!」
ガァン!
再び男が引き金を立て続けに引いた。しかし、銃声が鳴って硝煙が飛び出したのは最初の一回だけで、やはりその後は全て虚しくカチカチと鳴るだけに収まる。
ガァン!
男はもう一度手動で排莢して、引き金を引く。しかしやっぱり二発目からの弾は出ない。
「クッソォーっ! おもちゃ掴ませやがって!」
ついに拳銃を放り捨てた男は、お尻のポケットからバタフライナイフを取り出すと、手慣れた手つきでそのままナイフを展開し、そのまま不安定な車内を座席に掴まりながら菜乃ちゃんの前に迫って来る。
「死ねっ!クソガキ!!」
男はそう激昂すると全く構える様子もない無防備な菜乃ちゃんのお腹めがけて、ナイフを突き上げる。
バタァン!
車内に物々しい音が鳴り響いた。
目の前にいたはずの私にも、一体何があったのか分からなかった。
菜乃ちゃんが身を翻したかと思うと、犯人が一回転して、床に倒れた。それだけは分かった。犯人が動かないから気絶しているのも分かった。けれど、一体全体何をしたらああなるのかは全然分からなかった。
「おいお前! そこを動くなぁ!!」
バスの後方から、さらに怒鳴り声が聞こえて来る。振り返ると、最後部の座席の前に同じ拳銃を持った別の男が立っている。
「なんだ。そのまましらばっくれてるかと思ったのに」
菜乃ちゃんがそう犯人に聞こえるようにそう呟き、無防備に振り返る。
「この……っ化け物!!」
そう言って引き金に手をかけたもう一人の犯人が、次の瞬間には驚いたように手元の拳銃を見る。
「えっ!? あれ、そんなはずは……」
犯人は信じられないと言った顔で、引き金のない拳銃を見つめる。
「で? どうするの? かかってくる?」
感情の抜けた、見かたによっては退屈そうな表情にも見える目で眺める菜乃ちゃんに、犯人の男は「クソっ!」と言って拳銃を菜乃ちゃんに投げた。
「きゃっ!」
拳銃は菜乃ちゃんに難なく避けられた犯人は、その隙を狙ってバスの非常口前に座る私や菜乃ちゃんと同い年くらいの女の子を力づくで引っ張り出した。そのままその子を盾にするようにして非常口のレバーを引く。
「お前ら、動いたらこの女ぶっ殺――」
犯人が二の句を継ぐより早く、犯人は白目を剥いてそのまま崩れ落ちた。
「私、殿方って苦手なのですのよね」
事もなげに服を正すその女性の手には、今しがた犯人のツボを突いて失神させた長い鍼が鈍く輝いている。
「呪術、か」
「鍼治療ですわ」
菜乃ちゃんの質問というか、呟きに、女性は涼し気に応える。
「乗客のお嬢さん方、ありがとうお疲れ様。路肩に停車するから、一度席に座ってもらっていいかな?」
「ああ」
「構いませんわ」
この路線に就いて長いらしい運転手さんの手慣れた応対に鍼治療士(?)の女生徒と一緒になって菜乃ちゃんが答え、念のためか、最初に伸された男にの後頭部にもう一度軽く蹴りを加えて私の隣に戻ってくる。
「流石だね、菜乃ちゃん」
「菜々美もお疲れ」
通路側の席を譲った私の隣に座りつつ、菜乃ちゃんが笑いかけてくれる。
「乗客の皆様、大変お騒がせしました。警察の現場検証と犯人引き渡しの通達もありましたので、当バスはこのまま次のバス停留所で警察の到着を待つこととなります。申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちください」
そのままバスはバス停の手前で停まり、バスジャック事件は一つ目のバス停に着くより早く解決された。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「昨日、大丈夫だった?」
翌日の朝、教室で菜乃ちゃんと顔を合わせた私は、菜乃ちゃんにそう尋ねた。
「大丈夫なもんか」
菜乃ちゃんは鞄を机にどっかと乱暴に置き、椅子を引く。
「警察に事情聴取受けたせいでバイトに遅れたのに、なんで怒られるのは私なの? ホントやってらんない」
ため息を吐いて「世の中理不尽よ。ホント二次元に行きたい」などと言っている親友を、私は苦笑交じりになだめる。いつも通りの光景だ。
「しかも何? あいつらとの関係は立証できなかったって?」
菜乃ちゃんが吐き捨てるように言って、嘆息気味に歯噛みする。
菜乃ちゃんの言う”あいつら”というのは、正門でデモ活動を行っていた反異能者活動をしているNGOの事だ。今回の一件で、学園内に部外者が入り込んだのも、どうやら正門での活動が白熱して警備が乱れた隙を突かれたものらしいし、バスジャック事件の際に異変に気が付いた警備員がいち早く駆け付けられなかったのも、活動団体の間接的な邪魔が入った事が大きいともっぱらの噂だ。
「疑わしきは罰せずが司法の基本姿勢だし、仕方ないよ」
「私たち異能者にはその原則が無視されがちなのに? おかしいよそんなの」
菜乃ちゃんは憤懣やる方なしーとばかりにムッスーっと口を引き結ぶ。
「そう言えば、結局昨日のあれって何してたの?」
「あれって?」
「犯人取り押さえた……? 昨日のあれ」
私の説明になっているか微妙な補足に、菜乃ちゃんは「あー」と考え込む素振りを見せ、「プラトンのイデア世界観って言えばいいのかな」と小首を傾げる。
「まあ、今はノーシス状態じゃないから、私もうまくわかってないんだけどね。簡単に説明すると、銃弾とか引き金を無に帰したの。後は『万物の理解者』としてのスペックに任せた体術かな」
「あー、なるほど……」
一しきり納得して、私は相槌を打つ。
そこで一旦会話が途切れて、私たちの間に少し味のよくない沈黙が流れた。今が渡すタイミングとしてはいいかもしれない。
「あ、そうそう菜乃ちゃん」
私は今思い出したように取り繕って、足元に用意していた紙袋を机に乗っける。
「昨日あんなことあって一巻渡しそびれちゃったから。シリーズ全20巻ぜーんぶ持ってきちゃった! ご褒美に私より先に読ませてあげる!」
ちょっと無理があるかなというテンションで私が出した一冊を、「ぉおお!?」っと体を起こした菜音ちゃんが受け取る。
「菜々美最高! 大好き!」
さっきまでの倦怠感に充ちた表情はどこへやら、菜乃ちゃんは立ち上がって私に抱き着いてくる。その耳元に、私は用意しておいたセリフをそっと呟く。
「私のとっておきのコレクション、入ってるから。開けるのはお家で、ね?」
菜乃ちゃんはこの一言に更にテンションをあげ、それをなだめるのに私が四苦八苦したのも、またいつもの話だ。
この間に出した『新年のご挨拶』に続いて、久しぶりの連続投稿です。
今回は、異能力が日常と化した世界で、今『現代ファンタジー』と言われている作品を読むとどうなのかなという発想から始めて短編を一つでっち上げてみました。
普段書かないジャンルでもあり(完全異世界のファンタジーは多少描くのですけどね)、いくらか調べつつ描いては見ましたけど、どうかな。
何にしても、もし楽しんでいただけたら、幸いです。