青い詩
「夏の匂いがする」
と彼女は言いました。
私の記憶の中の彼女は、いつもにこにこと笑っているような人で、時々私には分からないことを言います。
「どんな匂いなの?」
まだ新しい制服に包まれた彼女は、職員室にいた私を呼んで、嬉しそうに目を細めていました。
「さらさらしてます、風の匂い」
夏の風というのは、“さらさら”した感じなのでしょうか。私には夏の風は、どっぷりとした熱風のように感じられるのです。
「風の匂いかぁ、詩音ちゃんは風流人なのね」
「岬先生にも分かりますよ」
さらさらのショートヘアが風に揺れて、窓から差し込む夕暮れの光の中に包まれた彼女は、その光景あまりに溶け込んでいて、教師である私でさえ、綺麗だと思ってしまいました。
いつだって、彼女――遠野詩音は笑っていました。
確かに私のすぐ側にいました。
***
彼女と初めて出会ったのは、私が教師生活を始めて15年経った、今から五年前の春でした。
「30番、遠野さん」
私は勤め先の高校で、この春1年4組の担任をすることになりました。そこで初めて、彼女の名前を呼んだのですが、
「……」
どうやら彼女は窓際の席で外を眺めていたらしく、自分が呼ばれたことに気付いていないようでした。
だから私は、もう一度彼女の名前を呼びました。
「遠野詩音さん」
フルネームを呼ばれた彼女はようやく気付いて前を見ました。
その瞬間、私はドキリとしたのです。
なぜって、彼女のその顔が透き通るように白く、光に当たってさらに美しく見えたからです。
彼女は私を見て、柔らかく微笑んで、
「はい」
と返事をしました。
その一瞬で、私は彼女のことが気になってしまいました。教師たるもの、特定の生徒に気持ちを入れすぎてはいけないと、私はずっと心に留めて仕事にうちこんでいたつもりですが、この時ばかりはそうはいかなかったのです。
私はこの子を気にかけずにはいられませんでした。
彼女はとても頭のいい子で、いえ、このように言うと語弊がありますね。
彼女は努力家で、優秀な生徒でした。
1年生の最初の定期テストの時に、学年で5番という成績だったのです。彼女はそれでも物足りなかったようで、次のテストでもまたその次のテストでも、一生懸命勉強していました。
私は彼女が頑張る背中を、ただ黙って見守っていたのです。
ある日彼女が私のところにやって来ました。私が「どうしたの」と訊くと、彼女はテストで全然上手くいかなかったんだと、俯きながら答えました。最近行われたテストというのは、全国統一模試しかなかったので、きっとそのことだろうと思いました。
「そんなの気にしなくてもいいのよ」
私は授業中はあまり甘いことは言わないようにしていますが、日ごろ努力をしている彼女に対して、厳しいことを言おうとは到底思えませんでした。
彼女は初め、肩を落として落ち込んでいましたが、私が彼女の手を握って、なんとか元気づけようと振る舞うものですから、次第に彼女の表情が柔らかくなっていったように見えました。
「先生ありがとう」
最後には彼女がふわりと笑ったため、私も心が温かくなるような感じがしました。
彼女は大人びた人だと思っていたのに、こういうところは目が離せない素直な子供のようで、私はますます彼女が気になっていったのです。
彼女の夢は、詩人になることでした。
彼女がその夢を私に告げたのは、だいぶ前だったような気がします。でも、彼女は私といる時によく詩を詠んでみせたり、少し変わったことを言ったりするので、私は彼女にはそういう才能があるのだと思いました。
「岬先生、“青い鳥”って知ってますか?」
彼女とは学校の庭園の椅子に座ってよく話をしました。放課後の庭園には生徒もほとんどいなくて、彼女はこの庭園を、自分と私の『秘密の花園』と呼んでいました。
「ええ、“幸せの青い鳥”ってよく言うよね」
彼女が私に何を訊こうとしているのか、よく分からなかったけれど彼女が楽しそうなので、私もわけもなく楽しくなるのです。
「はい、その“青い鳥”です。チルチルとミチルが頑張って探した“青い鳥”を、私も見つけたんです」
「へえ、どこにいたの?」
彼女と話している時は、生徒と話しているというより、孫と話しているような気分になりました。……もっとも、私はまだ孫ができるような年齢ではありませんでしたけれど。
「近くにいますよ。一番近くに」
そう言った時の彼女は、笑っていると思ったのですが、なんだか憂えのある表情をしていたのを今でもよく覚えています。
でもそのすぐ後に、私の顔を見てにっこり笑ったので、私はその時の彼女が何を思っていたのか、聞けずに終わりました。
***
それから1年経って、彼女は高校2年生になりました。私も学年が持ち上がり、2年生を教えることになりました。
けれど、彼女は私が担任をする7組ではなく、隣の8組の生徒になりました。私は少し残念に思いましたが、顔には出さずにこれまで通り仕事に集中しようと決めました。彼女も、気持ちを新たに前に進んでくれるだろうと思いました。
「岬先生」
彼女が放課後に私の所へ訪ねてきたのは、その年の5月ぐらいだったでしょうか。
要件は勉強の質問だったのですが、その後話をしたいということで、私たちは例の『秘密の花園』に行きました。5月ということもあって、そよ風の気持ちいい時分でした。
「それで、何の話かな」
彼女と話をするのは、学年が上がる前以来でした。ですから、彼女とこの庭園に来るとすぐに懐かしい気持ちが込み上げてきました。
彼女は何か決意したような気色で、息を吸って口を開きました。
「私、他の学校の人で、お付き合いしている人がいるんです。それで、その……」
彼女の口から出た言葉に、私は驚きました。彼女が誰かと交際することに疑問を抱いていたわけではありません。彼女に交際している人がいることに、私は全く気づきませんでした。
「もうすぐ彼の誕生日で、何をあげたらいいんだろうって……」
彼女は頬を赤く染めて、俯いていました。
私の知っている彼女は、凛とした表情でふわりという笑顔が可愛らしい女の子でしたから、この時の彼女はなんだか新鮮な感じがしました。
私は自分が昔、恋をしていた時のことを思い出して、まるで母親のような気持ちになりました。
「それなら、何か手作りのものを渡してみたら?
きっと彼も喜ぶと思うわ」
「手作り……?」
「ええ。詩音ちゃんが、心を込めて作ったものなら、何だって嬉しいと思うよ」
「…分かりました。頑張ってみます」
私は娘の成長を見守るような心地が、とても気持ち良かったのです。
彼女はどこかすっきりとしたような面持ちで、私の方を見ました。いつかこの場所で、青い鳥を見つけたと言った時のように、にこにこしていました。私も嬉しくなり、彼女と笑い合っていました。
けれど私は、彼女の次の言葉を聞いて、動けなくなりました。
「喜んでくれるといいな、リョウ」
***
私には彼女と同い年の息子がいました。彼女と違って息子は勉強が苦手で、私は無理矢理息子を塾に行かせていました。本当ならば、教師である私が息子の勉強をみてやるべきだったのですが、仕事が忙しく、なかなかそうはいかなかったのです。
息子は塾には行きたくないと、毎日私に訴えていましたが、私はその言葉を聞く度に、息子に厳しくしました。
『母さん、どこかに食事に行きたい』
「次のテストで満点とったらね」
『夏休み、旅行しようよ』
「だめよ、お金もないし、勉強もできてないじゃない」
『母さん……』
母さんっ……。
私が厳しくする度に、息子が寂しそうな表情になっていくのを、私は見ないようにしました。いつかこの子も勉強の大切さをわかってくれて、頑張ってくれることを期待していたのです。
でも、現実はそう簡単にはいきませんでした。
息子は次第に私と口を利かなくなり、家族での夕飯の時も、黙ったまま話さなくなりました。そこで私がもっと息子に優しくするように改心でもすればよかったのですが、私には息子が反抗しているように見えて、今まで以上に厳しくしました。
私は息子のゲーム機やマンガを取り上げて、部屋に閉じ込めました。テストで良い点をとったら取り上げたものを返してあげるという条件で。
息子はそれでも勉強が上手くいかず、とうとう引きこもってしまいました。
そして2年前、息子が中学3年生だった秋に、彼は交通事故で亡くなりました。
その時の私は、深い後悔に襲われて身動きがとれなくなっていました。
息子の名前は、リョウといいました。
***
彼女の口から「リョウ」という名前を聞いたとき、私は息子のことを思い出さずにはいられませんでした。もちろん、彼女の交際相手が息子とは別人であることは分かっていますが、それでも落ち着いていられなかったのです。
「…生」
「……」
「岬先生?」
彼女に名前を呼ばれていることに気づいて、はっとして我に返りました。
「先生、大丈夫ですか」
「え、えぇ……。ごめんなさいね。大丈夫よ」
「それなら、よかったです」
彼女は心配そうな顔をしていましたが、私が何でもないふうに答えたので、もう何も言ってきませんでした。
息子のことを後悔しても仕方ありません。私は前に進もうと思いました。そのための元気をきっと彼女がくれると思いました。
彼女は私にとって“青い鳥”だったのです。
彼女との話を終えて職員室に戻る手前で、私はある生徒に呼び止められました。
「岬先生!あの、面談が」
「あ……」
しまった、と心の中で呟きました。その生徒は2年7組の、つまり私が担任をしているクラスの、早見恵美という子でした。恵美は学年一の成績の持ち主で、詩音とはいつもツートップで肩を並べていました。
ただ、恵美の方が彼女より頭一つ分上まっていて、どの先生も彼女に注目していました。
注目しているのは私も同じで、詩音と同じくらい気にかけていました。
そして、恵美は詩音の親友でもありました。
「ごめんなさいね、待たせてしまって」
「いえ、大丈夫です」
私たちは進路指導室に入りました。そこには他の先生方はいなかったので、恵美もほっとしたようでした。
「今日はどうしたの?」
実は今日の面談は、強制的なものではなく、恵美の方から申し込んできたものでした。
「実は、しいちゃんのことで話したいことがあって……」
私は恵美の言葉を聞いて、少し驚きました。彼女はいつも私と話をするときは、進路の話ばかりだったからです。
それが、今日は詩音のことだと言うのです。
「しいちゃんは、小さい時からいつも笑っているような人だったんです」
恵美は詩音のことを「しいちゃん」と呼びます。私はこの時初めて、恵美と詩音が幼馴染みだということを知りました。
「あたしはしいちゃんが泣いてるところを、見たことがありません。怒った顔も、知りません」
私の詩音に対するイメージと、恵美の詩音に対するイメージは、似ていました。
「でも」
そこで恵美はいったん息を吸いました。
「最近、しいちゃんはよく悲しそうな表情をするんです。あたしと話している時はにこにこしてるのに、会話が途切れた時に、ふと横を見るとなんだか辛そうにしていることがあるんです。先生なら、何か原因を知っているんじゃないかと思って……」
恵美は心底心配そうに私を見つめてきました。恵美の言ったことには、私にも身に覚えがあったのです。
いつか詩音と『秘密の花園』で話をしたとき、一瞬だけ彼女の表情に陰りがありました。私もその時のことは不思議に思っていたのです。
「あたしはしいちゃんの親友だから、何か辛いことがあるなら助けてあげたいんです。でも今のあたしには分かりません。岬先生、彼女を助けてくれませんか……」
恵美の声は震えていました。
私はそんな彼女を見て、胸が痛くなって、力になりたいと思いました。
「分かったわ」
知らない間に、私は恵美の手を握って、力のこもった声で頷いていました。
「詩音ちゃんのことは先生に任せて」
私がそう言うと、恵美は顔をほころばせて「ありがとうございます」と言った。
話が終わり、私たちが進路指導室を出たころには、もう外が暗くなっていた。
「気をつけて帰ってね」
「はい」
恵美は鞄をとって私に背を向けた。
その時、微かな声が彼女から聞こえた。
「……もしかしたら、しいちゃんには大事な人が……」
その先はよく聞こえませんでしたが、恵美はすぐに帰って行きました。
私はもう少しやらなければいけない仕事があったので、この後職員室に戻りました。
自分の机でパソコンを開いた時、隣から大きなため息が聞こえてきました。
ため息は、隣のクラス、2年8組の担任―水瀬先生ものでした。
「どうかされましたか」
私はすかさず彼に尋ねました。彼は若い男性の先生でした。隣のクラスということで、私たちはよくお互いのクラスの話をしています。
水瀬先生は私の方を向いて、困ったような目をして言いました。
「実は昨日から二者面談をしておりまして、今日は遠野と面談をしました」
私はここでも彼女の名前が出てきたので、驚きました。
「その遠野のことなんですが、私が『何か悩みはないか』と訊いたら、『いいえ、ありません』と言うんです。でも、明らかに遠野は何か隠している感じでした。彼女は膝の上で手を握り締めていましたから」
水瀬先生の言葉を聞いて、私はさらに苦しくなりました。詩音に何か悩みがあることは、恵美や彼の言うことから判断して、明確なことでした。
「遠野は、きっと私には心を開きません。あと何百回、何千回同じことを聞いても、彼女は頷かないと思います」
***
翌日、私は自分から詩音に声をかけて、話をしようと言いました。
いつものように『秘密の花園』にある椅子に座って、とりとめもない話をしたり、時々彼女が作った詩を詠んでもらったりしました。そうして話も尽きてきたころ、私は彼女に尋ねました。
「詩音ちゃん、何か今悩んでることない?」
私の問いかけに、彼女は驚いているようでした。けれど、すぐにいつものように笑って、
「最近、みんなそんなこと聞きますね。私、そんなに悩んでるように見えますか」
と言いました。
私は彼女をまっすぐ見つめて頷きました。
「ええ、みんなそう思っているの。恵美ちゃんも、水瀬先生も、同じ意見だわ」
私の言葉に彼女ははっとして、固まった。でも、やはりすぐ顔をほころばせて笑った。
「心配かけてごめんなさい。
でも、私はこの通り元気ですよ。
これからも一生懸命勉強して、夢を叶えます」
なぜ彼女がこんなことを言ったのか、私には分かりませんでした。
でも、彼女の決意のこもった言葉を聞いて、私は安心してしまったのです。
「そう、なの。なら、頑張ってね。先生も応援してますよ」
そう言うと彼女は再び笑顔になって、「そろそろ失礼します」と言って立ち上がりました。私もつられて立ち上がって歩き出した、その時でした。
ドサッ
という音がして、私はハッとしました。隣を見ると、そこにいるはずの彼女が、地面に横たわっていました。
私は頭が真っ白になって、気が付くとただただ彼女の名前を叫び続けていました。
***
彼女が倒れたのは、勉強と対人関係によるストレスからだと医者に言われました。
私は彼女が倒れた後、彼女の側について病院まで向かいました。彼女は3時間後には意識を取り戻しましたが、私が話しかけても、口を開かなかったので、私はいったん家に戻りました。
家に戻ってからも、彼女のことが心配で家じゅうをうろうろ歩き回って、落ち着けませんでした。
翌日、放課後になるとすぐに私は彼女の病室を訪ねました。
彼女は夕日の差し込む窓の外を眺めていて、私とはやはり口をきいてくれませんでした。
「詩音ちゃん……、果物とか持ってきたから、置いておくわね」
「……」
私はそれだけ言うと、諦めて部屋から出ました。あまり長居するのは、よくないと思ったのです。
それからというもの、毎日彼女のもとへ来てはお見舞いのものを置いて「また明日ね」とあいさつをして帰りました。
そうして一週間が経ったある日のことです。
私はいつものように彼女の病室を訪れました。
彼女は相変わらず窓の外を見ていましたが、私が入ってくるのを見て、ようやくその重たい口を開いたのです。
「先生……もし、私に1ミリの自信でもあったなら……もっと上手く生きれたでしょうか」
「詩音ちゃん……?」
彼女が何を言おうとしているのか、私には分かりませんでしたが、私は彼女のベッドの側にある椅子に座りました。
「私は先生に、交際中の人がいると言いました……でもあれは嘘なんです。彼は……リョウは、二年前に亡くなりましたから」
「亡くなった……」
私は茫然とした。まさか、その人は私の――。
「岬先生、先生には息子さんがいますか」
「え、ええ。でも」
「私とリョウが出会ったのは、中学三年生の春、塾でのことでした。彼とは中学校が違いましたから、そこで初めて彼のことを知りました。
彼の名前は、岬リョウと言います」
「岬……リョウ」
私は信じられない思いで聞いていました。でも、塾繋がりならば、彼女と息子が出会っても不思議ではなかったのです。
「出会って二か月して、私は彼と付き合い始めました。彼は私に優しくしてくれて、私も彼が大好きでした。
でも……私は彼が本当に好きなのは、私ではないことが分かりました」
彼女は辛そうに眉根を寄せていました。
そんな彼女を、私は今まで見たことがありませんでした。
「リョウが本当に好きだったのは、岬先生……あなたでした」
その瞬間、私の目は大きく見開かれました。小さいころからあんなに厳しくしてきた息子が、私のことが好きだったなんて……。
「リョウはお母さんの話をする時、本当にいきいきとしていて、瞳が輝いていました。私と話している時は、そんな表情はしなかったのです。だから私は……リョウのことが憎らしくなりました。
それと同時に、リョウの“お母さん”のことが気になり始めました」
リョウのお母さんはどんな人なんだろう
私が大好きな彼が愛した人はどんな声で、表情で話すのだろう
「でも彼はその後すぐに亡くなってしまって……私の恋も、そこで終わってしまったと思いました。それでもなんとか高校受験に向けて立ち上がって、この学校に入学して、先生に出会いました」
「……」
「初めて岬先生を見た時、私は心臓が止まりそうになりました。『岬』という聞きなれない名字、そして何よりも先生がリョウによく似ていたから……。だから私は、岬先生がリョウのお母さんなんじゃないかと思って、先生にリョウの話をしたら先生は驚いていたから、確信したんです。
私、先生のこと知りたいと思って、先生と親しくなろうとしました。最初はただただそんな気持ちだったけれど……先生と話していくうちに、私は岬先生のことがどんどん好きになっていきました。もうリョウのことは関係なしに、私は岬先生を自分の“青い鳥”だと思い始めたんです」
“青い鳥”を見つけたんです。
近くにいますよ。一番近くに。
いつか彼女が『秘密の花園』でそんなことを言っていました。二人だけの場所で、私にくれた言葉でした。私にとって、彼女が“青い鳥”であったように、彼女にとって、私は彼女の“青い鳥”だったのです。
「でも……二年生になって、先生とは違うクラスになりました。先生は恵美に出会って楽しそうに話すようになりました。私は恵美とは幼馴染で、彼女はいつも本当に成績がよく、皆に好かれる性格だということを知っていましたから、彼女には敵わないと思っていたのです。そんな彼女に先生をとられてしまうような気
がして、いてもたってもいられなくなりました」
彼女の口から、ゆっくりゆっくり想いが溢れだすのを見て、私は胸が締め付けたれるように痛くなりました。
「もちろん、先生にはそんな気はないことは知っていました。でも私は、リョウに愛されなかった私は……先生が私のことを見てくれるという自信が、ありませんでした。まして恵美に対しては劣等感ばかりを抱いていました。
だから私は……勉強を頑張って、先生に見てもらえるようになろうと思ったんです。私にできることは、そのくらいしかないと思いました。頑張ったら、いつか気づいてもらえるんじゃないかと思って……」
いつからか、彼女の頬は涙でいっぱいに濡れていました。
「でも、失敗してしまいましたね。結局私は恵美には届かない、中途半端なままでした」
こんな時まで、彼女は笑みを浮かべて言いました。
もう彼女はそれっきり口を開かず、ただただ泣いていました。
一体今まで、彼女はどんな気持ちで頑張ってきたのでしょう。
私に振り向いてほしくて、必死に笑って我慢して、そうやって生きてきたのでしょうか。
私は彼女の頬に手を当てました。初めて見る彼女の泣き顔は、私が見てきたどんな彼女の笑顔よりも、本当の彼女が表れているのだと思いました。
「ねえ詩音ちゃん。
上手く生きなくてもいいのよ。
詩音ちゃんは自分らしく、
一生懸命生きて」
恵美と自分を比べて、劣っているなんて考えなくていい。
「あなたには、あなたにしかできないことが、たくさんあるのだから」
ゆっくりと、彼女の顔がほころんでゆくのが分かりました。私はこの笑顔が、どこまでも愛おしいと思いました。
***
彼女が立ち直って1週間が経った日、彼女が私のもとに来ました。何やら話すことがあるらしく、私たちは二人の場所に向かいました。
その日は相変わらず風が気持よく、木の葉がさらさらと揺れていました。
彼女の方を見ると、私と同じように気持ちよさそうに目を細めていました。
私たちはしばらく何も話しませんでした。私は彼女が話し出すまで待っていようと思ったのです。
そうして十五分ぐらい経った頃でしょうか、彼女がすうっと息を吸うのが分かりました。
「岬先生、私、引っ越すことになりました」
彼女の口から出てきた言葉に、私は驚きました。
「田舎の方に行くことになったんです。自然に囲まれた場所で、私に綺麗な空気を吸ってもらおう、と母が考えました。私も母に同意しました。なんだか勉強にも集中できそうだし、それに、なによりいろんな“言葉”がやって来てくれる気がするから」
そう言う彼女は夢を思い描いているような、きらきらした瞳をしていました。
だから私も、彼女の決断を素直に受け入れようと思ったのです。
「そうなの、詩音ちゃんが決めたことならきっと間違ってないわ。引っ越し先でも、元気で頑張ってね」
私は笑ってぽんぽんと彼女の背中を軽く叩きました。
彼女は、
「ありがとう」
といつもみたいにふわりと微笑んで、空のむこうを見つめていました。
***
あれから5年が経った今、私は彼女と会う約束をしました。もう少しでその約束の日が来ます。
きっとその日には、さらに大人になった彼女が、私に素敵な笑顔を見せてくれるのでしょう。
そしてその時、彼女はどんな詩を私に聞かせてくれるのでしょうね。
終
今回は短編です!丁寧語口調なのは、これを書いた当時学校で『こころ』を読んだ直後だったからです(笑)
私は教師ではないので、こんな教師いるかな~と想像しながら書きました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。