そして変わる。
忌み子、とはよく言ったものだ。
誰が、そんな呼び名を思いついたのだろう?
わたしは、ただの人間。ちっぽけな、小娘だというのに。
わたしは、
わたし、は______。
☆★☆
新たな一日が始まる。
日が昇り、人々が目覚め、すべてが動き出す。
(今日も、晴れだ)
少女は空を見上げ、思った。
誰もいないひとりぼっち。それでも少女は生きている。
どうやって生きているかなんて、わからない。
ただ、死に物狂いに手を伸ばしているだけ。
(わたしは、何をしてたんだっけ……?)
少女は、疲れていた。
逃げていたから、怖い大人から、逃げて逃げて、疲れて_______。
そして、どうすればいいのだろう。
逃げて、疲れて、その次は、何をすれば。
でも、疲れてしまったから、休みたかった。
_____そのまま少女は音もなく倒れた。
☆★☆
唐突だった。
目が覚めたのも、目の前に飛び込んできたものも、耳に流れ込んできた音も。
「目が覚めたか?丸2日、寝てたぞ」
男だ。低い涼やかな声がずっと聞いていたいと思うぐらい、素敵だ。
次に惹かれたのは、その見目。
手触りのよさそうな漆黒の髪は艶めき、思わず手を伸ばしたくなる。
少女がいつも見ていた夕焼けを閉じ込めたような紫の瞳はじっと少女を見つめている。
(……綺麗だ…)
綺麗な瞳、綺麗な顔だ。
否、綺麗などと安っぽい言葉では言い尽くせない美しい、容貌だった。
「おい、大丈夫か?」
少女は頷いた。
よく眠り、休んで、疲れが多少なくなっている。
ただ、よく寝たせいで、お腹が空いた。
きゅるきゅると音を立てるお腹に、男は一瞬固まった後、くすくすと笑った。
「腹が減ったんだな。ちょっと待ってろ、何か持ってくる」
男は魅惑的に唇を緩めたまま、部屋を出ていった。
(………部屋?)
少女はそこで気がついた。
少女が今、家の中にいること。柔らかい寝台の上にいることに。
(あぁ、わたし、捕まったのかな……)
少女はじっと天井を見上げ、ぼんやりと思った。
☆★☆
男はカイルと名乗った。
カイルは温かいじゃがいものポタージュを少女に持ってきた。
「起き上がれるか?」
少女は起き上がる。できるかできないか、ではなく、やらなければならない。
カイルは次に「食べれるか?」と訊く。
少女は黙ってポタージュを口に運んだ。
(……おいしい…)
温かく、優しい味だった。
涼やかで冷たそうな印象のカイルだったが心は温かく、優しいひとなのだろう。
あっという間にポタージュが入っていた皿が空になった。
「まだ食べるか?」
少女は首を横に振った。
食べろ、と言われれば食べなければならないが少女は小食であった。
「気になっていたんだが……口が利けないのか?」
カイルは言いにくいとばかりに恐る恐る訊いてくる。
少女はまた首を横に振った。
「……、話せる」
「そうか、よかった」
カイルはホッと顔を緩めた。柔らかい表情に見惚れそうになる。
少女は内心、首を傾げていた。
少女はカイルに捕まったはずだ。何しろ少女は逃げていたから、捕まるのがあたりまえだと思っていた。
「おまえの名前は?」
カイルはまた訊く。
話せるのに話さない少女のためになんとか情報を引き出そうとしているようだ。
少女は首を横に振った。
「…どういうことだ?ちゃんと言ってくれ」
「……ない」
「?名前がないのか?」
「ない」
「じゃあ、なんて呼ばれていた?」
「忌み子、魔女、悪魔」
「は?」
カイルの綺麗な顔が歪んだ。
眉間に皺が寄っている。少女は怒られた気分になり、俯いた。
「_____ソフィア」
「?」
「おまえはこれからソフィアだ」
「そふぃあ?」
「…あぁ、ソフィア」
カイルは何も聞かず、名もなき少女に名づけた。
少女は、忌み子からソフィアになった。
☆★☆
カイルと出会い、約一年が経った。
ソフィアは今、カイルと暮らしている。
そして、その生活の中でソフィアは視界が高くなっていることに気がついた。
「どうした?ソフィア」
絶対にソフィアから話しかけることはないのでカイルはソフィアの視線で何か言いたいことがあるとわかっていた。
「身体が、変」
「風邪か?どこが変だ?」
「目が、変」
「目?」
心配そうに訝しむカイルにソフィアはこくんと頷いた。
「前はこれぐらいだった。今は、高い」
「あぁ。背が伸びたからな。平気だ」
「変じゃない?」
「あぁ、ほらたとえばこうすれば」
「わっ」
カイルがソフィアを抱き上げた。
片腕でソフィアの太腿を支え、カイルの頭より視界が高くなった。
「違うだろう?」
「わっ、わっわっ」
いつもと違う景色にソフィアは声を上げた。
カイルの夕焼け色の瞳が嬉しそうな色を見せる。
ソフィアは自分でも意識してないうちに唇を緩ませていた。
☆★☆
「好きだ」
ソフィアが素敵だと思った声が告げた。
「……え…?」
「ソフィア、おまえが好きだ」
カイルがソフィアの右手を取り、甲に唇を寄せた。
柔らかい感触にソフィアはうろたえる。
「_____ソフィア」
答えを促す声にソフィアは口を開いた。
「だ、め。私は、忌み子だから、カイルと一緒じゃだめ」
「違う。おまえは忌み子なんかじゃない。ただのソフィアだ」
「でも、でも」
「ソフィア。おまえの言葉が聞きたい」
カイルは忍耐強くソフィアを待つ。
ソフィアは覚悟を決めて震える声を紡いだ。
「……すき。カイルが、すき」
「…本当に……?」
「……私、嘘つけない」
「…、そうだな」
感情に乏しいソフィアでもこの想いはわかった。
甘くて、胸の奥がきゅっと痛くなる。
この感情の名前はわからない。
単純なただの想いだった。
初めて、大切な人ができた。
☆★☆
大きくて、温かい手が頬を撫で、頤をそっと上げさせた。
この手で優しく触れられるのが好き。
「……ソフィア」
甘く、痺れるような声がソフィアの耳に届く。
この声で与えられた名前を呼ばれるのが好き。
(……カイル、好き)
カイルがやるとなんでも、すべて、好きになってしまいそうだ。
「目を、閉じろ」
綺麗な夕闇色の瞳が近づく。漆黒の長い睫が伏せるようになっていた。
カイルの顔が近づきすぎて目の焦点が合わなくなり、ソフィアは言われた通り静かに瞼を下ろした。
_____触れ合った場所が熱い。
「……は、ふ……っ」
甘い吐息が鼻から抜けるように漏れた。
優しく触れる唇に戸惑いながらもソフィアは必死にカイルに応える。
持て余す熱に浮かされながら、躊躇いがちにそっとカイルの上着の袖に掴まった。
「……ソフィア」
「ん………」
唇を離して、カイルが甘く名前を呼んだ。
カイルがくれた名前。ソフィアを忌み子からただのソフィアにしてくれた名前。
「カイル、好き」
ソフィアは彼の瞳を見つめ、囁いた。
☆★☆
波乱が始まった。
とある冬の日。カイルと出会ってから一年と半年が経っていた。
どんどんと姦しく叩かれる玄関扉にカイルはソフィアを彼女の知らなかった隠し部屋へ追いやった。
「ソフィア、ここにいろ。絶対に出てくるな」
「か、カイル……っ」
「怖がらなくていい。すぐに戻るから。……待ってろ」
カイルはちゅっとソフィアの額に唇を落とし、部屋を出た。
扉が開く音と、次にカイルが誰かと話すくぐもった声が聞こえる。
ソフィアは扉に耳を当て、音を拾おうとする。
どうにか、声が聞こえた。
「なんだ、役人方。何の用だ」
「女を探している。年齢は十六。失踪時期は約二年前。髪と目の色は…」
「知らないな。ここ最近女と関係を持ったことはない」
「嘘をつくな‼︎証言は出ている。すぐに女の行方を明かせ。それとも……ここにいるか?」
「知らないと言ってるだろう。勝手なことを言うな」
喧騒に、ソフィアは動けない。
彼らが捜しているのは間違いなくソフィアだ。
なのにカイルはソフィアを守ろうとしている。
それが、とても危険なことだなんて、カイルは絶対にわかっている。
(なのに、なのに………っ‼︎)
何もできない自分が憎い。
守られる価値もないのにこんなにも大切にしてくれる。
目頭が熱くなってソフィアは顔を手で覆った。
「女と関係ないと言うなら家を検めさせるんだ。そこを退け」
「断る。信用してもないあんたらを家に入れるほどお人好しじゃない」
「なら強引にでも入らせてもらう。___やれ!」
「おいあんたら………ぐっ⁉︎」
カイルの呻き声と共にドタドタと荒々しく人が入ってくる気配がする。
「っ……貴様…っ!」
「悪かったな。おまえがすんなり女を出しておけば痛い思いはしなかっただろうよ」
(痛い思い……⁉︎)
ソフィアは息を呑んだ。
カイルが傷つけられたのだろうか。そんなのは耐えられなかった。
「隊長‼︎女は見当たりません‼︎」
「もっと探せ。……それとも、どこかに逃がしたのか?」
「………」
「なぁ兄さん。私たちだって面倒なことはしたくない。だからさっさと吐いてくれないか?」
「はっ……知らんな、女なんぞ」
「………なら仕方ない。やれ」
隊長と呼ばれた男の指示のあと、カイルの呻き声が聞こえた。
カイルが痛い思いをしている。ソフィアを守るために。
(そんなの、……だめ…っ)
でも思い出されるのはカイルの声。
『絶対に出てくるな』
『すぐに戻るから。……待ってろ』
命令に逆らえないのはまだ治っていなかった。
「くっ、………っつ」
「早く答えてくれ。私たちだって好きでやっているわけではない」
「知らないって言ってるだろ……っくぁ!」
一際大きなカイルの声にソフィアの頭の中は真っ白になった。
意識しないうちに扉を開き部屋を出て、大声で叫んだ。
「カイルを放してっ‼︎」
「…ソフィア……っ。馬鹿が!」
「あの女だ!捕らえろ!」
無我夢中で駆ける。男たちは邪魔だ。
まっすぐに、カイルだけを目指して。
カイルは両膝をつき、腕を拘束されながら口から血を流していた。
(誰……?カイルに痛い思いをさせたのは)
ソフィアは隊長と呼ばれた男へ目を向けた。
鋭い視線でソフィアを睨んでいた彼は次の瞬間、床に倒れていた。
「ソフィア‼︎」
次は、カイルの両腕を捕らえている男たち。
その次は、その次は______。
(……へ…?)
身体が動かない。拘束されている。
(捕まったの……?)
あまりの強さに力が抜ける。
すると、拘束がさらに強くなった。
耳元から、荒い息と声が入り込んでくる。
「ソフィア……落ち着け、……っ、大丈夫だから」
「……、?…っ?」
「俺がいるから、大丈夫だ、……俺が、守るから」
低い声。ソフィアがいつもいつも、素敵だと思い続けている声。
温かい腕と胸にソフィアの華奢な身体は抱きしめられていた。
「……かいる………っ?」
「大丈夫、大丈夫だ。……ソフィア」
うなじにカイルの息がかかる。
宥めるように身体を撫でられ、ソフィアはカイルに身を委ねた。
☆★☆
思い出の家を出て、二人は遠い街に向かった。
今まで見た中で一番、賑やかな街で、大きな家があった。
カイル曰く、街は王都といい、大きな家は王宮というらしい。
「カイル……どこに行くの…?」
「本当は、もう二度と行きたくない場所だ」
「どうして……、どうして行きたくない場所に?」
「……悔しいが、今の俺だとおまえを守りきれない。だから…」
「___駄目‼︎」
ソフィアは繋いでいたカイルの手を振り解き、叫んだ。
(あぁ、どうして、どうしてこんなに……)
惹かれてしまうのだろう。
どうしてソフィアを守るためだけに自分の傷を抉ろうとするのだろう。
そんなこと、ソフィアは望んでいないのに。
「……カイル、もういいよ」
十分、幸せをもらった。
温もりをもらった。
愛をもらった。
これからは、思い出で生きていける。
「私を、役人に渡して」
ソフィアを棄てて、忌み子に戻る。
ただ、それだけ。カイルと出会う前に戻るだけだ。
今までは孤独だった。冷たくて怖くて寂しくて、仕方なかった。
でも今は、カイルとの思い出でいっぱいだ。
この思い出があれば、忌み子でいられる。
「……は、馬鹿言うなよ…」
カイルが俯いてソフィアに聞こえないくらい小さく呟いた。
そしてソフィアの手首を強く掴み、路地裏へ引っ張り込む。
「ちょ、カイル…!、っん」
荒々しく口づけられた。
今までの口づけは優しくて甘くて、とろけるようなものだけだったのに。
「ん……、っは、ん…!」
離れようとすると頬を両手で捕らえて、さらに深く口づける。
息ができなくてカイルの胸を叩くとほんの少し唇を離した。
「ふ、は……っ、んんっ⁉︎」
開いた口へすぐさまカイルの舌が入り込んできた。
突然の深い口づけにソフィアは混乱しながら受け入れるしか出来ない。
「ん…ソフィア……、ソフィア」
「……カ、イル…っ」
ようやく、唇が離される。
カイルの夕闇色の瞳には普段はない熱が見えた。
けれど、
(カイル、辛そう……)
眉間に皺が寄り、厳しい表情をしている。
ソフィアは思わず、手を伸ばした。
「…!」
カイルの目が、見開かれた。
しかしすぐに表情は見えなくなる。____胸に、カイルを抱き込んだから。
「………、ソフィア」
名前を呼んでくれるカイルの黒髪を、ただ撫でる。
よくカイルがしてくれるように、梳くように、優しく。
「カイル、そんな顔、しないで…?」
両膝をついたカイルの身体を、さらにぎゅっと、抱きしめる。
「…おまえは、馬鹿か……?」
「わからないよ、カイル。私、なんにもわからない。でもね、カイルにしあわせでいて欲しい」
初めて、好きになったから。
初めて、大切を教わったから。
「そのためなら、私は、わたしは忌み子に戻る」
ソフィアの緊張が伝わったのか、カイルの肩がピクリと揺れた。
「カイルはね、私が初めて好きになったから、一番大切なの。一番大切は、守らないとだめでしょう?」
「………、俺だって、おまえが一番大切だ」
「ふふ、うれしい」
カイルが顔を上げた。
そっと壊れものに触れるように、ソフィアの頬を撫でる。
温かい手。この手に触れられるのが好きで、しあわせだ。
「ソフィア」
「なぁに…?」
「俺はおまえを絶対に手放さない」
「……どうして?」
ソフィアが望んでいるのに。
カイルがしあわせになれるように離れようって、思っているのに。
「俺が、嫌なんだ」
カイルはソフィアを見上げ、強い口調で言う。
(いつものカイルだ……)
ソフィアにいろんなことを教えて、いつも優しく、とても綺麗なひと。
ずっとずっと、ソフィアをソフィアとして唯一認めてくれていたひと。
誰よりも、好きなひと。
「俺はおまえのためならどんなこともする。だから、俺と一緒にいろ」
だから、しあわせでいてほしいと願うのは、いけないこと?
「……ごめんね」
「な……っ」
小さく呟くと、カイルの身体から力が抜け、ソフィアの方に倒れ込んだ。
建物の壁にカイルを凭れさせ、ソフィアの着ていた上着をかけた。
「カイル、大好き……。愛してるよ」
意識がないだろうカイルに囁き、歩き出した。
太陽に照らされ、輝く金髪が背を踊る。
長く伸ばしていた前髪を払い、まっすぐ前を向いた。
大きな瞳は、血のように鮮やかな紅い色をしていた。
☆★☆
「私はソフィア。あなたがたが捜していた……忌み子だ」
そしてソフィアは、忌み子に戻った。