新任巫女がお目付け役
メリッサの一日は長い。
それは単純にメリッサの体感するものではあるのだが、外に出るどころか部屋から出ることも叶わないメリッサからすれば、することも限られており、変わらない毎日を過ごす日々において時間というものは緩やかに長く続くものであった。
朝は夜明けの鐘とともに目を覚まし、メリッサ付きの巫女から朝食を受け取る。
祈りを捧げて食事が終われば神殿や神事についての勉学を行う。
昼食が出るころに一度休憩をはさんで、差し入れられた本を読む。
昼食が終わって2時間ほど過ぎてメリッサと唯一顔を合わせる巫女に腕と壁を繋ぐ金の鎖を外してもらい、神事関係の稽古を行う。
これは各神殿で行われる祭事関係のもので、祝詞や舞が中心である。舞ついては使うものも剣から扇、杖、布と幅広い。大陸にある10柱におよぶ神殿について学ぶのだ。
それが終わると、神力の修練になる。
神職に関わる者は神力を持っていることが多い。尽力を有していない者も多いが、メリッサは比較するものがいないのでよくわかっていないが、保有量としては多い部類なのだろう。
何もせずとも神らしき気配を感じることはできるし、指先ひとつで光や炎を出すこともできる。あまり怪我をする機会もないのだが、前に一度、剣舞の練習をしていた際に手を切った時に怪我のない手を当てただけで治癒ができたのだから、割と何でもできるのだろう。
理解が進めば実際に小規模ではあるが、神殿に影響の出ない範囲内で神力を扱うこともあった。
あとは体を清めて、再び鎖を腕に繋がれてから夕食を済ませ、就寝の鐘を聞いて眠りにつく。
そうしてメリッサの1日は繰り返されていく。
これは2歳を数える年にリーベス主神殿に奥深くに仕舞い込まれ、言葉と文字を覚えてからは毎日この繰り返しだった。
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“学ぶ”ことを主軸として時間を費やしてはいるが、当初、メリッサにとっては暇つぶし、もしくは人のまねごとのような気持ちでいた。
全知全能の神であり創造神であるリーベス神の祝福と加護が与えられているメリッサは、基本的に一度見れば大体のことはこなせてしまえたし、ある程度理解もできた。
これが学舎であれば、まさに神童の扱いであっただろうが、メリッサが神殿に入ったのはまだ2歳の幼子の時である。
優秀な教師が必要であることは事実である。
とはいえ、当時リーベス主神殿の長であり教皇であったクーベルト・ムナ教皇が自らメリッサに最低限の勉学を教えたのは例外中の例外であるのは間違いない。
ユニ神殿長からの直々の依頼であったということもあるが、それ以上にリーベス神に生涯を捧げた一神官として、リーベス神の祝福と寵愛を得た娘であれば、無下に扱うこともできないと思ったからだ。
無論、メリッサを普通の巫女と同じように扱った場合、何かしら問題が起きた時に保護が及ばない可能性を重く見たということもある。
ユルグやラティの企みやユニ神殿の腐敗は知っていたが、今に始まったことでもなければ、すぐに切り落とせるものでもないし、優先すべきは己の神の寵姫の保護であった。私心がないわけでもないが、それもメリッサの母親であるシルティとは業務上顔見知りであり、敬うべき神託の巫女の一人娘を憐れんだという程度のことだった。
本当は初めだけ顔を見せ、神の寵姫と顔を繋いだあとは別の神官を向かわせる予定であった。
しかし、クーベルトはメリッサと顔を合わせていくらも経たないうちに、彼女が真に神の愛し仔であり、神子と呼ばれるべき存在だと理解した。
2歳の幼児がわずか1か月も経たないうちに簡単な単語しか話せなかったものを大人と変わらない程度に言葉や条理を理解してしまうことを目の当たりにした。そこに湯水のように本を与えれば、大地に雨が浸み込むように、いくらも吸収してしまった。自他ともに厳しいと自負するクーベルトの目から見てもメリッサの話す言葉は幼子の舌足らずなもので愛らしいとは思うのだが、聖典を労することもなく暗唱できる姿は正に神童であった。
おそらく、リーベス神の加護を受けた彼女は、知ろうと思えばその意識をどこまでも伸ばし、知識を得ることができるだろう。何かをしようと思えば、望む限りできないことはないだろう。正しく、彼女は全知全能の神の寵姫であった。
クーベルトはそれを誰よりも先に、その危うさを危惧した。
決して同情という生易しさだけではない。教皇という実に重い肩書を背負うには、柔らかな感情だけで物事を見ることは許されないのだ。
名目上、メリッサは神々への「贄」で「供物」としてここにいる。
何のための供物なのか。それは「人」の安寧のための供物である。
そうであるのならば、「人」の情が通じないようであれば、それは人の世においてどのような結果を招くのか。神の視点と人の視点は交わることがあったとしても重なることはない。
現在のメリッサをそのままにしておけば、神の目と思考で、メリッサは自分自身をどう扱うのか。
わからない。彼女が今何を見ているのか考えていることがわからない。
神子であり幼子であるメリッサとの意思疎通は、クーベルトには難しいものであったから。
クーベルトは他の神官よりは階段ひとつ神に近い位置にいるが、所詮人間の枠に収まりきってしまう程度の男である。
メリッサも現在は神に近い位置にいるが、まだ人で赤子からようやく幼児となるような年齢なのである。
人であるのならば、人の目と思考を与えれば、人として人の幸福と利益を望み叶えることも可能であろう。
クーベルトは自分が持つ駒の中で、メリッサを「人」として育てるための人材…悪くいってしまえば、メリッサに万が一、何かが起こった時に処分しても問題のない、もしくは許される、それでいてそれなりに優秀な人材という矛盾した手駒を用意することにした。
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メリッサの置かれた環境は、最も戒律が厳しいと言われている法と秩序を司るヴェレ神殿の修道女よりも厳しいというか生気の感じられない生活である。しかし、そんなメリッサの生活の中で唯一明るさがあるとすれば、クーベルトからメリッサのために侍女としてララ・ムナが置かれたことだろう。
これは教皇クーベルト・ムナの孫娘であるララ・ムナが見習い巫女としての巡業を終え、丁度リーベス主神殿に巫女として務めることとなった為だ。
言うまでもなく、メリッサに関する事柄はすべて特級クラスの守秘事項である。メリッサの特殊性を鑑みてもメリッサに関わる人間は少ないに越したことはない。その点、クーベルトの孫娘であるララは今年で13歳になる少女ではあるが、その立ち振る舞いはそこそこの神官であれば勝るとも劣らないものであった。孫の巡礼後の能力を見た結果、信用するにあたるとクーベルトは判断した。
メリッサの監視と、そして幼子であるという点から情操面について、いつまで続くかわからない限りなく制限された世界の中で生きる中では不可欠であろうという配慮であった。
クーベルトはララに命じたことは、身の回りの世話ともう一つ、「友人」という人間の社会のつながりの一つを心の面で感じて理解できるようにすることであった。
ララはクーベルトから命じられたことに多くの疑問を持たないわけではなかったが、リーベス神の愛し仔と祖父が呼ぶ娘である。隠されるように地下へと続く道を歩く中で、自然と手に汗をかいていることに気が付いた。自分で思うよりも緊張しているのだと思いながら、ララはメリッサのいる神殿の最下層の部屋へと向かった。
そこにいたのは、日の光も差し込まない部屋の中で唯一の光源であるランプの小さな明かりの中で物憂げに本を読む人形のような少女であった。この場合の人形という比喩は美しいというばかりのものではなかった。世界を回ることで人々の生きる活力を6年という時間を使って歩き目と感覚を知ったララからすると、鉄格子とはいえ遠目から見たメリッサは生きているのかもよくわからないほどの生気というものを感じることができなかった。いっそのこと少女のような人形のほうが人間味を感じるのかもしれないなどとくだらないことを思う程度には、そう感じた。
ララがそのまま立ちすくんでいると、同伴していたクーベルトが無言で鉄格子付の重い鉄扉を開けた。静かに開いた扉ではあるが、足音は聞こえているはずであるのだが、メリッサは目線ひとつ動かすこともなく、簡素な椅子に座ったままである。
クーベルトは慣れたように、メリッサの前に立つことで出入り口にあるランプの光源を遮った。
ここでようやくメリッサが顔を上げた。
ララはそっと息を吐いた。生きていると、ようやく納得できた。
クーベルトはそんな孫娘の様子を気に掛けることもなく、メリッサにひどく丁寧に声をかけた。それは定型的な挨拶であったのだが、その間メリッサが声に出して返事をすることはなく、わずかに頷くのみであった。
仮にも教皇たる身分を持つ祖父である。いかにメリッサが主神の加護を持っていようとも、祖父の態度は祖父の人柄を知る者であればわが目をと耳を疑っただろう。
そんなことをララがある意味他人事のように思っていると、祖父はララの手をつかみ、ゆるく引き寄せた。
「メリッサ様、ご紹介したい者がおります。私の孫娘のララでございます」
クーベルトがそういってララをメリッサの前に引き出した。
どうすればいいと目線で祖父に問うも、顎をしゃくって何かを促すのみである。
その間もメリッサの視線は淡々とララの顔を無機質に見つめるだけで、そこに何かしらの感情を見つけることはできない。
とりあえず、最低限自己紹介のあいさつぐらいはするべきだと思い至り、ララは膝をついて両手を組み合わせた。
神に祈る時の所作であるのだが、クーベルトの対応を見るとほぼ、神と応対するときと同等の対応でよいのだろう。
人間らしさをあまり感じないメリッサは、正しく神の子であるとララは感じた。
「クーベルト・ムナの孫娘のララ・ムナと申します。お初にお目にかかります」
「………メリッサ・アストレアだ」
しゃべった。
透き通る銀の鈴のような、そんな比喩を思い起こすような美しい声だと思った。
神に愛される者は見目麗しく、声も人を魅了する声を持っているという。他の神殿で加護持ちの男と話すことがあったが、確かに美しい見目と良い声であった。しかし、振り替えてみてもこのメリッサとは比べてはいけない。正に格が違う。
たった声ひとつでララは、メリッサがまさに愛し仔であることを理解した。
「本日より、メリッサ様のお世話をすることになりました。些細なことでも構いませんので、何なりと命じてくださいませ」
自然と頭を垂れる。ララもまた、祖父と同じくリーベス神を自らの神として崇めている。
その愛し仔であるメリッサは、まさにリーベス神の子も同然であった。
メリッサは、信心深い一信者として自分に仕える様相を呈すララを一瞥して。
溜息を一つだけ、こぼした。
明らかな失望をにじませた溜息にララのみならずクーベルトも胃を冷たい手で握られたような錯覚を覚えた。
「畏まってほしいわけではないと、何度か伝えたはずだが」
2歳の幼子の使う言葉使いてはないが、それでも十分にメリッサの意図とは異なると、惑う様子を声に乗せていた。
今なお胃のあたりが冷たいような気がするのだが、(それは錯覚にすぎないのだが)それもメリッサの力が身の丈よりも大きく、どうしても体からこぼれる為に周囲には威圧となってしまう。それもメリッサは理解しており、自分なりの配慮をしているのだが、まだ2歳という自分の力を抑えるにはあまりにも幼いメリッサに望むのは過ぎるだろう。
本人にとっては不本意な威圧感たっぷりの、愛らしい声は二人を目線と合わせて咎めるように行き来する。
「も、申し訳ございません…!」
ララは自分の背中が汗でぐっしょりと濡らしながら、頭をあらん限り下げた。
それを見てメリッサは眉をしかめる。
さらにそれを見たクーベルトの冷や汗が表立って見えないところからガッツリ流れる。
「ララ、私は怒ってはいない。だから謝罪が欲しいわけではない」
メリッサは2歳の心で思った。
なぜまだ子供の私が、こんな私よりの年齢も体も倍も生きている大人たちに気を使わないければならいなのだろうと。
この年にして既にこの世の無情を感じずにはいられない。
メリッサの身近な大人で見本と言えばクーベルトしかいないため、基本的に彼が基準である。メリッサにはそういった細かい人間の機微についてはまだ本当の意味で理解できないことも多い。子供らしい話し方や態度を望まれたところで、見本となる教皇であるクーベルトが親しみのある言葉使いや対応をするかといえばそんなことはない。紛うことなき人選ミスである。
話し方が固く、上に立つ人間の口調で、そうでなくとも威圧を放ってしまうので何かを言えば言うほど、彼女たちは身を強張らせるのだ。どうしようもない。
ララにしても、教皇の孫娘ということで各神殿の神官長とあいさつする程度のことは巡礼中にあり、それ相応にプレッシャーは感じていたし、何とかこなす程度の技量はついていたはずである。しかし、メリッサはまさに規格外だった。予想外といえば予想外である。
世話係として任命されたはずなのに、こんな調子ではお茶の一つも入れることができなさそうだと、内心このまま神力の濃度が超辛くて気絶しましたとかで逃げられないかな、とか現実逃避してしまう程度には困っていた。
そして、こういう時は唯一の大人であり責任者が話のかじ取りをするのが筋である。
もともとララをメリッサの下へ寄越した本人であるのだから、最低限のコミュニケーションが取れる程度の繋ぎはするのが筋であろう。今後第二、第三の今のララのような人間が出ないためにも、ララには対処法をメリッサと共に身に付けてもらわねばならない。ララの代わりはいれどもそう多くはないのだ。
クーベルトは死を決した戦士のように手を握り、覚悟を決めた。
決めたと同時に、メリッサとララの頭を鷲掴みにした。
神子への不敬罪としてリーベス神に雷で撃たれて死んでも仕方ないぐらいの覚悟である。
「ララ!神子様を困らせてどうする!!神子様のお世話をするために来たというのに、頭を下げていてばかりで何ができるというのだ!?」
「ひ、はいぃぃ!」
クーベルトは怒鳴りながらララの頭を掴む手の力をギリギリと強くした。
痕になるか否かの絶妙な力の入れ具合だが、ひたすら痛い。
勢いはそのままに次はメリッサへと顔を向けた。
別に何も悪いことをしたわけではないのだが、反射的にメリッサは身を引くがクーベルトの手がメリッサの頭を掴んだままなので逃げることは叶わない。
「メリッサ様!」
「は、はい?」
「ララはまだ13の至らぬ娘です。まだ弱く、メリッサ様の力に当てられて体調を崩したり、未熟者ゆえご不便やご迷惑をおかけすることもあるかと思います」
頭の痛みで涙目だったララだが、さらに追い打ちかけられた気分だ。
そんな孫娘を見ることもなくクーベルトは続ける。
「そんな孫娘ではありますが、ララは先日まで巡礼で6年間、メルカ大陸を渡り歩いておりました。下界と離された状態のメリッサ様は世俗との繋がりを持つすべがありません。メリッサ様にお目通りが適う者の中で、最も年も近く外の世界について生きた話を伝えられ、メリッサ様の世話をできる者は、このララだけなのです」
「お祖父様…」
どんな思いで自分をメリッサの下へ連れてきたのか連れてきたのか、この時ようやくララは知った。痛みとは違う涙腺が緩む。クーベルトの思惑は他にあるのだが、知らないことは幸福である。
クーベルトは、メリッサの目をしっかりと見たまま、頭を下げた。
「どうか、ララをお傍に置いていただけないでしょうか?メリッサ様にご不快をかけることがあれば、このクーベルト・ムナの名に懸けて徹底的に矯正いたします」
「え?矯正?何それ?へ?」
とても不穏な言葉が最後にサラリと出てきてララの心は気が気ではない。
そんなことは置いておいて、メリッサはクーベルトの澱みのない瞳をしっかりと見た。
メリッサは生まれてからイシス神殿からリーベス主神殿の移動を除いて、神殿関係者以外の人間を知らない。その関係者も極めて数が限られているが、それでも最も魂も言葉も瞳も澱みや歪みのない人間はクーベルトであった。それが必ずしもメリッサを思うものではないことはわかる。しかし、意味もなく人を陥れる人間ではないことであることはその魂の在り方を見れば解った。
メリッサは頭に乗せられたクーベルトの手を取り、頭から降ろすとそのままその手を両手で握った。
舌に力を乗せて、瞳にはクーベルトとララを視界に収めて告げた。
「メリッサ・アストレアはララ・ムナを受け入れよう」
その言葉が終わるとともに、ムナの体を柔らかな光が一瞬つつみ、静かに消えた。
メリッサがそっとクーベルトの手を放す。
そして、落ち着きのないララの手を握った。
「ララ。私もいたらないことが多い。助けてくれるか?」
メリッサはララを紫の瞳で見つめた。
そこでようやくララは気が付いた。先ほどまでメリッサが向けるすべてに圧力を感じて辛いぐらいの体だったが、既に楽になっていた。
握られた手を見た。自分の手を握るその手は自分の指二本分を掴むにも小さいくらいの、本当に小さな子供の手だった。子供の手は、熱くはないがとても温かかった。
人形は、こんなぬくもりは持てない。
よくよく見てみれば、無表情と思っていた顔は緊張でこわばらせているだけだった。
人形のように美しい神子ではあるが、このメリッサという幼子は、紛れもなく二歳の子供であると、ララはようやく理解した。
心がそんな風に落ち着いてしまえば、ララはもう恐れることもなかった。腹を決めてしまえば行動することに何のためらいもない娘なのだ。
ララはメリッサの手を握り返した。
できる限りの笑顔を添えて。
「メリッサ様。私こそ、いたらない娘ではありますが、どうぞ、お傍に置いてくださいませ」
返事はメリッサの慣れない微笑みだった。
緊張が解けた時の、ほっとした時に出るなんのこともない笑顔ではあったが、2歳の少女らしい愛らしい笑顔だった。
………一番ほっとしたのはほかでもないクーベルトだったのかもしれない。