呪詛を隠された少女
メリッサがクーベルトから神殿を出ることを告げられる2か月前。
ラティは一人娘のフローラとリーベス主神殿のある聖レーム法国の首都の宿屋にいた。
一般的に巡礼中の子らは巡礼者用の簡易宿場があり、そこに泊まることが一般的であるのだが、二人がいたのは法国でも高級宿場に位置する「石斛の花船」に1週間に渡り滞在をしていた。
ここは巡礼用の簡易宿屋とは異なり、広めの個室で浴室があるということから、金銭に余裕のある者には人気のある宿場である。
ラティとフローラはローブを脱ぎ、ゆったりとした作りの服に着替えて疲弊した体の疲れを癒していた。特にフローラはユニ神殿のあるランジェスト王国の首都からリーベス主神殿のある聖レーム法国までの初めての長旅ということもあり、今にも眠りそうだった。
まだ眠らないのは、母であるラティから”処置”を済ませるまでは起きているように厳しく言われているためである。
「ママ、まだぁ?あたしもう眠いよー、足揉むのも疲れたし」
「静かに待ってなさい。明日も歩くんだから、よく足の疲れを取るようにもみほぐしてなさい。あなた、今の状態だと簡単な神力一つまともに使えないんだから自力でなんとかなさい」
ラティは丹念に手入れをされた髪に高価な香油を塗布させていて、まだフローラに構うまで時間がかかりそうだった。
まだ8歳になったばかりのフローラは、日も暮れて1刻もすれば寝てしまう生活をしている。既に日が暮れて2刻は経っているということもあって、フローラは眠気を紛らわせるため、足を丹念にもみほぐそうとしているのだが、それも指が疲れてしまって嫌になってた。
そうでなくとも、フローラは同年代の子供たちよりも我慢の聞かない少女であるので、ここまでラティの言うことを聞いているだけでもよく我慢している方である。
ぐずぐずと不満を言うフローラが面倒になったのか、それともある程度手入れが終わったのか、ラティは手をぬぐうとフローラを呼んだ。
「もう、本当にあなたは我慢のできない子なんだから。仕方ないわね、先にしてあげるからここに座りなさい」
「はーい」
フローラは大人しく返事をすると、ラティの言うとおりにラティの目の前の床にぺたりと座った。フローラは慣れたもので、上半身は薄い下着だけの姿で、ラティに両手を差し出した。
ラティはフローラの姿を見て、一瞬不快に顔を歪ませたが、すぐにいつもの母の顔に戻し、フローラの手を握った。
ラティの視線にあるものは、フローラの普段はローブに隠されている体にくっきりと浮かぶ二の腕から胸にかけて禍々しい黒い呪印である。まるで生きているかのように蠢き模様を変えるそれは何度見ても人を不快にするとラティは思うのだが、それを娘の前で言うことはなかった。
ラティは鞄から桃色の薄い光を放つ魔石を取り出すと、フローラの手に握らせた。
小さなフローラの手にはやや余る魔石を、ラティはフローラの手ごと握るように包み、そこに微弱な神力を流しながら唱えた。
「我が母なるユニ神の御力よ、彼のものに託された力を彼女に今譲らん」
詠唱が終わると同時に、桃色の光はフローラをわずかな時間ではあるが包み込み、握られていた石が石炭のように黒くなると同時に消えた。
光が消えるとほぼ同時に、フローラの体の呪印が幾分か薄くなり、動きを止めた。
薄い白地の服を着ても解らない程度に弱まったことを確認して、ラティはフローラの手からいっそ禍々しく感じられる石を封印が施された布で包み、鞄に戻した。
フローラは自分の腕を見て、いくらか軽くなった体を伸ばして不自由がないか確認した。
「ママ、終わった?」
「ええ。もう寝ていいわ。明日はママが起きたら出ましょう」
「はあい、ママが起きたらね、わかった」
御座なりに答えるラティを気にすることなく、フローラは手首まで体を隠す寝間着を着ると、ベッドに潜り込んだ。白く清潔なシーツはヒンヤリとしていて気持ちがいい。
フローラを見ることもなく、今度は肌の手入れをし始めたラティをフローラは眠気眼で見ていると、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばママ」
「何?もう寝なさい」
さっさと静かにしろと睨むようにフローラを見るが、フローラは気にすることもなくシーツから半身を起して、忘れないうちにとでもいうように口を開いた。
「寝るけど、今日神殿に行ったでしょ。そこでね、面白いモノを見たの」
「面白いモノ?」
「うん、あのね、ママが神殿の偉い人とお話してた時に、私暇だったから神殿を探検してたの。あ、すぐに戻れるところのつもりだったんだけどね、道に迷ってたら怪しい場所があったの」
「怪しい場所ね…それで、どうしたの?」
ラティの気を引けたのが嬉しいのか、フローラはその時のことを思い出して興奮してきたのか、やや目が覚めて、しっかりと体を起こしてラティの傍に四つん這いで近寄った。
「狭い階段があってね、神殿騎士の人が立ってたんだけど、誰かに呼ばれてそこを離れたから気になってそこに入ったの。階段を下りて行ったらそこにね、牢屋があったんだよ。静かだったから誰もいないのかなあって思っていたんだけど、そこに女の子がいたの」
「女の子?ねえフローラ、どんな子だった?」
訝しげにラティから促されると、フローラは薄暗い、広い部屋に一人でいたメリッサを思い出そうとしたが、格子越しであるということと、地下特有の薄暗さで細かいところはわからないと言った。
「でもね、お話に出てくるお姫様みたいな金色の髪の毛の綺麗な子だったよ。牢屋って初めて見たんだけど、パパの部屋みたいに本や綺麗なランプもあったの。絵本に出てきた囚人の人みたいに鎖で繋がれてたけど、金色でキラキラしたきれいなブレスレットみたいで」
欲しいと思った、と最後までフローラは言えなかった。
言い切りないうちにラティは身の内から噴き上がった激情のままに手にしていた香油の瓶を床に叩き付けた。香油の瓶は衝撃のまま砕け、まだ十分に量のあった香油は床とラティの足をべっとりと濡らしたが、その程度でラティの怒りは収まりそうにもなかった。
フローラはまた自分が要らぬことをいったのかと、その怒りの矛先が自分に来ないように身を縮ませるようにしながらラティから距離を取った。
こうなったラティは自分の気が済むまで落ち着くことはないと身をもって知っているからだ。その時になってフローラは漸く、メリッサが自分に告げたことの意味を理解した。
あの時、単純に子供が好きなように神殿を徘徊することを良しとしないという意味かと思っていただけで、あの子の言う罰など口だけだと決めつけていた。
物語のお姫様のようにキラキラしたあの自分より少し年上の女の子が閉じ込められているその理由になど、フローラは気にすることもなかった。ただ、特殊な事情があって隠されているということを察しただけで、それを知っている自分に何の根拠もなく優越に浸ったのだ。
そんな不思議な子と知り合えば、”普通ではない”自分も、物語に出てくるような特別になれるような気がして、あの名前も知らない少女に声をかけたのに。
なぜ、彼女はこんなに可愛くて誰からも愛される自分にそっけない態度をとったのかはわからない。わからないが、今の母の反応を見る限り、彼女は触れてはならない存在だったのだろう。生まれた時から自分の体に蠢く呪印のように。
「許さない!なんで、そんな大事に扱われているの!?何度も殺されかけているような邪魔で危ない子なのに!捨てられて、仕方なしに置かれているだけのはずなのにっ!なんて憎たらしくて忌々しい子なの、これだけすれば放っておけば粗雑に扱われて勝手に死ぬと思っていたのに…ちゃんと始末しないと。もう時間なんてないわ、そうよ、手を打たないと。そうしないと、私の未来が」
フローラは自分には理解のできないことをブツブツと罵り交りに呪詛を吐く母を見ながら、自分を抱きしめた。さっき軽くしたばかりの呪印が動いたような気がした。