子供部屋を出る日
それは唐突とも言えるし、整えられた筋たてのようにも見えた話であった。
メリッサが12歳を4か月ほど過ぎた頃、リーベス主神殿にて行われる定例会議である議題が取り上げられた。
大陸の中心に位置するランジェスト王国の西部に位置するセレ地方にあるラル湖周辺で大型の魔獣が現れたというものである。
神から零れた神力のかけらは時に獣に落されることがある。そこに神の意図はないが、人の世では人為的にも作り出すことのできない濃度の神力は生物に与えればその体は力の大きさに潰され肉塊になるのが常である。
ただ、低い確率ではあるが、その神力に身を崩すことなく耐えることがある。しかし、体を維持することができても精神まで保つことはまずない。そのため、神力を与えられた獣は身に余る神力を持てあまし、狂暴化する。卑小な生き物ですら、その力は巨岩をも砕く力を持つため、天災の一種に位置付けられている。便宜上、その生き物はどんな種類でも「魔獣」と呼ばれている。
とはいえ、実は魔獣が現れることは別段、珍しいことではない。特に、現れた場所がラル湖である。かの創造神話でもかなりの頻度で出てくる湖であるが、リーベス神の第二の妻であるティスの一族が守っていた湖というだけあってか、他の場所よりも高い濃度の神力が観測される。そのため、ラル湖周辺では魔獣と遭遇する率が他の地域よりも極めて高いのだ。ただ、ティスの一族が湖から湧く神力を使うことで、悪意を退けていたため今までは大きな被害が出ることはなかった。
だが、近年では一族の力が弱体化しているのか、魔獣の力が増しているのかはわからないが少なからず魔獣による被害が増えてきているのだ。
ある程度の実力を持つ兵士や冒険者であれば、ギルドを通じて討伐されるのだが、今のところ良い知らせはない。ラル湖周辺に住む住人たちが藁をも縋る思いで神殿に駆け込んできたというのが、現在の状況になる。
「それで、それがメリッサ様と何の関係があるのですか?教皇陛下」
ララは冷ややかな目で概略を離し終えたクーベルトを見ていた。
メリッサの傍付巫女を始めてから既に10年が経過していることもあって、ララは年相応の落ち着きを見せながらも目に光る剣呑な雰囲気は隠せていない。
それを窘めるかのように、細く息を吐く少女が口を開いた。
「ララ、最後まで話を聞くべきでしょう。あなたの悪い癖よ」
熟れた果実のように赤い唇から出た声は、まだ12歳の少女にしては随分と落ち着いた声色であったが、それでも初めてその声を聴いたものは自分の声を忘れてしまいそうなぐらいに心を震わせる声であった。
物憂げな声に、いつもであれば目を伏せて恭順を示すがララは話の内容と聞きなれた声であるため、それを冷静に否定した。
「構いません。どうせ碌な話ではないんですから。聞かなかったことにしましょう、メリッサ様。今日はララのとっておきの菓子を持ってきたんです、こんな辛気臭い年寄なんて放っておいて食べましょう」
ララはそう言って露骨にクーベルトを邪険にしながらもメリッサに人好きのする笑顔を見せるという器用なことをしながら給仕を始めた。
「本当にこの馬鹿娘は…。メリッサ様可愛さで人の話を聞かない者がどうして誰かの役に立てようか。誰に似たのだか」
クーベルトはそれに頭を痛めるような姿に、メリッサは少し悩んで、ララの給仕を横目に話を続けるように取り成した。クーベルトは少し疲れたように微笑んで謝意を見せた。
メリッサは緩く頭を振ると、話の先を聞いた。
「その話の様子では神殿騎士を魔獣討伐に向かわせるということなのでしょうか」
「順当にいけばそうなのですが、そうは行かなくなったのです」
苦虫をかみつぶしたようなクーベルトの様子に、メリッサは小首をかしげた。
「その魔獣に遭遇した者の話ですと、普通の魔獣ではないようでして」
「というと?」
「普通の魔獣も元の獣の姿からすれば十分変異した姿をしているのですが、どうやらその魔獣はその上を行く姿をしているとか。確か…獅子の体にドラゴンの羽が付いた今までに見たことのない姿をしているそうです」
「獅子に羽ですか…なんというか、それは」
メリッサは先を言い淀んだ。
クーベルトはそれに同調するように頷いて続けた。
「その目撃証言が正しければ、十中八九、神獣の魔獣化です」
「やはり…そうなのですね」
メリッサは目を伏せて憂いを深めた。
神獣と呼ばれる生き物は基本的に神の世界に生息しているが、至極稀ではあるが人の世に棲家を持つ物もいる。神獣というだけあり、神の乗り物や御使いとして姿を見せるものも多いが、その姿の多くは美しい白い羽を持っていると聞く。
比較的伝承が残っている例として不死鳥はもちろんのこと、馬や獅子、牛などの比較的に大型の生き物が多い。
神獣は神の世に生きることもあり、もともとその身には人よりもはるかに多くの神力を持っている。そのため、彼らがその身を穢れに侵されるということはほぼ有り得ないことである。
しかし、話を信じるのであれば、その獅子に羽が生えた獣というのであれば神獣の可能性が高い。だが神獣であれば人を襲うことはない。正しく言えば、神獣は生き物を襲うことはない。地獄の番犬は別だが、基本的に神獣は神の意に背く者に罰を与えるときに限り人に害を為すとされる。神獣が人を襲うことがあるとするならば、それは魔獣化しているという可能性が最も高いというのも納得する。
だが、先に述べたとおり、神獣は神の傍に侍る存在であることから、生半可な神力で侵されるということはありえない。よほど穢れの溜まった神力に浸されていれば可能性もあるだろうが、そのような吹き溜まりに彼らが長時間いるとは考え辛い。特殊な例であることは間違いないだろう。
「神獣を魔獣化する、しかもこの短期間にということであれば、神が直接かかわっている可能性が高いと結論が出ました」
「私も同意見です。神獣が変異を起こすとなれば、自然に落とされるような神力とは比べ物にならないだけの質量が求められます。それは神の手に寄らない限り、有り得ないでしょう。そうした神の意図はわかりかねますが…」
「メリッサ様でわからないことならば、他の者には分かりますまい」
神託などという抽象的な会話をするのではなく、直接に言葉を交わすことが唯一可能なメリッサは神々の実情を最も理解しているヒトである。そのメリッサがわからないというのであれば、この人の世に現存している者で正確に神の意思がわかるものはいないだろう。
「それで、私に話というのは」
「賢いメリッサ様のことですから、察してはいるでしょう」
「私も間違うことがありますから、クーベルト」
メリッサが促すと、クーベルトは少し痛みをこらえるように眉間にしわを寄せて、重い息を吐きながら告げた。
「神獣を堕とす神の下へ向かい、御身の限りを尽くし、神を抑えてほしい」
ララの手が止まった。
「お祖父様…何を言ってるの」
熱湯が鮮やかな赤茶色に染まりつつある茶器をクーベルトに投げつけないようできる限りの理性で机に置いた。そんなことをしてメリッサが火傷をしないように。
そんな孫の姿に少しばかり成長を見たクーベルトは色のない瞳でララに答えた。
「メリッサ様は現地へ向かい、議題に上がった魔獣が真実、神獣が変化した物か確認してもらう。もしそれが神獣と判断し、なおかつそれが神の手によるものだと判明したら、その身を使って神の乱心を止めていただく」
「どうしてそのすべてをメリッサ様がするというの?魔獣に関してまでメリッサ様がすることなんてないでしょう!」
ララの嘆きは予想されていたのだろう、メリッサは手慰みに刺繍をしたハンカチをララに差し出した。まだ泣いてはいないが、当事者であるメリッサよりも悲嘆している。
「現地は神力の濃度が極めて高い場所で、それに耐えられる人間というだけでも限られる。私ほど神力のある人間はいないから、場所についても私が適任。魔術についても聖霊並みには使えることは知っているでしょう。下手な神殿騎士よりも危険は少ないわ」
「そういうことじゃないんです!まだメリッサ様は12歳の女の子なのに、そんな危険な場所に行かせるなんて…っ」
メリッサは戦地に子を送り出す母のような、姉のような姿を見せるララに困ったように微笑んだ。
「私がここにいるのは、この日の為なのでしょう。私が必要と判断されたのなら、私を使うべきだと思うわ」
「意味が解らない!そんな…、あやふやなことのためにメリッサ様を向かわせるの?ただでさえ魔獣も増えているというのに、そんな奇怪な魔獣がいるような場所に行かせるだなんて、もっとやるべきことはあるはずでしょ!?神様?誰がそう確定させたの?何一つ確証がある話でもないのに、なんでいきなりメリッサ様なの!?」
ララは理不尽に耐えられないというように、メリッサを抱きしめた。
いつか来るとは思っていたが、こんな「誰にでもできる」ことのためにメリッサを消耗品のように使い捨てるなんて、許せることではなかった。
本当に信仰の下、メリッサが神に臨まれた状況であれば、ララは納得した。ララでなくとも、信者であればほぼ悲しくも送り出しただろう。神の下へ帰ることは悲しむことではない。
ララでもこの場合は違うことぐらいわかるのだ。
あの日、禍福の巫女の命を奪った彼の女の息がかかっていることぐらい、この7年間をメリッサと共に過ごしてきたララは十分すぎるほどに理解していた。メリッサの前で息絶える少女たちの姿を見る度にメリッサの心が擦り減っていく姿を、何もできない自分に歯噛みしながらも傍にいて見続けたのだから。
魔獣が出たのは真実だろう。
しかし、そこからなぜ神獣の魔獣化から乱心の神へと話が進むのだろう。
そのようなことをする神の話など、今まで聞いたことなどなかったのに。
どう聞いてもシナリオありきで、そこに合理性など全く感じないのに。どうしてこんな結論を通してしまったのかと、ララはクーベルトを睨みつけるしかなかった。
そんなララを困ったように見つめて、メリッサは自分を抱きしめるララの頭を撫でた。
「ララ。ごめんなさい、でも、このことがなかったとしても、もうここに居ることはできないと思うの」
「どうしてそんなこと言うんですか…?」
「あの継母の娘、私の異母妹と出会ってしまったから」
そういえば、のろのろとララはメリッサに目を合わせた。
深い紫紺を思わせる瞳は陰りもなく、真っ直ぐにララを見つめていた。
「あの母娘に私の存在を認知された以上、ここにいるのは危険なの。何度も刺客を差し向けられているというのにね。でも、それとは比較にならないぐらいに、私はここにいてはいけないと感じるの」
「…どこかの神様にそう言われたんですか?」
メリッサは沈んだ声でララにそう問われると、曖昧に微笑むことでごまかした。
「ララはあの子に会っていなかったのよね」
「はい…丁度、昼食の手配に出掛けてましたから。もっと早く帰ってくるべきでした」
後悔の滲む声でララがそう言うが、メリッサはそれとは真逆の感情で否定した。
「よかった。ララのことが知られなくって」
「メリッサ様?」
「ねえ、ララ。お願い、あの二人とは決して関わらないで。私と関わっていたことは間違っても知られないようにして」
メリッサの意図が分からないと困惑するララに、メリッサは説明する気などないというだけ言って、クーベルトに顔を向けた。
「クーベルト、ララを頼みます」
「メリッサ様のご命令ならば」
そう一礼したクーベルトに頷いて、メリッサはゆっくりとララから離れた。
メリッサは離していいものかと宙をさまようララの手をそっと握った。
「ララ。私がここに居たのは供物になるため、でもね、ただの贄ではなかったと思うの。誰かの幸せのために、守るために、悪意を遠ざけるために、私は行くわ」
はにかんだ笑顔で、メリッサはララの手を握ったまま、祈るように神力を使った。
「私の願う、誰かの幸せの中に、ねえ、ララ。そこには貴女とクーベルトがいるの。忘れないで、私は貴方達の幸せを心から願っている」
柔らかな紫紺の光を揺蕩わせて、メリッサは手をそっと放した。