Chapter1-筧真澄:地響き
みやびわたるさんによる投稿です。
白い壁で統一された、ごくごく普通にある狭い部屋。服が乱雑に床に放置されていたり、ろくな掃除もされていない事から、若者が一人で暮らしている事が想像できる。
そんな簡素な部屋に懐かしいテレビゲームのメロディが響き渡った。
「ん、ん……」
折り畳み式の簡素なベッドの上で丸くなっていた真澄は布団から出た腕を床に伸ばし、充電器に挿さってフローリングに転がっている携帯を探った。メロディからして、電話のようだ。
「こんな時間に、誰だ……」
時計の針は朝の十時を指している。朝なのか昼前なのか判断しづらいが、平日の起床時間がこのくらいの真澄にとっては「朝」になる。日中に電話をかけてくる人といえば、と彼は眠い目を閉じたまま想像してみた。
両親の近況報告――――――それは昨夜済んでいる。二、三時間付き合わされたていたから、今更付け足しする事もないだろう。
バイト先の店長の出勤催促――――――今日は休みだ、心配ない。
友人の遊びの誘い――――――奴らは朝までゲームをしていて、この時間は爆睡している筈だ。
真澄はしばらく考えていたが、電話が留守電にならない様に慌てて携帯を掴んで耳に当てた。
「も、もしもし?」
『……、筧……真澄君かな』
受話器から聞こえてきたのは男の声で、低い、しわがれた声だった。一瞬真澄には相手が誰か見当がつかなかったが、すぐに思い出した。
「……あ、はい。優里さんのお父さんですね」
優里は真澄の恋人である。某有名大学に現役合格した秀才でありながら、誰にでも分け隔てなく優しく接する事が出来る人格を兼ね備えている。高卒でフリーター路線に直行した真澄との交際を彼女の父親は良く思っていなかったらしいが、それを説得してくれたのも優里だったとか。
「あの、どうかされたんですか」
『ん……いや。その、一応君にも連絡しなければと思ってだな……』
義父の不自然な語り口に、真澄は違和感を覚えた。彼が義父と話す内容といえば大抵が優紀の事で、優里とのやり取りや行動等、しつこいくらい真澄に聞いてきていた。その当時は、娘が心配で仕方がない人なんだ、と思いながら素直に会話していたが、今は逆にその過去が真澄を不安にさせる。
『……ショックを受けるだろうが、落ち着いて聞いてくれ』
義父の言葉は静かで、暗い影を帯びていた。あまりにも不気味過ぎる雰囲気に真澄は不安で息が詰まりそうになっていた。
落ち着いていられるか。突然の電話だけでも驚いているというのに、と不満をぶつけてやりたくなったが、
「……、はい。わかりました」としか言う事が出来なかった。
受話器から聞こえる得体の知れない言葉の重圧に萎縮してしまったのか、それとも身体が無意識の内に義父が次に言う台詞を一字一句、聞き逃さない様にしているのか。
どちらにせよ、その後義父から伝えられた言葉は真澄にとって良い報せになる筈もなく――――、
『優里が……』
「えっ……」
冷水を胃袋に流し込まれた気分だった。溜め込んでいたものを吐き出す様に義父は話を続けた。
『今朝、意識のない状態で見つかったんだ。ベッドの中で……苦しそうな顔で……』
頭が真っ白になるというのは、こういう事を言うのだろうか。義父が涙を堪えきれずにすすり泣く音が聞こえ、真澄の鼓膜を震わせる。
驚きを通り越し、真澄はただ黙って白い無垢な壁を見つめる事しかできなかった。
◇◆◇◆◇
優里の通夜を終え、真澄は恋人の眠る棺によたれかかり、うずくまっていた。彼が大泣きしていたのを見ていた義父は真澄の側に近寄り、肩をポンと叩いた。
「真澄君……、大丈夫か?」
「……、お義父さん……」
力なく顔を上げた真澄を見た義父はぎょっとした。
疲れきった表情には生気がなく、両頬に涙の伝った跡がはっきりと残っている。よれた喪服のシワが彼のやつれ具合を鮮烈に物語っていた。彼に声をかける前、義父が参列者に真澄の様子を聞いてみると誰もが、声をかける事が出来ない程だった、と言っていた。
優里は病院に運ばれた時点で既に危ない状況だったらしく、真澄が駆けつけた時には息もか細くなっていた。
ベッドの上で弱りきった優里の、白く小さな手を握りしめ、真澄は何度も彼女に呼びかけた。しかし彼の必死の努力も虚しく、優里は家族と恋人に見守られながら、その命の幕を閉じた。
これは聞いていた以上に酷い。少し休ませなければ――――義父はそう感じた。掴んだ肩を揺すり、真澄に必死に語りかける。
「真澄君、しっかりするんだ。少し眠った方がいい。このままでは君も倒れてしまうぞ……」
義父にとっても愛娘を亡くした事は悲しいし、大泣きしたい気分だ。だがそれ以上に彼女の死を悲しんで憔悴している若者が目の前にいた。そんな彼に倒れてもらう訳にはいかない。
「……はい。すみません……」
真澄が微かな声で答えたのを確認した義父は小さく頷き、周囲の人間に布団を用意する様に指示した。そして真澄の肩に腕を回して、彼が布団の所まで歩くのを支えた。
横になった真澄は不思議な感覚に襲われていた。背中に触れている布団は柔らかく、白いシーツのさらりとした感触が心地が良い。だが、全身が異常に重たい。あまりの重さに床が突き抜けてしまうのではないかと思いこんでしまう程だ。
「(う……、頭が痛い。あと、なんだろ。すごい……眠い……)」
これは熱があるせいだ。真澄はそう考える事にした。恐らく優里の死という、きついショックで高熱が出たに違いない――と。
暗い何かが背中からじわじわと全身を伝い、頭部まで到達した。やがて目の上まで来ると、細く開いていた瞼を重くしていく。
「(一回、寝よう……。寝れば治る、いつもそうだった……いつ……も……)」
そして真澄の意識は睡魔という混沌に奪われていったのだった。
◇◆◇◆◇
霞む視界が晴れると、そこは未知の空間だった。
固い感触を背中に感じた真澄は、ゆっくりと重い瞼を開いた。
「なんだ……、ここ」
真澄は石造りの床の中央に仰向けに倒れていた。すぐさま起き上がり、周りを見渡したが、起きたばかりという事もあって周囲がぼやけてはっきりしない。だがここが「部屋」だと理解するのにそれほど時間はかからなかった。
次第に視界がはっきりしてくると、周りの詳しい状況を読み取る事が出来た。
そこは広い牢屋だった。長方形の小さなレンガが四方で隙間なく積み上がっていて、壁に掛けられた松明だけが妖しく揺らめき、全体をほのかにオレンジ色に照らしている。そして牢屋の壁の一部がすっぽりと空いており、鉄格子がはめられていた。どうやら唯一の出入口のようだ。
鉄格子の向こう側はこれまた広い通路があり、この牢屋を造っているのと同じレンガが敷き詰められていた。通路の壁には緑色の小さなプレートがかかっていて、何を意味しているのか、「36―S」と書かれている。
ふと牢屋の隅に目をやると、自分以外の誰かがいる事に気がついた。あちこちが土で汚れたグレーのビジネススーツを着た男性が体育座りをして、驚いたようにこちらを凝視していた。白髪が短い黒髪の大半を占め、四角い眼鏡の奥にある目は疲れきったように淀んでいた。外見から察するに、歳は四十歳後半といった所だろうか。
得体の知れない空間に不安を感じていた真澄は、人がいる事にほっと胸を撫で下ろした。驚いたままの彼に近づき、声をかけてみた。
「えっと、あの~……すみません」
「え……あぁ、なんだ。良かった、“普通の人”だったか」
男も安堵の表情を浮かべ、真澄に微笑みかける。彼の言葉に真澄は若干の違和感を覚えたが、ただの思い違いとして気にしない様にした。今はそれ以上に、知りたい事がたくさんある。
「こ、ここは一体……」
「……ここは、夢の中の牢獄、『夢之塔』です」
「夢の……塔?」
聞いた事もない場所だった。しかも、夢の中にあるというのはどういう事なのだろうか。真澄はその事を男に聞こうとした。しかし男は手の平を見せる様にかざして、真澄が喋ろうとするのを制止した。そしてその手で真正面の壁を指差した。
「質問したい気持ちはわかりますが、とりあえずあのモニターを見て下さい」
「え、モニター?」
真澄が男の差し示した壁を見ると、黒光りの四角いモニターがはめこまれているのを見つけた。真澄はそれを訝しげに眺めていたが、突然画面が白くなり、黒い無機質な文字が浮かび上がった。
[ようこそ、夢の牢獄へ]
真澄が驚くのをよそに、浮かんでいた文字が白い画面から消え、再びにじみ出る様に別の文字が現れた。
[貴方達はこの夢の牢獄「夢之塔」に囚われた哀れな囚人です]
「し、囚人って……。俺は今、捕まってるのか……?」
真澄はそう呟きながら、自分の後方にいた男の方を向く。男は真澄の独り言に対してなのか、小さく頷き、
「えぇ。私達はこの塔に閉じ込められているんです……」と答えた。
未だに状況が掴めない真澄がもう一度モニターを見ると、更に文字が別のものに変わっていた。
[このまま死ぬまで閉じ込められるのも自由ですし、ここから逃げ出すのも自由です。ただし、逃げる際には番像にご注意を]
一際長い文章が表示され、しばらく経つとブツリという音をたてて白い画面が鈍い黒色に戻った。後には呆然と立ち尽くす真澄と、相変わらず体育座りのままの男が取り残された。
「……え、え~と……」
真澄は困惑していた。たった今頭に入ってきた情報の、何からどう整理すればいいのかまったく見当もつかない。緩いパーマの黒髪をぐしゃぐしゃと掻きながら焦りの表情を浮かべる真澄を見て、座り込んでいた男がすかさず助け船を出した。
「君、ここに来るのは初めてですか?」
「……は、はい。筧真澄です。あの、あなたは――」
おずおずと答える真澄に、男は表情を少し緩めながら言葉を返す。
「私は高村と言います。この牢獄の仕組みなら少しだけわかりますよ。詳しくはないですけど……」
「いえ……、教えてください。お願いします」
真澄が返事をすると、高村という男は立ち上がってモニターの所まで移動し、そして黒い画面を軽くコンコンと叩きながら話を始めた。
「今の文字は、この塔を監視する看守長の言葉です。私が初めてここに来た時も同じものが出ました」
「看守長……、やっぱりここは、牢獄なんですね」
「はい。この塔には、何十階もの階層があります。ひとつの階層がとても広く、迷路の様な通路のどこかに上りと下りの階段があるそうです」
彼の言葉から考えると、通路の壁にあるプレートの「36―S」という文字は、三十六階という意味なのだろうか。
外の通路の大きさも、とても広い迷路の一部だと考えると納得がいく。真澄は自分のいる空間のスケールに驚愕していた。
「一体どこにこんな塔が……、そもそもなんで俺はここにいるんです? 囚人って……、罪を犯した訳でもないのに……」
高村はゆっくりと首を横に振りながら、鉄格子の奥にある通路を指差した。
「『夢之塔』はその名の通り、夢の中に存在する牢獄。囚人という名前は、夢に閉じ込められた私達に対する呼称の事。その証拠に――――」
遠くの方から響いてくる、ズン、ズンという重い音が高村の言葉を遮る。次第に大きくなる音の間隔から、何かがこちらに歩いてくる様にも聞こえる。
「な……、なに……が……」
真澄の口から次の言葉が出てくる前に、巨大な影が床を覆い尽くした。
「来ましたよ……あれが番像です」
影の主が鉄格子を挟んだ真澄の眼前に現れた――――が、その姿を見た真澄は絶句した。
「これが……番像」
“番像”という名に相応しい、巨大な石像が通路に立っていた。例えるなら、漫画で見た事がある様なひとつ目の巨人、キプロス。でっぷりとした体躯にごつごつした頭部が乗っていて、顔の中央には大きな目が赤く輝いていた。表面は何度も研磨を繰り返したように滑らかで、一瞬、全身が石でできている事を忘れてしまう程だ。
しかし真澄が最も驚いたのは、四~五メートルはありそうな身体に繋ぎ目らしきものがないのに、石像はしなやかに動き回っている事だ。まるで柔らかいゴムか何かが遠隔操作で動いているようだった。
「こ、これは……、どうやって動いてるんですか!? こんなの、全然現実的じゃない!!」
真澄は目の前を通り過ぎて行った番像を尻目に、慌てふためきながら叫んだ。しかしすぐに高村が言った言葉を思い出し、息を呑んだ。
「…………そうだった、今夢の中にいるんですよね」
真澄の言葉に高村は静かに頷いた。
「噂では、私達を悪夢の中に閉じ込めている看守長が動かしているとか……」
「噂?」
「私達以外の囚人の方から聞いたんです。ですが信憑性はないので、とりあえず“謎の力”って事にしておきましょうか」
高村は鉄格子の側までやって来ると、通路の様子や音を調べながら答えた。
「あの番像は通路に出ている囚人しか狙わないそうです。牢屋の中にいる時は安全です――――よっ!」
高村が鉄格子を手前に押すと、錆びれた扉はギィと軋みながら開かれた。高村は先に通路に出ると、真澄に外に出るように軽く手招きした。
「移動しながら説明しますね。このフロアの階段の位置はある程度わかってますから」
「階段?」
「階段にたどり着けば、一時的に悪夢から解放されるらしいです。さぁ、行きましょう」
「え……、は、はい」
言われるがままに真澄は牢屋の外に出た。実際、未だにこの空間が夢の中のものなのかが半信半疑だったし、もしかすると優里の葬儀が終わってしまっているのではないかと不安に駆られていた。だが今は自分より知識と経験のある高村の言う事に従って、階段の所に連れていってもらうしかない。真澄がそう判断するのに時間はいらなかった。
通路は牢屋の中から見るよりも大きく感じられた。これが一階層の一部だと考えると、塔全体のとてつもない広さが伺えた。
「番像の足音が聞こえたら、すぐに近くの牢屋に入ってください。先ほども言いましたが、番像は牢屋の中の囚人には危害を加えないそうですから」
「はい……、今すぐ入りたいくらいです」
真澄は頷き、自分の膝が震えているのを両手で叩きながら、既に歩き始めた高村の跡を追いかけた。
「――――っていうか、高村さんはここの事、かなり詳しいですよね」
長い通路を二人が進んでしばらくして、ようやく落ち着きを取り戻してきた真澄は高村に、先ほどから疑問に思っていた事を聞いてみた。
「いつからここにいるんです? ここのことを集めるのも相当時間がかかったでしょうし……」
真澄の問いに高村は左腕にしたシルバーの腕時計を見ながら答えた。
「そうですね……。だいたいの時間で…………三十時間くらいですかね」
「さ、三じゅ……!? ほぼ丸一日以上じゃないですか! よくそんなにいられますね……」
「動き回っていると時間は早く過ぎていくものです。それに、私は初めてここに来たんです。情報がない時は心配で心配で……」
「え……。ち、ちなみに……ずっとひとりで?」
「えぇ。たまに他の囚人の方に会いますが、基本は私ひとりで行動してました」
真澄は絶句した。同時に、高村の事を冴えないただのサラリーマンと思っていたことを、心の中で何度も謝った。
経験した事のない空間に長時間いるという事は、精神的なダメージを最も負いやすい。ましてや真澄のような性格の者がひとりで行動していれば、数時間で気が狂ってしまうだろう。しかも周囲の状況をきちんと把握しようとするなど、簡単に真似出来る事ではない。
「す、すごいっすね……」
ただただ感服するばかりの真澄を見て、高村は首を大きく横に振った。
「いえいえ、君があの場に現れてくれなければ、私も危ない所でしたよ。さすがにずっとひとりでいるのは限界があります」
「そう、ですか……」
この過酷な環境に充分適応出来る能力を持ちながら、なおも謙遜する高村を見て、真澄は自分の器の小ささを痛感した。突然訳のわからない悪夢に閉じ込められたのは誰もが同じ事。なのに自分はただ怖がって慌てるばかりで、高村に教えてもらうばかりだ。
番像がいつ、どこから現れてもおかしくない状況――――言い換えれば、いつ死んでも不思議じゃないのだ。この塔では、自分のような存在は足手まといにしかならない。早死にするタイプに違いない。どうにか迷惑をかけないようにしなくては――――。
「…………、ん?」
しばらく静かにしていたせいなのか、真澄は遠くの方から聞こえるかすかな音を感じ取った。何かが床を叩くような音と、安定しない低めの音――人の声のようにも聞こえた。
「何ですかね。今の音……」
次第に大きくなるその音は真澄達な背後――つまり今まで歩いてきた方から聞こえてくるようだ。真澄が高村の方を見ると、先ほどとはまるで違う、緊迫した表情に変わっていた。
「高村……さん?」
「真澄君。いつでも逃げる準備をしてください」
高村の突然の言葉に、真澄はすぐに状況が飲み込めなかった。
「え、どういう……?」
「ここらへんは長い通路が続いていて、牢屋がありません。なんてタイミングが悪い……」
真澄は周囲の壁を確認した。確かに牢屋の入り口になる鉄格子は見当たらず、レンガがびっしりと組み上がった壁が続いているだけだ。
もしこの状況で、先ほどの番像に出くわせば――――――。
高村の考えている事がわかった途端、真澄の背中に寒気が走った。床を何かが叩いている音がいつの間にか、重い地響きに変わっている。その音を発生させているものを、真澄は先ほど間近に見ている。今までの事を考えて、他の何かだと想像する方が難しい。
「近い……。もうじき来ますよ……!」
ぐっと身構える高村に習い、真澄も姿勢を低くして音が聞こえる通路の先にある暗闇に目を凝らした。
気配はすぐ近くまで迫ってきている。心臓の鼓動音は真澄の耳の中ではっきりと聞こえる。そして二人の緊張が最高潮に達した時、巨大な動く石像は姿を現したのだった。
〔Chapter1、完〕