Chapter1-来栖友紀:投獄
ライトオアダークさんによる投稿です。
来栖友紀は、ほとほとうんざりし始めていた。
『やっぱりな――友紀、お前が仕向けたんだな!?俺を陥れるために!!何でだよ!!俺と友紀は友達じゃなかったのかよ!!何で、何でこんなことしたんだよ!!』
ピンク色の携帯電話のスピーカーから聞こえてくる、やけに騒々しい耳障りな声。何度も何度も同じ問いを繰り返してくる。いい加減に黙ってくれないのかと思うのだが、電話の相手にそのような素振りは微塵も無い。既に十五分は通話し続けているだろうか。アルバイトの時間もあるし、あまり朝の時間を無駄にしたくないのだが。それに、彼はただでさえ財布が危険な状態であるはずなのに、なぜわざわざこのような無駄な電話をかけてきて電話料金を浪費するのだろう。今の彼には僅かな電話料金も痛いはずだ。少なくとも、友紀には理解できなかった。とは言っても、わざわざそれを心配してやることもないだろうが。
電話の相手――友紀を糾弾する若い男性の声は、彼女にとってはあまりに聞き慣れたものであり、それと同時に今日初めて聞くような声でもあった。
いつも優しく穏やかな、温厚な人間の鏡のような人柄の彼が、こんな血気迫る剣幕でまくし立ててくるのを聞くのは初めてだった。 だが、そのような事態に遭遇するのはこれが始めてではないし、第一、友紀の心にはこの程度の出来事などでは驚愕の欠片さえ存在しうることさえあり得ないことではあるのだが。
とりあえず、そこまで必死に問いかけてくるのならば、答えてやるとしようではないか。それで満足ならば、彼も黙ってくれるかもしれない。友紀としては彼との交流はさっさと切りたいのだし、つき合ってやるとしよう。
相変わらず怒鳴り声で問いかけてくる男の声を遮るようにして、友紀は口を開く。
「だって、あなたはもう、私の"トモダチ"なんかじゃなくて、"敵"になったでしょ」
『はあっ!?何言ってるんだお前!?"敵"って何だよ!?俺がいつお前の敵なんかに――』
電話を切った。瞬時にスピーカーが口をつぐむ。
答えたのにまだ質問してくるなんて。彼はもう友紀の"トモダチ"ではないのだから、わざわざこんな忙しい時間に幾つもの意味のない質問に答えてやる義理など無いのだ。
沈黙した携帯を折りたたんで充電器にセットすると、このワンルームマンションにある唯一の壁掛け時計を見る。かわいらしい猫のキャラクターが沢山ついているデザインに惹かれて買ったものだ。今は製造どころか版権元の会社が潰れてしまったのが悔やまれる。 時刻は午前八時三十分だった。
――五分しか建ってない。十五分位は話してたと思ったんだけどなぁ
その直後に、充電器に挿入された携帯から、軽妙な着信メロディが流れ出す。
サブディスプレイを見ると、相手は先ほどの男だった。
時間の余裕は余りないのに、何故こうしつこいのだろう。
それに、彼だって暇ではないだろうに。
彼は友紀が押し付けた借金の返済に忙しいはずなのに。
鬱陶しいので携帯の電源を切る。
もう彼は友紀の"トモダチ"ではないのだから、ついでに電話帳から削除して、着信拒否しておくとしよう。こうも何度もかかってくると、煩くてかなわない。 そこまで考えたところで、ふと友紀の表情に暗い影が差した。
――私、また"トモダチ"を無くしちゃったなぁ……
もう慣れっこであることに間違いはないのだが、それでもこうして元トモダチの名前を削除するという行為はやはり少々こたえるものがある。その度に、やはりトモダチを無くすというのは間違いなく悲しいものであると友紀は再確認をするのだ。
だが、、どうやら世間の人間たちはそのような感覚を持っているわけではないらしい。何故だろう。ここまで胸が痛むほど悲しいのに、なぜ友紀とトモダチになった人間はこうもそろいに揃って自分を裏切るのだろう。トモダチを裏切るという行為に一切の罪悪感を感じていないように見えるのはなぜだろう。
それでも、先ほどの電話の彼とは続いた方ではあった。友紀もやっと"本物のトモダチ"を見つけられたと喜んだものだ。
だが、彼もまた友紀を裏切った。
――頼まれて買ってきたものが間違っていただけで、私に敵意を向けるなんて。
トモダチのはずなのに、彼はそんな友紀に怒りを向け、「いいよもう、俺が買ってくるから!!」などと言い放ったのだ。
トモダチの失敗を否定するなんて、にわかに信じがたい。
そんな人間、トモダチなどではない。
やはり、トモダチというのは裏切るものだ、と友紀は再認識する。
そして――裏切ったトモダチほど危険なものはない。一度気を許してしまったせいで、友紀はその人間に様々な情報――趣味、性格、信条、行動範囲、活動原理、金銭感覚、その他諸々――を与えてしまっているだろう。そんな人間が彼女を裏切ったのだから、これでは弱みを握られてしまっているようなものだからである。
そういった存在は、自分を裏切ったことがわかった時点で何とかして排除しておかないと大変なことになるのは自明の理だろう。トモダチを作るということはそういうことなのだ。
それでも友紀は、やはり友達が欲しいことには変わりがなかった。
――私もいつか、本当のトモダチが欲しいなぁ……
「まぁ、落ち込んでても仕方ないよね」
友紀は両手で顔をパンパンとはたいて気持ちを切り替えると、朝食の準備に取りかかった。戸棚の中からロールパンを、冷蔵庫からサラダと牛乳を取り出し、机の上に並べる。一緒に冷蔵庫からスクランプルエッグも取り出したが、これを冷たいまま食べるのも嫌なので、電子レンジへ突っ込んで適当に時間を設定して暖める。スクランプルエッグの載った皿がオレンジ色の光に照らされた。
卵料理を暖めている間に、友紀は世間の出来事を知るため、手早く机の上のノートパソコンの電源を入れる。下手にテレビでニュース番組を探してトップニュースを逃すより、インターネットでニュースサイトを見た方が手っ取り早いのだ。
ブラウザが開くのと電子レンジが音を鳴らすのはほぼ同時だった。机の上にスクランプルエッグの皿を持ってきてから、ロールパン片手にニュースサイトを開く。光通信に加入している恩恵か、ほとんど待つことなく画面に『報道X』の文字が表示された。
あまり時間があるわけではないので、気になったニュースだけをちらちらと覗いてゆく。「相変わらず政治家は」、とか「また殺人事件かぁ、物騒だなぁ」などとぶつぶつ呟きながら朝食を食べてゆく。特に面白そうな記事もないが、ある程度一般常識として知っておくべき記事は見ておくとしよう。
そうして適当に記事を見ていって、ちょうどスクランプルエッグを食べ終わり、残りは牛乳だけとなった頃だっただろうか。ふと友紀は奇妙なニュースを見つけた。記事の担当者は"新垣妙子"。
タイトルは――
「『世間を揺るがす怪奇!!謎の……"昏睡……病"』……?」
どうやら、世間では原因不明の昏睡状態に陥る人々が多発しているらしい。記事はその症状を"昏睡病"と呼び、なかなかセンセーショナルに報道していた。
記事によると、ある日何の兆候もなく、急に元気だった人が昏睡状態に陥ってしまうのだという。そしてそうやって眠り始めた患者は一切の治療や栄養の点滴を受け付けることなく、それから一週間以内には衰弱死してしまうのだという。患者の中には、ごく僅かだが一週間以内に目を覚ます者も居ないわけではないが、そういった人間は精神に異常をきたしたのか奇行に走る者や、再び昏睡状態に陥る者も少なくなく(記事によるとほぼ100%らしい)、最終的には例外なく衰弱死してしまうのだそうだ。原因は新型のウイルスとも某国が開発した細菌兵器とも囁かれているが、真相は定かではないらしい。
一度読み終わったところで、友紀は眉間に皺を寄せた。一見内容は荒唐無稽な三面記事に過ぎないように見える。だが、この記事を執筆した新垣という記者は、一見怪しくも確かな情報を伝えてくれるということである程度名を馳せているのだ。 そんな彼女が、こんな都市伝説のような情報ばかりを集めただけの記事を載せるのは珍しい。"次の特集では昏睡病患者が数多く入院しているという病院へ突撃する予定だ"と締めくくられているところから、彼女はこの話題について継続して取り上げてゆくようだ。
「ふぅん……昏睡病、ねぇ……」
少し色々と考え込んでしまったが、結局友紀は特に気にしないことにした。確かに興味深くはあったが、あくまでも信憑性は低そうだ。それこそ都市伝説程度に捉えておくのが正解だろう、と思う。
時間も時間だし、アルバイトへ出かけるとしようか。春休みで大学は暫く休みなので、これからしばらくはアルバイトに勤しむ毎日がやってくるだろう。何事もやっぱり初日は大切にしたい。
マンションのドアの鍵を閉めながら、友紀はふと思った。
――そうだ。私の"敵"を自由に昏睡病にできたら、苦労はないんだけどなぁ……
「いらっしゃいませー!!」
名前を聞いたら殆どの人が同じ内装を思い浮かべるような、全国チェーンのファミリーレストラン。その自動ドアの前で、ウエイトレスの制服に身を包んだ友紀は、にこやかに挨拶をした。
客は、自分と同じくらいの年齢であろう女の子が一人。一人でやってくるということは、やはり彼女もトモダチが居ないのだろうか。仲間だな、などと考えながらも手慣れた手順で客を座席に案内し、机にお冷やをことんと置くと、軽く注文の説明をしてから入り口へと戻る。
そうして友紀が再びホームの入り口付近へ戻ったところで、何者かにとんとんと肩を叩かれた。つられて振り向くと、"斎藤"という名の同僚がにやにやとこちらを見つめている。
「アンタ、彼氏と別れたんだって?」
――そういう話か。
友紀は小さくため息をついた。
「彼氏じゃないですよぉ、トモダチです」
「友達?あんなにべったりしてたのに?」
「トモダチなんだから当然じゃないですかぁ。――まぁ、今はもうトモダチなんかじゃないですけど、ね……」
「なになに?何が原因なの?やっぱり音楽性の違い?」
「それじゃバンドじゃないですかぁ」
「じゃあ何?何なの?」
――鬱陶しいなぁ。トモダチでもないのに、そんなに話しかけてこないで欲しい。
だが、斎藤は友紀の先輩だ。年齢でもアルバイト歴でも大学でも、彼女は友紀より先に在籍していた。だから、無碍にするわけには行かないのだ。ちなみにこの先輩、まるで口から生まれてきたようにおしゃべりなのだ。接客していないときはいつも話しているのではないかと思うほどに。
――まぁ、でも裏切りを心配しないでいいんだから、そう考えたら逆に話しやすいかもしれないけど……
そんなことを心の中で考えていることなど微塵も表に出さずに、友紀は斎藤の問いかけににこやかに応じる。
「相手にとってはちょっとしたことかもしれないんですけど、私にとっても許せないことがあったんですよぉ」
「へえ、じゃあアンタが振ったんだ!?」
「だから付き合ってなんてないですってばぁ!!」
正直彼のことについては話題に出されるだけでも不快なのだ。まぁ、そんなことを口に出せるわけがないが。その辺りはきちんと友紀も弁えている。
「ふぅん」
何だか納得してないような顔だが、斎藤はそれ以上突っ込むようなことはなかった。実にありがたいことだ。
と、そこで友紀は不自然なことに気がついた。
「あれ、斎藤さんって今日シフト入ってましたっけ?今日は確か勅使河原さんだったと思いましたけど」
そう、今日は第三火曜日。今日は斎藤の代わりに、なぜファミリーレストランでアルバイトしているのかわからないくらいの内気な人、勅使河原のシフトが友紀のホールと重なるはずなのだ。
「あぁ、そうそう。ウチ今日はガワラちゃんの代わりに来たんだけどさ」
そのことを問いかけた瞬間、斎藤の声色が奇妙なものへと変わった。どこか押さえているような、どこか疑っているような、けれどもどこか恐れているような、そんな声色に。
「代わり?勅使河原さんに何かあったんですか?」
ほとんど見ることのない斎藤のそんな表情に違和感を感じ、友紀は訝しげな顔で問いかけた。すると、
「そのことなんだけどね……」
そう前振りして、斎藤は内緒話をするかのように友紀の耳に口を近づけた。
口元へ手を当てて、小さな声で囁く。
――どうやらガワラちゃん、噂の"昏睡病"らしいよ……
「それって!?」
友紀は驚いたあまり、つい大きな声を出してしまいそうになった。慌てて口を押さえてボリュームを絞る。
それにしても、なんとタイミングの良い話題だろうか。
"昏睡病"。
朝見たあの記事で、語られていたものだ。
原因も理由も分からず、ただ急に人間が昏睡状態に陥り、その果てに衰弱死へと至る、正体不明の奇病……らしい。
身近に、実際に発症している存在があったとは。
今得た情報もあくまで噂に過ぎないのにも関わらず、どこか一気にあの記事の信憑性が増した気がした。
「それからさ――まぁ、嘘だとは思うけど、友紀りんも気をつけた方がいいよ」
「え?何をですかぁ?」
あまり動揺し過ぎると斎藤にからかわれるかもしれないので、少々とぼけた感じで聞き返す。だが、その内心は驚愕一色に染まっていた。
そんな友紀の本心を知ってか知らずか、斎藤は更におかしな噂を彼女に伝えてきた。
「昏睡病に懸かった人と関わると、自分も病気に懸かる可能性が天井破りに高くなるらしいから、ね……」
その日のシフトが終わってもなお、友紀の頭からは"昏睡病"の噂が離れなかった。
それは、実に奇妙な感覚だった。実に恐ろしい噂であるはずなのだが、彼女の胸に去来するのはそういった感情ではなく、どこか感情が高ぶってくるような、胸が高鳴るような、そんなたぐいの熱い感情だった。
それは――
それは、どこか"期待"に似ていた。
「ただいまー」
マンションの自室のドアを開けながら、友紀は空っぽの部屋の中へ呼びかけた。彼女が一人暮らしである以上、帰宅の挨拶をしたところで誰かの返事が帰ってくるわけがないのだが、これは友紀の子供の頃からの癖だった。いつでもきちんと挨拶すれば、両親が偉いと誉めてくれたものだ。
両親が教えてくれたことは、一人暮らしをしている今になっても友紀の毎日の中にしっかりと息づいているのだ。
玄関のすぐ隣に備え付けられている姿見に、彼女の姿が映る。それは160センチには届かないほどの高さしかないにも関わらず、少し踵の高い靴を履いている友紀の全身を欠けることなく映していた。 肩にかかるダークブラウンの髪に、お気に入りのオレンジのニット帽。シンプルなデザインのスウェット生地のトレーナー。太ももの中程までのホットパンツに、黒いストッキング。そんな服装からも分かるように、友紀はそこまでおしゃれに気を使う方ではない。だが、友紀の宝石のように大きくて円い瞳と子犬のように低い鼻、そして薄い唇は、彼女に美少女とまでは言わずともなかなかのかわいらしさを与えていた。
その容姿と甘い声も相まってか、来栖友紀の周りには自然と多くの人々が集まってくるのだった。そして友紀もそんな人々に対して気さくに接するので、彼女の人気はなかなかのものだった。
だが、彼女に友達は一人もできなかった。いや、友達にさせてくれなかった、と言った方がより正確だろう。彼女の持つ、実に独特な"トモダチ"観――それがどこか皆と友紀の間に見えない壁を築いていたのだ。
ごく稀に、そんな彼女の壁を破る者もいた。そんな"トモダチ"を見つけると、友紀はこれ以上ないほどに喜び、それこそまるで恋人にでもなったかのようにべったりとくっついてゆく。
だが、それも長くは続かない。ほんの僅かな――例えば、ぶつかっても謝らなかった、自分のしたいことをさせてくれなかった、とても小さな約束を破っていた――そんな、相手が殆ど気づかないような些細なきっかけで、友紀は"トモダチ"が裏切ったと判断するのだ。
その後はどうなるか――それは言うまでもないだろう。
だが、"あのようなこと"をしているにも関わらず、未だに彼女の周りから人々の陰が消えてなくなることがないのは、ひとえに彼女の魅力のなせる業であるといえよう。
だが、一番の理由はそこではなく、ただ単純に彼女の周りに残った人々では来栖友紀の"トモダチ"たりえず、単なる"話し相手"にしかなり得なかったことにあった。
過剰に親しくならなければ、たとえ友紀を刺激してしまったところで、過剰に反応されることはないのだから。
そして、その程度の人間の内では、友紀の"本性"を知っている者から警告を受けたところで、その話を信じる者は少なかった。
友紀は適当に靴を脱いで部屋に上がると、ソファ代わりに使っている大きな熊のクッションにぼすっ、とその身を預ける。そのままだらーん、とその体を伸ばして、小さくため息をついた。
「ふぁぁぁ、疲れたぁ……」
いつもと違い、まるまる一日のアルバイトだったせいか、今日は妙に疲れていた。何だか全身が石のように重い気がする。だるい。だが、そうやって倒れ込むと同時に、お腹が食べ物を求めて悲しげな鳴き声を漏らした。
「お腹空いたなぁ……」
どうせならコンビニやスーパーで惣菜でも買ってきておけば良かった。最後に大きな皿をを割るという失態をやらかしたために、帰宅時間は既に九時を過ぎていたのだ。
「うん、今日はお弁当で済ませよっと」
そう決めたのなら即行動だ。近所のスーパーに行くとしよう。半額とまではいかなくとも、この時間なら少し安くなっているものもあるだろうし。
重い体を押して体を起こすと、財布の入ったハンドバッグをつかんで立ち上がる。
そうやって、再び出かけようと、マンションのドアを開いた瞬間だった。
「友紀……ちゃん……」
「ひゃっ!?」
不意に、廊下側から部屋へ友紀を押し倒すようにして、何か重いものが倒れかかってきた。
人だった。
「てっ、勅使河原さん!?」
倒れかかってきたのは、"昏睡病"に懸かったと言われていた友紀の同僚、勅使河原だったのだ。
「友紀……ちゃん……たす……たす……けて……」
友紀の上にだらりと倒れたままもがく勅使河原に只事ではない様子を感じ取った友紀は、驚いて矢継ぎ早に問いかけた。
「何ですか!?何かあったんですか!?」
「たす……けて……たす……けて……」
「一旦どいてください!!落ち着いて話しましょう!!」
「友紀ちゃん……助けて……」
「分かりました!!分かりましたから、一旦どいてください!!」
「ゆ、友紀ちゃん――」
「あーもう!!」
話が通じない様子の勅使河原に苛立ちが溜まった友紀は、右手と両足で払いのけるようにしてその重い体を隣へと転がした。
やっと重さから解放された友紀は、改めて勅使河原の様子を観察する。
酷い有り様だった。
友紀の記憶では艶やかな短髪だった勅使河原の黒髪は、今では荒れ地の枯れ草のように無秩序に茫々と延びている。その髪の中に隠された落ち窪んだ眼窩は、まるで中身が入っていないかのように闇の中へ沈んでいた。皮膚はまるで老人のように色あせ、しみだらけだった。もはや知り合いでなければ男女の区別もつくまい。
「友紀……ちゃん……出して……出して……」
――出して?どういうこと?
勅使河原が何度も呻く声に、奇妙な単語を聞き取った友紀は、その意味を問うために口を開く。
「…………」
開け、なかった。
いつの間にか、体が先ほどの比ではないほどの重圧に包まれていた。手足の上にコンクリートの塊を幾つも乗せられているかのような、そんなとてつもない重さだ。自らのの意志ではびくりとも動かせない。
――いや……違う。
自らの手足が友紀の意志を受け付けないのではない。意志の力で手足を動かせないのだ。
意識が。
はっきりしない。
全身に力が入らず、ゆっくりと折れ曲がった膝が延びてゆく。それに併せて友紀の背中が壁をこすり、視点がどんどん下がってゆく。
玄関の床の上に、崩れ落ちてゆく。
視点の位置も定かではなくなってきた。
視界がぼやける。
重い。
重い。
瞼が。
まるで。
石のように。
重い。
眠い。
眠い。
眠りたい。
起きられない。
いいや。
もう。
寝ちゃ。
え。
ね、
む、
い。
そうして、
来栖友紀は、自らの意識を手放した。
意識が消えるその刹那、頭の中で、いつしか聞いた斎藤の言葉が響いた。
――昏睡病に懸かった人と関わると、自分も病気に懸かる可能性が天井破りに高くなるらしいから、ね……
何か、冷たいくて硬いものが頬に触れている。
ひどく体が痛かった。上手く全身に力が入らない。
「んっ……」
力ずくで重い瞼をあける。
眩しさはなかった。
それどころか、まともな電灯すらも灯っていなかった。ぼやけた視界に入ってくるのは、むしろ光に慣れない今の目には心地よいほどの幽かな光。ゆらゆらと揺らめくその仄かな橙色の光は、それでも確かに照明としての役目を果たしていた。砂袋のようになった体を何とか持ち上げ、体を起こして周囲を観察する。
その両眼が、驚愕に押し広げられた。
「こ、ここは……!?」
その場所を一言で表すならば、"地下牢"であった。
先ほどまで感じていた堅くて冷たい感触は、足下に敷き詰められた石畳によるものだった。沢山の不揃いな岩が、地面へと埋め込まれている。それは大きさに全く画一性が無いにも関わらず、あたかもパズルのように精密に組み合わされ、爪が入り込みそうな隙間すらない。本来では灰色であろうそんな岩達は、橙色の照明を受けてほの赤く染め上げられていた。壁は無造作に積み上げられた、古ぼけた赤い煉瓦で構成されていた。縦と横に交互に積み上げることにより、より堅牢さを増す"フランス積み"である。その壁の中程、友紀の身長より頭一つ高い位置に縢籠が埋め込まれており、その中で松明か煌々と燃え上がっていた。この部屋を照らし出す照明の光源はそれだろう。その橙色がただでさえ臙脂色である壁の煉瓦を照らし上げ、乾いた血のような色合いを浮かび上がらせていた。
部屋は精密な正方形。天井の高さは目測で3メートルほどだろうか。床と同じ、石のパズルで築かれている。三方は煉瓦の壁に囲まれ、残りの一方には――これが、この部屋に"地下牢"という印象を与えた一番の所以だ――色あせながらも磨き抜かれた、鋼鉄の鉄格子がはめ込まれていた。
鉄格子の先には、この部屋と同様な材質で構成された廊下が延びている。幅自体はこの部屋と殆ど変わらないが、天井は倍以上はありそうだった。それは左右に等間隔で並べられた篝火の光も届くことはなく、闇の中へと消えている。そして廊下自体も松明の光程度ではあまりに暗すぎるのか、5メートル程度先より奥は視認するのが難しくなっていた。
部屋側から数えて一番目と二番目の松明の間には長方形に煉瓦がくり抜かれていおり、そこに緑色のプレートが埋め込まれている。その表面に刻み込まれた"38-N"という文字は、どうやらこの廊下の位置座標を表すようだ。
一通り部屋の様子を観察したつもりだが、部屋の薄暗さのせいかどうにも見落としがあるように感じてならない。少し立ち上がって辺りを見てみるとしよう。
そう考えた友紀は、自らの体を起こそうとする。
そして、彼女の足に何か布袋のようなものが乗っていることに気がついた。
「っ!?」
勅使河原だった。死体のように床にだらりとと横たわるその姿を見て、ぼやけていた友紀の頭の中へ一気に冷たい風が吹き抜ける。この奇妙な空間で目を覚ます直前までの記憶が、彼女の脳内を走馬灯のようにフラッシュバックする。
空腹。ハンドバッグ。マンション。ドア。勅使河原。「出して」。重圧。そして、猛烈な睡魔――
だが、それは結局友紀に混乱をもたらすものに過ぎなかった。
ここはいったいどこなのだろうか。間違いなく自宅のマンションではないことは確かだ。眠ってしまっている内にどこかへ拉致されてしまったのだろうか。
否。そんなことは有り得ない。
もしも拉致されたのが友紀だけならば心当たりは多い――元トモダチは全て"敵"になってしまっているからだ――が、勅使河原も連れて行く理由が見あたらない。それに体に緊縛されているような様子もない。第一、現代日本にこのような牢獄が存在することすら疑わしいものだ。
何か情報が得られないかと、友紀は勅使河原を放って置いたまま辺りを見回す。と、やはり見落としがあったのか、背後の壁に黒光りする何かが埋め込まれているのを発見した。
粗い表面の煉瓦とは対照的な、つるりと艶のある表面。サイズは窓ガラス一枚分だろうか。そういえば、材質がガラスにも見えなくはない。
――ガラス?
ふと、友紀の頭に一つの考えが浮かぶ。
ここは牢獄。
扉は閉まっている。
そして、壁にはガラス。
――ならば、砕くしかあるまい。
ありがたいことに、出かける前に持って行ったハンドバッグはすぐ傍らにあった。キーホルダーとして取り付けてある万能ナイフからコルク抜きを取り出すと、握り拳で掴み、勢いをつけるために数歩後ずさった。
その足を、陶器のごとく冷たい勅使河原の右手が掴んだ。
「ひゃっ!?ちょ、勅使河原さんっ!?」
その不意打ちに驚いて尻餅をついてしまった友紀は、勅使河原へと非難の言葉を浴びせる。
「やめてくださいよもう……びっくりしたぁ」
だが、勅使河原は友紀のそんな声も耳に入っていないのか、彼女の言葉を遮るようにして口を開いた。
漏れたのは、掠れ果てたかすかな声だった。
「割っちゃ……いけない……見て……読んで……」
「読んで?」
友紀がそう怪訝そうに聞き返したとき、急にその部屋が、松明の炎とは別の光によって明るく照らし出された。
あのガラスが、白色の光を放っていた。
まるで、パソコンのモニタだ。いや、サイズとしてはテレビの方が近いか。
そこへ、まるで炙り出しのようにじわじわと、漆黒の文字が浮かび上がる。
――[ようこそ、夢の牢獄へ]
「夢の、牢獄?」
そう呟いた友紀の言葉に答えるように、モニタ上の文字が変化する。
――[貴方達はこの夢の牢獄「夢之塔」に囚われた哀れな囚人です]
たった一つの文章に含まれる数少ない単語。その一つ一つが、友紀の頭へと衝撃を走らせる。
夢、牢獄、囚人――そんな、モニタから与えられた言葉。それと、"昏睡病"、衰弱死、「助けて」――今日聞いた、いくつかの言葉。友紀の頭の中で、微かに引っかかる程度に過ぎなかったそれらが、まるで糸のように一本の線で繋がり、大きな意味を成してゆく。
そしてそれを決定づける、最後の文字列がモニタに表示された。
――[このまま死ぬまで閉じ込められるのも自由ですし、ここから逃げ出すのも自由です]
何の装飾もない、簡素な文章。だが、それは友紀が結論を出すには十分すぎるものだった。
昏睡病――それは即ち、夢之塔に囚われること。 死ぬまで閉じ込められる――それは即ち、現実世界における衰弱死を意味し。
そこから脱出せんと――勅使河原は友紀に助けを求めてきたのだ。
実に奇妙な夢だと思った。現実と考えるにはあまりに荒唐無稽で馬鹿馬鹿し過ぎるが、だからといって友紀本人が頭の中で構成したものだと考えるには、足元の石畳の感触や炎の揺らめきがあまりにも現実的すぎる。
消去法の論理で判断するのは実に愚かなことだが、今の友紀にはモニタの言葉を正しいと判断するしかなかった。
そこで、ふと気がつく。
自分に助けを求めてきてくれる――もしかしたら、勅使河原は友紀にとって、トモダチとなるに値する存在かもしれない、と。
トモダチならば、助けなければならない。何としても勅使河原を、この夢之塔から、この悪夢から助け出してやらねばならない。
――そうすれば、その暁には……
そう友紀が決意した直後、モニタの言葉がさらに変化した。
そして、最後の一文を表示する。
――[ただし、逃げる際には番像にご注意を]
友紀がその文章を読み終わった直後、モニタはぷつりと音を立てて消灯した。
番像。モニタに表示された文章である以上、その情報はこの夢の中では"現実"なのだろう。だが、手に入れた情報はあまりにも少なすぎる。よく分からないが、その"番像"などという「ご注意」する必要があるものが存在する以上、ここから動く前にできる限りの情報は手にしておきたい。それに、未だに不明なことが多すぎる。
ならば、先にこの夢之塔について知っていた勅使河原に質問するしかあるまい。
「あの、勅使河原さん」
友紀の声に、勅使河原は微かに頭を上げた。その衰弱した手を握りしめて、友紀は優しく声をかける。
「あなたは私が助け出してみせます。
だから、そのためにもこの牢獄について知っていることを教えてください」
「ほん、とうに……?」
「はい。だから教えてください、この塔の仕組みとか、造りとか、」
この時、友紀はまだ新たなトモダチができるのではないかという期待に陶酔していた。だが、もし彼女がそのような状況でなかったとしても、ひいては尋ねたのが栗栖友紀ではなく他の誰かであったとしても、当然のように次のような質問をしただろう。それはあのモニタの文字を読んだ者ならば当然抱く疑問であったろう。
だから、友紀は尋ねた。
「それから、"番像"っていうのについても」
刹那、勅使河原の表情が劇的に変化した。どこかぼんやりと、ただ抽象的なものとしてその容貌を取り巻いていた恐怖が、その瞬間に明らかな具体性を持ったものへと変質した。
「番……像ッ!!」
「……どうしたんですか?」
「番像……ッ!!嫌だッ!!嫌だッ!!まだ!!まだ死にたくないぃぃぃ!!」
両眼を見開いて、両耳を押さえて、歯をがちがちと打ち合わせて、叫ぶようにして勅使河原は立ち上がる。
「ちょっ!?」
友紀が引き留める間もなく勅使河原は転がるようにして走り出した。そのまま部屋の入り口へ――鉄格子の方へ走り出す。
勅使河原は鉄格子に体当たりするようにしてぶつかり、そのまま廊下へと転がり込んだ。果たして、鉄格子には鍵がかけられていなかったのである。
「待ってください!!どこ行くんですかっ!?」
「嫌だッ!!嫌だぁッ!!」
一度も振り向くこともなく走りつづける勅使河原の後ろを、友紀も慌てて追いかける。先ほどまでは二つの息づかいのみであった石造りの廊下に、けたたましい靴音が鳴り響く。
走る。走る。走る。追う。追う。追う。数多の曲がり角を曲がり、幾多の廊下を駆け抜ける。勅使河原の錯乱した叫声が、つんざくようにして友紀の耳に突き刺さる。
どれだけ追いかけただろう。友紀にはまるで、この追跡劇が永遠に続くように思われてきた。
だが、終わりは唐突に訪れた。
友紀の視界の奥で、勅使河原の背中が曲がり角へと消えた直後、その足跡が不意に消滅した。それどころか、曲がり角からその姿が後ずさりしながら現れる。
その不自然な動きに、友紀はとっさに身を隠した。すぐ右隣にあった小部屋の鉄格子の鍵もまた、かけられていることはなかった。
自らの小さくも荒い息遣いと、勅使河原の震えながら後ずさる足が生み出す靴音。
それに、新たなもう一種類の音が加わる。
――ズン!!ズン!!
大太鼓を叩き鳴らすような、鉄槌を地面に叩きつけるような、体の奥までも響き渡る重厚な音。しかしそれは当然ながらそのいずれかでもないことを、すぐに友紀は知ることとなった。
その巨体は、ゆっくりと、おもむろに、だが唐突に現れた。
端的に言えば、それは岩塊だった。
確かにその岩は人の形をしていた。そのような形に彫刻されていた。明確な胴体があり、両腕があり、両足があり、頭があった。両腕両足にはきちんと五本の指が存在し、顔には唇も、鼻も、明確な形で彫り込まれていた。
だが、その造りは、外見は、あまりにも規格外で、乱暴で、暴力的だった。両足は友紀が写真で見たことのあるどんな大木よりも太く、精巧に彫り込まれた筋肉はどんな格闘家よりも強固で剛健だった。両腕もまた、足に勝るとも劣らぬほどの硬質さと堅牢さを備えていた。右腕に握られた棍棒はそんな腕ですら満足に扱えるか疑問に思えてくるほどの暴力性と巨大さを誇る。そのような引き締まった手足に反し、その腹部はでっぷりと肥満していたが、それは最早鎧じみた迫力を放ち、この岩塊の迫力を増大させる役目を果たすのみだ。身長は五メートルを遥かに越えるだろう。その頭部は廊下の松明が照らせる範囲を超える高みに存在し、大まかな形しか視認できない。それでも確かにその顔には一つの眼窩が彫り込まれており、その単眼が鮮血のごとく深紅の光を放っていた。
その姿は北欧神話の森の精トロル――いや、ギリシア神話に登場する製鉄の神、キュクロプスを連想させた。
間違いない。
あれこそが、
モニタの文字が語っていた、勅使河原が恐れていた、
番像。
「ひっ……」
その単眼の深紅の輝きが、暗殺者の狙撃銃のレーザーサイトのごとく勅使河原の喉を捉え。
そして、番像がゆっくりと棍棒を持ち上げ。
彼女が断末魔を上げる間もなく。
友紀がその意味を理解する時間もなく。
番像はただまっすぐに。
その棍棒を、振り下ろした。
皮膚が破れる音。肉が潰れる音。血管が裂かれる音。神経が引き千切られる音。内臓が挽かれる音。骨が砕ける音。血液が飛び散る音。――さらに言えば、石畳が割れる音。
その全ての合成音が、全く同時に牢獄の中へ響きわたった。
純然なる破壊音にして純正なる暴虐音が幾重にも幾重にも折り重なり積み重なり併せ重なり、ただ"死"と"破壊"という命題を果たすためのみに、残虐と背徳と陵辱との盛大なユニゾンを奏で上げていた。
そのまま番像は、牢獄の中へ隠れている友紀へは、一瞥をくれることすらなく身を翻す。そしてその破壊の化身は、再びそこ知れぬ闇の中へと消えていった。
そして。
かつて勅使河原という名の生きた人間が存在していたはずのその場所には、単なる皮膚と、単なる肉塊と、単なる管と、単なる線と、単なる骨粉と、単なる液体と、単なる瓦礫が入り混じった、ただ一つの混合物しか、残されてはいなかったのである。
ほんの三十秒にも満たない、ごく僅かな時間の出来事であった。
栗栖友紀はその一部始終を余すことなく見つめていた。
番像が勅使河原だけを破壊――そう、"殺す"などという言葉で表現するにはその行為はあまりにも粗暴すぎる――し、友紀に一瞥もくれなかった理由は明白である。番像は牢獄からの逃亡者を排除するために存在しているのだから、牢獄の中に居る人間は存在すら認識されないのだろう。
友紀に安堵はあれど、悲しみはなかった。勅使河原はまだトモダチになれてはいなかったのだから、たとえ無惨に死んだところで別段悲しむこともないだろう。それよりかはあの足跡が聞こえてきた際にとっさに牢獄へ隠れた自らの判断を賞賛すべきだ。あまり当てにしている訳ではなかったが、直感というものもなかなかどうして役に立つものだと実感する。
それにしても。
現実世界ではトモダチになどなれるはずがないと考えていた勅使河原にあのような気持ちを抱いたことに、友紀は内心驚きを隠しえなかった。
一体何が、彼女の心を動かすファクターの役目を果たしたのだろうか。
考えるまでもない――この牢獄だ。
人間は極限状況に陥ると、必然的に他の人間との繋がりを本能的に求めるという。人間は単独では生きてゆけないという、その本質の証明である。そのため、戦場や死地、そして閉鎖空間といった場所では恋や友情が芽生えやすいのだそうだ。
そう。"友情"――即ち、トモダチができるのである。
友紀の胸の中で、爆発的に期待という感情が大きく膨れ上がってゆくのを感じた。
この極限状況の中でなら。
この夢の中でなら。
この牢獄の中でなら。
この"夢之塔"の中でなら。
薄暗い閉鎖空間の中に暴虐の限りを尽くす番像が闊歩する、この牢獄の中でなら。
命が現実よりも遙かに軽くなる、この夢の中でなら。
――きっと私は。
――本当の"トモダチ"を見つけることができる。
そうして友紀は、部屋から廊下へと飛び出した。
昏睡病の噂の広がり方を考えれば、この牢獄の中には間違いなく数多くの人間が居るはずだ。
だから。
番像の気配がないことを確認して、廊下を奥へと歩き出す。
その顔に、満面の笑みを浮かべながら。
勅使河原だった物体を、意に介することなく踏み越して。
栗栖友紀はトモダチを探して歩き出す。
――栗栖友紀、参入。