失敗学からみるポンチ絵の必要性
近頃「ポンチ絵」と言えば、政府官僚が描く字と絵がごちゃっとしているプレゼンテーション資料を思い浮かべる読者も多いと思うのだが、そもそも「ポンチ絵」というものは、工学の分野で概念をささっと描くためのスケッチのことである。 例えば、機械設計の分野では、設計者がアイデアを素早く示すために、CAD などで清書するために手書きでスケッチを書いたのが始まりである。機械工学の分野でもソフトウェア工学の分野でも、最初の概念をうまくまとめるのが重要になってくる。頭の中に思い浮かべたものを「言語化する」という云い方もすることがあるが、それほど言語というのは自由ではない。のちに UML(Unified Modeling Language)などのモデリング自体を「言語」ということもあるのだが、ヴィトゲンシュタインの言う言語化(正確には前期と後期とは異なるのだが)では、前期において「言語」を使うことによって思考の限界を決定づけてしまう、という云い方もできるだろう。
それを脱するためにも、まだ言語化されていないものを「ポンチ絵」としてあらわす。思考としてぼんやりとしたものを、ざっくりとしたスケッチで表すとよい。ヴィトゲンシュタインの後期によれば、この「ポンチ絵」も言語化の一種といえる。そのあたりは、「ヴィトゲンシュタインの思考」というものをどちらを示すかという、まさしく「言語化」によるものなのだが、それは伝達の齟齬というものだろう。筆者の頭と読者の頭は同一ではない。そこにはコミュニケーションというものが存在する。媒介というものだ。当然のことながら、失敗学の畑村洋太郎氏の言う「ポンチ絵」という言葉そのものも、伝達のひとつとして存在する。
いや、まあ、そんな難しいことを考えなくても「とりあえず、頭に浮かんだものを書いてみれや」というのが畑村氏の心情であろう。
さて、官僚の描く「ポンチ絵」と機械工学の「ポンチ絵」にはどこに共通点が見いだせるだろうか。さらに言えば、明治時代に流行ったパンチという雑誌の挿絵も「ポンチ絵」と言われることもあり、さまざまな「ポンチ絵」が氾濫してしまうのである。言葉が発せられたそばから、その定義をすり抜けるのである。つまり、それが「ポンチ絵あるもの」と「ポンチ絵とは微妙に異なるもの」に分かれるのである。いわゆる「ポンチ絵」と「ポンチ絵'」(ぽんちえだっしゅ)という奴である。ダッシュが付くと哲学の分野ではちょっと違う、という意味になるのだが、数学の世界では微分という意味もついてしまう。それが言語化の限界であり、あるいは言語化された途端に意味がすり抜けるという現象ではある。では、すり抜けないようにするためには、どうすればいいのか? という解決策として、実は日本には「中空構造」という便利な構造を持っている。
中空構造というのは、いわゆる、真ん中が空白になっていて、まわりが真ん中の穴を示すようなドーナッツのようなものである。ドーナッツの穴は、まわりのドーナッツの生地があるからこそ、ドーナッツの穴であって、ドーナッツの穴そのものが存在するわけではないのである。ためしに、ドーナッツの穴だけ残してドーナッツを食べてみたまえ。きっとできない。ドーナッツを食べてしまえば、途端にドーナッツの穴も消えてしまうのである。逆に言えば、ドーナッツの穴だけを食べるのは難しいとうことだ。周辺にドーナッツの生地と穴とは一体の関係でありつつも、穴自体は捉えようがなく穴を示しているのはまわりの生地であるという相補の関係にある。
一般的な日本人が親しんでいる「禅」の思想がこれに近い。というか、これそのものなのである。「禅」そのものを指し示すことはできない。しかし、禅の思想や教え自体はあるものだから、その周りの行為や言動で「禅」そのものを表すのである。この場合、行為は言葉はドーナッツの生地のようなものだ。座禅を組むとか、禅寺の掃除をするとか、そういうのが禅の生地にあたるようなものだ。だから、座禅自体が禅そのものとは言えない。しかし、座禅は禅をあらわすために必要不可欠なものと言えるのである。
これを「ポンチ絵」に当てはめてみよう。
実は、ポンチ絵そのものは発想そのものを表しているわけではないのだ。ちょっとしたいたずら書きであったり、説明のための詳しい資料であったり、風刺画であったりする。それらの実在する「ポンチ絵」の集団は、実際には真ん中にある「ポンチ絵」という概念そのものを示す生地となっていることがわかるだろう。なによりも、ポンチ絵そのものの本質を、実際のさまざまなポンチ絵で表しているのが現状の混乱のもとと言えるわけだが、しかし、その混乱や派生などがなければ本質的な「ポンチ絵」も表せないという理論になる。
まあ、ぎゃくに言えば、ポンチ絵そのものを書かないと、頭に浮かんだ概念そのものが消えてしまうという意味でもある。ちょっとしたスケッチが機械工学で必要なのは、思い浮かべても忘れてしまうような概念を忘れないように記録するためでもある。その記録は、官僚の作るポンチ絵のように詳細を極めたとしてもすり抜けてしまうものではあるのだが、ポンチ絵としての記録が残っていなければ、思い浮かべたこと自体があったのかなかったのかということになってしまうので、ポンチ絵を描くのである。
そこで、話は失敗学へとつながる。
ひとびとは成功による栄光を掴むことができると信じている。美男が美女と結婚をする、資本家が巨大な財産を子孫に残す、スポーツ選手が金メダルを獲得する、企業が市場で成功を収める、などなど様々な成功例に世の中は溢れている。
しかしだ。世の中の成功例はたくさん残っているのだが、成功しなかった例は消え去ってしまうのが常だ。まさしく、失敗してしまったものは成功したものとは違って、のちの記憶あるいは記録として残されないからだ。伝記も作られないし英雄譚にもならない。ときには、ヒンメルの死後○○年として銅像も忘れさられてしまうかもしれないが、失敗は銅像すらも残らないのである。果たして、英雄の剣は抜かれなかったのだ。
過去の失敗を振り返るためには、礎となるための記録が必要となる。ときには、そんな拙いポンチ絵を残しておくことも歴史的には重要なことなのだ。それは若気の至りとかいうものかもしれない。しかし、そういう恥ずかしいかもしれないけど、今に至るまでの道のりとして最初のポンチ絵つまりは、失敗とも言えない記録を残しておいて今に生かしておくのが重要なことなのだ。
ハードボイルド漫画のアシスタントの何気ない言葉。
「へぇ、先生って、こんな恋愛漫画を描いていたんだ~」
「//////」
【完】
「技術の創造と設計」畑村洋太郎 著




