第二章
深夜、私は黒いマントを羽織り、屋敷の裏口から抜け出した。
月明かりだけを頼りに、使用人用の通路を進む。心臓が激しく打っている。
見つかれば、叔父は私を地下室に閉じ込めるだろう。
それでも、私は進まなければならない。
門番の詰所を避け、庭園の茂みを抜けて、屋敷の外壁に辿り着いた。
ここには、子供の頃に見つけた秘密の抜け道がある。
壁の一部が崩れていて、人一人がようやく通れる隙間ができているのだ。
私は体を滑り込ませ、外の世界へと出た。
自由だ。
久しぶりに感じる、制約のない空気。
私は王都への街道を目指して、夜道を急いだ。
屋敷から王都までは馬車で半日の距離。徒歩では丸一日以上かかる。
しかし、叔父の目を盗んで馬車を借りることはできない。歩くしかない。
幸い、満月が道を照らしてくれている。
私は父の形見のリュートを背負い、足を進めた。
一時間ほど歩いただろうか。
街道の脇にある森から、奇妙な気配を感じた。
殺気。
私は足を止め、周囲を警戒した。
だが、遅かった。
「動くな」
背後から、低い男の声。
冷たい刃が、私の首筋に当てられた。
「おとなしく金を出せ。そうすれば命だけは助けてやる」
盗賊だ。
この街道は比較的安全だと聞いていたが、深夜に単独で歩く女など、格好の獲物だろう。
「金なら持っていないわ」
私は震える声で答えた。
「嘘をつくな。その楽器、高そうじゃねえか」
男はリュートに手を伸ばそうとした。
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
怒り。
父の形見に、この汚らわしい手で触れさせるものか。
私は素早く男の腕を掴み、リュートを守るように体を回転させた。
「触らないで」
私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
男は舌打ちをして、今度はナイフを振り上げた。
「生意気な......」
その時だった。
闇の中から、銀色の閃光が走った。
キィン、という金属音。
男のナイフが弾き飛ばされ、地面に転がる。
「女に刃を向けるとは、随分と趣味の悪い真似をするな」
凛とした男の声。
月明かりの中、一人の青年が立っていた。
長身で、引き締まった体躯。漆黒のマントを纏い、腰には剣を帯びている。
月光を受けて輝く黒髪が、風になびいていた。
顔立ちは整っていて、まるで彫刻のように美しい。
だが、その目には冷たい光が宿っており、獲物を見据える猛禽類を思わせた。
「て、てめえ......」
盗賊は怯えた様子で後退りした。
「近衛騎士団の......」
「そうだ」
青年は剣を構えた。その動きには一切の無駄がない。
「王都への街道で盗賊行為とは、死にたいらしいな」
「ひっ......」
盗賊は悲鳴を上げて、森の中へと逃げ込んだ。
青年は剣を鞘に収め、私の方を向いた。
「怪我はないか?」
「ええ、大丈夫です。助けていただき、ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
「こんな夜中に、女が一人で街道を歩くなど正気の沙汰ではない。護衛もつけずに、どこへ向かうつもりだ」
青年の声には、明らかな叱責の色があった。
「王都へ......」
「王都? ここから徒歩で? 日が昇れば盗賊以外の危険もある。野犬、野盗の群れ、場合によっては魔物まで出る」
「でも、私には行かなければならない理由があるんです」
私は唇を噛んだ。
「お願いです。見逃してください。私は何も悪いことはしていません」
黒髪の青年は私をじっと見つめた。
その視線は鋭く、まるで私の心の奥底まで見透かすようだった。
「......名は?」
「クレアと申します」
「クレア。俺はアーロン。近衛騎士団第三部隊の隊長だ」
近衛騎士団第三部隊――王宮の警備を担当する、精鋭中の精鋭。
その隊長ということは、相当な実力者のはずだ。
「それで、クレア。お前が王都へ急ぐ理由とは何だ」
「それは......」
私は迷った。
この男に、本当のことを話すべきか?
だが、嘘をついても見破られるだろう。
それに、もしかしたら――彼なら、私を助けてくれるかもしれない。
「宮廷楽師の選考会に、出場したいんです」
「宮廷楽師?」
アーロンは少し驚いた様子だった。
「お前、貴族の娘か?」
「はい。バートン男爵家の......姪です」
「バートン......ああ、あの成り上がりの」
アーロンは顔をしかめた。どうやら、叔父の評判を知っているらしい。
「それで、なぜ夜中に家を抜け出す必要がある? 選考会への参加など、後見人に頼めば済む話だろう」
「後見人が、参加を許してくれないんです」
私は思い切って、全てを話した。
叔父が私を選考会に出さず、代わりに義妹を出場させること。
私を商人に嫁がせようとしていること。
そして、私には宮廷楽師になる以外、この状況から抜け出す術がないこと。
アーロンは黙って聞いていた。
「......つまり、お前は推薦状もなく、王都に行って何とかなると思っているのか」
「音楽院の卒業生なら推薦状なしで出場できると聞きました。
私は正式な卒業生ではありませんが、実力はあります。何とか、審査員の方々に直訴して――」
「無理だ」
アーロンはきっぱりと言った。
「宮廷楽師の選考会は、厳格な規則で運営されている。規則を破って出場を認めることなど、あり得ない」
私の希望が、音を立てて崩れていく。
「では......私は......」
「ただし」
アーロンは続けた。
「審査員の一人、グレゴリー卿は俺の知り合いだ
。事情を説明すれば、特例として実技試験の機会くらいは作ってくれるかもしれない」
「本当ですか」
私は顔を上げた。
「ああ。だが、条件がある」
「何でしょう」
「お前の実力を、今ここで証明してみせろ」
アーロンは腕を組んだ。
「口先だけの小娘を宮廷に連れて行くわけにはいかない。お前が本当に才能を持っているのか、俺が判断する」
私は頷いた。
「わかりました」
私はリュートを取り出し、月明かりの下で弦を調律した。
何を演奏すべきか。
アーロンを納得させるには、技術だけでは足りない。心を揺さぶる何かが必要だ。
私は目を閉じ、母の教えを思い出した。
「音楽とは、魂の言葉よ。技術は確かに大切。
でも、それだけでは人の心には届かない。あなたの魂を、音に乗せて届けるのよ」
私は指を弦に置いた。
そして、演奏を始めた。
それは母が生前、よく聴かせてくれた子守唄だった。
優しく、温かく、そして少しだけ切ない旋律。
月夜の下、リュートの音色が静かに響き渡る。
私は音楽に没入していた。
技術や規則など、全て忘れて。
ただ、心のままに奏でる。
すると――。
音符が、再び光の粒子となって宙を舞い始めた。
淡い金色の輝きが、私の周囲を包み込む。
それは蛍の群れのように美しく、幻想的な光景を作り出していた。
曲が終わり、私は目を開けた。
アーロンが、驚愕の表情で私を見つめていた。
「今の......何だ?」
「音花の恵み」
私は静かに答えた。
「音楽を、物質として具現化する力です」
「そんな能力が存在するのか......」
アーロンは光の粒子が消えた空間を見つめた。
「これは幻ではないな。確かに実体があった」
「はい。この力を使えば、音楽で様々なことができます」
私はそこで言葉を切った。
母の警告を思い出したのだ。
「この力を狙う者がいる」
もしアーロンが、この力を王宮に報告したら?
もし私が、ただの道具として利用されたら?
「......どこまでできる?」
アーロンは慎重に尋ねた。
「情報を集めることができます。昨夜、光の鳥を作って、選考会の情報を集めさせました」
「情報収集か。他には?」
「物を作り出すことも......少しなら」
私は手のひらに光の粒子を集め、小さな花を作ってみせた。
それは本物の花のように繊細で、淡い香りさえ漂わせている。
「驚いたな」
アーロンは花に触れようとしたが、途中で手を止めた。
「触れても構わないか?」
「どうぞ」
彼の指が花びらに触れる。
花は実体を持っていたが、やがてゆっくりと光の粒子に戻り、夜風に溶けていった。
「持続時間に限界があるのか」
「はい。私の集中力が続く間だけです」
アーロンはしばらく考え込んでいた。
「......防御や、攻撃にも使えるか?」
私は息を呑んだ。
「なぜ、そんなことを?」
「王宮には様々な危険がある。お前がその力で身を守れるかどうか、確認しておく必要がある」
アーロンの声は真剣だった。
「もしお前を宮廷に推薦するなら、俺には責任が生じる。
お前が危険に晒されたとき、その力で身を守れるのか。
それとも、常に護衛が必要なのか。それを知っておかなければならない」
確かに、理に適った質問だ。
「できます。でも、人を傷つけるようなことは――」
「人を傷つける必要はない」
アーロンは私を安心させるように言った。
「まず、防御だ。俺が何かを投げる。それを音花の力で防いでみせてくれ」
彼は地面から小石を拾い上げた。
「いいか、クレア。これから俺がこの石を投げる。それを防御の力で弾いてくれ」
私は頷き、リュートを構えた。
「準備はいいか?」
「はい」
「では――投げるぞ」
アーロンは予告通り、石を緩やかに投げた。
私は弦を弾く。
光の粒子が盾となって展開し、石を受け止めた。石はカツンと音を立てて地面に落ちる。
「よし。もう一度。今度は少し速く投げる。いいな?」
「わかりました」
二度目、三度目と繰り返す。
アーロンは段階的に速度を上げ、投げる角度も変えていった。
私はそのたびに、音花の盾で防いでいく。
「十分だ」
アーロンは石を置いた。
「次は攻撃だ。といっても、俺に向けて撃つ必要はない。あの木を狙ってくれ」
彼は街道脇の、枯れかけた細い木を指差した。
「あの木に、音花の力で何か当ててみせてくれ。どんな形でも構わない」
私はリュートを演奏し、光の矢を作り出した。
それは木に向かって飛んでいき――外れた。
「もう一度」
アーロンは淡々と言った。
「焦る必要はない。落ち着いて狙え」
二度目の矢は、木の幹をかすめた。
三度目で、ようやく命中した。
「よし。基本的な攻撃も防御もできることは確認した」
アーロンは満足げに頷いた。
「最後に一つだけ。俺が剣を抜いて構える。お前は防御の準備をしろ。俺はゆっくりと剣を振る。
それを防いでみせてくれ。ただ、実戦を想定した時、お前の力がどこまで対応できるか見たいだけだ」
彼は剣を抜き、私から三歩ほど離れた位置に立った。
「いいか、クレア。これは実戦ではない。訓練だ。お前が怖いと思ったら、いつでも止める。わかったか?」
「わかりました」
私は覚悟を決めて、リュートを構えた。
「では――行くぞ」
アーロンは予告通り、ゆっくりと剣を振り下ろした。
まるでお手本を見せるかのような、緩やかな動き。
私は演奏し、光の盾を展開する。
剣が盾に触れる。
キィン、という音。
光の盾は剣を受け止め、そして砕けた。
「今のでわかった」
アーロンは剣を鞘に収めた。
「お前の力は確かだが、まだ荒削りだ。訓練次第で、もっと強固な防御も、正確な攻撃もできるようになる」
彼は私の目をまっすぐ見た。
「クレア。お前の音楽には、確かに才能がある。そして、その音花の恵みという力は――極めて稀有なものだ」
「どういう......意味ですか?」
「宮廷楽師になりたいと言ったな。だが、お前の力はそれだけでは終わらない。もっと大きな可能性を秘めている」
アーロンは一歩、私に近づいた。
「王宮には、お前のような力を必要としている者たちがいる。近衛騎士団、王室魔導師団、そして――王自身もだ」
「それは......私を利用するということですか?」
「利用、か」
アーロンは少し考えた。
「そう聞こえるかもしれないな。だが、俺の提案はこうだ。お前を宮廷楽師にする手助けをする。その代わり、お前の力を必要とする時、協力してほしい。もちろん、強制ではない。お前が断れば、それで終わりだ」
私は迷った。
これは、取引だ。
私の力と引き換えに、選考会への出場資格を得る。
だが――
「もし断ったら?」
「お前を叔父の屋敷に送り届ける。近衛騎士として、夜中に一人で歩いていた貴族の令嬢を保護したという形でな」
それは脅迫ではなく、事実の提示だった。
私には選択肢がない。
いや――選択肢はある。
アーロンを信じるか、信じないか。
「条件があります」
私は覚悟を決めた。
「何だ?」
「私は誰かの所有物にはなりません。私の力を使うのは、私が納得した時だけです。それから――」
私はアーロンの目を見つめた。
「あなたは、私の秘密を誰にも漏らさないと約束してください」
アーロンは少し驚いた顔をした。
そして――笑った。
初めて見る、彼の笑顔。
それは月光のように冷たく、しかし美しかった。
「面白い。気に入った」
アーロンは手を差し出した。
「契約成立だ、クレア。お前の秘密は俺が守る。そして、お前は自分の意思で力を使う。それでいいな?」
私はその手を握った。




