第一章
「クレア、お前の音楽など二束三文の価値もない」
叔父の冷酷な宣告が、薄暗い書斎に響き渡った。
私は唇を噛み締め、バートン男爵――父の弟であり、両親の死後、私の後見人となった男――を見上げた。
彼の小太りの体躯は革張りの椅子に深く沈み込み、脂ぎった顔には侮蔑の色が浮かんでいる。
「しかし叔父様、宮廷楽師の選考会は――」
「黙れ」
バートンは机を叩いた。インク壺が揺れ、羽根ペンが転がり落ちる。
「宮廷楽師の選考会に出場するのはペトラだ。お前ではない」
ペトラ。叔父の後妻が連れてきた連れ子。
血の繋がらない義妹。
私より三つ年下の彼女は、今頃、豪華な居間で新しいドレスの採寸をしているだろう。
「ペトラ様は基礎すらまともにできておりません。あれでは選考会で恥をかくだけですわ」
私は必死に訴えた。両親が遺してくれた音楽の才能。
それは私にとって、唯一の誇りであり、この息苦しい屋敷から抜け出すための希望だった。
「恥をかく?」
バートンは鼻で笑った。
「お前のような小娘が何を知っている。ペトラには私が金と人脈をつぎ込んだ。著名な楽師を三人も雇い、最高級の楽器を与えた。それに比べてお前は? お前の両親が遺した楽器など、古臭い骨董品ではないか」
「それは――」
「黙って聞け、クレア」
バートンは立ち上がり、私を見下ろした。
「お前の父、私の兄は愚か者だった。
音楽などという不安定な道に人生を費やし、まともな財産も遺さずに死んだ。お前も同じ道を辿りたいのか?」
「父は王室楽団の首席奏者でしたわ。あなたには父の功績を貶める権利などありません」
私の声は震えていた。怒りか、悲しみか、それとも恐怖か。自分でもわからない。
「功績?」
バートンは嘲笑を浮かべた。
「兄が死んだとき、残された借金の額を知っているか?
高価な楽器、楽譜、音楽会への出費。全て私が肩代わりした。
お前がこうして屋根の下で暮らせているのは、誰のおかげだと思っている」
「それは......感謝しています」
私は言葉を絞り出した。この男に頭を下げるのは、ガラスの破片を飲み込むような苦痛だった。
「感謝しているなら、黙って従え。お前は選考会に出さない。
ペトラが宮廷楽師に選ばれれば、バートン家の名声は高まる。お前にできることは、大人しく良縁を待つことだけだ」
「良縁、ですって?」
「そうだ。先日、商人のウィルフレッドが興味を示していた。
五十過ぎの男で、妻に先立たれたそうだ。娘が三人いるらしいが、家政婦代わりにはちょうどいいだろう」
血の気が引いた。
ウィルフレッド。あの下卑た笑いを浮かべる肥満体の商人。
先日の晩餐会で、私の手を握りしめながら、妙になれなれしく話しかけてきた男。
「冗談でしょう? 私はまだ十九ですのよ。それに音楽の道を――」
「十九? もう十分適齢期だ。ペトラは十六だが、私は二十歳まで大切に育てるつもりだ。お前とは違う」
バートンは書斎の扉に向かって歩き出した。
「来週、ウィルフレッドと正式に話を進める。お前は覚悟しておけ。これ以上、私の慈悲に甘えられると思うな」
扉が勢いよく閉まる。
一人残された私は、膝から力が抜けるのを感じた。
壁に手をついて、なんとか立っている状態だった。
このままでは、全てが終わる。
音楽も、自由も、未来も。
いいえ。
私は奥歯を噛み締めた。
まだ終わらせない。絶対に。
私には、誰も知らない秘密がある。
叔父も、義妹も、この屋敷の誰もが気づいていない、私だけの力。
――音花の恵み。
音楽を、物質として具現化する能力。
幼い頃、母が亡くなる直前に教えてくれた。
「クレア、あなたには特別な力が宿っている。でも、決して他人に見せてはいけない。この力を狙う者がいるから」と。
母は何を恐れていたのか。当時の私には理解できなかった。
けれど今なら、わかる。
この力は、使い方次第で世界を変えられる。
音楽を武器に、防壁に、癒しに変える。
それは宮廷が、いや、王国全体が喉から手が出るほど欲しがる能力だ。
私は書斎を後にし、屋敷の最上階にある、私だけの小さな部屋へと向かった。
窓から差し込む夕日が、父の形見のリュートを照らしている。
古い楽器だが、手入れは完璧だ。
毎日磨き、弦を調整し、まるで生きているかのように扱ってきた。
私はリュートを手に取り、窓辺に腰を下ろした。
指が弦を爪弾く。
澄んだ音色が部屋に広がる。
そして音符が、光の粒子となって宙を舞った。
淡い金色の輝き。それは蛍のように部屋の中を漂い、やがて私の手のひらに集まってくる。
私は集中した。
音花の恵みの力を使えば、音楽を様々な形に変えられる。
今、私が必要としているのは――情報。
光の粒子が形を成す。それは小さな鳥の姿となり、私の指に止まった。
「行って。宮廷楽師の選考会について、全ての情報を集めてきて」
私は囁いた。
光の鳥は一度鳴き声を上げ、窓から飛び出していった。
この力があれば、叔父の妨害を乗り越えられる。
そして――。
私はリュートを抱きしめた。
宮廷楽師になる。必ず。
叔父にも、義妹にも、思い知らせてやる。
本当の才能を持っているのは誰なのか。
本当に価値があるのは誰なのか。
後悔させてあげるわ。
必ず。
翌朝、私は使用人用の階段を使って、こっそり食堂へ向かった。
バートン家の朝食は、叔父と義妹が優雅に過ごす大食堂と、使用人が集まる小さな厨房に分かれている。
私はもちろん、後者で済ませることを許されていた。
「おはようございます、クレアお嬢様」
厨房で働く初老の料理番、ノーラが深々と頭を下げた。
彼女は私の母が生きていた頃からこの屋敷で働いており、私にとっては数少ない味方の一人だった。
「おはよう、ノーラ」
私は小さく頷いた。
「今朝は簡単なもので構わないわ。パンと紅茶だけでいいの」
「それはいけません、お嬢様」
ノーラは心配そうな顔で言った。
「きちんと召し上がらないと、お体に障ります。少々お待ちくださいませ」
ノーラは温かいスープとベーコン、焼きたてのパンを用意してくれた。
「昨夜、バートン様の書斎から大きな声が聞こえました。また、お嬢様が......」
「ええ、叱られたわ」
私はスープを啜りながら答えた。
「宮廷楽師の選考会のことでね。叔父は私を出場させるつもりはないそうよ」
「そんな......」
ノーラは唇を噛んだ。彼女は言いたいことがあるようだったが、
使用人の立場で主人の決定に口を挟むわけにはいかない。
その葛藤が、表情に現れていた。
「仕方ないわ。ペトラの方が、叔父にとっては大事なのでしょう」
「しかし、お嬢様の方がずっと......」
ノーラの言葉が途切れた。
厨房の入口に、義妹のペトラが立っていた。
彼女はピンク色のドレスを着て、金色の巻き毛を肩に垂らしている。
顔立ちは整っているが、その表情には常に不機嫌さが漂っていた。
「あら、クレア。こんなところで使用人と一緒に食事? 相変わらず品がないのね」
ペトラは鼻で笑った。
「おはようございます、ペトラお嬢様」
ノーラが慌てて頭を下げる。
「おはよう、ペトラ」
私は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「あなたもご機嫌よう。今朝は早起きね」
「明日から選考会の準備で忙しくなるから、今日は新しいドレスを仕立てに行くの。宮廷楽師になったら、素敵なドレスをたくさん着なきゃいけないもの」
彼女は得意げに言った。
「楽師になるのは演奏の腕よ。ドレスではないわ」
「あら、妬んでいるの?」
ペトラは私に近づき、顔を覗き込んだ。
「かわいそうに。あなたには選考会に出る資格もないのよね。父上がそう決めたんだから、諦めなさい」
「私は――」
「それに」
ペトラは声を潜めた。
「あなたみたいな古臭い音楽、誰も聴きたがらないわ。時代遅れなのよ。今は華やかで派手な演奏が求められているの。地味で退屈なあなたの演奏なんて、宮廷では通用しないわ」
彼女はくるりと踵を返し、厨房を出て行った。
私は拳を握り締めた。
爪が掌に食い込む。
時代遅れ?
地味で退屈?
私の音楽を、そんな風に言うなんて。
「お嬢様......」
ノーラが小さな声で呼びかけた。
「どうか、お気を落とされませんよう」
「ありがとう、ノーラ」
私は深呼吸をした。
「でも、ペトラの言う通りかもしれないわね。私の音楽は確かに古風だもの」
「そのようなことは決してございません」
ノーラは力強く言った。
「お嬢様の音楽には、魂がこもっております。それが何よりも大切なことでございます」
魂。
そう、魂。
私には、誰も真似できない力がある。
それが音花の恵みだった。
私は部屋に戻り、昨夜放った光の鳥を待った。
夕方、鳥は戻ってきた。
その小さな体には、無数の情報が刻まれている。
私は鳥に触れ、情報を読み取った。
選考会は三日後。
王宮の音楽堂で開催される。
審査員は宮廷首席楽師グレゴリー卿と、王室楽団の主要メンバー五名。
出場資格は、推薦状を持つ貴族の子女、または音楽院の卒業生。
推薦状。
叔父は決して私に推薦状を書かないだろう。
ならば――。
私は別の方法を考えなければならない。
音楽院の卒業生、という資格。
私は正式に音楽院を卒業していないが、母から個人指導を受け、実力は卒業生以上だと自負している。
問題は、それを証明する方法。
私は窓の外を見た。
王都の街並みが、夕日に染まっている。
明日、私は王都に行く。
そして、自分の力で道を切り拓く。




