風車小屋の灯火
クレドンとの対決でへとへとになっていたものの、風車小屋の窓から漏れるオレンジ色の灯りにたどり着きたいという思いで、足は言うことを聞いてくれそうだ。
クレドンが落下した崖のあたりを見回すと、川に向かって枝を伸ばしている木の先にツタ植物が絡み、風に揺られて先端が水面を踊っていた。
ラカは、クレドンの意識が戻って追ってこないかと心配だったが、風車小屋に行くためにはそのツタで下に降りるしかなさそうだ。疲れで重くなったからだをごまかしながら、ツタをぶら下げている木に登り始めた。ツタのところまでたどり着き、下をのぞくと水面までかなりの高さなのが分かる。恐る恐るツタを掴み、ゆっくりと下へ降りて行った。時々、ブチブチとツタが切れる音が聞こえてくる。数メートル降りたあたりで、左手で掴んがツタがちぎれた。危うく落下しそうになったが、右手で掴んだ幾重にも重なりあったツタのおかげで何とか持ちこたえた。水面までほど近いところまで来ると、ツタの先端がある辺りは浅瀬だとわかった。川底に足が着いたときにはさすがにホッとため息が出た。風車小屋はその先の小高い丘の上にあり、川沿いから少し歩くと丘まで続く道が見えてきた。
森はすっかり夜になっていた。遠くの方で聞いたこともない鳥の鳴き声や獣が走って草むらを揺らす音が聞こえてくる。川から上がってくる風はすっかり冷たくなり、風が通り抜ける度に身震いした。それでも、道を見つけて人の気配を感じただけで、ラカの心の不安は小さくなり、疲れが和らいだ。
やがて風車小屋にたどり着いたラカは、迷いなくドアを開ける。
中には誰もいない。窓から見えたオレンジ色の光は、ろうそくのやさしい灯りと、消えかけた暖炉によるものだった。
暖炉の上には鉄鍋が掛けられており、トマト仕立ての赤いスープがクツクツと音を立てている。香ばしい匂いとともに湯気が立ちのぼっていた。
ラカは声をかけた。
「…あのー、誰かいますか?」
ちゃんと届いたはずの声――だが、返事はない。
その匂いに誘われてお腹が鳴る。空腹に耐えかねたラカは、鉄鍋の柄杖に手を伸ばす。
その瞬間――
「ガシッ」誰かに、肩を握まれた!
「お前も王国からか?」
肩を握んだ男はラカの顔を覗き込むように、親しげな笑みを浴びせている。
その男はひょろっとした背格好で、痩せてはいたが、どこかに土の嗅いと力強さを感じさせる働き者の風貌だった。
右手にはスープ皿を、左手には血抜きされたウサギが二羽ぶら下がっている。背中には弓を携え、土塵をまとっていた。
ラカは驚きながらも、できるだけ目立たぬように柄杖から手を離し、深くうなずいた。
男はラカの様子を見て「ここに来てから何も食ってねぇんだろ」と言いながら、スープ皿を差し出す。
その手は、野良仕事で焼けた土色。ひび割れと傷に覆われ、けれどどこか温かい。
スープの湯気がふわりと立ちのぼり、ラカの鼻腑をくすぐった。
ラカがスープ皿を受け取ると、狩人は乱暴な手つきでスープを注いだ。
鉄鍋の中から、トマト仕立ての赤いスープがたっぷりと注がれ、こぼれそうなほどに満たされる。
顎で示された方向にある粗末な椅子に、ラカは促されるまま腰を下ろす。
恐る恐るスープを口に運ぶ。これまで見たこともないような赤茶色の液体、酸味と土臭さが残り、お世辞にも美味とは言えなかったが、王国で味わったどのスープよりも温かくお腹にしみわたった。
スープを啬るラカに、家主はふいに語りかける。
「お前は赤だったんだな。俺は、ほら」
顔をのぞき込むように眼球を近づけてくる。
その男の瞳は、優しいオレンジ色をしていた。
ラカはスープをひとくち飲んでから、男の目を見つめた。
「僕はラカ。……あなたも、追放されたの?」
男は笑うでも怒るでもなく、薪の火を見つめながら言った。
「追放?お前追い出されたのか?かわいそうに。俺は、あー、俺の名はヴァダ、俺は森に迷い込んだ後、戻るのを忘れちまったのさ」
ヴァダは自分が王国に戻らなかった事についてはあまり多くを語らなかった。
ラカは言葉の意味を図りかねて首を傾げたが、ヴァダはそれに気づかぬふうに続けた。
「この森には王国から来たやつも何人かいる。大概は、そう、色を持ってしまった奴がな」
そして、暖炉のくすぶった炭の上に薪をくべ、何の気なしにひかき棒でいじりながら、ヴァダはぽつりと語った。
「俺は目に色が出たけど、お前は……髪か」
ラカは、無意識に前髪を撫でた。
「王国から来た人たちはどうやって暮らしてるの?」
火がパチンとはぜ、赤い火花が跳ねた。
ヴァダは日の中に目を落としたまま答えた。
「……王国もこの森も生きるって事は変わりなねぇ。食べて寝て働いて、、、」
火にくべた薪が乾いた音を立てて燃え上がる。ヴァダの顔が一瞬だけ赤く照らされた。
「でもな、暮らすってのは少し違う。この森には自由があるが、絶対の安心なねぇ。実際、自分で自分のおまんまくらい調達出来なけりゃ野垂れ死だ。ルールも王国とはまるっきり違うしな。王国から来た奴らは、それぞれがどう“受け入れたか”で違ってくるな」
ラカは、しばらくその言葉の意味を考えていた。
「……あなたは、受け入れたの?」
ヴァダはかすかに肩をすくめ、スープの鍋を見た。
「俺は、焚き火のそばでスープをすする日々を選んだってだけさ」
それからラカの方を見て、目を細める。
「でも、お前の顔は違うな。“何かを始めたがってる”顔だ」
ラカは何も言えなかった。けれど、物心ついた頃からずっとひかかっていた思いが、色彩に満ちた森に来てから沸々と広がっている事を認めるしかなく、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ラカは、手の中のスープ皿を見つめた。
「……僕はなにをしようかな」
声に出すつもりはなかった。けれど、ヴァダの意見が聞きたかったのか、無意識に口にしていた。
ヴァダは火をじっと見つめながら、くっと喉を鳴らして笑った。
「まずは、森に慣れなきゃな。王国のように誉で飯はくえねぇぞ」
その言葉に、ラカの頬がすこしだけ緩んだ。
「あぁ今日も疲れたから、俺は寝るぞ。お前もここに来たのも何かの縁だ。今晩はここで適当に寝ていけ」
「ありがとう!」
ヴァダが奥の寝台に倒れ込む音が聞こえたあと、ラカはまだ椅子に座ったまま、スープ皿を両手に包み込むように持っていた。
暖炉の薪はすでに赤く崩れ、静かに火の名残だけを宿している。時折「パチ…」と木が割れる音が、眠りの世界を招くように響いた。
スープのぬくもりが、掌から胸へ、そして全身へと染み渡っていく。
“今日、なにがあったっけ”
初めて見た色たち。恐怖のクレドン。風車。スープ。ヴァダ。
いろんな出来事が一気に押し寄せた一日。頭が少しだけぼうっとしてくる。
椅子に凭れかかりながら、ラカはぼそっとつぶやいた。
「……おやすみ」
何にそう言ったのか
言葉が終わるより早く、まぶたが下りてきた。
スープ皿がコトリと膝の上に傾く。ラカはそれにも気づかず、小さな寝息を立てはじめていた。
森も一日を終え、静けさが当たりを覆い尽くした。新しい朝を迎えるための静けさ、明日もまたオレンジに光る太陽が森に光を落とすだろう。森は、静かに、しかし確かに、生きていた。