蟻
眼前の巨大蟻は、明らかにオレをエサと認識しているようだが、襲っては来なかった。何か迷っているようにも見える。
オレは下手に動かずそのまま様子を見た。次第にヤツは迷っているのではなく、探しているように見えてきた。つまり、まだ『この辺にエサがある』ぐらいの認識なのだろうと。
泥のカモフラージュは効いている。そしてオレは動いてもいない。ならば、何で感づかれたか?
オレはある仮説を立て、呼吸を止めてみた。するとヤツの動きも止まる。やはりだ!口臭に反応しているのだろう。
身体強化系の魔法の多くは、深い呼吸を用いて精神を集中する。その臭いを辿られてしまったようだ。
ヤツは、じっとその場で静止している。精神集中しているようにも見えた。臭いを見失っても、すぐには諦めない意志を感じた。
オレは歯磨きをサボったことを後悔した。
いつまでも息は止めていられない。苦しさでボロが出る前に行動を起こさなくては。
首を動かさないように周りを見ると、他の蟻はいないようだ。もっとも後方は見えないのだが、いないことに賭けるしかない。
覚悟を決めると、ちょうどオレの右膝近くにいるヤツの頭を見た。
眼と眼の間あたり、そこが急所だというのは先の鷲との戦いを見て見当がついている。
オレは鷲の攻撃が当たった光景を思い起こした。確実に仕留めるのに必要な攻撃速度をイメージする為だ。
そのイメージを元に何度も頭の中でリハーサルをする。その間に立ち去ってくれればいいのだが、一向にその気配はない。
オレは覚悟を決めて、頭の中でカウントダウンをした。
5,4,3,2,1!
オレは音を立てないようにわずかに息を吐く。
それを察知したヤツは、両の触角をビクっとさせ、鋸のような顎を左右に大きく開いた。
それと同時にオレは左腰に吊るした小剣を左手の逆手で抜く。
そして、右手を添え、右足を引きながら重心を落とし、落とした重心を剣に乗せてヤツの脳天を突き刺した。
硬い外皮を破ると急に感触が柔らかくなる嫌な手応えを感じた。命を殺める時の手応えだ。
ただ、ヤツは構造が単純な分すぐには死なない。触角、顎、脚がカサカサと動く。しかし制御を失ったそれは、何の役割も果たさない空しい動きとなっていた。
それを確認し、オレは片足でヤツの頭を踏みつけ小剣を引き抜くと、その場を後にした。
川で泥を落とす際、適当な小枝を噛んで作ったブラシで歯を磨いたのは言うまでもない。