渓谷/泉(帰り道8~9)
「渓谷」
闇が岩壁の切通しの暗さになり、やがて木立の細さになる。自然の光が差し込んできたことに少年は目を剥いたが、やはり自分以外の乗客にとっては歓声を上げるような一変化に過ぎないようだった。
錦秋の渓谷の匂いが窓から滑り込むのと同時に、くぐもった車内放送が始まった。
『ご乗車ありがとうございます。まもなく次の駅に到着いたします。お出口は左側です。
到着後、20分程度の停車時間を挟みます。ご了承ください』
「やっぱり車掌さんはいるよね……」
「20分って、どれぐらいだ?」
箱の穴から月魚がこっそり顔を出す。
さっきからひそひそ話ばかりしているなと思いつつ、少年は月魚に腕時計を見せた。
辺りが昼になったから腕時計の針も巻き戻るなんてことはなく、月魚と出会った時間の続きを指しているようだった。多分水晶式の腕時計だから、この場所の正確な時間は分からないのだ。少し落胆した後で、いやいや時間を計ろうとする分には十分役に立つはずだ、と思い直す。
「ええと、この長い針が、ここまで動いたら、かな」
案の定、腕時計は月魚の関心を引いた。硝子の風防をしきりにつついている。
「何だこれ。冷たくて固いな、動物じゃなさそうだ。そうか、これも月魚の仲間か」
「ええ?」
二人が囁きあっているうちに電車は到着し、薄野の月魚たちはそれぞれの荷物を持って降りる支度を始めた。
「みんなどこに行くの?」少年は尋ねる。
「泉です。ここには、世界中の海や川に繋がっている湖があるんです。そこを伝って、ここの魚たちはどこでも好きな所に泳いでいけるんです。ただし、僕たちは今のままだと水に潜り慣れていません。水の中で息をすることもかないません。ですから、ここの山を下ったところの泉で、本当の魚になるための練習をするのです」
「そうなんだ。じゃあ、行ってらっしゃい」
もう会うことはないだろうけれど、乗り合わせの縁の分だけは微笑んだ方がいいのかなと思った少年は、地図を持った月魚へ、ぎこちなくも挨拶の言葉を掛けた。ついでに箱の中の様子を伺おうとして、その蓋をずらした。
いない。
「なあなあ、この『展望所』ってなんだ!?」
その月魚はうきうきしながら駅に立っている道標を読んでいた。しかも話しかけている相手は制服を着た人間。少年が鞄を抱え急いで下車してくるのに気が付くと、予想通り月魚は展望所に行きたいと話を持ち掛けてきた。
「高い所から飛べば、月に届くかもしれないだろ。届かなくても、声は届くかもしれないだろ」
「だめだめ、出発の時間に遅れたら僕たち取り残されちゃうだろ。もしそうなったらどうしたらいいか分からないよ」
「ここから展望所までは歩いてほんの5~6分ほどですよ」
車掌とおぼしき人が横から声を掛けてきた。落ち着いた声と印象に残りにくい顔立ちで、目を合わせようとしてもどうしてか合わせられない。目の前にいるのにも関わらず、人の顔を思い出す時に隅から隅まで記憶できないのと同じような掴みどころのない感覚を少年は抱いた。
「ほらほら、急ごうぜ」
月魚がせっつく。図らずも少年の好奇心が少し疼いた。空気はひんやりとして、気が洗われるようだったし、行楽地の宣伝写真でしか見たことがないぐらい美しい紅葉が四方に広がっている。
「……車掌さん、一時下車したいのですが、僕は切符で入っていないんです」
「では、その紙の箱を切符がわりに預かりましょう。ここでは手が塞いで邪魔になるだけでしょうから。遅れずに帰ってきてくださいね」
一人と一匹は車掌にお礼を言い、展望所への道を足早に辿った。
*
少年は展望所に立ち尽くす。
斑に色づいた紅葉山が連なっていて、濃い霧がその所々にかかっていた。電車の線路は木々に隠れて見つからなかったが、手前の方に細い滝が水煙を上げているのが見えた。
あの子たちはちゃんと泉に辿り着けたのだろうかと思いながら、頭上で輝く白い月と、それにお近づきになろうと孤軍奮闘している月魚を見上げる。
当然と言えば当然の結果だが、何分と経たないうちに月魚はへろへろになって戻ってきた。
「はあはあ、上に行けば行くほど、はあ、下へ押し戻そうとする流れを感じるんだ。鳶なんてあんな高い所飛んでるのによ」
「ふーん。鯉の滝登りみたいだね」
「それはお前も知ってるんだな」
「うん。でもやっぱり伝説としてだよ。多分君が月になるのはすごく長くて大きな滝を登るようなものだから、きっともっと難しいんじゃないかな」
「お前、今に見てろよ。おれがもっとでっかくなったら、ひと泳ぎで山一つ分高く登れるようにもなるんだからな」
少年には月魚がなぜそんなにむきになるのかいまいちぴんと来なかった。
「……月って、そんな憧れるようなものかなあ。そりゃ綺麗だけど、太陽の方が明るいし」
「月魚が月を目指さなくてどうするんだよ。そりゃあ、考えたことはあったけれどさ。でも、太陽は自分の光が眩しすぎて地上の様子を見るのに苦労するだろ。それに、みんな太陽を見ると目を逸らすだろ。俺は地上を隅から隅まで見晴らしたいし、みんなが見とれてちやほやしてくれるような存在になりたいんだ。そしたらおれも、そいつらに光を振りまいてご機嫌ようって挨拶してやるのさ」
少年は笑いをこらえきれずに吹き出した。
「そんな目的なら、芸能人にでもなればいいのに。まあ、なれるといいねえ」
「お前急に対応が雑になったな」
紅葉が一枚、頭の上に降ってくる。色むらも欠けもなく虫食いもない。それを鞄にあった学生手帳に挟むと、少年は月魚を促して来た道を戻っていった。
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「泉」
どこでうまれて どこからしたたり
どこで集まり どこでねむっていたのか
そんなことを気にするのは通りすがりの余所者だけだというのに
無言の無垢に
さそわれていた
腐葉土のあたたかさか
身をきられるようなつめたさか
うまれたばかりのちいさな喜びは
取り込めばどんな滋味をもたらすのか
でも
汚してしまうかもしれない
わたしという不純物
太陽のぎらつきも知らない水面には
葛藤が映ることもないので
ずっとみつめていた
霧が水と空の境目をなくすと
瞼と瞼の裏側の境目も溶けた
自我をなくしておもむろに旅立つは
流れの深い蛍石色
渓流は黒土を削り岩を穿ち
穢れを消し飛ばし
水底の丸石が揺らぐ中
渦巻く音の遠い岩場に置いていかれて
手を伸ばしていたときに
ふと呼吸が遅くなって
蒼いしずかな釉薬の筋
音の無い稲光が
湖の底に
あった
さそわれていた
目を閉じればいい、と分かった
閉じたらどうなるのか分からなくて怖くなった
途方もないこれは
これはただの夢
少し前にも書きましたが、このシリーズは実験でもあるので、作者自身、小説と詩の噛み合わせ方などを模索しながらこれを書いています。
どういう詩なのかを書いた方がいいかと思いましたが、それも野暮といえば野暮なので、とりあえず詩の解釈などを読み手に押し付けてしまうことにします。読者の皆さんもあまり気負わず適当に読んで下さったら幸いです。