ファクトリー(帰り道10)
「ファクトリー」
どうにか電車が出発するまでに帰ってくることができた二人と一匹は、戻りが遅くなったことで言い争いをしていた。月魚ときたら少年が復路を迷いかけて焦っていた時も呑気なもので、手助けしようという意志すら見せなかったのだ。
涼しい顔してうめおにぎりの粒をほおばりげっぷする月魚を少年は無言で睨みつけた。悪気が無くても頼りにはならないタイプの人間、いや魚だと分かったからには、自分一人の力で考えて帰らないといけない。
月魚に言われるままにこの電車に乗ってしまったが、うすうすこの「道草」がすぐに終わるようなものではないことを、少年は感じ取っていた。今のところ危ない目には逢っていないからいいものの、ふとした瞬間に心細さに襲われそうになる。
(でも、ここで怖いと思っていては前に進めなくなる。まずは落ち着こう。とにかく頼れそうな人に助けを求めて、何があっても驚かないようにしないと)
「これはなんだ。光るぞ」
気が付くと月魚が少年の手元のスマホを覗いていた。
「何か文字が書いてあるな。もっとよく見せろ」
「ダメです」
少年は素早く画面をスリープ状態にしてスマホを鞄に入れる。
「けち」
「これは僕にとって大事なものなの、ずっと光らせていたら電池が切れて動かなくなるの。そうしたらただの板になっちゃうの」
「おれも同じだろ。おれがいなくなったらお前も困るんだからな」
だったら案内魚の役割をちゃんと果たしてよと言い返したところで、少年はぎょっとして口を噤んだ。
手のひらでぴちぴち拗ねる月魚は、出会った頃の3倍は大きい。つまり、小指一本分ぐらいの長さだ。いつの間に大きくなったのだろう。
「ねえ」
少年は目を細めて囁いた。
「もしも本当に君が月になれたとしたら、ぼくは一人で帰ることになるね」
「え? ……ああ、まあそうだな、うん。でもその時はあれだ。なんとかなるだろ」
「……」
少年はひとつ瞬いた。
気のせいか、頭の中のネジが光った。それも多分割と重要なところの記憶を留めるネジだ。
確かに前にも今と似たような気分になったことがあった。ここで思い出しても仕方がないのだけれど、こういうのって今思い出さないと、何を思い出そうとしていたかも忘れて、悩んでいたことだけが靄になって溜まっていくから厄介なものだ。
少年が何も言わなくなったので焦った月魚が弁解を続けていると、電車が停まり、扉が開いた。
蛙の声が電車と乗客を迎える。
山から下りたようで、扉の向こうには田植え後間もない頃合いの田園風景が広がっていた。外から草いきれの湿気を多分に含んだ空気が流れてくる。曇天の空の下には小さな集落が二、三広がっていた。月魚はすずめの群れを体で追っている。
広い道路は舗装されているし、せせらぎには橋が架かっている。そして集落から少し離れた山の麓には、倉庫か工場のような箱型の建物が立ち並んでいた。
少年は意外に思って首を傾げた。もちろん自分の知らない町ではあるのだが、月魚たちがいた薄野原や、さっきの幻想的な渓谷に比べれば、至って普通の田舎町に見えるように思ったのだ。
電車が走り出した。もしかしたら、ここで乗ってきた人なら、自分の立場を分かってくれる人がいるかもしれない、と思った少年はそれとなく周りの座席に目をやった。
少年が乗っている車両にも2,3人乗客が入ってきたが、一番近いのはスーツ姿の若い男だった。痩身小柄で、ワックスで固めた漆黒の髪を七三分けにしている。横に、黒い箱型の保冷バッグを置いているのが気になった。
男はどこか落ち着かない様子で、額の汗をハンカチで押さえていた。少年が自分に注目していることにもすぐに気が付いた。そして、申し訳なさそうな空気を漂わせながらもほとんど躊躇いなく、少年たちに歩み寄ってきた。
「こんにちは。私たちの町を通る電車に、地域住民でない人間が乗っていらっしゃるとは。失礼ながら、少し驚きました。観光目的ですか? どこまで行かれるのですか?」
「こんにちは。そうですね……たぶん。といってもただ電車に乗って、家に帰るだけなんですが。僕、それほど余所者に見えてしまいますか」
「いえ、そういう意味ではないのです。田舎ですからね、この付近に住んでいる人間の方々は、何となく見たことがあるぐらいには見覚えがあるのです」
その言葉に違和感を感じつつ、少年はまなざしに気圧される形で頷いた。男の声色は鼻にかかったやさしいものだったが、慌てているのかせっかちなのかぐいぐい距離を詰めてくる。
「申し遅れました、私こういう者でして、食品会社で働いています」
〈ツグラ 株式会社〉
渡された名刺にはそう書かれていた。しかしそれよりも、
「すみませんがこの名前って、本名なんですか」
「ええ、そうですよ?」
感じていた違和感がほぼ確信に変わった少年は戸惑いを隠せず身を引いたが、男はお構いなしに話を続ける。
「どうでしょう、ここで会ったご縁ということで、うちの商品見ていかれますか」
返事を待たず保冷バッグから取り出したのは細い青色の瓶だった。ガラスの内壁を伝って幾つもの泡が上っている。
「浮遊サイダーですよ。新商品でしてね、一口飲んだだけでも体が軽くなるのが分かります。半分飲めば重力が半分に、一本飲めば一時間程は足を地面から離して歩くことができます。貴方は成人より体重が軽いですから、効果もてきめんでしょう」
「……それは、比喩ですよね?」
男は肩をすくめるだけだった。眉唾物だと思いながらも、少年は手の中にある何の変哲も無い瓶を凝視する。
「それ、余りは無いのか」
今までそっぽを向いていた月魚が急に食いついてきた。その魂胆もあからさますぎて咎める気にもならない。
「そうですねえ、試供品の予備も若干数あるといえばありますが、予備というのはいざという時のために用意しておくためのものであってですね……」
首を振りながら男は顎をなぜる。困っているようで、月魚の言葉を聞いた途端に、目が笑いを含みだしたのを少年は見逃さなかった。――なにか面倒事の予感。
「そうですねえ、でしたらどうでしょう」
ほら来た。
「バイトしませんか?」
「はっ?」
「いやあ、うちも丁度困っていたところでね」
汗をふきふき男は言う。
「浮遊サイダーの試供品を、この先の駅を降りたところの家に届けてもらうだけでいいんですよ。どうです、簡単でしょう」
「い、いやそんな簡単に言われても」
「では、もう少し有名な商品を扱う方がいいですかね? この缶詰はあなたも見たことがあるでしょう、極上イバラネズミの肉詰めですよ」
「そ、それはちょっと」
押し問答しているうち列車が駅に着き、男は後ずさるように扉から出ていった。「ではこれで。運が良ければターミナルでまた会いましょう」
上機嫌で手を振る男。後には呆然とした少年と、依頼分と報酬分の瓶が入った袋、そしてこれもまた上機嫌な月魚が残された。
「……さっきから僕ばかり面倒事押し付けられてない?」
ビニール袋の中で瓶がぶつかりあう涼しげな音がした。