左手で決意を綴る~私の記憶は半日しかもちませんの~
「いらっしゃい、フリッツ。随分ご無沙汰でしたわね」
「あぁ、久しぶりだね、セフィール。一別以来、君はちっとも変っていない」
見事な透き通るような金髪を緩やかに波打たせた青い目の少女は、訪れた黒髪の青年に笑顔を向ける。
にこやかな、それでいて月並みな歓迎の言葉。
嘘でちりばめられた月並みな返答を返しながら、フリッツはひそかに苦笑する。
1年欠かさず通っている相手に言う言葉ではないのだけれどな、と。
あぁ、本当に、笑うしかない。
どうしてこうなったのか、本当に、ばかばかしくてやるせないのだけれど。
(もっとやるせないのは、セフィール、君はどうして今の境遇を受け入れられているのかな?)
バウムガルデン家には、バラをはじめとする広大な花々が咲き乱れる園がある。
その園の奥に小さな2階建ての家があり、バウムガルデン家の息女セフィール・フォン・バウムガルデンは少数の侍女たちとともにひっそりと暮らしていた。
「どうか、お座りになって。随分久しぶりですもの。いろいろとお話を伺いたいわ」
セフィールは左手で椅子を指示した。
「あぁ、セフィール、そうだね。そして唐突で申し訳ないが、随分前に君とある約束を交わしていてね」
「やく、そく?」
セフィールは聞きなれない単語を聞いたかのように小首をかしげる。
「あぁ、約束だ。きっと筆まめな君のことだから、君の日記帳に描いているはずだと思うんだ」
「まぁ、そうでしたの?」
セフィールは、膝の上にある、美しい刺繍や宝石で装丁された日記帳を大事そうに取り上げる。もどかしそうに頁を繰り、しおりが挟んである場所までたどり着くと、左手が止まる。
「あぁ・・・・」
セフィールの顔がこわばる。
太陽に向き合う草花がちぎれ雲のせいで陰る。
セフィールは何度も左手で文字をなぞり、一つ息を吸って心底すまなさそうな、泣き出しそうな顔になる。
「あぁ、フリッツ、本当にごめんなさい・・・・。失望させてごめんなさい・・・・。今日も私は駄目でしたのね」
「君のせいじゃないよ」
フリッツは穏やかに言い、そっとセフィールの日記帳に目をやる。離れていても綺麗な筆跡だから内容はすぐにわかってしまう。
昨日の日付欄の日記には、優美な筆跡で細かな日常が綴られている。
フリッツが白いアースヒースの花をもって尋ねてきてくれたこと。
昼食にはホットサンドを食べたこと。
午後はフリッツにボードゲームを挑んで、二人とも引き分けばかりだったこと。
もっと遊んでいたかったのに、急激に眠くなってしまったこと。
そして、最後にこう記されていた。強い決意の言葉で。
「明日、フリッツが尋ねてきたら、私はフリッツにこう言ってやるの。『ほら、昨日はお互い引き分けだったけれど、今日は負けないわ。昨日のゲームの続きをしましょうよ』って」
セフィールなりの強い決意。今まで願いが叶ったことはないけれど、それでも彼女は言葉を変えて同じ願いを綴り続ける。
どうか、私の記憶が明日も保ちますように、と。
朝食後のひと時。陽光がすがすがしい大気の香とともに降り注ぐ居間に、父と子が向かい合っていた。
穏やかな陽気に比して、話の内容は剣呑な空気ではあるが、退役軍人である父親の重厚な眼光にも息子は屈しなかった。
「申し訳ありませんが、私はセフィールのもとに通うことをやめません」
「バウムガルデン家とザイドリッツ家の婚約については破棄をしたというのに、どうしてあの娘の元に通うのだ?」
「確かに婚約は破棄されましたが、私はあの子が不憫でならないのです。どうにかして記憶障害を治したいというのは幼馴染としては当然のこと」
「バウムガルデン家は公爵家。我が家にとって盟主に当たるものではあるが、公爵閣下も、もうよいとおっしゃってくれている。フリッツ、お前はザイドリッツ家の跡取りとして妻をめとらなければならぬ身。セフィール様のことは残念ではあるが、お前に次の縁談を持ち込みたいと思っている。事実、私のもとに話は来ているのだ」
武勲を重ね、若干18歳にして、レオルディア皇国軍准将の地位を持つ容姿端麗なフリッツに、事実、縁談は引く手あまただった。
「縁談は縁談として受け入れますが、それとセフィールのこととは別物です」
「縁談を成功させるも失敗させるも、お前次第だ。そのお前がほかの女にかまけていると知られれば相手も良くは思うまい。その程度のことがわからぬのか」
「父上は・・・・・」
フリッツは何か言いかけたが、あきらめたように口を閉ざし、立ち上がって一礼した。
「まぁよい。今日で話を決めるわけでもなし、しばらくはお前の好きにさせるが・・・・時間は待ってはくれぬぞ」
重たげな空気をまとってフリッツは退出した。
だが、部屋の外に出ると、足早になる。次々と扉を開ける手間ももどかしく、外に出ると、厩から灰色の馬を引き出し、自分で鞍、手綱をつけると、ひらりとまたがる。
右手で軽く愛撫しただけで、馬はすべてを心得ているといった様子で走り出した。
領内をはしる街道を人馬は風を左右にいなして走りづつける。
土埃に混じり、草花が軽やかに舞い、風がそれを高く吹き上げていく。
「セフィール!」
バウムガルデン家の管理する小さな家に到着するや否や、ひらりと馬から降り、手綱を投げ捨てる手ももどかしくフリッツは走り出した。
けれど、家につくまえに立ち止まり、少し呼吸を整える。どんなに自分が乱れていても、セフィールの前ではいつもの自分を演じなくてはならない。
1年前、何の変哲もない訪問をした、何も知らないあの時の自分に戻らなければならない。
「いらっしゃいませ、フリッツ様」
恭しく赤い髪の理知的な眼をしたメイドが出迎える。
「今日もお世話になるね。セフィールはいつもの場所かな?」
「それが・・・今日は、すぐそこにいらっしゃって―」
「え?」
メイドの説明が終わらないうちにフリッツの視線はホールわきの南向きの小部屋に向けられる。
そこには二人の人間がいた。
「いらっしゃい、フリッツ。随分ご無沙汰でしたわね」
「あぁ、久しぶりだね、セフィール。一別以来、君はちっとも変っていない・・・・」
いつもの挨拶を返すフリッツの語尾がしぼんで消える。
プラチナブロンドの髪をシニョン風に纏めた美しい藍色の瞳を持つ女性が、椅子に座るセフィールの脇に立っていた。
その姿を一目見るや否や、フリッツは驚愕し、思わず片膝をつきそうになった。
「イルーナ・フォン・ヴァンクラフト主席聖将!!」
「驚かせてごめんなさい、フリッツ・フォン・ザイドリッツ准将」
透き通る微笑みが返された。
「本当に、今日は良い日。立て続けに御姉様まで来てくださるなんて、思わなかったわ」
「御姉様?」
「ヴァンクラフト御姉様は私の従姉なの、フリッツ。でも、不思議ね。昨日いらっしゃったばかりなのに」
「たまたま非番が重なったので、貴女に会いたくなっただけよ」
あぁ、うらやましいとフリッツは思う。
小さな嘘を重ねるたびに、自分は心が痛むのだ。
それが顔に出てしまうことがあるというのに、この女性は。
なんの陰りもない。
* * * * *
お茶を飲もうとカップを取る手が心持震える。
皇国軍に匹敵する10万余の構成員を束ねる№1であるレオルディア皇国騎士団主席聖将が、一介の准将である自分と同じテーブルを囲むとは想像していなかった。
「フリッツどうしたの?久しぶりに会ったのに、なんだか元気がないみたいだけれど?」
「セフィール、まさか意地悪で言っているんじゃないだろうね?レオルディア皇国騎士団の№1は僕なんかが気軽に同席できる方じゃないんだよ」
「気になさらなくてもよいのに。ここには私の御姉様としていらっしゃっているのだから」
セフィールの無邪気さ鈍感さは昔からちっとも変っていないとフリッツは半ば安堵し半ば苦笑いをする。
「ごめんなさいね。セフィールから貴方のことはよく聞かされています。貴方がいらっしゃると知っていたらお邪魔しなかったのだけれど」
いや違う、とフリッツは直感的に思った。この直感は戦場で自分を度々助け、武勲を重ねることに貢献している。
イルーナ・フォン・ヴァンクラフトはこの俺に会いに来たのだ。
これじゃ、セフィールに昨日の約束の話を出すわけにはいかないな、とフリッツは思う。
二人きりの他愛ない約束だが、それが守られないとセフィールがわかれば、きっとがっかりするだろう。親愛なる御姉様の前では特に。
しばらくは、お茶を飲みながら、何百回目かの「久方ぶり」の話が交わされた。イルーナが来ていたので多少内容は違ってはいたが。
「あぁ、そうそう。私、ケーキを持ってくるわね。フリッツがいらっしゃると昨日知ってから準備していたの。ちょっと待っていてね」
セフィールが声を上げ、席を立つ。
セフィールの言う「ケーキ」なるものは、いつも同じだった。記憶障害をおう前にはセフィールがよく作っていた柔らかな純白のシフォンケーキ。
「昨日」に「明日」の訪問者に備えてセフィールが準備して作っていたケーキ。
彼女ではなく、メイドたちがセフィールの作り方や好みを覚え、あらかじめ用意しておくのだった。
二人きりになると、フリッツは疲れを覚えた。主席聖将は遠い空を見るような視線で庭の草花を見ている。しばらくの間重い沈黙が降りた。
不意にフリッツに視線が向けられた。
「フリッツ・フォン・ザイドリッツ准将」
「フリッツで結構です、主席聖将閣下。ここでは私用で来ていますので」
「では、私も同じなのだから、私のこともイルーナで結構よ」
「何か私に話がおありですか?」
「そう思えて?」
微笑交じりにそう言われてしまうと、フリッツは言葉を失ってしまう。イルーナはそんなフリッツに「貴方もセフィールの記憶障害は知っているのね?」と尋ねた。フリッツが頷くと、
「セフィールのことは私自身本当は毎日見舞ってあげたい。けれどその暇はないの。貴方とは初めて顔を合わせたのだけれど、随分セフィールと親しいようね」
「幼馴染です。お互い小さなころから一緒に遊び、大きくなって、そして婚約を・・・・けれど、その、記憶障害があってからは婚約が取り消しになりました。どうしてセフィールが記憶障害になったのか・・・私は知りたいのですが、残念ながらいくら父に尋ねても答えは返ってきません」
「知らないの?」
「ええ、失礼ですが、ご存じですか?」
「貴方も知らないの・・・・・」
当惑したように半ば独り言を言う主席聖将をフリッツは声もなく見つめるばかりだった。
「お待たせしました。御姉様、フリッツ。ケーキをお持ちしましたわ」
おっかなびっくり、そして慎重に、メイドたちに支えられながら、大きな純白のケーキをもってよろよろとやってきたセフィールを見た二人が笑い出した。
「何が可笑しいの?」
「そんなに大きなケーキを作っても私たちは食べきれないわよ」
「あぁ・・・まさかそんなに大きなケーキだとは思わなかったよ」
これは本当の話である。フリッツが訪問した時に出されたケーキはあくまで常識的な大きさだったが、今日はどうしたことか、両腕で一抱えできるほどの大きさのケーキが運ばれてきたのだった。
イルーナは、そっとメイドたちに目礼した。
「えぇ!?そんなぁ・・・。せっかくご用意しましたのに」
「セフィール、君はいつの間に大食いになったのかい?」
「私じゃなくて、御姉様とフリッツが久しぶりに沢山食べたいと思っていたのだから!」
イルーナとフリッツはセフィールを、次いでお互いの顔を見て、また笑い出した。
「本当に、何がおかしいの?御姉様、フリッツ」
「ごめんなさいね」
「ごめんごめん」
笑いながらフリッツは心の中で涙していた。セフィールのいじらしさが悲しかった。
ひとしきりケーキを食べながら話をしたところで、イルーナが立ち上がった。
「もうお帰りになるの?御姉様」
「ええ。ごめんなさいね、軍務に戻らなければ」
「もう少しいらっしゃってもいいのに」
イルーナは、少し頬を膨らませるセフィールを優しく諭すように、すらりとした手を差し伸べた。そして軽く頭をなでた。
「子ども扱い・・・しないでくださいな」
「ごめんなさいね。つい・・・けれど、貴女は疲れているわ。とても眠そうね、あくびをしだしているわ」
「・・・ええ、なんだか、眠たくなってしまったの」
「無理をしないで。本当に、久方ぶりに会えてよかった。また来るわ」
「・・・きっとよ」
イルーナがほほ笑んだ。黄昏に照らされたその横顔は悲しいくらいに美しかった。
フリッツも立ち上がった。もう、セフィールの記憶の限界時まで幾ばくも無い。
「きっと・・・よ」
つぶやくように言うと、セフィールはテーブルに突っ伏して、眠り込んだ。メイドたちが慣れた様子で優しくセフィールを抱きかかえると、寝室へと連れていく。
それを見送っていたイルーナが長い吐息を吐いた。
辞去しようとした二人をフリッツを出迎えた赤い髪のメイドが送ってきた。
「いつもあのような状態なのね?」
イルーナが誰ともなしに尋ねた。
フリッツは頷き、メイドは少し視線を下に向けた後、
「はい。半日が限界です。そして目覚められると記憶がなくなっております。1年間その繰り返しです。ずっと・・・・」
声は冷静だったが、端々に湿り気を帯びていた。
「事故前は何一つかけたところがない活発なお嬢様でしたのに・・・・」
震える唇からほろりと言葉が漏れ出てきた。
こらえきれない思いが湧き出てきたのか、メイドは両手で顔を覆った。
イルーナはそれ以上聞くことはなく、本当に苦労を掛けるわね、と言っただけだった。
一礼するメイドを残し、二人は家を出た。
バウムガルデン家の園の前の小道が、二人の分かれ道だった。
入れ違いに一台の馬車が入ってきた。
フリッツにとってなじみのある顔が映っていた。セフィールの両親だ。
一礼した二人に目礼を返したセフィールの両親をのせた馬車は園の奥に消えた。
「本日はお会いできて光栄でした。主席聖将」
フリッツは一礼した。黄昏は思いのほか短く、あたりには残光だけが残り、夜のとばりが降りてきていた。
ひそやかな虫の声が聞こえてきた。
「こちらこそ、お会いできて光栄だわ、准将。そしてお願いが・・・いいえ、私などがお願いできる立場ではないのかもしれないけれど」
イルーナがフリッツを正面から見つめた。夜のとばりに半ば隠れて表情は見えない。
「どうかセフィールを、従妹をお願いできないかしら?毎日見舞ってあげたいのだけれど、今の私にはそれがかなわない・・・。セフィールの周りからはご両親やメイドたちを除き、人がいなくなってしまった。セフィールが頼りにできるのは身内以外では貴方だけなのだから」
「無論です。私としてもセフィールを放っておけません」
「ありがとう」
イルーナが頭を下げた。短い礼の言葉だったが、真摯な気持ちがあふれていた。
* * * * *
フリッツは夢を見ていた。
二人してテラスの椅子に座り、テーブル越しにボードゲームに興じている。
セフィールの事故前に最後に会ったときの夢だと気づいた。
「あぁ・・・これで7勝7敗。もう一回やりましょうよ」
「ええ・・・?まだやるのかい?もう疲れたよ・・・」
「引き分けのままじゃスッキリしないわ」
「君は負けず嫌いだなぁ。でも、勝負はお預けにしておいてほしいんだ」
フリッツは苦笑しながらお願いをした。小首をかしげる相手に、
「さっき話したけれど、僕は今度戦場に出る」
さっとセフィールの顔が暗くなった。その話題は聞きたくないという表情だった。
「今度の戦いは長期にわたるから、しばらく君に会えない。戦争だからどうなるかわからない。でも、勝負が止まったままであればきっと未練を残して生き残れると思うんだ」
「・・・・・・・・」
「だから勝負は敢えてつけない。ダメかな?」
「そんな考え方があったのね」
「え?」
「ううん・・・なんでもないわ。私から逃げようとしたんじゃないのね?本当なのね?」
「あぁ」
「きっと、きっと帰ってきてね。約束よ」
「あぁ!」
フリッツが目覚めた時、なぜか涙が頬を伝っていた。
* * * * *
「いらっしゃい、フリッツ。随分ご無沙汰でしたわね」
「あぁ、久しぶりだね、セフィール。一別以来、君はちっとも変っていない」
「どうしたの、フリッツ?久しぶりに会うというのに随分顔色が悪いのだけれど」
この日、いつも通りの挨拶の最後は違っていた。
フリッツはセフィールのもとを訪れたが、その顔色は悪かった。
「あ、あぁ・・・何でもない。戦場から帰ったばかりで疲れていたのかな。ごめん」
「そんなに疲れているなら無理をしないで休むべきだわ」
「いいや、それはできない。約束したんだから」
フリッツはきっぱり言った。顔色が悪い原因は、今朝の出来事である。イルーナと出会ってから数週間後、縁談については言葉を左右にして濁していたが、ついに今朝、父親から縁談についてあれこれと言われ、某子爵家の令嬢と会う約束をさせられた。
これはセフィールには絶対に言えないことである。
「どうか、お座りになって。随分久しぶりですもの。いろいろとお話を伺いたいわ」
セフィールは左手で椅子を指示した。
「あぁ、セフィール、そうだね。そして唐突で申し訳ないが、随分前に君とある約束を交わしていてね」
「やく、そく?」
セフィールは聞きなれない単語を聞いたかのように小首をかしげる。
あぁ、とフリッツは思う。今日も駄目だった。1年間毎日この繰り返しだ。
不意にフリッツは身震いした。
自分のエゴのため、この1年間セフィールにつらい仕打ちをし続けているだけではないのか。
この後の展開はいつも通りだろうとフリッツは思う。
日記の頁を繰り、そして決意が記された箇所を見つけ、自覚できないながらもフリッツを悲しませたことを詫び、絶望するセフィールの顔。
(見たくない・・・・!!やめてくれ・・・!!)
そう思いながらも、舌は主の意思に反して、何百回と繰り返された言葉を吐きだす。噛んで止めようとしたが遅かった。
「あぁ、約束だ。きっと筆まめな君のことだから、君の日記帳に描いているはずだと思うんだ」
「まぁ、そうでしたの?」
セフィールは、膝の上にある、美しい刺繍や宝石で装丁された日記帳を大事そうに取り上げる。もどかしそうに頁を繰り、しおりが挟んである場所までたどり着くと、左手が止まる。
「あぁ・・・・」
セフィールの顔がこわばる。
太陽に向き合う草花がちぎれ雲のせいで陰る。
セフィールは何度も左手で文字をなぞり、一つ息を吸って心底すまなさそうな、泣き出しそうな顔になる。
「あぁ、フリッツ、本当にごめんなさい・・・・。失望させてごめんなさい・・・・。今日も私は駄目でしたのね」
「君のせいじゃないよ」
「でも・・・・フリッツ、貴方はどうしたの?」
セフィールが驚いたように口元に手を当てる。
綺麗な筆跡で書かれた日記帳が、音を立てて足元に咲き乱れる草花の上に落ちた。
フリッツの眼から涙があふれ、頬を伝い落ちていた。
「私のせいで貴方を悲しませてしまったのね」
「違うんだ。ごめん・・・本当に・・・ごめん。僕のせいで、君は・・・君には・・・・つらい思いをさせてばかりで・・・・ごめん・・・・ごめん・・・・」
フリッツは壊れた自動人形のように繰り返し謝り続ける。それだけしかできない自分が情けなく、そしてもどかしかった。
その後、何を話したのか、フリッツは憶えていない。覚えているのは、辞去しようとした時のセフィールの悲しげな顔だった。
メイドに見送られ、館を離れたフリッツはテラスのほうを振り向く。木立に隠れて見えないが、そこにはきっとまだセフィールが座っていて、いつものように左手で日記帳に決意を綴っているのだろう。
もう、来ないほうがいいのだろうか、とフリッツは思う。
来てもセフィールを悲しませるだけなのであれば・・・・。
「今日も来ていたのね」
不意に声を掛けられ、フリッツはハッとして後ろを向いた。
イルーナ・フォン・ヴァンクラフトが険しい顔をして立っていた。
「貴方に話があるの」
* * * * *
レオルディア皇国騎士団№1主席聖将と木立に座り、話をすることになるとは、少し前までフリッツは予想していなかった。
「気配遮断魔法も防音魔法もかけているから心配ないわ」
イルーナは相手にそういうと、単刀直入に要点に入った。
自分はセフィールの記憶障害の原因を探っていたのだと打ち明けたのだ。
「記憶障害の原因ですか?」
「ええ。そもそも、貴方は何故セフィールが記憶障害になっているのか、その理由を知っている?」
「いえ。単に事故があって頭を打ったとしか聞いていません」
「なぜ右手がなくなっているのかも知らない?」
「・・・・・・・・ええ」
「事故が起こった経緯も?」
「ええ、何も。話すことも憚られる痛ましい事故だったのでしょうと推察するばかりです」
一瞬相手がとてもつらそうな顔をしたのをフリッツは見逃さなかった。
「事故、ではないのですか?」
「事故と言えば事故かもしれないわ。何も知らない貴方にこれを話すべきかどうか、率直に言って私は今でも悩んでいるの」
「その事故とやら・・・もしや私にかかわることなのですか?」
「いいえ。けれど、貴方には想像できないと思うわ」
「・・・・・・・・・」
「彼女はとても大きな責務を負っているの」
今日は夜になってもあたたかな陽気なのに、足元からぞわっとする寒気が這い登ってくるのをフリッツは感じた。
もし、セフィールが今も何かを背負い続けているとするならば、それを知らずに今まで自分は何と罪深いことをしていたのだろう。
「どうかお話ください。私は何も知らずにセフィールに接し続けていた。たとえその場に居合わせなかったとしても、その後の私の言葉が彼女を苦しませ続けたことになったとしたら・・・・。私に責任があります。どうか、あなたがご存じなことをおっしゃってください。私は罪を償わなくては」
「そこまで一息に思いつめないで。順を追って説明するわ。ただし、他言無用を誓えるかしら?私が今言った他言無用・・・これは言葉以上の重みをもっているわよ」
主席聖将の様相が一変した。射るような眼がまっすぐにフリッツを射抜いた。返答によっては即座に斬り捨てられる殺気もはらんでいた。
崩れ落ちそうになったがどうにかこらえ、フリッツは他言無用を誓った。
イルーナ・フォン・ヴァンクラフトは静かに語りだした。
「まず、貴方に尋ねたいけれど、セフィールの様子はおかしいと思わない?」
「記憶障害ですか?」
「いいえ、セフィールに記憶障害が起こる前、彼女は五体満足だったのでしょう?なのに、なぜ右手について彼女は話をしないのかしら?」
フリッツは「あっ」と声を上げた。
今のセフィールには右手がない。
フリッツが最後に会った時にはちゃんとあったのだから、事故によって失われたのだろう。
セフィールの記憶が記憶障害が起こる前の時点で止まっているのであれば、右手があったころの記憶で話をするはずなのに、一切その話をしない。
あまりにも当たり前に左手だけで物事をこなすので、フリッツは自然にそれを受け入れていた。
「そう・・・ふつうは右手がなぜないのかをいぶかしがり、そして周りの人に聞いて回るはず。けれど、彼女はそれをしない。彼女の記憶障害にはおかしなところがあるの」
「・・・・・・・・・・」
「まず、バウムガルデン家には時折偉大な魔力をもつ子が生まれてくることがあることを話さなくてはならないわね・・・・・・」
バウムガルデン家のセフィールにもバウムガルデン家にも人に知られてはならない秘密があった。
古から絶対不死究極竜と呼ばれる存在がある。
究極竜が世に出ようとするたびに、バウムガルデン家には封印魔力を持つ子が生まれ、文字通り命をかけて竜を封印し、世に出ないようにしていた。
セフィールも同じ役目を負うはずだった。
けれど、封印だけではだめだと異議を唱えたのが他ならぬセフィールだった。
「倒せないなんて!私は認めないわ!私個人はそれでいいし、覚悟はしているの。けれど、それでは後の子孫たちが可哀そうでならないわ。何とかならないの?」
誰も何も解決方法を持たなかった。セフィールは自分で図書室に閉じこもり、あらゆる蔵書をあさった。あるいは禁書と呼ばれるものもひそかに手に入れて研究をしていたようだった。
「彼女は一つの方法を見つけたの。究極竜の肉体は不滅だけれど、究極竜の精神を滅すれば何とかなると。自分の精神だけ切り離し、究極竜の精神に接触して・・・・・・」
イルーナの言葉が詰まった。しばらく眼を閉じ、気持ちを整理するかのように上下する胸に手を当てていたが、短く詫びを言って話を再開した。
「彼女は誰にもそのことを離さなかった。究極竜が目覚め、その封印の決行当日・・・彼女は右腕を犠牲にしたわ。自分の右腕を究極竜の喉に突き立てて・・・・腕は食いちぎられたけれど、今もまだ究極竜の喉に突き刺さっている」
「待ってください、なぜあなたはこの話をご存じで・・・いや、まるで見てきたように話をされている」
「立ち合いはしていないわ。究極竜はバウムガルデン家の人間しか入れない異空間にいるの。究極竜の居場所を知っているのも、封印に立ち会えるのもバウムガルデン家の人間だけ。・・・・・口を閉ざしたバウムガルデン家の人間からこのことを聞き出すのにどれほど時間がかかったか」
最後は吐き捨てるようだった。
一陣の風が吹いてきて、二人に木葉をまとわせた。
「セフィールは・・・・・」
フリッツは震える声を抑制した。結論を知りたくはないが、けれど、知らなければならない。ここまで聞いたのだから。
「死んだのですか?」
投げられた問いが相手に届き、返答が返ってくるまで、フリッツは重く長い時間を覚えた。
「いいえ、わからないわ。けれど・・・・セフィールがまだああして生きている限り精神は死んでいないと思う」
「と、言いますと?」
「彼女はまだ戦っているわ。たった一人で。根拠はないに等しいけれど、私はそう信じるの」
「彼女は時を空間を超え、今も一人で戦い続けている・・・・・」
あまりにも壮大な話にフリッツは言葉を失った。
「では、セフィールを救い出す方法はないのですか?」
「私は・・・貴方が鍵かもしれないと思ったの」
「僕が?」
「セフィールと長く接触している貴方なら、セフィールを通じて手を出せるかもしれない。貴方が接触できれば、貴方を媒介として私も手を貸すことができるわ」
フリッツは息を吸い込んだ。セフィールを救い出せるかもしれない。けれど、そのためには全く未知の存在と戦わなくてはならない。
勝てるのか?軍人である自分に染み付いた習慣が心の中で声を上げる。軍人であれば、やむを得ない場合を除き、まず勝ち目のない戦いはしない。
情報も何もない。どうやって戦えばいいかもわからない。
けれど――。
今日の最後に見たセフィールの悲しげな顔が思い出された。
報われなくても、セフィールは決意を日記に綴り続けてきた。そして今も独りで戦っている。
なんといじらしい努力だろう。真似はできない。だからこそ、セフィールを支えたい。
フリッツは頷いた。強い頷きをもってイルーナに話した。
「まず、情報をください。セフィールを助けたい。けれど、勝ち目のない戦いはしたくはない」
「セフィールがすぐに死ぬかもしれないとしても?」
切り返された反駁にもフリッツは動じなかった。
「僕はセフィールを信じます。セフィールは簡単にやられはしません。ええ、僕は、セフィールを信じる。その上でできうる限りの対策をして戦いに臨みたい」
イルーナは頷いた。
* * * * *
暗く、雷鳴がとどろき、稲妻が走る空間。
ひたすら暗黒の空に、一つの祭壇があるだけの空間。
不思議と互いの存在は、はっきりと見ることができる。
竜と二人ぼっちの空間ね、と自嘲しかけたセフィールはかぶりを振った。正確には1匹と1人だ。
竜と人間はにらみ合いを挟みながら、交錯し、飛び違い、互いに炎と波動をぶつけ合い、戦い続ける。
もう何時間・・・いや、何日、何十日、何百日、戦い続けてきただろう。
「私は独りぼっち・・・・なんてね」
半ば冗談交じりでそう言えるのは、どんなに時間の感覚がなくなっても、自分に届く声が途絶えなかったからだ。
『セフィール。一別以来、君はちっとも変っていない』
「えぇ、フリッツ、私はずっとこのままよ。負けていない。まだ負けていない。貴方の声が聞こえる限り」
竜の顎に渾身の波動を放ち、返ってくる炎に間一髪身をかわしながらセフィールは思う。
まだ、負けない。負けていない。そのことが生きて帰れる希望に繋がる。
だから、どうか、声を届けて。私に負けない声を届けて。
『そろそろ声だけでは飽きたんじゃないかい?』
セフィールが振り向く。光に包まれ、誰かがこちらにやってくる。
あっけにとられていたのはセフィールだけではなかった。竜も身動きを止めて、有り得ない侵入者を見つめている。
『え?え?どうやって・・・・?』
『随分長い間待たされていい加減に待ちくたびれてしまったから、やってきてしまったよ』
セフィールの顔がゆがむ。それを振り捨てるように飛び切りの笑顔に作り変えると、相手に抱き着いた。
竜が怒りの咆哮を上げ、二人に襲い掛かってきた。
* * * * *
4か月後。
バウムガルデン家が管理する園の奥の家に、いつもの訪問者がやってきた。
「いらっしゃい、フリッツ。随分ご無沙汰でしたわね」
「あぁ、久しぶりだね、セフィール。一別以来、君はちっとも変っていない」
見事な透き通るような金髪を緩やかに波打たせた青い目の少女は訪れた黒髪の青年に笑顔を向ける。
にこやかな、それでいて月並みな歓迎の言葉。
嘘でちりばめられた月並みな返答を返しながら、フリッツはひそかに苦笑する。
あぁ、本当に、笑うしかない。
どうしてこうなったのか、本当に、ばかばかしくてやるせないのだけれど。
「どうか、お座りになって。随分久しぶりですもの。いろいろとお話を伺いたいわ」
セフィールは左手で椅子を指示した。
「あぁ、セフィール、そうだね。そして唐突で申し訳ないが、随分前に君とある約束を交わしていてね」
「やく、そく?」
セフィールは聞きなれない単語を聞いたかのように小首をかしげる。
「あぁ、約束だ。きっと筆まめな君のことだからきっと日記帳に―」
「まぁ、そうでしたの?」
雲一つない陽光の光を受け、チチ、と小鳥がさえずりながら飛んでいく。
日記帳は取り上げられることはなかった。
「・・・な~んて。フリッツ、貴方は人が悪いわ。こんなに大事な約束・・・・日記帳に書くまでもないもの」
セフィールがほほ笑む。純白なウェディングドレスに身を包み、髪は綺麗に結い上げられている。
フリッツは胸のときめきを覚え、そして自分を笑う。長年染み付いた習慣は変えられそうもない。
変っていない、だって?とんでもない、だいぶお変わりになられましたとも。
「あぁ、約束したとおり・・・・やっとこれた。迎えに来たよ。綺麗だ。本当に・・・・綺麗だ」
「月並みな言葉、ありがとう。4か月待ったのですから、もう少し気が利いた言葉が欲しかったのだけれど」
「あ、あぁ、ごめんごめん」
狼狽したフリッツにセフィールが笑いかける。
謝ったフリッツは眼を閉じる。これまでのことが走馬灯のようによぎる。
本当に長かった。父を説得し、バウムガルデン家の当主を説得し、ここまで漕ぎづけることができたのは奇跡だった。
頑固だった父も、最後には降参したように両手を上にあげ「さる筋からもああまで言われては仕方がない」と言ったのだった。
「でも、フリッツ、貴方は一つ忘れものをしているわ」
「え?」
「覚えていないの?」
フリッツは当惑する。式の準備、指輪、誓いの言葉、忘れていることはないはずだが・・・・。
「覚えていないのね。あぁ、もう!なら私は行かない」
「え?」
「行かないわよ」
「ええ!?!?」
フリッツは愕然とする。まさか、そんな、結婚前に振られるなんて!?ここにきて!?
「ごめん、ごめん、本当にごめん。僕が忘れていることは何なんだろう・・・・」
セフィールは頬を膨らませたが、してやったりという勝ち誇った色も混じっていた。
「ボードゲームの続きよ。まだ式には時間があるでしょう?随分早く来たみたいだし、7勝7敗の決着をつけなくちゃ」
いそいそとテーブルの下から取り出されたボードゲームをフリッツは凝視していたが、やがて笑い出した。
「今までずっと僕が君に尋ねていたことへの仕返しかい?」
「あら、そう思って?」
すまし顔で左手でボードゲームのコマを並べ始めるセフィールを見たフリッツは、勢いよくもう一方の椅子に腰かけた。
「わかった!決着をつけよう。けれど、後悔するなよ。式前に負けて、悔しい思いを抱えながら式に臨む花嫁は見たくない」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
笑いあった二人の視線が交錯する。
穏やかな風が吹き渡る中、ずっと引き分けが続いていたボードゲームの決着をつける対局が始まった。
陽光が降り注ぐセフィールの部屋には日記帳がそっと置かれている。
昨日の日付の日記には、優美な筆跡で細かな日常が綴られている。
明日フリッツと結婚すること。
今日は家族と、特に母親と長い時間、これからの結婚生活について話したこと。
随分衣装選びに時間がかかり、髪形を決めるのにも苦労したこと。
プロポーズに、フリッツが白いアースヒースの花をもって尋ねてきてくれたことを思い出したこと。
昼食にはホットサンドを食べたこと。
そして、最後にこう記されていた。強い決意の言葉で。
「明日、フリッツが尋ねてきたら、私はフリッツにこう言ってやるの。『覚えている?ほら、ずっとお互い引き分けだったボードゲームのこと。今日は負けないわ。長いことできなかったボードゲームの続きをしましょうよ』って」
セフィールなりの強い決意。
今まで言葉を変えて綴ってきた願いはついに叶ったけれど、彼女は新たな願いを綴る。
明日も、そして今後もおそらく、ずっと。
どうか、私の記憶がこれからもずっとずっと保ちますように、と。