殿下は殿下の心のままになさってください。
(なんかこの場面、見覚えがある……)
それは、ふわふわしたピンクの髪の毛、濃い青色の瞳を持つ令嬢が、わたしの婚約者――――ヴァージル殿下と微笑み合う姿を見たときのことだった。
どこからともなく舞い上がる花吹雪。周りには沢山の人がいるのに、まるでふたりきりみたいな空気感を醸し出し、熱く互いを見つめ合っていた。
(分かった。――――あれだ。乙女ゲームだ)
自覚した瞬間、記憶が走馬灯のように一気に蘇ってくる。
状況を一度整理しよう。
わたしはマチルダ。公爵令嬢であり、王太子ヴァージルの婚約者だ。今日から彼とともにこの王立学園に通うことになっている。
父は宰相。それから、優秀な兄が一人いる。子供の頃からの記憶だってバッチリある。
だけどこの世界は、前世のわたしにとっては非現実――――人の手によって作り上げられたゲームの中の世界だ。
(っていっても、内容はほとんど覚えてないんだけどね)
大きなため息を吐きつつ、わたしはヒロインと己の婚約者とをちらりと見遣る。
わたしは元々恋愛小説や乙女ゲームが好きなタイプじゃなかった。寧ろ恋愛とかそういうのは苦手で、遠ざけていたといっても過言ではない。だけど――――
『ダメだよ真知。恋愛が苦手ってだけならまだしも、性格キツイし隙だってないし、そんなんじゃ一生彼氏できないって。男ってもっとふわふわした子が好きなんだからさ』
友人の一人にそんなことを言われて、参考にするようにと渡されたのがこの乙女ゲームだった。
今思うとめちゃくちゃ大きなお世話だけど。それでも一応プレイはした。
(苦手なんだよなぁ、あのヒロイン)
明るくてふわふわしていて、隙だらけで。恋愛のことしか頭にないって感じ。
そりゃ、ゲームだからキャラクターやそれを取り巻く一面しか切り取られてないんだろうけど、それにしたってわたしは好きになれなかった。
(そもそも、婚約者がいる男を好きになって、奪い取っておいて、被害者ぶるってどうなのよ?)
この先になにが起こるかを思い出すだけで、頭がめちゃくちゃ痛くなる。
ヒロインのカトレアは王太子ヴァージルと恋に落ち、婚約者がいることに思い悩む。
わたしはわたしで、ヒロインに苦言を呈しまくり、王太子とのデートなんかを妨害し、ゲームにおける悪役として君臨する。
最終的には、王太子ヴァージルはそんなわたしに愛想を尽かし、今から三年後に婚約を破棄し、カトレアと婚約を結び直してハッピーエンドっていう流れだった――――と思う。
(でもさ、それってひっどい話よね)
ヒロインがやってることって略奪じゃん。ただの横恋慕じゃん。
それなのに悪いのは苦言を呈し、二人を邪魔した悪役令嬢のマチルダのほう。
王太子については罪悪感すら覚えていない印象だったし、最悪。
まあつまり、このゲームは前世のわたしにとって、全く参考にならないどころか大嫌いなクソゲーだった。
「マチルダ」
と、そのとき、ヴァージル殿下がわたしの名前を呼んだ。
ようやくわたしの存在を思い出したらしい。わたしも忘れていた――――っていうか、こんな男、どうでもいいから別に構わないんだけど。
「なんでしょう? わたしになにか? ……あっ、もしかしてお邪魔でした?」
ゲーム内でマチルダ(=わたし)がふたりになにを言ったかは覚えていない。多分だけど、早速苦言を呈してたんじゃなかったかな。
まあ、それが当たり前の感覚だと思う。自分の婚約者がどこの誰とも知らない女と目の前でイチャイチャしてるんだからさ。
「え? あ……いや、長引きそうだから先に教室に行ってもらったほうが良いかな、と」
「承知しました。そのほうがありがたいですわ。それでは御機嫌よう」
ぼーっと突っ立っていたせいで足が痛いし。他ならぬ殿下が勧めてくれたんだもん。遠慮なく帰らせてもらうことにする。
なぜだかわたしの返答に困惑しているヴァージル殿下を置いて、わたしはひとり、校舎へと向かった。
***
「先ほどはすまなかった、マチルダ。不快な思いをさせただろう?」
教室で授業がはじまるのを待っていたら、ヴァージル殿下はわたしに謝ってきた。
(悪いと思うなら最初からするなよ)
わたしは深々とため息を吐きつつ、ヴァージル殿下をちらりと見遣る。
「さっきの令嬢は? 同じクラスじゃないんですか?」
「え? ……ああ。彼女は隣のクラスらしい。もっと成績が良ければ、と残念がっていたよ」
「……そういえば、そんな話でしたね」
この学園のクラス分けは成績順になっている。ヒロインはもともと中の中ぐらいの成績で。そこからヴァージルのために努力して、最終的には同じクラスに上がれるっていう話の流れだった。
(まあ、努力家なのは結構だけど)
性格がほわほわしているうえ、知識までないんじゃ、妃なんてとても務まらないだろうしね。
「――――怒っていないのか?」
「怒る?」
わたしの反応が意外だったらしい。バージル殿下は首を傾げつつ、そんなことを尋ねてくる。
「別に。怒る要素が見当たりませんけど」
殿下に対して思うところはなにもない。
二年ぐらい前に親から婚約するように言われて、数回顔を合わせただけ。
顔は綺麗に整っているけど、わたしの好みじゃないし。
どうせ婚約破棄は確定事項だろうから、これからはさらに距離を置くのが正解だろう。
(お妃教育が始まるのは一年後って話だしね)
ゲームと展開が変わっちゃうけど、できたらこの一年の間に婚約を破棄されてしまいたい。面倒なことは嫌いだし、無駄金だもん。国にとって良いことはなにもないしね。
「わたしのことはどうぞお構いなく。殿下は殿下の心のままに。好きなようになさればいいと思います」
恋愛も結婚も面倒だ。心を動かすだけ時間の無駄だし、そんな価値はないと思う。
おそらくだけど、殿下に婚約を破棄されたら、わたしと婚約したいっていう人は現れないだろう。わたし自身はそれで構わない。
どうしても結婚させたいなら、親が頑張ってくれるだろう。前世みたいに自由恋愛ってわけじゃなく、政略結婚がほとんどだから、その点についてはこっちのほうが楽だ。
(乙女ゲームを参考に性格を改めろ、恋愛しろなんてことも言われないだろうし)
小さく笑うわたしをよそに、殿下は先ほどよりも大きく首を傾げた。
***
その後、ヒロインのカトレアとヴァージル殿下は順調に交流を続けているようだった。
(たしか裏庭にある秘密の場所で逢瀬を重ねながら、王太子としての重責を打ち明ける、とかって感じだったっけ)
誰からも同情、共感してもらえないヴァージル殿下にとって、ヒロインの存在は癒やしらしい。愚痴に対して「わかります」って返事をしたら、ヴァージル殿下にめちゃくちゃ嬉しそうに微笑まれて、ヒロインがときめくっていうありきたりな展開が書かれていた覚えがある。
まあ、本人に交流状況を聞いたわけじゃないし、確認しに行ったわけじゃないから、実際のところはよく分かんないんだけど。
(たしか、原作ではマチルダが二人の逢引現場に乗り込んで邪魔をするし、ふたりきりで会うのを禁止するし、国王陛下や王妃様に言いつけて結構おおごとにしてたんだよね)
当たり前の行動っちゃ行動だと思う――――けど、相手を思っていないわたしには絶対にできない。妃の位に対してだって、なんの思い入れもないし。わざわざ足を運ぶのも、怒るのも疲れるし。
「どうして殿下をお止めにならないんですか、マチルダ様!」
とそのとき、背後から唐突に声をかけられた。
愛らしくて甲高い女性の声。振り返ったら、そこにはヒロイン――――カトレアの姿があった。
「止めるって……なにをですか?」
「そんなの当然決まってます! ヴァージル殿下と私が裏庭で会っていること、ご存知なんでしょう?」
「はぁ……」
なんだそりゃ。ツッコミどころが満載過ぎる。
何故わたしが二人を止めなきゃならないのか。
止められるべきことだと分かっていて、何故逢瀬を続けるのか。
どうして逢瀬を止められたいと思うのか。
(意味わからん。会いたいなら会えばいいじゃない。わたしは止めないし)
非難がましい瞳でわたしを見つめてくるカトレアに、わたしは盛大なため息を吐いた。
「どうでも良いから、です」
端的に、問われたことだけに答える。それから踵を返したら、ぐいっと腕を引っ張られた。
「痛っ……」
なにすんだ、この女。痛いし、そもそも失礼だろう。
「どうでも良いってなんですか! 殿下のこと、好きなんでしょう?」
ムッと唇を尖らせ、カトレアがわたしの道を塞ぐ。なんでか怒っているらしく、顔が真っ赤だ。
「いや、別に好きじゃありませんけど。普通に政略結婚――――婚約しているだけですし」
どうしてわたしの気持ちを勝手に決めつけるのだろう? 面倒だし、鬱陶しいし、色々と嫌になってくる。
「そんな……ひどい。殿下が可哀想だわ! こんな冷たい人が婚約者だなんて……私が殿下の婚約者なら、もっと殿下のことを気にかけますのに」
(どうぞどうぞ。さっさと婚約すればいいと思ってますけど)
えぐえぐと涙を流すカトレアを見ていたら、段々イライラが募ってきた。
だけど、男ってこういう女がタイプなのよね。だからこそ、参考にしろ、プレーしろって勧められたわけだし。
(無理だわ)
わたしとは相容れない。The・女子って感じ。昔からそういうタイプは苦手だったけど、この子は別格かも。
「カトレア!」
とそのとき、どこからともなく殿下の声が聞こえてきた。
なるほどね。悪役令嬢っていうのはこういう感じで形作られていくものらしい。この状況を見たら、誰だってわたしが悪いと思うもん。さすが、ヒロイン様って感じ。
「マチルダ、カトレアになにを言ったんだ!」
ヴァージル殿下が睨んでくる。
ホントばかみたい。おかしくって笑えてくる。
「大したことはなにも。わたしはただ、殿下と仲良くなさってくださいと申し上げたかっただけです」
「なにっ?」
殿下が律儀に驚いている。さっさと話を切り上げたくて、わたしは頭をフル回転させた。
「裏庭だろうが、お城だろうが、お好きな場所でお会いになったら良いと思います。わたしは一向に構いませんよ。それで殿下の心が安らぐなら、それが一番でしょう」
「マチルダ……」
カトレアをちらりと見遣りつつ、殿下は瞳を輝かせる。ヒロインと違い、ヒーローは存外素直らしい。
「何事も、殿下のしたいようになさればいいと思います」
泣きじゃくるカトレアを押し付け、わたしはようやく開放された。
***
「殿下のこと、このままでよろしいのですか?」
それから数日後、わたしは一人の男性に声をかけられた。
赤髪に金色の瞳、逞しい体格の持ち主で、ヴァージル殿下の近衛騎士を務めている男性だ。19歳で、既に学園を卒業済み。護衛として学園に通っている。わたしはヴァージル殿下ルートしかプレイしていないからよく分からないけど、たしかこのゲームの攻略キャラの一人だったはずだ。
(なんて名前だったっけ)
全然、思い出せない。
じっと男性を見つめつつ、わたしはコホンと咳払いをした。
「このままで、とは?」
「カトレア嬢が殿下に急接近しているようです。貴女は殿下の婚約者でいらっしゃいますし、気になるのではないかと」
どうやらわたしを心配してくれているらしい。――――いや、もしかしたら殿下の指示――――意向調査というものだろうか? まあ、どちらでも構わないのだけど。
「気になりません――――というか、二人は思い合っているようですし、さっさと彼女と婚約すれば良いんじゃないかと思っています」
授業の内容をノートにまとめつつ、わたしは静かに息を吐いた。
「なっ……それは、本当か?」
「ん?」
さっきの騎士とは違う声。顔を上げたら、そこにはヴァージル殿下がいた。なんでか分からないけど、すごく悲しそうな顔をしている。
「本当です。殿下は殿下の思うがまま――――ご自由になさればいいと思います」
婚約期間を長引かせるだけ不毛というもの。せっかくの機会だし、わたしはきっぱりと自分の考えを殿下に告げる。
「いや、だけど……君はそれで良いのか? というか、マチルダは僕のなにが気に入らないんだ?」
「はい?」
態度には出さないように気をつけていたつもりだったけど、どうやらバレていたらしい。
(どうしたものか)
「そんなことはない」と答えるのは簡単だけど、嘘っぽいし(っていうか嘘だし)。知らぬが仏って言葉もあるんだけど、本当にいい機会だから本心を言っておいたほうが良いのかもしれない。わたしは大きく息を吸い込んだ。
「――――世の中のすべての人に好かれるのは無理ですよ、殿下。いくら殿下が王太子でいらっしゃっても、相容れない人というのは必ずいます。それに、人には好みというものがございますから」
殿下はきっと、色んな人にチヤホヤされて、みんなに好かれるのが当たり前だったのだろう。だからこそ、わたしの発言にショックを受けてしまったらしい。
「具体的には……具体的にはなにが? どういったところが相容れないんだ?」
「え? うーーん……そうですねぇ」
メイン攻略キャラ(っていうやつらしい)ってことで、見た目は別に悪くない。金色の髪に緑色の瞳は綺麗な色合いだと思うし。芸能人みたいに目鼻立ちも整っているし。物腰柔らかくて、細くて、スマートな感じで、王子様系男子が好きな子はめちゃくちゃ好きだろう。
性格は――――正直、ヒロイン至上主義だったことしか覚えてないんだけど。基本的には賢くて優しくて、スマートな王子様っていう感じだったはずだ。だけど、その一方でウジウジと弱音を吐いたり、神経質っぽい感じが垣間見える発言をしたり。女々しいというか、なよなよしているというか。まあ、優男って言ったらそれまでなんだけど。
「本当に、好みじゃないっていうだけです」
わたしは単に、もっと逞しいタイプが好きってだけ。余裕があって、包容力がありそうな、大人の男性のほうが見ていて安心する。
ちらりと護衛騎士の方を見遣ったら、殿下は大きく目を見開いた。
「そうか! マチルダはディランみたいな男が好みなんだな?」
「は? ……まあ、どちらかといえば」
っていうかその人、ディランって名前なんだ。あんまり興味はないんだけど、取り敢えず適当に相槌を打つ。
「分かった。鋭意努力しよう」
「は?」
訳のわからないことを言い残し、殿下は教室からいなくなった。
その日以降、殿下は変わった。
休み時間は護衛たちとともに学園の周りを走り回り、馬術や剣術に励んでいる。肉体改造に忙しいせいで、どうやら裏庭にも行っていないらしい。
『健全な精神は健全な肉体に宿る』
とかなんとか口にしているらしく、カトレアに愚痴を零す必要がなくなったのだそうだ。
(まあ、良いことなんだろうけど)
この国にはヴァージル殿下以外の跡取りがいない。どんなに嫌でも、辛くても、彼はその重責から逃れることはできないんだもの。困難を迎え撃てるだけの知力と体力、それから自信を持っていたほうが良いだろうから。
「納得できませんわ!」
とそのとき、背後からそんなセリフが聞こえてきた。
(またこの女か……)
半ばうんざりしながら振り向くと、そこには思い描いた通りの人物――――カトレアがいた。
「なにが納得できないんです?」
「なにって、当然殿下のことです! どうしてあんなふうになってしまいましたの?」
「あんなふうって?」
「少し前まで『僕が王太子でいいんだろうか?』とか、『自信がない』だなんて仰ってたのに、急にあんなに元気になられて。身体だって、以前よりも逞しくなられていますし……わたくしは細身の男性がタイプなのに」
なるほど、殿下が裏庭に来なくなったことが気に食わないらしい。わたしは静かにため息を吐いた。
「別に――――悩みから解放されたなら、良いことだと思いますけど。
っていうか、ヴァージル殿下は貴女を信頼して悩みを打ち明けてくれたのでしょう? それを勝手に他人に話すのは如何なものかと思います」
殿下としては他人に――――特にわたしには弱みを見せたくないんだろうし。そもそも、王族にはメンツってものがあるというのに。
「なっ……そんな、だけど!」
どうやら言い返す言葉が見つからないらしい。わたしはさらにため息を吐いた。
「貴女は殿下の心を救いたい――――支えたいんじゃなかったの?」
正直言って恋愛のことはよく分からない。
だけど、相手を思えばこそ、相手の力になりたいと思うものなんじゃなかろうか?
「そうじゃありません。だって、このままでは殿下はわたくしを必要としなくなるし、そうするとわたくしを見てくださらなくなるじゃありませんか」
「……はい?」
なんだそりゃ。つまり、殿下の話を聞いていたのは、殿下のためじゃなくて自分自身のためってこと?
「そんな気持ちで他人の話を聞いてたら疲れません?」
わたしなら嫌だ。イライラするし、面倒だし。時間の無駄だと心から思う。
「もちろんですわ! けれど、そういう手順を踏まなければ、人は仲良くなれないものでしょう?」
「そんなこともないと思いますけど」
なんだろう? 前提条件がそもそも違っている気がする。
仲良くなったからこそ、相手の力になりたいと思うものじゃない? この子の場合、無理やり殿下を好きになろうとしているというか――――そういう感じがする。
「とにかく、マチルダ様から殿下に鍛錬を止めるように伝えてください!」
「お断りするわ。わたしには関係ないし。殿下は殿下の好きなようになさったらいいと思うもの」
これ以上相手にするだけ時間の無駄だ。
わたしはカトレアから離れるべく、踵を返した。
***
「優秀だとは聞いていたけど、マチルダは本当に頭がいいんだね」
それは初めての定期テストのこと。校内に貼り出された成績表を前に、ヴァージル殿下が青ざめた表情でそう言った。
(まずったなぁ……もう少しミスするべきだったのか)
王族は皆の手本となるべき存在だ。何事につけても、常に一番を求められている。
それなのに、わたしは次点の殿下に大きく差をつけ、今回のトップをとってしまった。
王家の面目丸つぶれ――――とはいえ、手加減だとかそういうことを考えるのは失礼だとも思う。
「すみません。こんなつもりじゃなかったんですが」
前世でも言われたことだけど、自分よりも頭がいい女っていうのは目障りなものらしい。ツンツンしていてとっつきづらいとか、能力を鼻にかけているとか、散々嫌味を言われたもの。
「なにを言う! 本当に素晴らしい成績だ! あの難しい試験をここまで……本当に、感動している」
「は、はあ……」
それは想像していたのと全く違った反応だった。ヴァージル殿下は瞳をキラキラと輝かせ、わたしの手を握ってくる。彼の努力の結晶――――ゴツゴツと硬い剣ダコに、思わずウッと息を呑んだ。
「マチルダは試験のために、相当努力をしたのだろう?」
「努力というか、勉強は嫌いじゃありません」
「嫌いじゃない……良いことだ。学ぶことを楽しめる人間が一番強い。王族に必要なのは飽くなき向上心だと父上も言っていた」
「え? まあ、そうかもしれませんねぇ……?」
こんなふうに手放しで褒められると、なんだか居心地が悪い。正直、わたしが殿下と結婚することはないのだから、王族云々言われたところで困るのだけど。
「殿下は殿下で、最近はかなり剣術を頑張っていらっしゃるじゃありませんか。わたしは勉強だけですし、素直に御自分を誇っていいと思いますけど」
「見ていてくれたのか?」
ヴァージル殿下は満面の笑みを浮かべつつ、ズイと顔を近づけてくる。
「え? いや、見ていたというか……あんなに毎日校内を走り回っていたら、嫌でも目に入るかと」
「見ていてくれたんだな!」
その瞬間、体の奥で、トクンと何かが小さく鳴る。
身体がふわふわして、ソワソワして、なんだかとても落ち着かない。
(なんて返せば良いんだろう?)
正解がちっとも分からない。
逃げ出してしまいたい――――そんなふうに思ったそのときだった。
「殿下! ヴァージル殿下!」
カトレアの声だ――――と思ったのも束の間、彼女はニコニコと微笑みつつ、わたしと殿下の間に割って入る。
「試験の結果、拝見しました! 本当に素晴らしい成績ですわ!」
ニコニコと愛らしい笑みを浮かべつつ、カトレアは殿下の腕に抱きついた。
「ありがとう、カトレア。けれど、試験の成績は僕よりもマチルダのほうが上だ。先に彼女を褒め称えるべきだろう?」
「えぇ……マチルダ様を?」
カトレアはとても不機嫌な表情で、わたしの方を振り向いた。そんな顔すんなよ、と諭したくなるような嫌な顔だ。まあ、殿下には見えてないし、別にいいんだけど。
「あの、殿下! わたくし来年は殿下と同じクラスになりたくて……それで、今から勉強を頑張ろうと思っているのです」
「そうか……それは良いことだな」
ヴァージル殿下はカトレアの腕を退けながら、ニコリと快活な笑みを浮かべる。
「あっ、いえ! それで、殿下に勉強を教えていただけないかなぁって思ってまして……」
「僕に? どうして?」
ヴァージル殿下は心底不思議そうな表情で、首を大きく横に傾げる。
その瞬間、カトレアは真っ赤に頬を染め、眉間にグッと皺を寄せた。
「え? ……え? だけど、その……」
「僕は試験では次席だったし、公務や鍛錬、自分自身の勉強で忙しい。頼むべき人間は他にいくらでもいるだろう?」
「そんな……! だけど、ゲームでは……」
どうやらカトレアはわたしと同じ――――転生者らしい。そういえば、ゲームの中でカトレアがヴァージル殿下に勉強を教えてもらうっていう場面があった気がする。
「そういうわけだから、僕たちはこれで。行こう、マチルダ」
「え? だけど……」
あんな状態のあの子を放って置いて良いのだろうか? 傷ついてるっぽいし、もう少しフォローとかしたほうが良い気がする。っていうか、このままじゃ疎遠になる気がするんだけど。
「不快な思いをさせてすまなかった」
道すがら、ヴァージル殿下がそっと囁く。何故だろう。以前の形ばかりの謝罪とは大分違って聞こえる。
「不快って、カトレアのことですか? 別に、なんとも思っていませんけど」
ただうるさいなぁってだけ。価値観や考え方が相容れないのは元々だし。
「君が気にせずとも、僕が気になるんだ。彼女は元々他人との距離感が近いうえ、誰かに助けてもらえることが当たり前になっている。だから、僕にあんな頼み事をしてきたのも、特別ななにかがあるからってわけではないんだ」
「は、はぁ……」
正直どうでも良い――――といえばどうでも良いのだけど、とてもそんなことを言えるような雰囲気ではない。
と、そのとき、一体何を思ったのか、ヴァージル殿下が手を握ってきた。心臓のあたりがブワリとざわめき、喉のあたりになにかがつかえる。
「殿下……?」
尋ねるわたしに向かって、殿下が微笑む。少し日焼けした肌、以前よりも凛とした顔立ち。数ヶ月前とは別人みたいに見える。
「好きなようにしてもいい、だろう?」
「え、ええ……」
うなずきつつ、顔を背ける。何故だろう? 顔がめちゃくちゃ熱かった。
***
「どうして! どうしてわたくしの邪魔ばかりするのよ!」
それから数日後のこと、わたしはカトレアから呼び出しを受け、裏庭に連れ出されていた。
「邪魔って、何が?」
いい加減色々面倒くさい。わたしは深々とため息を吐いた。
「貴女も、このゲームをプレイしたんでしょう! 見てたら分かるわ。わたくしのことをいつも忌々しそうな目で見ているし」
「忌々しいというよりは迷惑です。面倒です。ヴァージル殿下と結ばれたいなら、どうぞ勝手になさってください。わたしは止めませんから。
大体、わたしに絡まなくたって、ヴァージル殿下のことは攻略できるでしょう?」
「それじゃ、ちっとも楽しくないじゃありませんか!」
「…………はぁ?」
カトレアが言い放ったのは、これまでで一番訳のわからないセリフだった。
彼女は顔を真っ赤に染め、唇をグッと引き結んでいる。
「悪役令嬢のマチルダが嫉妬をするから! 妨害をしてくるからこそ、ヒロインは罪悪感を抱くし、それを凌駕するほどの優越感に浸れるんでしょう? 誰にも羨ましがられない恋愛なんて楽しくないもの。意味がないのよ!」
なるほど――――そんなふうに思う人もいるのか。
っていうか『わたくしの邪魔をするな』と言いつつ『妨害をしてこないのはおかしい』って言うのは大分矛盾している気がする。
わたしは半ば呆然としながら、カトレアのことをまじまじと見つめた。
「えぇっと……大丈夫じゃありませんか? ヴァージル殿下は王太子で、財力も権力もあるわけだから、これからきっと色んな人に羨ましがられますよ」
「それも大事だけど! 恋が叶うまでの過程が大事なんです! 当事者である貴女がどうでも良いなんて言ってたら、ホントに全然楽しくない! こんなことなら、貴女のお兄さんとか、別のキャラを攻略したら良かった!」
「へ? はぁ……」
なんでもいいけど、これ以上わたしを巻き込まないで。どうか勝手にしてほしい。
「なんなのよ、貴女! 一体何がしたいわけ? どうして自分の婚約者を奪われないようにしようと思わないんですか?」
「わたしは――――恋愛とか、よく分からないし。心を揺さぶられるのも嫌いで、平穏に生きていたいと思うタイプだし。
だから――――好きな人がいるのって素敵なことだなぁって。本当に好きな人がいるなら、その人と結ばれるべきだって思ったの」
前世で、誰かを好きになるための努力はした。
けれど、無理やり恋をしたところで、心はちっともときめかない。
男性が好む可愛げのある女になるのもわたしには無理だった。
だから、素直に恋愛ができる人が羨ましい――――好きな人がいるのなら、その想いを叶えるのが一番だと思った。
「――――だったら、マチルダは僕と結ばれなきゃ、だね」
思いがけない言葉。背中を覆う温もり。
振り返れば、ヴァージル殿下が優しく微笑んでいた。
「なっ……殿下? 一体いつからそこに?」
尋ねたのはカトレアだった。彼女はワナワナと唇を震わせつつ、呆然とこちらを見つめている。
「最初から。あのへんで隠れて話を聞いていたんだ。
マチルダが君に呼び出されたって聞いたからね。危ない目にあったらいけないだろう?」
「……そうでしたか」
呼び出しを受けたことは誰にも伝えていない。おそらく、わたしに対して密かに護衛をつけていたのだろう。
「ところでカトレア。さっきから聞いていたら、随分な言い様だったね。罪悪感がどうとか、優越感がどうとか、楽しくないとか、色々」
「あ……それは、その…………」
「残念だけど、僕は君の優越感を満たすための道具になるつもりはないよ。君にはとても王妃は務まらないしね。
そもそも、僕が好きなのはマチルダであって、君じゃない。これから先も、君を好きになることはないよ」
はっきりと、きっぱりと、ヴァージル殿下がカトレアに向かって言い放つ。彼女は真っ赤に顔を染め、脱兎のごとくその場から逃げ出していった。
***
「あの……すみませんでした」
ふたりきりになった裏庭、花壇の縁に腰掛け、わたしは殿下と隣り合う。
「何が?」
「殿下に嘘を吐かせてしまったことです。わたしを守るために『好き』だなんて嘘を仰ったのでしょう?」
言葉にしながら、申し訳無さが胸を突く。
こんな性格のキツい女、誰からも好かれることはない。可愛げもないし、頭でっかちだし、好かれる要素が皆無なのだから。
「え? 僕はマチルダのことが好きだよ」
本当に、と付け加え、ヴァージル殿下が首を傾げる。わたしは思わず目を瞬いた。
「そんな、馬鹿な……」
「馬鹿と言われたところで、それが事実だ。
はじめはマチルダに興味を持ってもらえないのが悔しくて。単にこちらを振り向かせたいだけだった。
だけど、君は優秀で、自分をしっかりと持っていて、何事にも一生懸命なんだってことに気づいたんだ。リアリストで、ふわふわと夢見がちじゃなく、どこまでも自分の足で歩いていける――――そういう強さが好ましい。僕も君に負けないように頑張らなければと思ったし、マチルダが安心して頼れるような――――甘えられるような存在になりたいと思った。本当だ」
身体中の血液が沸騰したみたいに熱くなる。心臓がバクバクと鳴り響き、上手く息ができなくなる。
(こんなわたしを好きになってくれる人がいるなんて……)
にわかには信じがたい――――けれど、嘘とも思えない。
ヴァージル殿下はわたしの手を握ると、触れるだけのキスをする。ゴクリとつばを飲みながら、わたしは視線をうろつかせた。
「今はまだ恋にならなくても良い。いつかきっと、君を本気にさせるから」
「で、でも……」
「殿下は殿下の心のままに、だろう?」
いつぞやのわたしのセリフを口にして、殿下はニコリといたずらっぽく笑う。
「……そうですね」
恋愛のことは未だによく分からない。
だけど、殿下のことはほんの少し分かった気がするし、これから先も知っていきたい――――そんなことを密かに思う。
わたしたちは顔を見合わせつつ、声を上げて笑うのだった。