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創作時ツール

貴族構造 自分用資料(認識確認)

作者: 爆微風

◯中世貴族の支配構造について。


まず大前提として、貴族のやる仕事というものは国によって違います。

規模、風土、生産物によっても変わります。

特に中世では「国の運営」というのが貴族だけで賄われてはいません。

貴族社会という構造ですが、それは中央部分がそうであるだけで地方都市というのは自治区のようになっており、多くは独立して運営されていました。

そのため、現代と差異のない行政区としてのヨーロッパがあると思っていただけると飲み込みやすいと思います。

特に中世というのは騎士という身分が解体される直前であり、階級が最も複雑だった時期なのです。



◯行政・司法について…… 中世のヨーロッパはまだ国家としての行政や司法がほとんどの国で存在しません。

国の中でもどういう形で行政や司法が行われるのかは統一されておらず、領主によってバラバラなのです。

(小さな国がやっと統一されたと思ったら貴族の子供への配分でまた分けられたりが常なので、日常に起こる多くの裁判は教会や村や町の長の仕事でした)

法というのも国と時代により『まちまち』なのです。


※都市部でも基本的に行政・司法は領主によって行われますが、中世後期、司法権は世俗裁判(領主裁判)と宗教裁判に分かれ、宗教裁判は教会権力が行います(この見極めも教会側が取り仕切ります)。



◯政治について…… 領主権力から独立している地方都市では、ある程度の自治が認められていました。

つまり、都市の住民が自分たちなりに政治をしていました。

政治形態は都市ごとに特色を帯びます。

多くの農耕を主体とする街は代表となる商人が税としての生産物を買い上げ貨幣に置き換える税務を担当したり、領主から派遣された徴税官(男爵)によって収穫期のみの統治を受けました。

貿易(港や街道辻)の街は商業ギルドなどの中間組織の代表者たちが議会を形成し、話し合いで市政を運営しました。

また、権力を持った商家が世襲などで半貴族化し、市場を私有化、独占する場合もありました(大手商家の発生、事実としてワイナリーが街一つを任された)。


……民間とはいえ、市長のように市政に関わる上級職もありますが、門番や夜警などをする警邏隊や、商業ギルドの職員は雑用に近い仕事と見られていました。

専門分野を持った職人に比べ生産性のない職業であるため当時は下働きと同等、都市内部での評価は非常に低く、税を余計に吸い上げる仕事と嫌われていたようです。

現代のお役所と何ら変わりません。

そして大都市(人口密集地)には領主(貴族)が配され、人々の利害を調整したり、都市の環境を守ることが重要になりました。つまり国から配置された公務員の長ような仕事が、下級貴族の担当するものだということです。


※領地を持つというのは、国の中で限られた大都市を任される、ということなのです。

※功績を挙げた騎士が新たに封じられる領地というのは、大概は自治をしていた中くらいの街ということです。



◯貴族社会の歴史(中世以前)


最初は伯と公という二つの身分しかありませんでした。

・伯というのは日本でいう公務員。その幅は広く役場職員から警察官僚までいますが、伯も同じで、王から派遣され地方支配を代わって行う代官であり、ローマ時代より受け継がれてきた都市管区をになう職員でした。

 起源は西ローマ帝国末期に主要都市(civitas:キウィタス)に派遣された統治官『都市伯 (comes civitatis)』であり、これがメロヴィング朝に継承され8世紀の経過中にアウストラシア起源のゲルマン固有の地方統治官であるグラーフ(Graf)制、すなわち『地方伯』の制度と融合しフランク時代の伯制度としての完成をみた。

 伯には都市管区内での司法・行政・軍事における権力が与えられ周辺地域を含む主要都市を中心にした行政区を統治しました。

 地方に赴任して蛮族(野盗や他国の兵)に備える辺境伯、宮殿の式典を取り仕切る宮中伯、中央を守る城の代官である城伯などいろいろありました。同じ伯でも仕事内容もランクも違ったのです。

・公は国家経営陣です。会社で言えば代表取締役です。伯はあくまでも従業員で、公は経営側。ゲルマン部族の(おさ)的な特徴を持ち、フランク王国の拡大政策によって取り込まれた旧ゲルマン部族を束ねる存在として強力な力を持っていました。

 公は王の側近、王族など国家の経営層(王)が(あるじ)です。


……このように伯も公も本来、王の部下であり役職にすぎませんでしたが、ヴェルダン、メルセンの両条約によってフランク王国が解体し、分裂した王権が弱まると、各地の伯・公だけでなく中小領主(豪農や商家)までもが王権からの自立を強め、勝手な分離融合を繰り返します。

 本来許されていなかった世襲が行われるようになり、やがて貴族を『自称』しました。各地の伯や公は爵位の世襲や管区の自立を狙っていたのです。そのあとは当然のように軍事力や地方行政を支配し、独立国状態になりました。

 世の中の機微を捉えた中世の諸侯たちは自分の支配する土地を得て、王と並ぶ権力を持ち合わせた結果、群雄割拠の時代に入りました。


※諸侯による割拠はイングランドやフランスなど比較的王権が安定した国では中世末期に終わりを迎えますが、ドイツの場合は王朝の度重なる移動の結果、その後の分裂を抑えることが出来ず、統一が果たされるのは近世に入ってからのことでした。



◯貴族階級


・爵位とは、主に18~19世紀初頭(中世末期)にかけて当時の各地の支配者がそれぞれの地域の有力者や功労者に授与し定めた栄誉称号のことを指す。

(中世初期から爵位による身分差はハッキリしていました)

英国にはイングランド、スコットランド、グレート・ブリテン、アイルランド、イギリス連合王国といった異なる場所または時代に創設された爵位が存在しており、イングランドを筆頭に先に述べた順から序列が出来ている。

・貴族と見なされる世襲の爵位の数は、通常は下に挙げた5種類。

日本のように家系に与えられるのではなく、基本的に土地の所有者に与えられるため、高位貴族がいくつも異なる土地の爵位を掛け持ちする場合もある。


※『男爵(Baron:バロン)』の下に「サー」の称号を持つナイト爵があるが、これは一代限りとなっている。さらにはウィリアム王子などが持つ『王族公爵』、また貴族院議員の多数を占める一代限りの男爵などがいる。最高位となるイングランドの公爵だけでも10名存在しており、全ての土地における全爵位の数は数百に及ぶとされる。


※準男爵(准男爵)バロネット(baronet)はイギリスの世襲称号。男爵の下位、ナイト(knight)の上位に位置する。ただしナイトのうち、イングランド最高勲章のガーター勲章(ガーター騎士団)、スコットランド最高勲章のシッスル勲章(シッスル騎士団)、アイルランド最高勲章の聖パトリック勲章(聖パトリック騎士団)の各ナイトよりは下位となる。これは称号であり、持つのは購入した平民である。



◯貴族の呼び名について


『公爵』Duke(Dutchess)、呼ぶ時はDuke+領地名

『侯爵』Marquess(Marchioness)、Lord+領地名

『伯爵』Earl(Countess)、Lord+領地名

『子爵』Viscount(Viscountess)、Lord+名字

『男爵』Baron(Baroness)、Lord+名字

※カッコ内は女性の爵位。スコットランドの制度は若干異なる。

※夫人など女性に対する呼び名としては、Dukeの代わりにDuchess、それ以外の世襲爵位に対してはLordの代わりにLadyを用いる。



◯貴族階級のお仕事とイメージ


・大公は国王。

 首都においてシーズンに関係なく城に住み、国の規模にもよるが、家臣として外交関係を取りまとめる外務大臣(複数)、国の安全圏を保つ騎士団を取り仕切る兵団長(騎士団長)、家財や出納管理をする執事長(内政官)の三部所が直属として働く。

 規模が大きい場合、行政機関は国王から任じられた大臣の仕事になります。

 司法は王の一存、もしくは司法官が任命され取り仕切る。

 その他、教育を担う機関(貴族院)なども国家事業。


・公爵は国王の一族に準じる者たちです。

 大公家に何かがあった場合は次代の国王がここから選ばれます。

 国の主幹である部分を任されるため、次世代教育が大きな仕事といえますが、公爵特有の仕事というものは決まっていません(芸術家やワイナリー、馬牧場のパトロンである場合が多いが特定の仕事とはならない)。

 国の規模によって公爵家と呼べる数は増えますが、多すぎる場合は混乱(世代交代での争乱)の元ですので内政担当の差配で縮小されたりもしばしば(内政を公爵が担う場合はその限りではない)。


・侯爵は王族の親戚筋 (いとこなど)を含み、国家の仕事(大臣、執事長など)に関わる場合が多いです。

 国の主要都市に配置される爵位であるため、侯爵家の数も国の規模で変動します。

 侯爵以下の領地をまとめて管理し、領地の新規事業の創出を行う(貿易・治安維持も含む)。

 領地を多く持つということは爵位を多数抱え持つという意味でもあり、そのため、税金の徴収役などに大きく関わり、多数の領地管理を任される。

 例えられる立場としては独自防衛権を持つので内閣各省長官クラス。


・伯爵は貴族の血筋などを持って歴史を経た階級持ち(イギリスだと大抵二代以上続かないと認められない)や、国にとって大きな功績をあげた人物に贈られる最上位として機能しています。

 伯爵家以下、自治している都市部を含む領地からの税管理もするため、代行して徴税する多数の貴族や商家を抱えています(土地に合わせた商業などを振興したりする時には有力者と繋がる商家が取り仕切っていた)。

 権力としては都知事から県知事くらい。


・子爵は領地の管理も行うし、税金などのやりとりのために右往左往するお金の流れを担う中間管理職。

 子爵以下の領地を管理し、国の中を一番動き回る爵位持ちだと思います(同情)。

 もちろん地方だと普通に貴族ですが、良くて県知事くらいの立場、悪いと市長くらいの扱いです。


・男爵は騎士階級からの出世コース上位の扱い。

(護衛などで功績を挙げた騎士が得られる爵位として広く民衆にも認識されていました)。

 領地は多くても二つ三つ管理する程度、もちろん自治している都市が多いので税金なども右から左。

 領地経営が杜撰になることも問題視され、一代限りというのも元々多かった。

 落ちぶれるとその爵位を商人に買い上げられたりは事実として残っている。

 市議会議員程度の発言力。


・準男爵(准男爵)とはイギリスで販売された称号。

(準男爵は世襲称号の中では最下位で、貴族ではなく平民。貴族院にも議席を有さない)

 準男爵位は爵位と異なり、準男爵という肩書だけが与えられる。

 敬称はナイトと同様に「サー」や「デイム」である。

 女性形はバロネテス(baronetess)で、女準男爵と訳すことがあるがこれは女性が当主である場合である。

 準男爵の妻はレディ(lady)の敬称で呼ばれる。

 もう一度言うが、お金で買った称号であり、貴族ではない。


・士爵(ナイト爵)は一代限りの爵位。

 領地を与えられ、サーの呼び名で称えられた(勲功爵・尊爵とも)。


・辺境伯(Markgraf:マルクグラーフ)

 発祥はフランク王国で辺境を守る武将の官職名、8世紀ごろローマ帝国との国境線に多く配された伯(初期貴族)。

 異民族に接する辺境(国境)にあったので権限が大きかった。

 国土防衛指揮する称号ではあるが、辺境伯領と名の付く地域が辺境であるとは限らない。

 国の境界以外にも交易の要所、皇帝居城の城代、異民族(文化)の境などに配置されたためだ。

※伯(初期貴族)の中で実力のあるものが伯よりも格式の高い称号として、権力・実力を持って冠された『Markgraf』を起源とする『侯爵:marquis(マークゥイス)』を名乗るようになり、この称号が公と伯の中間にある爵位とみなされるようになっていったので、侯爵の称号の由来は辺境伯と思われる。



◯貴族の一般作業


・領地を持つ貴族は常日頃遊んでいるわけではありません。

年の半分以上、12月から翌年8月ごろまでを『シーズン』と呼び、貴族たちはそれぞれの領地の邸宅 (カントリーハウス)から王宮のある首都圏内に邸宅 (タウンハウス)を建てて移り住むという参勤交代のような行動を義務(正確に言えば自主的だが、つまりそれが一般的マナー)とされました。

(場所によりシーズンがずれてきます。例えば10月から6月など)


・シーズンというのは国会の開催時期であり、貴族(称号を持つ貴族一家の家長)は貴族院議員、つまり国会に参加しなくてはならないので首都に集まる、ということです。

(その間、領地の留守は留守居役{執事}が守ります)

基本的に国中に散らばっている貴族の代表が集まる時期なので、ついでに社交をして貴族同士交流しようぜ、というのが社交界のニュアンスですね。

貴族にとって人脈を広げる良い機会がこのシーズン。

上の爵位や元々の資産家と繋がりたい人々、または新たな事業案を持った若い貴族を見つけたい侯爵などが社交の場を設けました。

サロン(男性のみ)、舞踏会、お茶会、夜会(劇鑑賞、音楽会)など、様々な場で交流をしたのです。


・成人女性のための式もシーズンに行われます。

ですが伝統的なデビュタント・ボールには厳格な審査基準があり、家柄や学歴だけでなく品格や美しさも求められており、デビュタント(主役)としての出場権を獲得するためには著名な委員会によって推薦されるか、エリート社会の確立されたメンバー、通常は母親や他の女性の親戚によって後援されなければなりませんでした(選ばれてからのレッスンも教師を自腹で雇います)。

そのような厳選された才色兼備な美女たちが白いオペラグローブを併せた純白のドレスを身にまとい、全身真っ白な美しい様相で音楽にあわせ華麗に踊るデビュタントボールはハイソサエティーエレガンスの象徴であるだけでなく舞台芸術としてのショービジネスにもなっており、18世紀イギリスの上流社会を象徴する行事でした。

(デビュタントボールの始まりは白のドレスとグローブ、そしてティアラを身につけた若き令嬢たちが女王の前で膝を曲げておじぎをし社交界にデビューする舞踏会でした)

……この場は、同じ年頃の成人男性が護衛として振る舞うため、結婚相手探しも兼ねていました。


・シーズンの最中は男女どころか子供も問わず社交力が試されます。

国会期間の男性はいつも集まっているため、サロン(喫茶)で交流が可能でした。

女性は邸宅管理や財務の合間、お茶会を開き子供を交え交流しました。

ですが女性は男性への取り次ぎや、領地との遣り取り、その他諸々を任されていたせいか、悪い噂や評判、流行り廃りが目まぐるしい噂話がお茶会の主体になっていました。


・子爵から下の子供は政治には直接関係ないので、娘は母親や親戚(監視役)と、息子なら監視役抜きで、できる範囲の社交に興じました(お茶会の一般的イメージとは違いますが男性も参加していたのです。当然、開催者のふるいにかけられますが)。

成人する前から将来有望な結婚相手を探すのは当然でした。

(年頃の貴族の子息だとしても年齢制限のある夜会、音楽会には入れないので、お茶会や立食兼ねての舞踏会などで社交界デビューというのが普通なのです)


・タウンハウスを持っていない貴族も居ました。

そういう人はホテルや知人の屋敷の一室を借りていました。

夫がカントリーハウスから通うというのはあり得ません。

が、妻がカントリーハウスに残るのはよくある話でした。

病気を理由にする場合(18世紀後期くらいから光化学スモッグと見られる大気汚染が始まり、富裕層に粉塵アレルギーが増えた)と、妊娠すると社交界から離れるのが普通でした。

(お茶会の噂話に妊娠の話を出されたくないというものと、出生率として無事に生まれる可能性が低かったからとも言われています)

※妊娠したことは身内以外には基本的に隠し、健康上の理由で社交から離れ、子供が無事に生まれてから大々的に発表したようです。


・タウンハウスは維持費が大変かかりました。

見栄もあって大体の貴族がタウンハウスを所持していたようですが、維持管理が大変なので19世紀くらいになると新興富裕層に売ってしまい、本人たちはホテル住まい、ということもありました。

(タウンハウスは領地や邸宅などの子孫に残さなければならない資産には含まれないので問題ありません)


・シーズンオフ期間は領地の本宅で一家団欒です。

ですが戻ってからしばらくすると税務が始まるため、この間に領地の様子を聞いたり子供の教育状況を確認します。

また地元の有力者をサロンに招待、接待して様々な便宜を図ります。

※領主とはいえ、独裁的な経営はできません。地元有力農民や商隊(商い馬車)を持っている商家が権力をもっていたりしますので経済観念や経営技能の低い貴族は地元豪農の言いなりだったりします。なので組織する議会にお伺いを立て現状を聞き出さねばなりませんでした。

※現代でもイギリス貴族はこのシーズンのオン・オフを繰り返しロンドンと領地を行ったり来たりしています。


・社交シーズン以外でも舞踏会などがありました。

カントリーハウスに舞踏室(大広間)を備える貴族もいましたから舞踏会は開けました。

(家の中に劇場がある大貴族も)

しかし費用は途轍もなく……(後述いたします)。


・男性はキツネ狩り、鹿狩り、兎狩りなどを楽しみました。狩りのシーズンは11月から半年ほど。その間は田舎(カントリー)でも忙しかった模様。

狩りというのも物要りで、ゲストを一人迎えると付き人(ヴァレー、もしくは侍女)がおり、連れてきた馬や馬車には水もエサも手入れも必要になり費用も嵩む(招待側が持つのがマナーです)が、自分の領地内なので手伝いや食事の調達は簡単でした。


☆まとめ。


シーズンは貴族階級筆頭夫婦が首都に泊まり込みで仕事しながら交流を図る。

女性は人事、財務管理の面で屋敷(タウンハウス)を切り盛りし、合間にお茶会をする。

男性は領地のための外交、流通政策や領地経営のための社交に専念、夜間も貴族間交流に東奔西走。


シーズンオフは領地に戻って徴税に備える。

女性は人事、財務管理の面で屋敷(カントリーハウス)を切り盛りする。

男性は税務が始まると補助する秘書官(スケジューラ兼任)が欠かせないが、それが終わるとオフ。狩りとかできる。


つまり…… 貴族の女性には基本的に休みの期間がありません。

なので、女性が贅沢の限りを尽くすというのは、よっぽどの資産を抱え、財務管理や人事の全てを秘書や文官に任せられた場合のみ(そこまで有能な文官にはお金がかかる)。


※そして、そんなコトをしていると侯爵などの徴税総括から度々監査が入り、風聞を悪くしてしまう。税の管理など不備がないかを見定める監査と貴族の風評を正すための監査はほとんど同じ扱いだったため、お茶会の恰好のネタにされました。


・番外編、社交シーズン以外での舞踏会

自分の邸宅で開く場合、規模にも因りますがとにかくお金がかかる。

1、世話をする使用人を集めるのがまず大変です(臨時のメイドやフットマンやシェフを雇うというのは当時よくあったことなので、募集すればちゃんといます)。

2、カントリーハウスは基本田舎ですので、招待客を宿泊させる場所の確保がネックとなります(大貴族でも邸宅は部屋数40あるかないかの屋敷で、100人対応できる大邸宅は侯爵クラスの持ち物です)。

20人の貴族を呼んだら使用人、付き添い含めて約100人を数週間~一ヶ月お世話しなくてはいけません。

(費用は招待した側が全て負担するのがマナー)

ここまでで充分スゴい額になります。

※貴族というか仲の良い友人を数人招いて数週間滞在してもらう、などというお付き合いとは別だと理解できたかと思います。

3、格式整えた舞踏会のための料理、演奏家、ゲスト(往々にして作曲家や歌手)など招待客のための費用も当然負担です。

ざっと換算しますと、使用人を整え舞踏会を三日間(約600万)、遠方の招待客はナシと考え、足代は含まずすべての客が一週間の滞在(100人×7日×10万)として…… この時点(招待20人)でも八千万ほど。

(招待して宿泊の世話が無いとかケチ扱いされ交流途絶ものですから費用は抑えられません)

イベントを追加しようと男性で狩りなんかしたらもう……。

ですが客を退屈させてしまっても評判を落とすだけです。

なので基本、舞踏会を開くのはシーズンで首都に集まっている時が一番。

子供のお披露目や他の貴族との交渉のため程度では開けないモノだということ、お分かりいただけましたでしょうか……。

(それでも王政府との交渉のためとして、地方で舞踏会が開かれた記録もあるのが貴族社会☆(°▽°))



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