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目を覚ましたサクヤは、気だるい感覚を味わいながら、布団の中で微睡む。
時間は朝の5時。
家を出るのが7時半である事を考えると、まだまだ時間的な余裕はある。
いつも、サクヤはそうしている。
ただ違うのは………気まぐれで「早く起きろ!」と怒号を飛ばしてくる父親が、もういないという事。
「父さん………死んだ、よな………?」
あの後逃げるように眠ってしまったが、昨日の事はよく覚えている。
マキが、父親を撲殺した。
その、あまりにもの衝撃的な光景は、今も瞼の裏に張り付いている。
実家住まいの派遣社員である自分と違い、一人立ちしてそれなりの企業に就職して生活しているマキ。
自分と違い、将来も生活もある立場にいる。
そのマキが何故あんな狂行に走ったのか?
考えども考えども、サクヤの貧相な脳味噌では答えは出ない。
「どうして………」
布団の中で、時間だけが過ぎてゆく。
時計の針が6時を過ぎた頃、やがて腹が空腹を訴えだし、腹時計に負けたサクヤは一旦考えをやめて、のそのそと布団から出てきた。
たとえ衝撃的な事件があったとしても、時間は待ってはくれないし、派遣社員という立場では仕事の予定も変えられないのだ。
たしか、これは何かのゲームの台詞だったと、サクヤは記憶している。
万物は流転する。
そこに多少の善悪があろうとも、今日も太陽は東から昇ってくる。
それはまるで、車輪のように………。
***
重い身体を引きずり、一歩一歩、階段を下る。
餓鬼のように腹が膨れているからでも、度々父親からなじられる運動不足だからでもない。
リビングの扉を開ければ、そこにあるのは昨日の続き。
父親の死体がある。それを作ったマキもいる。
そう思うと、とても扉を開く気にはなれない。
動悸が加速する中、サクヤの脳は防衛本能を働かせた。
そうだ、昨日の一連の殺人は、きっと夢だったのだ。
父親は死んでいない。マキも家にきていない。殺しなんて起きていない。
そうだ、扉を開けばいつもの灰色の一日が始まるのだ。
起床時間に分単位でいちゃもんを付けてくる父親になじられながら、憂鬱な気持ちでトーストを食べ、重い身体で出社する。
そんな、代わり映えのない毎日が待っている。
「……よしっ」
意を決して、サクヤはドアノブに手をかける。
ゆっくりと、音を立てないように、扉を開いた。
「おはよう、兄さん」
「……お、おう……」
現実は非情であった。
サクヤの視線の先では、マキがフライパンをコンロにかけて、目玉焼きを焼いていた。
側にある皿には焼いたトーストと、冷蔵庫にあった物を盛り付けたサラダがあった。
マキが用意してくれたのだろうが、嬉しさよりも先に絶望が、サクヤを襲った。
「そろそろ起きてくると思ったよ、もうちょっとしたらご飯できるから待っててね」
「あ………うん」
視線を下にやると、赤黒い痕跡が見えた。
恐らく
は血痕。それが何を意味するかは、考えるまでもない。
「……父さんは?」
「ああ、それなら……」
マキが指さした方は、風呂のある方向だ。
「腐ったら目立つでしょ?バラバラにして氷水張ったお風呂に入れてる」
「バラバラって………!」
「大丈夫、部位ごとにビニール袋に入れてるわ、どっち道しばらくはシャワーだけどね」
「そういう話じゃなくて………!」
サクヤは、意図してできる限り強い口調を使ったつもりだ。
だが所詮は子猫の威勢のような物であり、マキは表情一つ変えず、フライパンをひっくり返す。
「私、決めたの、兄さんの事は私が守るって。どう?守れてるでしょ?」
「……いや、でも……!」
「ほら、早く食べないと遅刻するよ?」
サクヤの言葉を遮るように、マキは言葉を重ねる。
「…………わかった」
それ以上、何も言えなかった。
サクヤは、マキが用意した朝食を食べる。
「……美味しい?」
「ん……まぁ、普通に」
独り暮らしすると、どうしても外食チェーンや惣菜に頼りきりになると聞いていたが、マキの料理の腕は中々のようだ。
ハムエッグトーストに乗った目玉焼きは半熟で、黄身がとろりと溢れ出す。サラダにもドレッシングはかかっており、サクヤ好みの味だった。
「良かった。ちゃんとした朝ごはん食べるの久しぶりだから心配してたけど」
そう言うマキの笑顔の眩しさも、ハムエッグの程よい甘辛さも、今のサクヤからすれば不気味さしか感じない。
眼前にいる彼女は、その手で親殺しをした。
その手で作った料理を、自分が食べている。
そう思うから、サクヤの口からこれ以上言葉は出せない。
「………それとも、さ」
不意に、マキが口を開いた。
「兄さんは………父さんに生きていてほしかったの?」
「え……?!」
眼前のマキの微笑みは、かのモナリザのように美しい。
まるで、全てを………サクヤが返答に困っている事すら、見透かしているかのように。
「ごめんなさい、少し意地悪だったかな」
「…………」
サクヤは何も答えられない。
人道的にも法律的にも、マキの凶行を見たサクヤは、その罪をしかるべき所に告発し、罪を償わせる必要がある。
しかし、その親から長年虐待を受けていたのも、それを殺人という形であってもマキが終わらせてくれたというのも、また真実なのだ。
それに……サクヤにとってマキはかけがいのない妹である。
彼女を警察に突き出すなんて事は、とてもできない。
マキの問いに答える事もできず、ただ黙々と朝食を口に運ぶことしかできなかった。
「………父さんの会社には、どう言うんだ?」
「適当に高熱が出たって電話しとくわ。今時厳しいでしょ?そんな言い訳」
「そうだな……」
「……あのね、兄さん」
マキが、サクヤの手を握る。
「私、後悔してないよ。兄さんの事だけは、絶対守るって決めてたから。兄さんさえ幸せになれば、それでいいから」
「俺だって、お前の事……」
「うん、ありがとう。でも、私は大丈夫だよ」
マキは、サクヤの唇に人差し指を当て、言葉を遮る。
「兄さんは、昨日の夜何も見なかった。寝ていたから知らない。私が一人で殺した………それでいいの」
「お前、何言って………!」
恐らく、サクヤがマキを告発する間でもなく、マキは自分で自分の人生を終わらせるつもりだったのだろう。
それが、自殺であれ、逮捕による人生終了であれ、マキは一人で罪を被るつもりだ。
「私の口座のお金、使っていいからね。通帳とパスワードは置いとくから、だから………」
「マキ!!」
マキの話が終わる前に、サクヤは思わず声を上げてしまう。
そこまではよかった。
しかしサクヤは、その先何を言おうか、全く考えていなかったのだ。
「どうしたの?」
「あ……いや」
首を傾げるマキに、サクヤは頭をフル回転させる。
(落ち着け、こういう時は何か言わないと……)
焦りながらも、必死に言葉を探す。
そして出た答えは。
「………今夜、大事な話がある」
問題の先送りであった。
***
派遣社員であるサクヤの仕事は、基本的にはオフィスでPCを使って事務作業をする事が多い。
今日も、いつも通りにデスクで書類仕事をしていたのだが……。
「これ、今日中にやっといて」
「あ………はい」
定時30分前に、上司が悪びれる様子もなく、山のような書類を持ってきた。
普通なら文句の一つや二つ言うところだが、悲しいかな、サクヤは会社の下っぱの派遣社員。
それを言われるまま受け取るしかできない。
上司も、サクヤが自分の言うことに逆らえない立場にいると解っているから、こうやって無理難題を押し付ける事ができるのであろう。
実際サクヤは、この仕事量をこなす自信はない。
残業して片付けようとしても、結局は終電間際までかかることは間違いない。
「……仕方ないか」
こうなったら腹を決めるしかない。
兎に角目の前の仕事を片付けようと、書類に手を伸ばしたその時。
『今日未明、××市の××山中に父親の死体を遺棄したとして………』
何となく流れていた職場のラジオからニュースが流れてきた。
それを聞いて、サクヤの背筋が凍った。
まさか、マキが見つかったのか?と。
『なお容疑者は未成年のため……』
そしてニュースキャスターの次の読み上げを聞き、サクヤは安堵した。
よかった、マキじゃない、と。
そもそもマキは26歳であり、未成年ではない。
市の名前が出た為一瞬身構えたが、杞憂に終わった。
「おら、手が止まってるぞ、早くやれよ」
サクヤの後ろで上司が野次を飛ばす。
その言葉に、サクヤは少しだけイラつきつつ、それを飲み込んで作業を再開した。
太陽が沈み、遠くに見える都市をネオンが彩る頃、疲弊しきった頭でサクヤは考える。
いや、答えは最初から決まっていたのだろう。
ただ、決断する勇気が無かっただけだ。
「……行くか」
ただ、このいつ終わるやも知れぬ書類の山。
そして明日もまた便利屋扱いされるであろう事を思うと、それをずっと続けるのも無理に思えたからだ。
どうせ未来が閉ざされているなら、せめて自分の好きなように終わらせたい。
どの道、生きるために生命を磨り減らして仕事を続けるなど、長くはできないのだから。