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………さて、今広がっているのはさながらスプラッター映画のような光景である。
フローリングの床を、ドロリと赤黒い液体が流れ、そこに物言わぬ肉塊となった壮年の男が転がっているのだ。
そしてその中央に佇む影があった。
女だ。
年の頃20台後半といったところか。彼女は手に持ったゴルフクラブで男の頭をカチ割ったらしい。
顔には返り血がついているものの、それは彼女に少しの動揺も与えない。
実父を殺したというのに、まるでそれが日常の一コマであるかの如く振る舞っていた。
彼女は部屋を見渡す。
そこにあるのは大量の本や雑誌。そして恐らく趣味で買ったのであろうゴルフのセット。
それらは一見乱雑に置かれているように見えるが、よく見ればきちんと整頓されていることがわかるだろう。
そして、そんな部屋の真ん中に呆然とへたり込んでいるもう一人の男がいた。
死体になった男よりは若い。当然だ、息子なのだから。
ストレスにより老け込んだ顔はお世辞にも美形とは言えなかったが、所々にある共通点が、女との血縁を匂わせる。
「………兄さん」
女の声に反応して、男は見上げる。
「あぁ……お前か、マキ」
声音からは疲れが感じられた。
女は兄の姿を見て、思わず息を飲む。
痩せこけた頬、無精髭、落ち窪んだ目元。
女は兄の事を心配そうに見つめる。
しかし、当の兄本人は自分の事などどうでもいいかのように呟いた。
「……どうする?この……父さん」
「え?」
唐突な問いに戸惑う妹。
だが兄にとっては当たり前の事であったようだ。
「だって、ほら………死体見つかったらまずいじゃん?」
「ああ………それも、そうね」
異様な光景である。
この女は実の父親をその手で殺め、男はそれを眼前で見ていたというのに、まるで出し忘れたゴミの処分方法に困っているかのような態度を取っているのだ。
しかし、それはある意味では自業自得とも言えるだろう。
それだけの事を、実の子供達から生ゴミ同然の扱き使われ方をされるだけの事を、この男はしてきたのだから。
………さて、この運命の歯車が狂い出した兄妹の物語を始める前に、何故こんな事になったかについてを話さなくてはならない。
それでは、時間を今日の朝まで戻す。
***
マキは、今年で26歳になる。
都内の大手企業に就職した彼女は、それなりに充実した日々を送っていた。
毎日決まった時間に出勤して仕事をこなし、たまに残業をする。同僚とも仲良くやれている。
上司からも部下からも好かれており、まさに順風満帆。文句なしの人生と言っていいだろう。
……しかし、そんな人生ではあるが、彼女はいつも何か大切な物を置き去りにしてきたような、焦燥とも喪失感ともいえる感覚を抱いていた。
学生時代の友人とは連絡を取り合っているものの、社会人になってからはあまり会う機会もない。
職場でも仲の良い人はいるのだが、どうしても友人以上の関係になることはなかった。
家族との関係………であるが、少し前までは年に一度は実家に帰っていた。
だが三年前に母親が死んでからは、一度も帰っていない。
マキ自身も、仕事の忙しさを言い訳にして、段々と帰る回数が減っていった。
まるで、仕事に逃げて、家族から目を背けるかのように。
故に………父親から「たまには帰ってこい」とSMSが届いた時、自分がもう三年も家族と顔を合わせていない事を知り、驚いた。
今更どんな顔をすれば良いのかと、マキは躊躇してしまう。
しかし無視する訳にもいかず、マキは心の準備もできぬままに、会社に休む旨を伝え、三年ぶりとなる我が家へと向かった。
***
マキの実家があるのは、快速で数時間揺られた先にある地方都市だ。
東京と比べると田舎と言わざるを得ないが、自然が多く残っているので、都会の喧騒に疲れた心を癒すには最適の場所と言えるかもしれない。
マキが生まれ育ったのも、そんな町の一角だ。
駅からバスに乗り、山道を抜けて、少し歩けばすぐに到着する。
「………はあ」
中学時代、マキはバスの窓から見えるこののどかな風景が嫌いだった。
中二病特有の、自分の故郷が牢獄に見えるような「ここじゃないどこか症候群」だったのもあるが、それとは別に何か理由があったような気もするが………
「………私、なんでこの風景嫌いなんだったっけ」
思い出せない。まあいいか。
バスは駅に着く。ここからは歩きだ。
年単位で通ってない道ではあるが、記憶の奥底に残っている景色を頼りに、懐かしい道を歩く。
途中、公園を見つけた。子供の頃はよくここで遊んでいた。
「懐かしいなぁ……」
今でも、木の下でした結婚式ごっこを覚えている。
一休みしようかと思ったが、少し考えてやめる。
今日は親に会うために帰ってきたのだ。あまり時間をかけるわけにもいかない。
「……よし」
そうこうしているうちに、マキの家が見えてきた。
家の前まで来ると、マキは緊張してくるのを感じる。
今さら何をと言われるだろうか? 私はどう接したらいいのだろう? そんな不安が頭の中でぐるぐる回る。
そうこうしている間に。
「おお!マキじゃないか!」
玄関の扉が開き、父親が笑顔で出迎える。
「ただいま、父さん」
「心配したんだぞ?!三年も帰ってこないから、何してたんだって!」
少なくとも記憶の中では、彼はいい父親だったはずである。
誕生日にはケーキを買ってくれたし、クリスマスプレゼントも用意してくれたりした父親の顔を思い出す。
「仕事が立て込んでてね………あはは」
しかし、マキは言い知れぬ違和感のような物を、この父親から感じていた。
まるで、今彼が振り撒いている笑顔も愛想も、演技であるかのような感覚に囚われてしまう。
そんな事を考えていると、玄関から二人目の人物が現れた。
「あ」
「あ……マキ」
みすぼらしい。
そんな表現の似合う、歳の近い若い男。
知らないわけがない、なんせこの男は。
「ただいま………兄さん」
「あ、お帰り………」
マキの血を分けた兄の、サクヤなのだから。
そういえば、実家住みで派遣社員の仕事をしていた。
おそらく今から出社なのか、とマキが思い出していると、直後に父親が顔を歪めた。
「まだタラタラしてたのか?グズが!」
「ご、ごめん父さん………今行くからさ」
「早く行けノロマが!社会じゃそんな事してたら一発でクビなんだぞ!自覚を持て自覚を!」
父親の暴言に追い立てられ、サクヤはそそくさと家を後にした。
その背中を見つめながら、父親は鼻息荒く吐き捨てる。
「ったく、あんな無能が俺の息子だと?ふざけやがって……」
「え?」
マキが聞き返す間もなく、父親はすぐに取り繕うように、表情を笑顔に戻してマキを見る。
「さ、あんな出来損ないの事は忘れて、久々に一家団欒といこうじゃないか」
「え、あ………うん」
マシンガントークのように言葉を吐き出し続ける父親に、マキは戸惑いながらも返事をするしかなかった。
***
「………………」
マキは無言で、風呂の天井を見つめていた。
脳裏には、あの時のサクヤの悲しそうな顔がちらついてならない。
………確かに、実家住まいな上に派遣社員というサクヤの現状を考えれば、父親の言葉も仕方ないと言えるかもしれない。
世間的には、それが常識である。
だが、それでも。
「……兄さん」
マキにとっては納得できない事だった。
あれでは、まるで虐待されているようではないか?と。
ダメ息子への普通の反応なのだと考えようとしたが、マキの心………本能のような深い場所が、それを拒否する。
「………何よ、私やけに兄さんの肩を持つわね?」
ぴちょん、と湯気が雫となり落ちる音が、妙に大きく聞こえる。
そこでマキは考えた。
この感情の正体は何か?と。
現状以前に、自分にとって兄は、サクヤはどんな存在だったか?を。
マキは考える………
記憶を辿り、過去へと………
………
………最初に思い出したのは、小学生の頃の記憶だ。
『にーさーん!ろぐりん書いて~!』
『ん、いいよ』
小学生に上がっても見ていた女児アニメのキャラクター名前を言いながら、当時三年生だったサクヤに甘えるマキは、一年生。
同年代の男子が未だにやんちゃであり、女子は女子で陰湿さが出てきた故に、こうして甘えられるサクヤの存在は貴重だった。
サクヤは、男子のように暴れたりもしない。
女子のように陰口を叩いたりもしない。
得意な絵で、いつもマキを楽しませてくれていた。
『………母さんよ、あいつ頭に障害でもあるんじゃないか?』
だが、そんなサクヤを………男子らしいスポーツよりもインドアな趣味に走るサクヤを、父親はよく思っていなかった。
『障害って………絵が好きなだけじゃないの』
『ああいうネクラな趣味は今にろくな事にならん!あいつも男だ、今のウチに矯正しないとだな………』
当時は目の前で書きあがってゆくキャラクターに夢中で、マキは気付かなかった。
けどよくよく考えれば、あの時のサクヤも悲しそうな顔をしていたように思えてならない。
………
中学時代。
多少の差異はあれど、マキは何処にでもいる女子中学生になっていた。
部活に燃え、友情に笑う、青春を過ごす女子中学生に。
そんな時、友人達とある話題になった。
それは。
『ねえ、周りに気になる人っているの?』
という、思春期にありがちな恋愛話。
『クラスの男子とか、いない?』
『ナイナイ!あいつらガキだし、すぐエロ本の話するし、最低だよ』
『ボロクソ言うね、じゃあ誰が好きなの?』
『インターンシップのカノウ先生!ああいうオトナの男がいいよね!』
あなたの行為は置いといて、もしカノウ先生がその好意に答えてくれるとしたら、彼は人としてアウトだぞ。
そう、脳内でマキがツッコミを入れていると。
『そうだ!マキはさぁ、気になる人っているの?』
『えっ、私?』
突然話を振られ、マキは自分の事を考える。
気になっている人は……いるにはいた。
だが、それをここで口にするのは憚られた。
何故なら……その相手は。
(兄さんはどうなんだろう?)
サクヤが、自分の事を気にしているかどうかは解らない………いや、ただの妹としか見られていないだろう。
常識的に考えて、妹が兄に対して恋心を抱くなど、あり得ない事だ。
『私は……特にいないかな』
『ええー!?つまーんないのー』
マキの返答に、友人達は不満げな声を上げる。
しかし、それ以上追及される事はなく、やがて話題は次のものへと移っていった……
………
今度の記憶も、中学時代。
場面は自宅。
ふと喉を潤したくなったマキは、就寝前に台所に向かっていた。
その時。
『このバカタレがぁ!!』
バキィッ!という、父親の怒号と共に聞こえてくる殴打の音。
マキは驚き、廊下で飛び上がった。
まさか、と思い、リビングを覗いてみると、そこには。
『……父さん、ごめんなさい』
頬を腫れ上がらせ、血を流すサクヤの姿があった。
正座の体制で座るその目の前には、ビリビリに破られた漫画の原稿。
サクヤが時々マキに見せてくれた、勉強の合間を縫って少しずつ進めているという漫画。
笑いながらサクヤは言っていた、自分は漫画家になるのが夢だと。
『世間を舐めてるバカなお前に教えてやるよサクヤ、いいか?漫画家ってもんはなぁ……才能だけでなれるほど甘くはないんだよ!解ってんのかウスノロが!!』
父親が怒鳴り散らす中、サクヤは無表情のまま俯いていた。
それが気にくわなかったらしく、父親は再びサクヤに手を上げる。
元より、元ヤンキーである事を自慢気に話していた父親だ。
オタク気質のサクヤは、見ていて気に入らなかったのだろうと、今ならわかる。
やがて頬は餅のように腫れ上がり、鼻血が垂れてきた。
『(兄さん………!)』
何より恐ろしかったのが、これが一週間に二度程度の周期で起きる、この家の日常であるという事。
対するマキは、父親からは可愛がられていた………自分の状況が「愛玩子」と呼ばれる状況である事をマキが知るのは、もう少し後………が、思えばマキも、感覚が麻痺していた。
しかし、こんな状況が続けば、いつかサクヤは死んでしまうのではないか?それぐらいは解った。
そんな漠然とした不安ではあったが、マキに決意を抱かせるには十分であった。
『(私だけなんだ………兄さんを守れるのは、私だけなんだ!)』
………………
「………あ」
記憶を辿る時間旅行から帰還したマキは、風呂の天井の湯気を前に自身を責めた。
どうして忘れていたのか、と。
そうだ、自分が街に出たのも、都会に出て稼ぐためだ。
稼いで稼いで裕福になり、将来的にサクヤを実家から連れ出して人暮らしをするつもりだったのだ。
なのに、忙しさにかまけていつしか記憶から抜け落ちて。
思い出せたのは、本当に偶然だった。
いや、実家の懐かしい雰囲気が、そうさせたのだろうか。
だが、それは同時に、一つの事実も証明してしまった。
「……もう、遅いんだ」
マキの呟きは、湯船の中に溶けていった。
***
今更、何もかもが手遅れだ。
都会に出ても想像した程稼げなかったし、今からお金を貯めたとしてもどれだけかかるか……。
無論、今連れ出したとしても、慣れない環境での生活は大変だろう。
そもそも、サクヤは人付き合いが苦手だし、何より父親という最大の障害がある。
どうしたものか。
風呂上がりの廊下を、マキは歩きながら考える。
と、その足が止まる。
リビングの前だ。
………奇しくもそれは、記憶の回想の中での一幕を思い出させた。
いや、状況はそのままだった。
「なんだその反抗的な態度は?!あぁ!?」
父親の怒号が、ドアの向こうから聞こえてきた。
まさか?と、マキはごくりと唾を飲み込む。
そして、意を決して扉を開いた。…………
「あ………その………」
部屋の空気は、酷く重かった。
記憶にある通りの、そしてあの日よく見た、いつもの光景。
「仕事場から電話がきて………それに答えてたから、父さんの話が聞こえなくて……」
マキは、必死に弁明を試みる。
しかし、父親の顔は更に険しくなっていくばかり。
「聞こえてなかったって事は、お前の頭は飾り物なのか?」
父親の言葉に、サクヤは俯いたまま黙っている。
サクヤの話を本当だとするなら、それは仕方のない事だろう。
社会人として、職場からの電話には必ず答えなくてはならないし、内容によってはそちらに集中せねばならず、確かに聞こえていなかったのかもしれないが、それは仕方のない事だ。
だが、父親がそれを許すはずもない。
「仕事の電話なら、父さんを無視していいのか?偉くなったもんだなぁ?出来損ないの欠陥品がよ、なぁ?!」
父親は、まるで鬼の首でも取ったかのように笑う。
マキは、それが悔しくて堪らなかった。
「…………」
「なんとか言ったらどうなんだ?えぇ?!このクソガキが!!」
「っ……」
父親が、空になったビール瓶を振りかざした。
それをどうするつもりなのかは、解らないマキではなかった。
「………ッ!!」
マキに、思考が走る。
テレビドラマ等で人体に叩きつけられたビール瓶が割れるのは、そういう演出用に作ったガラスだからである。
対する実際のビール瓶は、分厚く重いガラスで出来た、鈍器といっても過言ではない代物である。
………もし、仮に。
その凶器で、頭部を殴打されたとしたならば、サクヤはどうなるか。
マキは解ったし知っていたが、あの父親がそれを知っているとはとても思えない。
つまり。
このままでは。
サクヤは。
死ぬ。
気がつけば、マキは走り出していた。
社会的立場がどうとか、そんなものはもはや頭にはなかった。
ただ、サクヤを死なせたくない。
それだけが、彼女を突き動かしていた。
「マキ………!?」
ゴルフクラブを掴んだ瞬間、視界がスローモーションになる。
知らぬ内に背後から向かってきたマキに驚く父親。
それが、この状況を理解するよりも早くに。
「う゛あ゛ぁぁぁぁぁ!!!」
マキは全力で、ゴルフクラブを振り下ろす。
お兄ちゃんをいじめるな、と、幼き日に押さえつけた感情を爆発させるように。