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間違われた男  作者: まつだつま
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愛と憎

 こんなに短くて緩やかな坂道だったろうか。もっと急で長い坂道だった気がする。坂道を上がりながら周りの景色を見渡した。なぜかその景色が記憶しているこれより小さく見えた。

 小学生の頃、毎日通っていた道を久しぶりにに大人になってから通った時に周りの景色が小さく見えることがあるが、今はそれに似た感覚だ。

 小沢勝己として生まれ変わり、大沢勝男の頃より身長が二十センチも高くなった。体力も足腰も強くなった。

 大沢勝男の頃は、この坂道を上りきったところで、次の一歩が踏み出せないくらい疲れ切っていった。いつも、坂道を上り切ったところで立ち止まり呼吸を整えた。喉の奥からゼーゼーと音がして、足は棒のようになっていた。

 しかし、今は息切れもしていないし足は棒のようになっていない。身長は二十センチ高くなっているが体重はあの頃より減っている。メタボだったお腹は見事に空気が抜けたようにペタンコになっている。ふくらはぎや太ももはゴツゴツした岩のように筋肉がもりあがっている。

 私は坂道を上りきったところで休憩することもなく、左に曲がり歩いていった。三本目の角を今度は右に曲がり三軒目の家が、私が大沢勝男として過ごしたマイホームだ。

 十八年前に沙知絵と結婚し、それから二年後に柚菜が生まれた。柚菜が小学生になる前にマイホームを手に入れようと十二年前に、思いきってこの地にマイホームを購入した。駅からは歩いて二十分以上はかかる。商店街やスーパーも十五分ほど歩かなければならない。

 当時の給料でローンを組むには、これくらいの不便さは我慢せざるを得ないだろうと思っていた。

 私の通勤には不便な場所だったが、幼い柚菜にとっては交通量も少なく空気もきれいな土地で公園も所々にあり良い環境だったと思う。

 健康のために歩くのもいいのよ、と沙知絵は言った。私も不便なおかげで、毎日歩くからメタボにならなくて済むと、その時に言ったはずだ。お互いに不便さをポジティブにとらえることができた頃だった。

 ただ、私の体重は毎日歩いて、この坂道を上っていたにも関わらず増加する一方だった。今思えば、ただの幸せ太りだったのだろう。あの頃はその幸せに気づけていなかった。

 歩みを止めて辺りを見渡した。引っ越してきた当時ニュータウンで家族連れが多く萌えた町も当時の姿が影をひそめ、今は少し枯れた町並みになっていた。

 ゆっくりと歩きだし、噛みしめるように一軒一軒の家を眺めた。ここから離れて一ヶ月ほどしか経っていないはずなのに、この地域で暮らしていた頃が遠い昔のように感じた。

『大沢』という表札があがる家の前にたどり着いた。小さな鉄製の扉の奥にプランターが二つ並んでいる。その奥に、いつもは沙知絵の自転車が置いてあるはずだが、今はない。ドアは固く閉まっていた。二階のベランダもひっそりしている。

 表札、鉄製の扉、プランター、ドア、ベランダの順に何度も視線を走らせた。こうして、この家を眺めていると、大沢勝男として過ごした記憶がブクブクとお湯が沸騰した時の泡のように湧いてくる。

 この家に引っ越してきた日のこと、『大沢』という表札を見て誇らしげに思ったこと、プランターに朝顔やヒマワリの種を柚菜といっしょに植えた日のこと、家族三人でベランダから星を眺めた日のこと。

 これの記憶をしっかり脳みそにインプットし、大沢勝男として過ごした記憶を頭の中に塗り固めておかなければならない。

 出来るだけ多くの記憶をインプットしておこうと思ったが、あまり長居すると不審者に間違えられる恐れがある。今の私は、知らない人が見たら反社会的な人間にしか見えない。他人の目には注意しないといけない。特に噂好きでおしゃべり好きな隣の奥さんには注意が必要だ。

 隣の奥さんが警察に通報でもしたら大変だ。そこそこのところで切り上げた方がいい。両隣の家と向かいに建つ家のベランダを見渡した。他人の目がないことを確認してからズボンのポケットからスマホを取り出しカメラモードにしてこの家に向けた。

 父親と母親、二人の顔が記憶から消えて思い出せなくなっていることが心苦しかった。二人の写真を見れば記憶がよみがえるかもしれないが、あいにく二人の写真は手元にはない。この家のなかに入れば父親と母親の写真はあるはずだが。この家の鍵の隠し場所は覚えている。しかし不法侵入で警察のお世話になるわけにはいかない。

 小沢勝己になって一ヶ月が経つ。その間に大沢勝男としての記憶は頭から徐々に消えてしまっている。すでに二十歳くらいまでの記憶は出てこない。このペースだと来年を迎える頃には完全に大沢勝男の記憶を失ってしまうかもしれない。

 すべての記憶を失う前に、大沢勝男として生きてきた記憶の上書きをしておかなければならない。


 鈍色の空が広がる高台から見える景色は霞んでいた。晴れた日には、海に浮かぶ船や釣り人の姿がよく見えるのだが今日は残念ながら見えない。父親の俊夫が海釣りが好きだったので、この地に墓を立てた記憶はまだ残っている。

『大沢家之墓』と書いた墓前に立ち、手を合わせた。花も線香もお供えも持ち合わせていないことと二人の顔を思い出せないことに申し訳ないと頭を下げた。

 墓石の横には、すでに私の名も刻まれていた。享年五十才。本当の私大沢勝男はすでに死んでいるのだと実感した。

 それなのに天国にも地獄にも行けず、こうして小沢勝己の姿となって生きている。天国では、今頃どうなっているのだろうか。南は小沢勝己が天国で母親の佐和に会えただろうかと気にかけていた。

 私の父親と母親は、私が天国に来ていないことで、慌てているのではないだろうか。今、墓石の前に立つ、この男が何者なのか訝しげに思っているのかもしれない。

 大沢俊夫と大沢五月。私の本当の父親と母親の名前はまだ記憶に残っている。墓石の前で手を合わせながら二人の名前を何度も何度も繰り返し呟いた。大沢勝男としての記憶が完全に消えてしまう前に、俊夫と五月、二人の名前を新しい記憶として刷り込ませておきたい。

 二人の顔を思い出そうと試みると、頭が刺すように痛み出した。あまりにも激しい痛みなので、墓前に手を合わすのを中断し、こめかみを両手人差し指で思いきり力を入れて抑えた。ズキズキとした痛みが治まるのをじっと堪えた。しばらくそのままでいると痛みがスーっと消えていくのを感じた。

 ほっとしたのも束の間、痛みが消えるのと同時にある男の顔が頭に浮かんだ。それは私を睨みつける鬼のような形相をした会ったこともないはずの小沢勝己の父親進の顔だった。鉛を飲み込んだような気分になり、何度も首を横に振って進の鬼のような形相をかき消しそうとした。じっと私を睨みつける進の表情から私に対する憎悪と侮蔑を感じた。

 この男が小沢勝己と小沢佐和の人生を滅茶苦茶にしたのだ。この男の記憶を消し去りたい。しかし、消し去りたい記憶ほど頭にしっかりと刻みこまれ離れないものだ。

 次に浮かんできたのは、これも会ったことのないはずの小沢勝己の母親佐和の顔だった。切れ長な一重瞼の瞳から放つ光は柔らかく私を包んでくれた。心が和んでいくのを感じた。小沢勝己が佐和さんを大切に思う気持ちがわかった。それはすぐに消えてしまった。

 享年五十才。死ぬにはまだまだ若すぎる年齢だ。人生はこれから先が楽しいのだ。やりたいこともたくさんあった。

 しかし、考えてみると、大沢勝男として生きてきた人生は、夢や希望を持っていなかった。ダラダラと無駄に寿命をすり減らしていたなと、今になってつくづく思う。限りある貴重な寿命を、あたかも無限にあるかのように勘違いして過ごしてしまっていた。

 私は十一月十一日に亡くなっている。その前日十一月十日にトラックに跳ねられたのだ。

 あの日、私は仕事が休みだった。柚菜が学校へ行き沙知絵がパートに出掛けたあと、高山と清水と居酒屋へ飲みに行った。清水が離婚してから元気がないので、飲みに行こうと高山が誘ってくれた。私も清水のことが心配だったし、高山と清水と過ごす時間があの頃は一番楽しい時間だったので、二つ返事でオーケーした。

 今ごろ高山と清水はどうしているのだろうか。清水は少しは元気になったのだろうか。あの二人にも会いたくなった。一度、二人の顔を見に行くことにした。

 

 二階建ての建物を二車線の道路を挟んだ歩道から眺めた。建物の前にある駐車場にとまっている車はまばらだった。クリーム色だったはずの建物の壁は色を失っていた。所々、雨のしずくのような後が、灰色になっていて、この建物が涙を流しているように見えた。道路を横切り駐車場に入った。建物の出入口に立ち見上げた。出入口の上に掲げてある看板の文字もくたびれ消えかかっている。こんなに傷んでいたことに初めて気づいた。考えてみればこの位置から、ゆっくりとこの建物を見上げることなど、今までになかった。

 いつもため息を吐きながら、背中を丸め俯いたまま建物の裏口から入り、帰る時も裏口から出て建物に振り向くこともなく、そそくさと帰っていた。

 たまには、こうして遠くから眺めて、建物に感謝の気持ちを送るべきだったかなと思った。

 出入口から店内へ入った。高山や清水の顔を忘れてしまう前に、新しい記憶として焼き付けておこうと、店内に入ると、大根が山積みされているのが、目に飛び込んできた。

 その横に小柄な男が立っていた。小さい目に大きな口。そしてやたらと声が大きい。

「今日は大根が安いよー」

 高山が手を叩きながら声を張り上げていた。お客さんが大根を手に取り買い物カゴに入れている。

 その度に高山が「ありがとうございまーす」と笑顔で声を張り上げている。

 出世街道から取り残されたと三人で愚痴をこぼしながらも、こうしてみんな一生懸命に働いた。特に高山はいつも楽しそうにハツラツと仕事をしていた。

 大根の売場を眺めていると、高山と目が合った。高山が少し怪訝そうな目で私を見た。今の私の姿を見たら、やむを得ないかもしれない。普通の買い物客には見えないだろう。クレームでもつけにきたチンピラと思ったのかもしれない。

「今日は大根が安いの」

 笑みを貼り付けてから、思い切って高山に声をかけてみた。

「は、はい、今日は大根がお買い得ですし、他に白菜や椎茸もお買い得ですよ」

 高山は、そう言って白菜や椎茸の並ぶ売場を手で指した。

 買ってあげたいが、荷物になるので買ってやれない。何気なく大根を手に取ってみた。立派な大根だ。

 私に異変が起きたのは、そのすぐ後だった。大根を手にした瞬間に大根を持った手がキリキリと痛みだした。続いて頭の中に鉛でもぶちこまれたのかと思うほど、頭がズシリと重くなった。視界が霞み、目の前に積まれた大根の山や高山の姿が歪んで見えてきた。船酔いでもしたように気分が悪くなった。

 大根を持つつるりとした冷たい手の感触が、少しずつ変わり、ざらりとした細く握りやすいものに変わっていった。

 それは、小沢勝己が空き地で金属バットを拾いあげた時のあの手の感触だった。そして、小沢勝己が金属バットを拾った空き地の風景が目の前に広がった。私が経験したことのないはずの小沢勝己のドス黒い過去の記憶が、私の頭の中でどんどんと広がっていく。鼓動が激しくなり体が熱くなった。呼吸を整えようと大きく息を吸い込むが効果がない。その場で立っているのさえ苦しくなった。その場で両膝に手のひらをのせて、目を閉じて、じっと堪えた。

 気分の悪さはおさまらない。無意識に「ウォー」と大きな声を発して、持っていた大根を思いっきり床に叩きつけた。

 叩きつけた大根の『バーン』という音が耳に飛び込んできて体が楽になった。足元を見ると、叩きつけた大根が割れハの字になって左右に転がっていた。顔を上げると視線が私に集中していた。高山を見ると目を大きく見開き、あんぐりと口を開けて立っていた。

「あ、あ、あ、あ」と喉の奥の方から音を発していたが、言葉にはならないようだった。

 熱くなっていた私の体が一気に体温を失い震え始めた。

「す、すいません。こ、これ、弁償します」

 床に落ちて二つに割れた大根を左右の手で一本ずつ拾い上げて、高山に向かって頭を下げた。

 高山は言葉を発することなく、ガタガタと震えていた。

「お、お客様、お、お買い求めいただかなくても、け、結構です。そ、それより、お、お怪我はございませんか」

 高山の口からやっと出た声は震えていた。私への配慮をみせるところは、やはり優しくて思いやりのある高山だと思った。

「私は大丈夫です。それより、これ、申し訳ないことをしました」

 割れた大根を左右の手に持ったまま、もう一度、詫びた。

「ほ、本当に大丈夫ですので、お客様、気になさらずお買い物をお続けください」

 高山がそう言って、恐る恐るといった感じで手を出し、私から大根を受け取ろうとした。

「本当に申し訳ないです」

 私はそう言って高山に割れた大根を渡した。

 渡す時に高山の顔をじっと見た。高山の方は、私と目を合わすのを避けるように割れた大根ばかりに視線をやっていた。

「高山、これまでいろいろとありがとうな。お前のおかげで楽しかったよ。これから元気で頑張れよ」

 大根を渡しながら心の中で、そう呟いた。

 高山は割れた大根を持って、私に一礼しバックへと消えて行った。

 高山の背中に向かって「ごめん」と手を合わせ、野菜売場から離れた。

 店内を歩いていると、私が大根を投げつけた騒動のせいで、他の買い物客が、私から距離を置いて歩くようになった。災いに巻き込まれないように遠くから冷たい視線を向けている。その視線が私の体に次々と突き刺さっていく。私が視線を向けると、さっと視線をそらし、より私から距離を置く。

 中には常連の買い物客で、私がこれまでに何度も接客し、知った顔もあるが、向こうからすれば、今の私は不審人物にしか見えないのだろう。私は居たたまれなくなり、メイン通路からお客さんの少ない中通路へと避難した。

 中通路にはソースや焼肉のたれが並んでいた。そこで一度深呼吸をした。さっき私に起こった異変は何だったのか。大根を握った瞬間に意識が朦朧となり、小沢勝己のドス黒い過去の記憶が、まるで私が経験した記憶のようによみがえってきた。

 小沢勝己は生きている間、ずっとこんなドス黒い記憶と闘い続けてきたのだろうか。これからは、私がそのドス黒くて耐えがたい記憶と闘っていかなければならないのだろうか。

 そう思うと「ハァ」と重い息が出た。

 お客さんの少ない通路を歩きながら気持ちを落ち着かせた。ふと、横を見ると通路を抜けた先に豚肉のトレイが並んでいるのが見えた。

 暗い闇からフワッと暖かい光が見えた気がした。私が一ヶ月前まで働いていた肉売場だ。私がいなくなった後はどうなっているのだろうかと思い、ゆっくりと豚肉売場に吸い寄せられるように足を向けた。

 通路を抜けると肉の売場が目の前にパッと広がった。冷蔵ケースの棚に豚肉が並ぶ。右に視線を向けると鶏肉が並び左に向けると合挽肉、牛肉が並ぶ。眺めているだけで目頭が熱くなった。しばらくその場から離れられなくなり、目の前に広がる肉売場を眺めた。

 白衣を着た女性が、「いらっしゃいませ」とお客さんに声をかけながら豚肉のトレイを並べていた。パート従業員のリーダー的存在西崎さんだ。まさか後ろに立っている怪しげな男が、一ヶ月前まで一緒に働いていた大沢勝男だとは夢にも思わないだろう。

 相変わらずお客さんの視線が私を突き刺してくるが、ここに立っていると、それも気にならなかった。

 作業場から背の高い若い男が出てきた。私の部下として働いてくれていた遠山だ。几帳面で真面目な男、白衣姿よりスーツ姿の方が似合う風貌だ。

 遠山は売場に並ぶ商品を順に指差しながら西崎さん何やら笑みを浮かべ話していた。

「わかりました。チーフ」

 遠山が話し終わると、西崎さんは口元を綻ばせながら言った。

  その後、遠山は「お願いします」と言って笑顔でペコリと頭を下げた。楽しそうだった。私がいなくなったことなんて、遠い過去のことになってしまったのかもしれない。

 私の後継として、この若い遠山がチーフに昇格したようだ。私の部下として働いていた頃より、遠山の目は生き生きしている。

 頼りない部下だと勝手に思っていたのに、こうして見ると仕事の出来る切れ者の男に見える。遠山にとっては私がいなくなってよかったのかもしれない。もう、私の出る幕はない。名残惜しいが、私は肉売場を後にした。

 清水は出勤しているのだろうかと、そのまま隣の鮮魚売場へと足を向けた。

 今日はブリがお買い得のようだ。正月用の数の子やごまめも並んでいる。これからが一年で一番忙しい時期になる。みんながピリピリと神経を尖らせる時期だ。それが嫌だったが、今思えば懐かしい。

 鮮魚売場を見ながら清水の姿を探した。売場に姿は見えなかった。清水は職人気質で高山とは違い、あまり売場に出てこなかった。店長に売場に立って売り込めとよく注意されていた。今日もこの奥で黙々と魚を捌いているのかもしれない。しばらく待ってみようかとも思ったが、清水は休みかもしれないし、待っても無駄かもしれないと、諦めて踵を返した時、「いらっしゃいませ」と弱々しい声がした。

 この声は清水の声だとすぐにわかった。私は運びかけた足をすぐに止め、振り向いた。

 清水は鮮魚担当のなかではめずらしくおとなしい性格だ。鮮魚の担当者は比較的気性が荒くて、声が大きいのだが、清水の声は冷蔵ケースのモーター音にかき消されそうなくらい小さい。

 清水が若い頃、当時のチーフから『鮮魚は威勢が大事だ。もっと元気な声を出さねえと、魚の鮮度まで悪く感じるじゃねえか』と怒られていたのを思い出した。

 怒られている時の清水は肩をすぼめ小さくなって、『はい』と、これまた小さな声で返事をしていた。その小さな返事を聞いたチーフは顔を赤くして怒っていた。

 結局清水は変わることなく、今でも鮮魚売場に立っている。清水はブリの切り身を補充していた。

 私は清水の横に立ちブリの並ぶケースを覗きこんだ。

「いらっしゃいませ」

 清水は相変わらずの声で私の方に顔を向けることなく挨拶をした。

「今日はブリが安いね」

 ブリの切り身を手に取って声をかけた。

「ええ、お買い得です」

 清水は一瞬こっちを見たがすぐに目を逸らした。

「でも、今日はブリはやめておく。このお造りの盛合せにするわ」

 私はブリの切身のとなりに並ぶお造りのトレイを手にとった。

「ありがとうございます」

 清水は私に目を合わすことなくペコリと頭を下げた。

「じゃあ、清水、元気でな」

 つい、『清水』と口に出してしまった。

 さすがの清水も驚いて私に顔を向けた。

「はい?」と言った清水の顔は怪訝そうだった。目の前にいる得たいの知れない不気味な男がなぜ自分の名前を知っているのかと思ったのだろう。不思議そうに、自分の胸の名札を見て首を傾げていた。

 私は苦笑いを浮かべ清水の肩を叩いて、その場から立ち去った。

 店を出てから、店の隣にある公園のベンチに腰を下ろした。清水の作ったお造りの封をあけ、まぐろを一切れ指でつまんで口に放り込んだ。仕事の帰りに、高山と清水と三人で店で買ったビールとおつまみを持ってここで乾杯したことを思い出した。

 とりあえず、二人が仕事を頑張っている姿が見れてよかった。

 あとは柚菜と沙知絵に会いたい。二人は私が死んでから、どんな生活を送っているのだろうか。一家の主を失い途方に暮れているのか、それともこれまでと変わらず過ごしているのだろうか。二人に会うのが少し恐かった。


 バスを降りてから辺りを見渡した。まっすぐ伸びる長い坂道の向こうに緑に埋もれた薄茶色のL字型の建物が見えた。

「あれだな」

 私は白い息と共にそう呟いて坂道へと向かった。今年の春から柚菜はこの高校に通い始めたが、私がここに来るのは今日が始めてだ。結局大沢勝男としては一度も来ることがなかったわけだ。柚菜は父親の私に来てほしかったのだろうか。

 柚菜がここを受験したいと言った時のことを思い出した。

 夕食の片付けを済ませ、リビングに腰を下ろした沙知絵の横に正座し、柚菜が学校案内らしき資料を沙知絵の前に広げた。

「ここの制服がかわいいし、ここを受験しようと思ってるの。お母さん、どう思う」

 柚菜はそう言って沙知絵の顔を覗きこんだ。

 沙知絵の前に座っていた私は沙知絵の様子を伺った。沙知絵は柚菜が出した学校案内の資料に視線を落としていた。

「ふーん」

 沙知絵は何度も首を縦に振りながら資料を見続けていた。

「学校は制服で選ぶもんじゃない、もっと将来のことを考えて選ぶべきだ」

 私が沙知絵より先に口を開いた。

 沙知絵が資料から私に視線を上げた。私の目をじっと見てきた。目が合うと、沙知絵は口元に笑みを浮かべた。そして言葉を発することなく、視線を資料に戻した。

 柚菜に視線を向けると口を尖らせて、私の視線を避けるように遠くを見ていた。

 結局、私の意見は、その後遠くに追いやられたようだ。沙知絵と柚菜でこの高校を受験することに決めたようだった。

 長い坂道を登りきると、左手にテニスコートが見えた。テニスコートの片隅にテニスウェア姿の学生が数人見えた。放課後に入り、テニス部の練習が始まるのだろう。

 右側に視線を向けると、グラウンドが広がっている。テニスコートとグラウンドに挟まれた道を抜けると薄茶色の校舎が正面に見えた。近くで見ると重量感のある立派な建物だ。

 柚菜はここでどんな高校生活を送っているのだろうか。楽しめているのだろうか。今もこの建物のどこかにいるはずだ、と校舎を見上げた。傾きかけた太陽が校舎の窓ガラスに反射し目に刺さった。

 眩しくて視線を下げると、校門が見えた。校門の中に体格のいい男が立っていた。髪の毛が短く黒っぽいジャージを着たその男は、私を睨むように見ていた。

 男の醸し出す雰囲気からして、この学校の厳しい体育教師、生活指導の教師といった感じだ。これへマズイと思った。きっと今、私のことを不審者だと思って見ているのだろう。

 私はそのまま踵を左に向けて、教師と目を合わさないように歩いていった。教師側から見えない位置まで来て止まった。枝が寒々しい桜の木があった。その木の後ろに隠れるように立った。時より強い風が吹いて桜の枝が強く揺れる。風が吹く度に体が冷えた。体を竦めて細かく足踏みして柚菜が現れるのを待った。

 シンとした冷たい空気が、ザワザワと動きだした気がした。学生たちが学校から出てきたようだ。時おり張りのある甲高い声がこだました。柚菜を探さなければいけないと、校門に近づいた。ゾロゾロと校門から学生が吐き出されていく。さっきの教師に注意しながら恐る恐る覗いた。教師の姿は見あたらなかったので、学生の流れる群れに慌ただしく視線を巡らせ柚菜の姿を探した。

 みんながみんな同じ制服を着ている上、柚菜は小柄なので体の大きい男子生徒の間に入り込めば、見つけるのは大変だ。私は学生の群れに向けて必死で視線を走らせた。

 柚菜の身長は私に似て低めだが、やせ形で整った顔立ちは沙知絵に似て良かったなと思う。最後に見た柚菜の姿を思い出しながら探したが、見つけることが出来ない。そのうちに学生の群れは途切れ途切れになり、ついに、ぱたりと学生の群れは途切れた。校門の前は一気にひっそりとしてしまった。

 私は顔を上げ天を見上げた。せっかくここまで来たのに柚菜が見つからなかった。熱くなっていた体が急に冷えた。

 さっきの教師が校門の外に姿を見せた。鋭い視線であたりを見渡している。目が合った。ヤバイなと体を小さくしてその場から離れ、来た道を戻っていった。

 柚菜の姿を見落としたのか、それともまだ校舎から出てきていないのか。もしかして父親の死がショックで学校に来てないのかもしれない。

「ふん、そんなはずないわ」

 鼻を鳴らして自分に突っ込んだ。

 隣のテニスコートから元気な声が激しく飛びかいはじめた。

 テニスコートの横をゆっくり歩いていると、後ろから耳をつんざくような声が聞こえてきた。途切れていた学生がまた校門から出てきているようだ。

 振り向くと、男女三、四人のグループが私の方に向かって歩いてきた。二組が私の存在に気づくこともなく、そのまま騒がしく抜き去っていった。

 そして、三組目のグループが近づいてきた。先に男子学生が一人私の前を通り過ぎていった。すぐ続いて二人の女子学生が私の横を通る。通り抜ける瞬間に女子学生の横顔を見た。そこで柚菜を見つけた。柚菜がこっちをチラッと見たような気がした。

「柚菜」と声を掛けようとしたが、今の私は大沢勝男ではないんだ。柚菜が私に気づくはずはないと言葉を飲み込んだ。

 私は柚菜を含めた三人組のすぐ後ろについた。もう一人の女子学生の方が柚菜の肩に手を回していた。男子学生が二人の少し前を歩いている。

 男子学生は足を引きずるような歩き方をしていた。宙に向かって大きな口を開けて笑ったかと思うと、柚菜のところまで行き、柚菜の頭に手を置いて、柚菜の耳元で何やら言葉をかけていた。そしてまた宙に向かって笑っていた。女子学生の方は柚菜に顔を近づけニタニタと笑っていた。

 この男女二人と柚菜とは、みた目も雰囲気もだいぶ違うと思った。柚菜は黒くて長い髪の毛を後ろで一つに結びポニーテールにしている。髪を短くすれば若い頃の沙知絵にそっくりだ。高校生なので、もちろん化粧もしていないし髪の毛も染めていない。親の私が言うのもなんだが、清楚で可愛い女子高生だ。柚菜が幼い頃から他のどの子供よりかわいいなと思っていた。

 今、柚菜と一緒に歩いている女子高生は紅い唇をして化粧をしている。髪の毛も赤く染めている。女子学生は相変わらず柚菜にもたれかかるように肩に手を回している。ずっと耳元で柚菜に話しかけながらニヤニヤと笑っている。柚菜は俯き加減で目を伏せ唇を噛みしめていた。友達と一緒にいて楽しそうにしているようには見えない。

 男子高生の方は金色の髪をしてだらしなくズボンを低くずらしいる。柚菜と女子学生が歩く少し前を蛇行するように歩いていた。時々振り返り、二人に向かって何か言葉を発していた。はっきりとは聞き取れないが、嫌な予感しかしない。私は三人の後をそのままついていった。

 三人は坂道をダラダラと蛇行しながら下っていった。あまりにも歩くスピードが遅いので、それに合わせて歩くのに苦労した。たまに立ち止まり、三人との距離を空けてからまた後ろをついていった。

 やっとバス停のところまでやって来た。柚菜と女子高生がベンチに腰を下ろした。男子学生は柚菜の座る前に腕を組んで仁王立ちした。柚菜の黒髪をくしゃくしゃと撫でていた。その姿に優しさは感じない。

 私はバスを待つふりをして、柚菜の座るベンチの横に立って、三人の話し声に耳を傾けた。三人は私の存在を気にせずに話を続けていた。

 柚菜がチラッと私の方を見た。柚菜と目が合った。私にSOSを送っているように思えた。

「大沢さー、これからもあたし達が、西原のバカから守ってあげるからねー」

 女子学生が柚菜に向かって言った。

「さ、沢原さん、きょ、今日はどうも有難うございました」

 柚菜は俯いたまま、前を走る車の音にかき消されそうな声で言った。

「任せといて、真也さんが味方についたら、この学校で怖いもんなしだかんね」

 女子高生は前に立つ男子学生に向けて笑みを浮かべ親指を立てた。男子学生も笑みを浮かべて親指を立てた。

「まっ、俺に任せとけ」

 男子学生が柚菜の頭をポンポンと叩いた。

「あたしと真也さんは大沢のボディーガードだかんね。安心して。西原がまた苛めてきたらいつでも言ってねー」

 女子学生が紅い唇の両端をキュッと上げた。

「今日は本当に助かりました」

 柚菜がペコリと頭を下げた。

 柚菜は西原というやつに苛められているのか。この二人が柚菜を苛めから助けてくれたのだろうか。

「でね、そのかわりに大沢にお願いがあるんだけど」

 女子高生が柚菜の肩に手を回して顔を近づけた。

「な、何ですか?」

 柚菜は相変わらず俯いたままだ。

「あたしと真也さんがどうしても欲しいものがあるの。それをね、マルナカからもらってきてくれない?」

「マルナカからもらってくるんですか?」

 柚菜が初めて女子高生の方に顔を向けた。怯えているように見えた。

「そう。マルナカからもらってくるの」

「もらってくるって、どういうことですか?」

「もうー、とぼけないでよ。わかってんでしょ。これ以上言わせないでよ」

 そう言って人差し指を曲げて見せた。そして柚菜の耳に口を近づけて何かを言った。

 それを聞いた柚菜の背筋がピンと伸びて、少し震えはじめた。柚菜は何度も首を横に振っていた。

 何を言われたのだろうか?

「えー、嫌なの?」

 女子学生が紅い唇を尖らせた。

「そんなの無理です。許して下さい」

 柚菜は訴えるように言った。

「チェッ、使えねえなー」

 男子学生が椅子を蹴った。

「すいません」

 柚菜が男子学生に頭を下げた。

「じゃあ、これから西原に苛められても助けてあげないよ。反対に西原以上に、あたしと真也さんが大沢を苛めちゃうかもしれないよ。あたしたちの方が西原より危険だからね。それくらい、大沢もわかってんでしょ。それでもいい? 真也さんを怒らせること思ったら万引きなんてチョロいもんだよ」

「でも、万引きは嫌です」

 柚菜がまた俯いて何度も首を横に振った。

「それは虫がよすぎるんじゃなーい? あたしたちだって、あんたを助けたから西原と揉めちゃうはめになってるのにさー。大沢だけがリスク無しなのは不公平だと思うけどなー」

「お母さんがマルナカで働いてるから、見つかるとお母さんに迷惑かかるから」

「そうなんだ、おふくろさんが働いてんのか。じゃあさー。おふくろさんにも協力してもらえば」

 男子学生が柚菜に顔を近づけて言った。

「ムリです」

 柚菜の声はさっきまでとは違い、悲鳴のような大きな声だった。

 柚菜のその声を聞いた私は体が熱くなった。柚菜は苛めにあっている。さっき校門に立っていた教師は何のために立っているのだ。生徒が苛めにあっているのを見抜けないのか。怒りの感情が一気に込み上げてきた。一度目を閉じて深く呼吸し、冷たい空気を吸い込んだ。少し自分の感情を落ち着かせてから柚菜の方に体を向けた。

「あなた、大沢柚菜さんだよね?」

 思いきって柚菜に声を掛けた。

 三人が同時に私の方に視線を向けた。

「は、はい」

 柚菜が不安そうな目で私を見上げた。

 男子学生と女子学生も私の方を見てから柚菜に視線をやった。

「お、大沢さんの知り合い?」

 女子学生が柚菜に訊いた。そして柚菜に回していた手をほどいて姿勢を正した。

「え、えーと」

 柚菜が私の顔をじっと見ている。私が誰なのか記憶を辿っているようだが、柚菜が今の私を見て誰だかわかるはずがない。

 男子学生と女子学生を見ると彼らの表情から笑みが消えていた。私を見る目は怯えているようだった。

「柚菜さんは知らないでしょうけど、私は柚菜さんのお父さんの知り合いなんです」

「は、はあ」

 女子学生が頼りない声を出した。

「だから、ちょっとだけいいか?」

 低くドスのきいた声を出し、二人を睨みつけた。

 男子高生は直立不動になり、女子高生も慌てて立ち上がり髪の毛を手で整えた。柚菜は座ったままぐったりとしていた。

「な、なんでしょうか」

 女子学生が訊いてきた。

「今、話していた、柚菜さんが苛められているのは本当なのかな?」

「え、ええ、は、はい。そ、それで今日は、あたしたちが大沢さんが苛められているのを、見るに見かねて助けたんです。か、彼が、大沢さんを苛めていた子に、苛めはダメだと注意してやめさせてくれたんです」

 女子学生が男子学生の肘を握りながら応えた。

「そうなんだ。君が助けてくれたの」

 私は男子学生に笑みを貼りつけながら訊いた。

「は、はい」

 男子学生の喉仏が上下する。

「そう、柚菜さんを助けてくれてありがとう」

 私は男子学生に向けて頭を下げた。

「そ、そんな、お、お礼なんていいです。当たり前のことをしただけです。あたしたちは大沢さんの、し、親友ですから。ね、ねえ大沢さん」

 女子学生はそう言って、同意を求めるよう柚菜に顔を向けた。

「そう、君たちは柚菜さんの親友なんだ」

 二人の顔を交互に見た。

「はい、あたしたちは親友です」

 女子学生が頼りない笑みを浮かべた。

「さっき、親友の柚菜さんに、何をさせようとしてたのかな」

 女子学生にきつい視線を向けて訊いた。

「えっ、べ、別になにも」

 女子学生はとぼけるように口を尖らせながら首を傾げてみせた。

「まさか柚菜さんに万引きをさせようとしたわけじゃないよね。さっき、万引きしなければ、もっと危険な目に合わすみたいなこと言ってなかったかな?」

「ま、まさか。俺たち、そんなバカなこと言ってません」

 男子高生の方が慌てて右手を何度も横に振り否定した。

「そう。それならいいんだけど。私は柚菜さんのお父さんにお世話になってたんでね。お父さんから柚菜さんのことをよろしく頼むとお願いされているから、柚菜さんに何かあったら、亡くなったお父さんに申し訳ないんだ」

 そう言ってから、目を見開いて男子学生をぎゅっと睨みつけた。

 男子学生の顔色が白くなっていくのがわかった。さすがに小沢勝己の外見は、いきがっただけの男子学生には迫力があり恐ろしいのだろう。

「だ、大丈夫です。僕たちはいつも大沢さんと仲良くしています」

「そう。それなら良かった。これからも仲良くしてやってくれ」

 私はそう言って右手を出した。

 男子学生が、「あ、はい」と言って青白くて細い右手を出した。

「絶対に頼むよ」

 男子学生の目をじっと見て、男子学生の青白く細い右手を握った。

「いて」

 少し右手に力を入れると男子学生は痛がった。面白くなって、もう少し力を入れると、「いたーい」と言って顔を歪めていた。小沢勝己の握力はすごいようだ。

「もし、柚菜さんに何かあったら、私もカッとなって頭に血が上ってしまいそうなんだ。昔の血が騒ぎだしたら、自分でも止められなくなって、何するかわからない。また刑務所に戻ることになるのも嫌だから、柚菜さんを苛めてる友達にも、そのことを伝えておいてくれるかな」

 私は指をボキボキと鳴らした。

 男子学生と女子学生の体が震えているのがわかった。柚菜に対していきがっていたさきほどまでの姿とは別人だ。視界の片隅でバスが向かってくるのを確認した。私がバスに視線を向けると男子学生と女子学生もバスの方に振り向いた。

「は、はい、わ、わかりました。ぼ、ぼ、僕たちは、も、もう帰っていいですか?」

 男子高生の方が胸の前で両手を合わせた。

「ああ、いいよ。お疲れさま。今日は柚菜さんを助けてくれてありがとう」

 私は男子学生の肩に手を置いた。

「じゃ、じゃあ、僕たち、あ、あのバスで帰ります」

「じゃあ、気をつけてな」

 私は男子学生の細い肩を強く握った。男子学生がビクッと震えた。

「大沢さん、あたしたち先に帰るわね」

 女子学生が柚菜に向かって手を振って笑みを浮かべた。

 バスが停留所にゆっくりととまった。

 男子学生と女子学生はお互い顔を合わせてから私に向かって、「で、では、失礼します」と同時に言って深々と頭を下げた。

 そして踵を返しそのままバスに飛び乗った。バスのドアが閉まる。バスのドアの窓に二人の背中が見えた。こっちに振り向く気はなさそうだ。二人の肩がガクンと下がるのが見えた。

 やはり小沢勝己の外見はいきがるだけの高校生を威圧するには充分すぎるようだ。私が大沢勝男の姿のままなら、あの男子学生は、「うるせえんだよ。このおっさん」とか言ってきただろう。

 しばらく走り去るバスの背中を眺めていた。バスが小さくなっていき、カーブを曲がったところで柚菜に視線を向けた。柚菜はベンチに座ったまま俯いていた。

 私は柚菜の前に立った。柚菜は顔を上げようとはしなかった。

「大丈夫?」

 力なく垂れ下がるポニーテールに向かって声をかけた。柚菜は俯いたままだった。

「おじさん、おせっかいだったかな」

 私がそう言うと、柚菜はゆっくりと顔を上げた。柚菜の黒い瞳が微かに揺らいでいた。

「助けていただいて、有難うございました」

 柚菜は蚊の鳴くような声を出し、小さく頭を下げた。体は震えていた。私の知っている元気な柚菜の姿ではなかった。

「学校で苛められてるの?」

 柚菜の横に腰を下ろして訊いた。

 柚菜は俯いたまま、小さな声で「はい」と言った。それを聞いて胸が締めつけられる思いがした。

「いつから?」

「えっと、半年くらい前からです」

「そ、そう」

 半年前ということは、高校に入学してすぐではないか。柚菜が苛められているなんて全く知らなかった。私と沙知絵に相談出来ないで苦しんでいたのだろうか。それとも沙知絵には相談していたのだろうか。

「誰かに相談とかしなかったの?」

「母親に相談したことがあります」

 沙知絵は知っていたのだ。なぜ私に相談してくれなかったのか。それほど私は頼りにされていなかったのか。そう思うと鉛を飲み込んだようなずっしりと重い気持ちになった。

「お母さんはなんて?」

「義務教育じゃないんだし、嫌なら学校を休めばいいって言ってくれました。学校を辞めてもいいとも言ってくれました」

「けど、学校は続けてたんだ。辛かったね」

「ええ、まあ」

「お父さんには相談しなかったの」

 私には相談してくれなかったことはわかっているがとりあえず、話の流れで訊いてみた。

「はい、相談したことはあるんですが……」

 柚菜がそこで言葉を詰まらせた。

 今、柚菜は私に相談したことがあると言った。私は相談された記憶はない。どういうことだ。

「本当にお父さんにも相談したの?」

 もう一度訊いてみた。

「はい。でも父は仕事が大変なのか、仕事のことで頭がいっぱいそうで、真剣に聞いてくれませんでした。とりあえず頑張れとか言ってそれっきりでした。けど、……」

 柚菜はそこで言葉を詰まらせた。

「けど、どうしたの?」

 私は俯き加減の柚菜の顔を覗きこんだ。

「けど、父は、苛めのことはすぐに忘れちゃったみたいです。母にそのことを話したらすごく怒ってました。あなたのことは、わたしが何とかするって言ったので、それからは私も母も父に相談しなくなりました」

「そ、そう」

 頭を鈍器で殴られた気分だ。苛めにあって悩んでいると柚菜から相談された記憶が全くない。なんと情けない頼りにならない父親だろう。

「父は、私がこの高校に行くことをよく思ってなかったみたいだったから、もしかしたら、ざまあみろ、とでも思っていたのかもしれません」

 柚菜が唇を噛みしめている。

 柚菜、それは誤解だ。苛めの相談を聞き流してしまったことは申し訳なく思う。しかし、娘が苛められて、ざまあみろ、と思う父親がいるわけないだろ。その時、ふと、小沢勝己の父親の顔が浮かんだ。あいつならそう思うのかもしれない。小沢勝己はそんな父親と中学生までいっしょに暮らしていたんだ。

 柚菜が苛めにあってSOSを出しているのに完全に無視した私と母親の佐和を助けるために二度も罪を犯してしまった小沢勝己。本当はどっちが地獄に落ちるべきだったのか。私は気分が悪くなり、頭を抱えた。

「だ、大丈夫ですか?」

 柚菜が私の顔を覗きこんできた。

「あ、ああ、だ、大丈夫だ」

 柚菜が私の落ち込む様子を心配して声をかけてくれた。柚菜から見れば、今の私は赤の他人のはずなのに、なんと優しい娘なんだろう。

「父のお知り合いの方でしたよね。父のことを悪く言っちゃってごめんなさい」

 柚菜が前を向いたままペコリと頭を下げた。

「いや、それはお父さんが悪いと思うよ。父親なら娘をしっかりと守ってやるべきだと思う」

 私も前を向いたまま言った。

「でも、死んじゃったから、もう守ってもらえない」

 柚菜の声が震えていた。柚菜の横顔を見ると、目から涙が溢れ頬を伝っていた。柚菜は私が死んでしまったことで泣いている。私まで目頭が熱くなってきた。

「そ、そうだね、急だったしね」

 柚菜の横顔に声をかけた。

「ほんとに、急すぎるよ」

 急に柚菜が私に顔を向けた。顔をくしゃくしゃにして泣いている。柚菜が幼い頃の泣き顔を思い出した。

「でも、苛めから守ってくれないようなお父さんだったから、そんなに悲しくなかったんじゃない」

 どう慰めればいいかわからず、私がそう言うと、柚菜の泣き顔だった表情がスーっと消えていった。

 柚菜の整った眉が吊り上がり、黒い瞳からは刺すような冷たい光を放っていた。

「実の父親が死んで、悲しくないわけないですよ」

 声は凶器のように尖っていた。

「そ、そうだね、おじさん、失礼なことを言っちゃったね」

 今の私は柚菜からすると、全くの赤の他人なんだ。そんな男から、実の父親が死んでも悲しくないでしょ、なんて言われたら腹が立つのは当然だ。完全な私の失言だ。

 柚菜の幼い頃、休日でもほとんど遊びに連れていかなかった。学校の行事にも参加しなかった。そして、苛めの相談も無視した。そんなどうしようもない父親でも、柚菜は私が死んだことを悲しんでくれていた。

「おじさん酷いこと言ったね。申し訳ない」

 私は椅子から立ち上がり柚菜に向かって頭を下げた。

「いえ、こちらこそ、すいません。ちょっと感情的になってしまいました」

 柚菜が顔を上げて小さく首を横に振った。

「お父さんが亡くなって辛かったんだね」

「はい、もう一日中泣きました。悲しくて、寂しくて、辛くて、今も父親のことを思い出すと涙がでます」

 柚菜の目からまた涙が溢れ頬を伝った。

「そ、そう」

 意外な答えに慌てた。私も涙が出そうになって次の言葉が出なかった。黙って何度も頷いた。

「でも、わたしより、母の方が辛かったと思います。母は、毎日父の写真を見て泣いています。だから、今は苛めのこと、母にも相談出来なくなっちゃいました」

 沙知絵は、私が死んだことで泣いているのか。私がいなくなってせいせいしていると思っていたのに。

 そして、柚菜は苛めに一人で苦しんでいる。助けてあげたい。柚菜を幼い頃のように力一杯ぎゅっと抱きしめてやりたいと思った。

 しかし、今そんなことすれば痴漢だと勘違いされるだろう。今の私は父親の大沢勝男ではないんだ。グッと堪えてから、柚菜に向かって頑張れ、と視線を送った。

 沙知絵にも会いたくなった。沙知絵には、私は姿は変わってしまったが、まだ生きているんだと伝えよう。そして、沙知絵の力になろう。

「お母さんは今もパートに行ってるの?」

「はい、毎日暗くなるまで働いています。おじさんは母を知っているんですか」

「いや、会ったことはないんだけど、沙知絵さんとあなたのことはお父さんからよく聞かされていたから」

「そうなんですか。父が母やわたしのことを他の人に話してたなんて意外です」

 柚菜に笑顔が戻った。

「そうかい。自分にはもったいない、すごくいい妻と娘だと言ってたよ」

「おじさんとお父さんとはどういう知り合いなんですか?」

「えっ、ああ」

 返答に詰まってしまった。こんな展開になるとは考えてもいなかった。

「そ、そうだね」そこまで言ってから頭の中を整理しようと思ったが、なかなかまとまらない。そのまま「お父さんには、仕事のことですごくお世話になったんだよ」と続けた。

「おじさんは、お父さんと同じ会社で働いていたわけですか?」

 柚菜がどんどん質問をぶつけてくる。頭を整理する余裕がない。

「いや、お父さんとは昔の知り合いでね」

「学生の頃とかですか?」

「う、うん、まあそうだね」

「おじさんも岡山の人ですか」

「そ、そうだね。む、むかしは岡山に住んでたんだけど、えっと、今はね、あれだ、わ、和歌山に住んでいるんだ」

「へぇー、和歌山ですか。今日はわざわざ和歌山から来てくれたわけですか?」

 柚菜の表情が怪訝そうに歪んだ。私の話しぶりから私が嘘をついてると感じとったのかもしれない。

「そ、そう。今日はお父さんのお墓参りをするために来たんだよ。そ、それでお父さんから柚菜さんのことをよろしく頼むって言われてたの思い出したから、一度会ってみようかなと思って、ここまで来てみたんだ」

「おじさんは、さっき、わたしが大沢柚菜だって、すぐにわかったんですか? わたしの顔を知っていたんですか」

 柚菜が警戒心を強めている。警戒心が強いことはいいことだ。けど、ここは柚菜の警戒心をとらなければならない。

「え、ま、まあ、写真をね、お父さんから見せてもらったことがあるから、それで校門のところであなたの姿を見つけて、似てるなと思ったからついてきたんだ。それで、さっきの二人が大沢さんって言ってたから、間違いないと思って声をかけてみたんだ」

 柚菜の疑いの視線が突き刺さる。汗がどっと吹き出てきた。

「へえー、そうなんだ」

 柚菜は横目で睨むような視線を向けた。

「ほ、ほんと、ほんと、ほんとに、そ、そうなんだ」

「わたしたちのことをお願いしますって、お父さんがおじさんに言ったわけですか」

「ま、まあ、そうだね。そんな感じのことをね」

「もしかして、お父さんは、自分が死ぬことがわかっていて、おじさんにわたしたちのことをお願いしたんでしょうか? もしかしてお父さんは自殺だったとか?」

 柚菜の話が飛躍していく。まずい展開だ。

「いやいや、違うよ。実は、お父さんは、沙知絵さんとあなたをおじさんに紹介したいと言ってくれてたんだよ。だけど、その前にあんな事故にあってしまったから、私が勝手にあなたたちのことを心配してるだけなんだ」

「ふーん、そうですか」

 柚菜はどこまで信用してくれているのだろうか。柚菜は沙知絵に似て勘が鋭い。私を怪しい人物だと思っているのかもしれない。

「そう、あなたのお父さんは、あなたや沙知絵さんのことをすごく愛してたから、きっと今ごろ天国で心配してるんじゃないかとおじさんが勝手に思って、あなたに会いにきたんだよ。お節介でごめんね」

「お父さん、わたしのこと愛してくれてたのかな」

 柚菜が宙に視線をやった。

「うん、それは間違いない。すごく愛してたよ。それはおじさんが保証する」

「それならよかったです」

 柚菜が私に視線を向けて小さく微笑んだ。

 次のバスが向かってくるのが見えた。すると、柚菜が立ち上がった。

「おじさん、今日はありがとうございました。父のことがいろいろ聞けて、わたし少し元気になりました」

「そう。それならよかった。おじさんもあなたに会えてよかったよ。これから嫌なことがあっても一人で抱えこまないようにね」

「わかりました。わたし、あのバスで帰ります。おじさんは?」

 柚菜が入ってくるバスに視線を向けた。

「おじさんは、もう少しここにいるよ」

 もっといっしょにいたい。いっしょにバスに乗りたいが、そこは我慢した。

「そうですか。今日は本当にありがとうございました」

 柚菜がペコリと頭を下げた。

 バスが入ってきて、柚菜は私に背を向けてバスに乗り込んだ。

「柚菜、元気でな」

 バスに乗り込む柚菜の背中を見ながら小さく呟いた。

 柚菜がバスに乗り込んでから、私にふり返り手を振ってくれた。

 柚菜が幼い頃に公園の滑り台を滑りながら、手を振ってくれた時の姿を思い出した。

 バスのドアが閉まり発車した。バスの中にいる柚菜に視線を向ける。柚菜もこっちを見ている。柚菜に向かって首肯した。バスが走り出した。柚菜の姿追いかけたが、すぐにバスは小さくなりカーブを曲がり見えなくなった。

 これで、もう二度と柚菜に会えないのだろうか。いや、また会いたい。どうしても会いたい。今別れたところなのに、今すぐに会いたい。

 柚菜がいなくなった途端、気温が一気に下がった気がした。体をブルブル震わせて、一人バス停のベンチに腰を下ろした。肩を竦めてこの先どうするかを考えた

 振り返ると柚菜の通う高校の薄茶色の校舎が見えた。窓ガラスが赤く反射している。野球部員が私の前を白い息を吐きながら走り過ぎていく。

 柚菜と久しぶりに話が出来た。柚菜は高校に入学してから苛めにあい苦しんでいた。沙知絵もそのことで苦しんでいた。私は何も知らなかった。いや、仕事が忙しいとかまけて知ろうとしなかった。


 ドアを開ける一歩入ると鉄板の上でカキオコがジュージューと音をたてていた。牡蠣の磯の香りと焼ける香ばしさにソースの匂いが加わり、口の中は唾液であふれた。

 カキオコは大沢家の思い出の味だ。沙知絵とはじめてデートして食べたのがカキオコだった。付き合うようになってからも月一回のペースで食べにきた。柚菜が生まれ家族三人ではじめてこの店に来たのは柚菜が幼稚園の頃だった。小さかった柚菜は牡蠣が苦手で、エビ入りのお好み焼き、エビオコを食べさせた。

 柚菜が小学校の高学年になると柚菜も牡蠣が食べられるようになった。中学生の頃にはカキオコは柚菜の大好物になった。

 今日は一人で席につき、生ビールとカキオコを注文した。まずは生ビールのジョッキがテーブルに運ばれてきた。今日は忙しく充実した一日だったなとジョッキを持ち上げて口に傾けた。

 まず大沢勝男の頃の自宅まで行って、それから父親と母親、そして大沢勝男が眠る墓に行った。墓石に自分の名前が刻まれているのを見て、なんとも言えない気持ちになった。

 高山と清水にも会いに行った。高山を驚かせてしまって申し訳ないことをした。

 柚菜の通う学校にはじめて行った。柚菜が苛めを受けていたと聞いてショックを受けた。しかしそれ以上に、生前の私が相談をうけていたのに、無視してしまっていたことの方がショックだった。

 そのことが原因で、私に対する沙知絵の態度が冷たくなっていたのだ。バカな夫でまぬけな父親だ。

 柚菜も沙知絵も私が死んだことで悲しんでいると柚菜が言っていた。それが本当なら嬉しい気もするが、悲しむ二人を残して死んでしまったことに辛い気持ちにもなる。複雑な心境だ。

 焼きあがったカキオコが私の目の前の鉄板に滑るように置かれた。上にのる牡蠣の表面が黄金色に香ばしく焼けている。ゴクリと唾を飲み込んでから、横に置いてある銀色の容器をとり、刷毛で牡蠣の上からソースをべったりと塗った。ソースが鉄板にこぼれ落ち湯気が立ち上げる。ソースの匂いが鼻を突き刺し、また生唾が口の中に溢れた。匂いだけでもビールがすすむ。まずはビールで生唾を胃に流し込んだ。黄金色に焼けたプリプリの牡蠣を一粒だけ箸でつまみ上げ口に放り込んだ。口の中に牡蠣のミルキーさと焼けた香ばしさにソースの味が加わって何ともいえない旨さだった。やはりこの地域の牡蠣は、粒が大きく最高に旨い。ゆっくり懐かしみ味わうように咀嚼した。

 しっかり味わった後、口の中に残る微かな牡蠣の旨味をビールで流し込んだ。カキオコにビール、最高に贅沢な組合せだとあらためて思った。

 沙知絵と柚菜と私、家族三人でカキオコを食べに来た頃のことを思い出した。あの頃は本当に幸せだった。また家族三人でカキオコを食べに来たいと思う。

 しかし、沙知絵の夫、柚菜の父親としての大沢勝男は、今日行ったあの墓の中にいて、すでにこの世にはいないのだ。三人でカキオコを食べに来たいという私の願いは絶対に叶わない。

 最後まで残しておいた牡蠣の載った部分のカキオコ一切れを口に放り込んだ。沙知絵と柚菜のことを思い出し、咀嚼した。最後にビールで流し込んで、ぼんやりと宙に視線をやった。涙が頬を伝っているのがわかった。


 曇ったホテルの窓ガラスに『サチエ』『ユナ』と指で書いた。すぐに水滴が涙のように垂れて落ちていった。

 落ちる水滴を目で追いかけ最後に手のひらで窓ガラスを拭いた。冷たく濡れた大きくてゴツゴツした手のひらをじっと見つめた。

 早く沙知絵に会いたい。

 沙知絵がパートで働くショッピングセンターマルナカは自宅から自転車で十五分くらいのところにある。ここのホテルからだと電車で三十分くらいで行けるだろう

 これまで一度も沙知絵の仕事場にも顔を出すことはなかった。柚菜が小学生になって、少し時間に余裕ができたのでパートを始めたいと沙知絵から言ってきた。将来のことを考えると少しでも収入が多い方がいいので反対する理由などなかった。

「いいんじゃないか」と私が言うと、「ほんと、じゃあ、ここで働こうかなと思ってる」と言ってからテーブルに置いてあったアルバイトの情報紙の付箋の挟んでいたページを開いて私の方に向けた。

 私が開いたページを覗きこむと、そこにはもうすぐオープンする予定のショッピングセンター内のスーパーのレジの募集が載っていた。

 沙知絵はスーパーのレジなら結婚前までやっていたし、自宅からも柚菜の小学校からも近いのでちょうどいいと言って笑みを浮かべた。

 あれから十年、沙知絵はそのスーパーでずっと働き続けている。働きはじめた頃は、午前中だけて

週三、四日ほどの勤務だったが、柚菜が中学生になってからは朝から夕方まで週五日働くようになった。職場では重宝されているようだった。独身の頃の沙知絵の仕事ぶりを思えば、それも頷ける。

 仕事に家事に大変だったろう。帰ってから夕食の支度や掃除、洗濯と毎日忙しそうにしていた。夜遅くまで動きまわって全てが片付くと、ため息を吐きながら、私の横に座り込む沙知絵の姿が浮かんだ。

 沙知絵は言葉を発することなく、ちらりと私を一瞥した。あの時はどんな気持ちでいたのだろう。

 柚菜はそんな沙知絵を見ていたからか、洗い物や風呂の掃除を手伝っていた。それでも私は手伝うことなく、二人をリビングから寝そべって見ていた。

 半年くらい前から二人が私を避けるようになった。柚菜は、中学生になった頃から少しずつそんな傾向があったし、年頃の娘だから仕方がないのかと思っていた。

 しかし、沙知絵と柚菜が私と話さなくなった理由はそんな簡単なことではなかった。

 沙知絵はいろんなことに疲れていたのだ。柚菜も苛めにあい苦しんでいたのだ。私はそれに気づくことなく、相談されているのに無視してしまっていた。

 自分は朝早くから夜遅くまで仕事をして大変だから、沙知絵も同じ職場だったからわかってくれていると逃げていたのかもしれない。

 自分は不幸で恵まれていない、理不尽な扱いをされていると思っていた。自分が一番不幸だと決めつけ、自分以外の人の苦労に気づいていなかった。

 私と同じ歳の小沢勝己に比べれば、恵まれ過ぎていたことに気づいていなかった。

 きっと、小沢勝己は自分が不幸で恵まれていない、理不尽だ、などと不平不満を口にする余裕すらもなかったのだろう。それくらい苦しく辛い人生だったのだ。それでも佐和さんを守ることを一途に生きていた。

 私みたいに微塵のような不平不満や愚痴をこぼしている間は、まだまだ幸せなのかもしれない。

 やっと気づいた。しかし、遅すぎた。ホテルのベッドで横たわると天井がぼやけて見えた。


 重い体を起こしてベッドから立ち上がった。伸びをしてから、カーテンを開け、窓の外を見ると稜線が赤く染まっていた。

 昨日の柚菜の苛めの話にショックを受けたことと、今日これから沙知絵に会いにいく興奮とで、ほとんど眠れないまま夜が明けてしまった。

 洗面所に立ち鏡を覗いた。鏡に映る小沢勝己の顔には、やはりまだ慣れない。

 鏡を覗いた瞬間、体がのけぞりゾクリとする。この顔で町を歩くと、すれ違う人たちは目をそらしていくが、私も鏡に映る自分の顔を未だに直視できない。これから先、この顔に慣れる日が来るのだろうかとボサボサの頭を掻いた。


 田畑が広がる広大な土地にそびえ立つ四階建ての建物。ベージュの壁には、有名なチェーン店の看板が競うようにずらりと縦横に並んでいる。食品スーパー、ホームセンター、ドラッグストア、百円均一ショップ、衣料品店、家電ショップ、ペットショップ、ファーストフード、ラーメン屋、うどん屋にコーヒーショップ、どの店も誰もが知る有名店ばかりだ。

 目の前に広がる駐車場はすでに満車状態で、その後もゲートが開く度に次から次へと入って来る車をガードマンが奥に建つ四階建ての立体駐車場へと誘導していた。

 ここがオープンしてから、私が働いていたスーパーシンヨウは売上を大きく落とした。売上が落ちた分、人員を削られ皺寄せがきた。休みがとれなくなり残業も増えた。しかし、給料は上がらない。沙知絵は私の給料が上がらないので、家計の足しにと、ここでの勤務時間を増やした。

 広い駐車場を抜けて、食品スーパーの入口の前に立った。今日のお買い得商品や店長おすすめの商品が載った広告が貼ってあった。それらを一瞥して店内に入った。

 いきなり白菜や白ネギが山積みしてあり目に飛び込んできた。白菜も白ネギも艶々と輝いて見える。それらを品定めしながら買い物カゴに放り込んでいるお客さんの後ろを抜けると、次はみかんが山盛りに陳列してあった。これが今日の店長おすすめ商品のようだ。小沢勝己の生まれ故郷が産地のみかんだった。そのみかんを一袋手に取った。そのまま買い物カゴに放り込んで、肉のコーナーに向かった。

 肉の売場を見ていると、ついつい長く見てしまう。そして働きたくなってくる。鮮魚コーナーを抜けて惣菜コーナーへ向かった。昼食にと、三百八十円の海苔弁当を手にとりレジに向かった。

 レジに視線を向けると、沙知絵らしい背中が見えた。手際よく商品をレジに通している後ろ姿は二十年前に同じ職場で働いていた頃と変わっていない。

 その後、私と結婚して仕事を辞め、一緒に暮らすようになってからは、家の中の沙知絵の姿しか見ることがなかった。背中を見ているだけだが、今の姿の方が若々しく見えた。

 レジは五つ並んでいた。真ん中のレジに沙知絵が立っていた。ここは沙知絵のレジに並ばないといけないのだが、なかなか勇気が持てなかった。沙知絵が今の私の姿を見ても、自分の夫だと気づくわけがないのだから、普通に客として買い物をすればいいんだ。

「大丈夫だ。行け」私は自分に向かって、そう言い聞かせた。

 心臓をバクバクさせながら、沙知絵のレジに並んだ。お客さんに笑みを浮かべる横顔は、結婚前のあの頃と変わらない。

 今日はポイント三倍デーのようで、レジに並ぶお客さんのカゴの中には商品がいっぱい詰まっていた。そのためレジも時間がかかっているようだった。

 私の前に並ぶ男は、待ち時間が長くなっているのが気にくわないようで、何度も首を伸ばし、レジの方を覗きこんでは舌打ちをしていた。

 男の持つ買い物カゴの中に視線を落とすと、中にはカップ入りのお酒が数本とさきいかとピーナツが入っていた。これから一杯やるつもりなんだろうか。

 男はそれからもずっと舌打ちを繰り返しイライラした様子だった。

「おい、まだかよ、早くしろよ」

 男がレジの方に向かって怒鳴った。他のお客さん視線がこっちに集まった。怒鳴った声の主を確認しようとしている。なかには私が声の主だと思っている者もいるようで、私に訝しげな視線を向けてくる人もいた。私は知らん顔をして下を向いた。

 この男のせいで、沙知絵の姿を久しぶりに見てワクワクドキドキした私の気持ちは、泡のようにスッーと消えてしまった。

 もうすぐ、という時に、男の前に並ぶ年配の女性が支払いに手間取っていた。小銭入れから小銭をすべてバサッと台の上に出して、そこから小銭を数えて支払おうとしていた。沙知絵がそれを手伝って小銭を仕分けしていた。

 その様子を後ろで見ていた男は大きく舌打ちし、「うあー」と雄叫びを上げながら、買い物カゴをドーンと音をたてレジの台に置いた。

 そして、「早くしろー」と怒鳴った。

「お待たせして、申し訳ございません。お客様、もうしばらくお待ちくださいませ」

 沙知絵が男に視線を向けてお詫びした。

「ババア、早くしろよ」

 男は、前の年配の女性客に向けて言った。

「ごめんなさいね。この歳になると目が見えにくくてね。いつもこのレジのお姉ちゃんに助けてもらってるのよ」

「自分で金も出せないのに買い物なんか来るな。周りが迷惑なんだよ」

「ごめんなさいね」

 年配の女性が男に頭を下げた。

「さっさとしろよ」

 男は吐き捨てるように言ってレジの台を思いっきり蹴った。

 私の体が熱くなり震えてきた。ギュッと両拳を握りしめた。せっかく沙知絵に会えたのに、なんという気分になってしまったのだろう。

「お客様、もうしばらくお待ちくださいませ」

 そう言う沙知絵の表情を見ると、緊張して顔を強ばらせながらも、必死で笑みを貼り付けていた。

 やっと前の男のレジの精算の番になった。この男の精算が終わるまで、私は落ち着かなかった。無事に終わってくれと祈った。

 沙知絵が男のカゴの中のお酒とさきいか、ピーナツをレジに通して、男に代金を告げた。

「千八百五十二円です」

 男は千円札二枚を出して、釣りとレシートを受け取った。なんとか男のレジが終わって私の番になった。

 フーッと息を吐いてから、買い物カゴを台に置いて沙知絵の顔に視線を上げた。心臓の音が激しくなった。沙知絵の顔を近くから正面で見た。あの頃と変わらない。初めて食事に誘ったあの頃のままだ。心臓の位置が一気に急上昇した。

「いらっしゃいませ。お待たせいたしました」

 沙知絵が私に向かって頭を下げた。澄んだ声を聞いて急上昇した心臓が口から飛び出しそうになった。

「おい」

 さっきの男の声がした。

 声の方に視線を向けると、男は私の前に戻ってきて、沙知絵を睨んでいた。眉間に皺を寄せ唇を尖らせていた。

 私の沙知絵に会った緊張感は、しぼんでいった。

「申し訳ございません」

 沙知絵が私に向かって頭を下げてから男の方に向きを変えた。

「はい、どうされましたか?」

「どうされましたか、じゃねえよ。これ、おかしいだろ」

 男は沙知絵に向かって言って、レシートを沙知絵の顔の前に突きだした。

 沙知絵がレシートを手に取って見ていた。困ったように首を傾げた。

「わかんねえのかよ」

「は、はあ」

 沙知絵は眉をハの字にしていた。

「ピーナツの値段が違うだろ。これ、いくらだよ」

 男がレシートを指さしながら言った。

「ご、五百円ですが……」

 沙知絵が少し戸惑い気味に言った。

「なんで、そんなに高いんだよー。お前ぼったくる気か」

 男は台に手を置き、沙知絵を睨め上げるように見た。

 これまで笑みを絶さなかった沙知絵の表情も完全に強張ってしまった。

「何黙ってんだ。ピーナツの値段が違うじゃねえか。三百九十八円だろ。なんでそれが五百円になってんだ」

「も、申し訳ございません。すぐにお調べしますので、しばらくお待ちいただけますか」

 沙知絵が深々と頭を下げた。

「調べるって、俺の言うこと信じてないわけか」

 男は沙知絵の鼻先に指先が当たるくらいに近づけて人差し指で差した。

「申し訳ございません」

 沙知絵がもう一度深々と頭を下げた。

「お前は、もういらん。責任者を出せ。お前を辞めさせたる」

 沙知絵は、レジの台の下にある受話器をとった。内線で店長を呼んでいるのだろう。

 それから、レジに並んでいる私たちに向けて、「申し訳ございません」と言って、台の上に、『レジ休止中』の札を置いた。

 私の後ろに並んでいた列は崩れ、他のレジの列へと並びに行った。私はそのまま、そこに立ち尽くしてしまった。

 あの事件のことを思い出した。そう、沙知絵と親しくなるきっかけになったあの事件のことを。

 しばらくすると店長らしき男がやってきた。

「お客様、お待たせして申し訳ございません」

 店長らしき男は、揉み手をしながら男の前に立った。

「あんた、責任者?」

「は、はい、店長の深山と申します」

「これ」

 男がレシートを出した。

「はい?」

 深山がレシートを受け取った。

「ピーナツの値段、この女が間違えてやがんの」

 沙知絵を睨むようにして言った。

「さようでございますか。申し訳ございません」

 深山は深々と頭を下げた。

「この女、客から余分に金取って懐に入れてるんちがうの。こんな女が働く店やと安心して買い物も出来んわ」

「いえ、それは違い……」

 沙知絵が言葉を挟もうとしたが、店長が手を出して遮った。

「価格を間違えて、お客様から余分に代金をいただこうとしたことは、大変申し訳なく思っております」

「この女がわざと間違えたんだろ」

「わざとかどうかにつきましてはこれから調査いたします。しかし、どちらにしてもお客様にご迷惑をおかけしたのは事実でございますので、今後、このようなことのないよう教育はさせていただきます」

「ふーん、なんか腑に落ねえな」

「ご返金ということでお許しいただけませんでしょうか」

「店長さー、さっきの話だと、この女辞めさせないってことか。俺に金だけ返して、なかったことにしようとしてるわけ?」

「いえ、そういうわけではございません。しっかり調査して、彼女がわざと現金を着服しようとしたのがわかりましたら、それ相応の処分はいたします」

「そしたら、その処分が決まったら、俺に連絡してくれる?」

「連絡ですか?」

「そう。俺被害者だし、それくらい聞く権利あるよな」

「わ、わかりました。そうさせていただきます」

 私は沙知絵の顔を見た。俯いている。唇を噛みしめている。きっとこれは沙知絵のミスではない。ピーナツのバーコードに値段を登録する時に間違えたのだ。だから、沙知絵が間違ったのではなく、ピーナツの値段を登録した人間の間違いなのだ。もちろん沙知絵が自分の懐に現金を入れるつもりなど絶対にない。店長もそのことをちゃんと説明しろよ、とマグマのような感情がフツフツとわき上がってきた。

 私は我慢の限界だった。黙って聞いていられなくなった。

「まだ、終わらないの」

 私はドスをきかせ低い声で言った。

 三人が一斉に私の方を見た。目が合った瞬間、店長の顔がひきつるのがわかった。また、厄介な客が現れたとでも思ったのだろう。

「お客様、大変申し訳ございません。このレジはただいま休止しておりますので、他のレジへおまわりいただけますか」

 店長が揉み手をしながら私に言った。

「いや、このままここで待つよ。待たされるのはどうでもいいんだ。それより……」

 店長と男を順に睨んだ。

「は、はい?」

「こういう風にイチャモンつける男が許せないだけだ。この男はいつまでこのレジの人にわけのわからないイチャモンつけるんだ。それがいつ終わるのかを訊いてるんだ」

 男を顎で指しながら言ってやった。

「わ、わたしのこと、ですか?」

 男の声が裏返った。ポケットに手を突っ込み顎を上げ気だるそうにしていた男は、慌ててポケットから手を出し背筋を伸ばし顎を引いた。

「そう、値段間違ってんのは、このレジの人だけのせいじゃないでしょ。それにこの人が懐に入れるなんて、そんなのイチャモンもいいとこだろ」

「お客様、あちらのレジが空いてきましてので、あちらのレジへどうぞ」

 店長は私をこの場から遠ざけようとして、同じことを繰り返す。

「いや、いい。レジはここで待ってる。だから、お前、早く終わらせろ」

 まずは男を睨みつけた。

「す、すいません。シャ、シャチョー」

 男が深々と頭を下げた。

「店長、これは、レジのこの人の間違いじゃなくて、値段を登録した人の間違いですよね」

 私は店長に向かってそう言った。

「あ、は、はい」

 店長はポケットからハンカチを取り出して、何度も額に当てている。

「だから、この人ばかりを責めるのはおかしいでしょ」

 私は沙知絵に視線を向けた。沙知絵は俯いていた。

「はい、さようでございます」

「あんたも、さっさとお金だけ受け取って帰りなさいよ」

「は、はい。シャチョー、す、すいませんでした」

 男は差額のお金を受け取り、買い物カゴを取って、そそくさと袋詰めをする台へと行った。

 私は、フンと鼻を鳴らした。

「お待たせして、申し訳ございませんでした」

 店長が深々と頭を下げた。私は口を歪め違う方向に視線をやった。

「申し訳ございません。有難うございました」

 沙知絵が私のレジを始める前に私に向かって言った。

「大変なお仕事ですね。けど頑張ってください」と言ってから、「今までありがとう」と声のボリュームを落とし続けた。

 沙知絵は「は、はあ」とだけ言って首を傾げていた。


「そうか、奥さんと娘さんの顔を見るだけとか言ってたけど、話も出来たんだな。そりゃーよかったな」

 そう言って、南は二缶目の缶ビールのプルトップを開けた。

 沙知絵のレジで買い物を済ませたあと、電車に乗り、そのまま和歌山まで帰ってきた。アパートに着くと、アパートの前に立つ南の姿が見えた。南は私と目が合うとコンビニの袋を持ち上げた。

 岡山での二日間を南に報告したいと思っていたので、ちょうどよかったと思った。南の連絡先は知らないが、いつも南に報告したいことがあると、どういうわけか南は私の前に姿を現す。

「けど、二人とも大変そうでした」

「そりゃー、一家の主を失ったわけだからな。本当に辛いと思うよ。本当に可哀想なことをした」

 南が私の目をじっと見ていた。その目が潤んでいた。別に南のせいではないのにと思った。

「でも、もし私が生きていたら、本当のところどうだったんでしょうね」

「どういうことだ?」

「もし今、生きていたら、私は柚菜が苛められていることに、今でも気づいていないでしょうし、沙知絵とも必要最小限の会話しかしてなかったんじゃないですかね。ダメな夫ですから、いずれ沙知絵から離婚届を突きつけられたかもしれません」

 私は煙草に火をつけながら言った。

「あんたら夫婦は二十年寄り添ってきたんだろ。そんな簡単に夫婦の関係が崩れるわけないよ。そりゃあ、あんたが娘さんの相談を軽く聞き逃したことに対しては、怒って愛想をつかしたのかもしれない。が、あんたがいなくなって喜んでるはずはない。今はすごく辛くて悲しんでるんだと、わしは思う。きっと娘さんの言うてた通りだと思うぞ」

「そうですかね」

 私は煙草の煙を吐いて紫煙を目で追いながら沙知絵と柚菜の顔を思い浮かべた。

 南も箱から煙草を一本抜き取った。

「夫婦なんてそんなもんだよ」

 そう言って、煙草で私を差してから、煙草に火をつけた。

 南は深く味わうように煙草を吸って、胸を大きく膨らませた。宙に視線をやってから、先に私の吐いた紫煙を追いやるように天井に向けて紫煙を吐いた。

「そんなもん、ですかね?」

 私は南が吐き出した紫煙が消えていくのをぼんやりと見ながら言った。

「奥さんに本当のことを話してみたらどうなんだ」

 南が火のついた煙草の先をこっちに向けた。

「本当のこと?」

「そう。わしに打ち明けたように、あんたは本当は大沢勝男だということを、だ」

「信じてもらえますかね」

「わからん。けど、このままにしておくより、価値はあると思うがな」

「そうですかね」

 私は首を傾げた。

「それとも、黙ってこのまま二人の前から姿を消しちまうのか。一生会わないつもりでいるのか」

「いや、それは辛いです」

「だろ」

 南は紫煙を吐きながら言って、煙草を灰皿に押し付けた。

「びっくりするでしょうね」

「そりゃ、びっくりするよ。けど、奥さんは喜ぶと思うよ。きっと喜ぶ。あんたも、この先新しい道が開けるかもしれない」

「じゃあ、もう一度岡山まで会いに行って、思いきって本当のことを告白してみますかね」

「うん、それがいい。じゃあ今日は思いっきり飲もうか。ビールが足らんな。わし買ってくるわ」

 南が立ち上がろうと膝を立てた。

「いえ、私が買ってきます。南さんはゆっくりしていてください」

「いや、じゃあ、いっしょに行こうか」

 二人で近くのコンビニへと行くことにした。

「南さんいろいろとありがとうございます」

 コンビニへ向かいながら、南に礼を言った。

「礼なんていいよ。あんたとこうして飲めて楽しかったよ」

「南さんは本当は小沢勝己に会いたかったんですよね」

「うーん、会いたかったというより、本当はいいやつなのに、不憫だなと思っただけだ。なんとかしてやれないもんかなと、ずっと思ってた。しかし、わしの生きている間には何もしてやれなかった」

「生きている間ですか?」

「あ、ああ」


 その日、南は酔いつぶれて、私の部屋で眠ってしまった。南の寝顔を見ていたら、かけていた色つきの眼鏡が外れた。割れるといけないので、眼鏡をテーブルに置いた。見ると度が入ってなかった。近視でも老眼でもなさそうだ。浮いたかつらといい、この眼鏡といい、すごくいい人だが、よくわからない人だなと思った。


 私はまた岡山にやってきた。比較的温暖な岡山だが、この日はよく冷えた。午後五時を過ぎると、陽が落ちてあたりが一気に暗くなった。

 暗くなるとショッピングセンターマルナカのクリスマスを飾るきらびやかなイルミネーションが辺りを華やかに明るく輝かせた。このイルミネーションがなければこの辺りは暗闇になるだろう。ここは、マルナカができるまでは、何もない山の中だった。

 イルミネーションを横目に灯りの少ない裏口の方へまわった。裏口は表の華やかさとは違い薄暗い。

 薄暗い中、白く小さな灯りのある従業員の出入口が見えた。もうすぐ、あのドアから沙知絵が出てくるはずだ。一時間くらい前にレジに立つ沙知絵の姿を確認した。今見に行った時にはレジに沙知絵の姿はなかった。仕事は五時までのはずだから、今ごろは着替えているころだろう。

 少し離れた位置から沙知絵が出てくるのを待つことにした。ドアが開く度に中からの灯りが外に漏れ、同時に人影が見える。沙知絵かと思い目を凝らしたが最初の二人は違った。

 三人目にショートカットの髪型、背が高く細身な姿が見えた。沙知絵だった。緊張が高まり鼓動が早まった。私は沙知絵の方へと歩いていった。地に足がつかず体がフワフワと浮いた感じがした。

 沙知絵は、私に気づくことなく、従業員の駐輪場へと向かっていった。私はその背中を追いかけた。なんと声をかければいいのだろう。昨日から考えていた言葉は頭が真っ白になり全てリセットされていた。

 駐輪場に着いた沙知絵が荷物を前カゴに入れて自転車の鍵を開けた。カチャンという音が静かな駐輪場に響いた。沙知絵が自転車に跨がった。

 そこで沙知絵が私の存在に気がついた。驚いたように目を丸くして私を見た。しばらく視線が一直線に繋がった。沙知絵は訝しげな視線を私に向けていた。ゴクリと生唾を飲んだ。沙知絵は怪訝な表情のまま、私にペコリと頭を下げ、すぐに視線を外してペダルに足をかけた、

「あ、あの、す、すいません」

 やっと白い息といっしょに声が出た。

「は、はい」

 沙知絵の表情は硬かった。

「私、……、あのー」

「あ、ああ」

 沙知絵がそう言って、目を見開いて跨いでいた自転車から降りた。

「あ、あの」

 私は次の言葉が出なかった。

「先日は助けていただいてありがとうございました」

 沙知絵が先に言葉を発した。この間のレジでのトラブルのことを覚えていてくれたようだ。

 しかし、沙知絵の表情は硬いままだ。当たり前かもしれない、たとえ助けたと言っても、こんな厳つい男が待ち伏せしていたわけだから。

「え、あ、いえ」

 沙知絵の警戒心をとるにはどうすればいいのかと、頭の中で思考が右往左往していた。

「で、なにか?」

 沙知絵が首を傾げた。

「す、少しお時間よろしいですか」

 沙知絵の眉間に深い皺が刻まれた。

「娘が待ってますので、すいません」

 沙知絵は私を一瞥して、自転車に跨がろうとした。

「す、すぐに終わらせます。話を聞いてください。お願いします」

 私は慌てて言って、深く頭を下げた。

「遅くなると娘が心配しますので、すいません」

 沙知絵が自転車のペダルに足をかけ走り出そうとした。

「娘さんは柚菜さんですよね」

 私が柚菜の名前を出すと、沙知絵は私の方に振り返り、睨むように私を見た。

「なぜ、娘の名前を知ってるんですか?」

 沙知絵の瞳に警戒する色が見えた。柚菜の名前を出したのは逆効果だったかもしれない。しかし、沙知絵を止めるには柚菜の名前を出すくらいしか思い付かなかった。

「柚菜さんは学校で苛められてませんか。元気にしてますか」

 沙知絵は「えっ」と、口に手を当ててから続けた。

「も、もしかして、先日、柚菜の学校にも来て、柚菜を助けてくれたという方ですか?」

「あ、あ、そ、そうです。助けたわけではありませんが、柚菜さんにも先日会わせていただきました」

「柚菜から、聞きました。その節はありがとうございました」

 本当にありがたいとは思っていない様子に見えた。どちらかというと警戒心の方が強い。

「い、いえ」

「柚菜から聞いた話では、亡くなった主人の知り合いで、和歌山に住んでいると聞いておりますが」

「え、ええ、まあ、そうです。柚菜さんには、そう伝えました」

「主人からは、和歌山に知り合いがいるという話を聞いたことがないんですが、あなたのお名前をおうかがいしてよろしいですか?」

 沙知絵は完全に警戒している。

「私は、小沢勝己と言います。今からあなたとどこかでゆっくりとお話がしたいんですが、お時間をとっていただけませんか? どうかお願いします」

 深々と頭を下げた。

 沙知絵はしばらく私の顔をじっと見ていた。また沙知絵との視線が一直線に繋がった。こんなに見つめ合ったのはいつ以来だろう?

「わかりました。では、ここの二階にコーヒーショップがあります。そこでいいですか。でも、本当に時間はありませんので、手短にお願いできますか」

「あ、は、はい。わかりました。ありがとうございます」

 私はもう一度深々と頭を下げた。

 沙知絵は自転車を自転車置き場にとめなおして、「それじゃあ行きましょう」と言って先を歩きだした。

 私は沙知絵の背中を追いかけた。

 沙知絵の後ろ姿は肩をいからせ、緊張している様子だった。

 コーヒーショップに入り、沙知絵には先に席に座ってもらった。私はコーヒーを二つ注文して、支払いを済ませコーヒーができるのを待ちながら、席に座る沙知絵に視線を向けた。沙知絵は落ち着かない様子で、視線を宙にさまよわせていた。それから鞄からスマホを取り出して、何やら操作を始めていた。柚菜にメールでも送っているのかもしれない。

「お待たせしました」

 その声に振り向くと、柚菜と同世代の女の子がにこやかな表情を浮かべていた。目の前にコーヒーが二つのったトレイが置かれていた。

 砂糖とミルクをひとつずつ取りトレイの上にのせて沙知絵の座る席へと向かった。沙知絵はいつもコーヒーをブラックで飲んでいた。

 席に向かいながら沙知絵を見ると正面をじっと見つめていた。沙知絵も緊張しているのだろう。

「お忙しいのに、お時間をとっていただきありがとうございます」

 席についてすぐに、テーブルに額が当たるくらい頭を下げた。

「で、お話ってなんでしょうか?」

 沙知絵は、じっと私を見つめた。その瞳は、私が何者なのかを見極めようとしているように鋭く光っていた。

「実は、大沢勝男さんについてのことなんです」

 私は背筋をピンの伸ばした。

「主人のこと、ですか?」

「ええ、今から私が話すことは、信じられないような話です。が、是非聞いてください」

 それから、私は、これまでに自分の身に起こった不思議な出来事を全て話した。自分で話しながらも、不思議な話だなと改めて思った。

 沙知絵は私が話している間、口を挟むことなくじっと私の顔を見つめ唇を噛みしめて聞いていた。

 私の話が終わり、しばらく沈黙があった後、沙知絵がゆっくりと何度も首を横に振った。

「そんなこと、信じられません」

 パシッと、ドアを閉めるような言い方だった。

 沙知絵は、その後、壁にかかる時計に視線をやった。鞄から財布を出し、そこから五百円玉を取り出しテーブルにカチと置いた。

「コーヒー代、お支払いします」

 沙知絵は、すぐにでも帰るつもりだ。バカバカしい話に付き合いきれないと思ったのかもしれない。確かに信じられない話だろう。こんな話を簡単に信じる方がどうかしている。しかし、それを信じてもらうしかないのだ。

「ま、待ってください。確かに信じられないような話です。私も不思議でしかたありません。でも、本当なんです。私は大沢勝男なんです。あなたの夫なんです。トラックに跳ねられて天国に行く予定だったんですが、天国に行く寸前で間違えられて、全く違う人間、今のこの小沢勝己として生き返ってしまったんです。信じてください」

 私はテーブルに両手をつき、頭を下げた。

「そう、言われましても……」

 沙知絵は首を傾げて、少しあきれた表情になった。

 ここで沙知絵に帰られてしまうと、二度と沙知絵にも柚菜にも会えなくなる。

「どうか信じてください」

 私は興奮して、つい声が大きくなってしまった。コーヒーショップの他の客が不審な表情でこっちを見た。

「あの、すいません。声のトーンを少し下げてもらえますか」

 沙知絵が他の客を気にするように、店内に視線を巡らせた。そして続けた。

「そこまで、言うのでしたら、いくつか質問させてもらっていいでしょうか?」

「は、はい」

 今度は蚊の鳴くような小さな声になった。

 そこで沙知絵がはじめて笑った。

「なにか、可笑しかったでしょうか?」

 沙知絵の笑みの理由を、また蚊の鳴くような声で訊いてみた。

「いえ、急に声が小さくなったもんですから、それが可笑しくて、笑ったりしてすいません」

「いえ、笑顔が見れて良かったです」

 また小さな声で言った。

「そういうところは、主人とよく似ています」

「そういうところとは?」

「わたしが、あなたに声のトーン落としてくださいと言った途端に、あなたは聞こえないくらいの小さな声になったところです」

 沙知絵は口に手を当て、笑うのを堪えているようにしていた。

「そ、そうですか」

「はい、主人は人の話を素直に聞く人で、心優しくて実直な人でした」

 沙知絵の目が少し潤んでいるように見えた。

「ありがとう、ございます」

 小さく震える声で言った。

「じゃあ、質問しますね、いいですか」

 沙知絵が気を取り直すように、腰を浮かし背筋をピンと伸ばした。

「はい」

 私も背筋を伸ばした。

「わたしと勝男さんとの出会いについて教えてもらえますか?」

 私は、「はい」とこたえてから一呼吸おいて話しはじめた。

「私とあなたは、スーパーシンヨウという食品スーパーで働いていました。あなたはレジを担当し、私は精肉を担当していました。私はあなたを見て一目惚れをしましたが、美しくて優秀なあなたと、出世街道から取り残され、背が低くて小太りな私とは不釣り合いだと思って話しかけることもできませんでした。でも、先週、ここで起こったことと同じような事件があり、お客さんがあなたに詰めよっていました。私はお客さんを止めようとしましたが、そのお客さんに殴られぶっ倒れて鼻血をだしてしまいました。それがきっかけであなたと話せるようになりました」

 私がそう言い終わった後、沙知絵はしばらく沈黙し、じっと私を見ていた。

「確かに当たっています。どこで調べたんですか」

 沈黙のあと、冷たくそう言った。

「調べたんじゃありません。私は本当に大沢勝男なんです」

「はあ……」

 沙知絵はまだ信用していない様子で、口を尖らせていた。そして次の質問をぶつけてきた。

「わたしたち家族の誕生日はわかりますか?」

「あなたの誕生日と柚菜さんの誕生日が同じ五月二日です。いつもいっしょに誕生日のお祝いをしました。私、大沢勝男の誕生日は八月十日。そしてついでに言えば、結婚記念日は十一月二十ニ日、いい夫婦の日にしようと二人で決めました。それから私は幸せでした。柚菜が生まれてから一段と幸せになりました。三人でカキオコを食べに行った頃のことを思い出して、先日その店に行ってきました」

「それも確かに当たってますが……」

 少し沙知絵の様子が変わってきた。椅子の背もたれに背中を預け、宙に視線をやっていた。しばらくして私の顔をじっと見た。

「本当に、あなたは勝男さんなの?」

 少し前のめりになって訊いてきた。

「は、はい、本当です。私はあなたの夫で柚菜の父親の大沢勝男です。しかし、父親だと偉そうに言える資格はないのかもしれません。柚菜が苛めにあってることを、あなたは私に相談してくれていたのに、私は無視してしまいました。柚菜のことは、あなたに任せっきりにしていました。今思えば、最近朝食がシリアルに変わったのは、柚菜が苛めにあって、食欲がなくなってたからだったんですね。柚菜に朝食くらいは食べてほしいと思って、あなたが変えたんですよね。そんなことも気づかずに、朝食は米が食べたいのに、とか文句を言ってしまった自分が情けないです。本当にどうしようもない夫で父親です。死んでよかったのかもしれない。このまま小沢勝己として、あなたの前に姿を見せずに生きていけばよかったのかもしれない。しかし、私はあなたに謝りたかった。そして、ありがとうという気持ちだけは伝えたかった。本当に申し訳ありません。そして結婚してくれてありがとう。柚菜を生んでくれてありがとう。幸せな家庭をありがとう」

 テーブルに頭を下げた勢いで額がテーブルにぶつかった。涙が溢れてきた。テーブルにポタポタと涙がこぼれ落ちた。

「頭を上げて下さい」

 沙知絵の声が後頭部から聞こえる。

 しかし、頭を上げることができなかった。唇を噛みしめ、溢れる涙を堪えようとした。しかし、涙は止まらなかった。

「あなたの話を聞いて、あなたが私の主人の勝男さんかもしれないとは思いました」

 沙知絵のその言葉を聞いて、涙でグシャグシャになった顔を上げた。

「本当ですか。信じてもらえますか」

「うーん」

 沙知絵はうなるような声を出して口を尖らせた。

「でも違うんです。あなたと勝男さんは全く違います」

 沙知絵は首を横に振った。

「そうですか。やっぱり信じてもらえませんか」

 私は上げた首を折った。涙で濡れているテーブルに視線を落とした。

「はい、信じられません。何故だかわかりますか?」

「いえ」

「信じられない理由をお話ししますので、少し顔を上げて下さい。でないと話しづらいです」

 私は涙を拭ってからゆっくりと顔を上げた。

「泣いたりして、すいません」

「いえ、主人も涙脆かったので、慣れています」

 そう言って沙知絵が笑みを見せた。

「信じてもらえませんか」

「あなたが今おっしゃったことは、確かに大沢家の人間しか知らないことばかりです。わたしと柚菜と亡くなった勝男さんしか知らないはずです」

「はい」

「ですから、わたしはあなたが本当に勝男さんなのかしれないとも思っています」

「そうです。私が大沢勝男です」

「でも、勝男さんとは、絶対に違うところがあるんです」

「絶対に違うところ? 外見は確かにこんな姿になってしまいましたが」

「はい、外見については間違って生き返ってしまったのが本当なら仕方ありません。でも、それ以外に違うところがあります」

「外見以外に違うところ、ですか?」

「はい、全く違います。わかります?」

「いえ」

「教えましょうか」

「は、はい」

「それはですね、勝男さんは、いつもわたしを呼ぶ時、サチエと呼んでくれてました。それも、とても優しく愛情を込めて呼んでくれてました。でも、今のあなたからは一度もサチエとは呼ばれていません」

「あ、ああ、で、でもですね」

 私は前のめりになりながら言い訳しようとした。

「わかります。だから、もし本当にあなたが勝男さんなら、わたしのことを今、サチエと呼んでみて下さい」

「えっ、呼んでいいんですか?」

「本当にあなたが勝男さんなら、呼んでほしいです。他人行儀な話し方もやめてほしいです」

「じゃ、じゃあ呼びます」

「はい、呼んでください」

 私は胸に手を当て、深呼吸した。それからゆっくりと口を開いた。

「サ、サチエ驚かせて悪かったな。こんな姿になっちまったよ」

 少し戸惑ったが思いきって昔のように言ってみた。

 沙知絵はにっこりと笑みを浮かべてくれた。

「あなた、おかえりなさい。凄い姿になっちゃったわね」

 沙知絵の目から涙がこぼれた。

 その後、沙知絵は私が大沢勝男だと百パーセントとは言わないが信じてくれた。そしてこれからどうするかを、少しだけ話してコーヒーショップを後にした。

「あなた、じゃあね」

 二人で駐輪場まで肩を並べて歩いた。こうして歩くのはいつ以来だろう。

「サチエ、ありがとう。柚菜によろしくな」

「柚菜もびっくりするでしょうけど、きっと喜ぶと思うわ」

「そ、そうか。それならいいんだけど」

「うん、絶対に喜ぶ」

 沙知絵が自転車の鍵を開けた。カチャンという音が消えてから、沙知絵に声をかけた。

「サチエ」

「なに?」

 沙知絵が自転車の前カゴに荷物を入れてから振り向いた。

「また、会えるよな?」

「さっき、約束したじゃない。あなたが本当に勝男さんなら、これから柚菜と三人で決めないといけないことがいっぱいあるんだから」

「そ、そうだよな」

「連絡待ってるから」

 沙知絵は自転車に跨がった。

「わかった。連絡する」

「じゃあ、行くね」

 沙知絵は私に向けて手を振ってから自転車のペダルを踏んだ。自転車が走り出し私は沙知絵の背中を見送った。

 沙知絵の姿がドンドン小さくなる。そして角を曲がり見えなくなった。もっともっといっしょにいたかった。

 今日中に和歌山に帰ろうと、私は駅へと急いだ。沙知絵と話ができて、私が大沢勝男だということを信じてもらえたことが嬉しくて足取りは軽かった。

 完全には信じてもらえなかったが、簡単に信じられる話ではない。逆の立場なら私も信じないだろう。簡単に信じる方がどうかしている。

 そういえば、この信じられない話を簡単に信じた人がいた。それは南さんだ。不思議な人だ。

 南さんはなぜ、あんな簡単に信じてくれたのだろうか。それになぜ、私を助けてくれたのだろうか。そしてなぜ、連絡先を教えてくれないのだろうか。そういえばなぜ、私の前に急に姿をあらわしたのだろうか。

 南さんには感謝しているが、少し不気味に感じてしまうところがある。一体何者なのだろう。

 そんなことを考えて歩いていると、あっという間に駅に到着した。そしてふと視線を上げた。

『南口、south gate』と書いてあった。

「南口か」と一人呟いた。

 そして続けて、「サウスゲート」と呟いた。

「えっ」と声が出た。そのまま、私は立ち尽くし動けなくなった。しばらく駅の看板を見上げていた。

 もしかして、そういうことなのか。だから、なのか。すぐにでも確かめなければならない。早く和歌山に帰ろう。

 三日後の夕方に南はいつものように缶ビールとおつまみの袋をぶら下げてアパートに姿を見せた。

「さあ、お祝いだな」

 南はそう言って、アパートに上がり袋から缶ビールを取りだし、こたつを挟んで向かえに座る私の前に置いた。

 南には、まだ岡山で沙知絵や柚菜と会って話が出来たことは報告していない。

 とりあえず、缶ビールで乾杯しおつまみを適当に口に放り込んだ。

「ありがとうございます。ところで南さん、何に対してのお祝いなんですか」

 南に詰め寄るように訊いた。

「あ、ああ。そうだな」

 南はそこで頭を掻いてから続けた。

「岡山に行ってきたんだろ。それに乾杯だな」

 南はひきつるような笑みを浮かべた。

「岡山で私が沙知絵や柚菜と会えて話が出来たことを知っていたんじゃないですか」

「ハハハ、そんなわけないだろ。超能力者じゃあるまいし」

「確かにあなたは超能力者じゃないでしょう。しかし、普通の人間でもないはずです」

 南が睨むような目で私を見た。

「何を言い出すんだ。わけのわからんことを」

 南は私と目を合わそうとせず煙草に火をつけた。

「南さんはなぜ、私に親切にしてくれるんですか」

「それはあんたが小沢勝己だと思ってたからだよ。わしにとって、小沢勝己は一生忘れられない存在だからな」

「小沢勝己とあなたの関係については、最初に聞かせてもらった話で理解できます。でも、私は見た目は小沢勝己ですが中身は大沢勝男です。あなたとは、全く縁もゆかりもない男です。それがわかってからもあなたは変わらず親切にしてくれました。ここまで親切にしてくれる理由がわかりません。それに、私が小沢勝己ではなく大沢勝男だと告白した時も疑うことなくあっさりと信用してくれたことも、今思えばすごく不思議です」

「ハハハ、なるほどな。そう思うか」

「はい。絶対、不思議です」

「お節介な年寄りで申し訳ないな」

「そんなことありません。それより南さんはヘビースモーカーですよね。鞄にいっぱい煙草を入れているんじゃないですか」

 脇に置いてある南の鞄に視線を向けた。

「そうだな。長生きしたいから、そろそろ健康のために控えないとな」

「その必要もないんじゃないですか」

「なにがだ?」

「長生きするために煙草を控える必要ですよ。あなたはすでに死んでいるんですから」

 じっと目をそらさず南を見続けた。南はこっちを見ようとはしなかった。

「わしが死んでるってか。失礼な男だな」

「少し前に南さんと同じように鞄の中に煙草がいっぱい入っている人に会いました。その人はすでに死んでいました」

「あんた、気づいてしまったのか」

 南がやっと私に顔を向けた。目が潤んでいるようだった。

「はい、たぶん、そうじゃないかなと思ってます」

「そうか、ついに気づかれてしまったか」

 そう言ってから、南は目を閉じ唇を噛みしめた。そこからしばらく沈黙が続いた。南の呼吸する音だけが聞こえていた。

「南さん?」

 私が言うと、南はカッと目を見開いた。南は眼鏡をとり、かつらをはずした。そして、こたつから出て、少し後ろに下がり正座をし、床に額をこすりつけるように土下座した。

「本当に申し訳ない」

「やっぱりそうだったんですね」

「あんたには、本当に迷惑をかけた」

「南蓮司さん、失礼を承知で、あなたについていろいろ調べさせてもらいました」

 そこまで言ってから南を見た。土下座したままだった。

「南さん、顔を上げて下さい」

 私が言うと、「ああ」と言ってゆっくりと顔を上げた。

「南さん、あなたのことを調べてわかりました。あなたは十年前に癌で亡くなっています。あなたはもうこの世にいないはずなんです」

「短期間でよく調べたもんだな」

 南は宙に視線をやった。

「最近あなたに似た人物に出会ったことを思い出しました。それは人物といっていいのかわかりませんが、私の地獄行きの審判に立ち会った人物です」

「……」

「確か、その人はサウスと名乗ってました」

「ああ」

「もしかしてあの時、私と小沢勝己をわざと間違えたわけなんですか」

「本当に申し訳ない」

 南は、また額を床にこすりつけた。

「やっぱり、そうだったんですか」

「あんたの言う通りだ。わしは十年前に死んでいる」

「なぜ」

 土下座する南の肩を持ち上げた。

「申し訳ない」

「ちゃんと説明してください」

「わしは十年前に死んで、天国で佐和さんに会った。佐和さんは、小沢勝己のことをすごく心配していた。わしはどうしても小沢勝己と佐和さんを天国で会わせたかった」

「それで、こんな計画を立てたわけですか」

「最初は、閻魔様のところに行って、小沢勝己が死んでも地獄に落とさないでほしいとお願いに行った。閻魔様は約束は出来ないが、考慮すると言ってくれた。閻魔様は恐ろしい方だが、情には厚い方だから、なんとかなると思った」

「それが、地獄行きの審判を閻魔様がやるのではなく、コンピューターがするようになってしまい、あなたは慌てたわけですね」

「そういうことだ。わしはコンピューターに情状酌量というものが期待できないと思った。そこで、今回の作戦を思い付き、小沢勝己が亡くなるまで、地獄の審判のアシスタントのボランティアをすることにした。そして小沢勝己を天国に送る作戦を考えた」

「そのとばっちりを私が食ったわけですね」

「あんたには、本当に申し訳ないことをした。ちょうどあんたが、いいタイミングで、同じ時間に小沢勝己と同じような事故で亡くなった。それも年齢まで同じで名前も似ていた。住所がワカヤマとオカヤマ。これは、いけると思った。バレーなら気づかないと確信した」

「いいタイミング……、私にとっては最悪のタイミングですよ」

「申し訳ない」

「で、どのタイミングで私と小沢勝己を入れ替えたんですか?」

「最初の仕分けが終わり、三途の川を渡る前に、わしとバレー二人で次のチェックをすることになっていた。本来は二名体制でダブルチェックしなければならないが、バレーに、わしが一人でやるから休憩してこいと言うと、あいつは喜んで休憩に行ってしまった。そして、そこであんたと小沢勝己のデータを入れ替えてしまった」

「なるほど、あの時ですね」

 三途の川の手前で私ともうひとつの青い玉がなかなか動き出さなくなったことを思い出した。

「本当なら、その後、あんたを大沢勝男として生き返えらせて終わる計画だった。それがあろうことか、……」

 そこで南は声を詰まらせ唇を噛みしめた。

「バレーが、蘇生受付に私と小沢勝己の資料を間違えて提出したわけですね」

「そういうことだ。最後まで自分が責任を持ってやるべきだった」

「そうですね。バレーのことをあなたは信用してなかったわけですから、そんな大切なことを任すべきではなかったです。それで、慌てて私の病院に現れたわけですか」

「あんたが、小沢勝己として生き返ったと知って、わしは慌てた。あんたを大沢勝男に戻すことはできないかといろいろと考えた。しかし、どうすることもできない」

「どうすることもできないんですか」

 一縷の望みが絶たれた。南があの時のサウスならもしかすると、私を大沢勝男に戻す術を知っているのではないかと期待していた。

「ああ、どうすることもできない。それなら、せめてあんたには、この先の人生を幸せに生きてもらいたいと思った」

「幸せになれそうにありませんよ。それに隠さず最初に話してほしかったです」

「……」

 南は無言で項垂れていた。

 私は南に言いたいことが山ほどある。なぜ、私がこんな目にあわなければいけないんだ、この先、どうなるんだ、責任とってなんとかしてくれ、そんな南を責める言葉が頭の中を渦巻いていた。だが、なかなか言葉に出せなかった。

 そして、やっと出た言葉は全く違うものだった。

「小沢勝己は天国で佐和さんと会えましたかね」

 項垂れていた南が顔を上げて私を見た。少し驚いたように目を見開いていた。

「あ、ああ、そのようだ」

 南の顔に少し笑みがのった。

「それは、よかったです」

「その代わり、わしがあんたの人生をめちゃくちゃにしてしまった」

 南がまた項垂れた。

「もう済んだことです。それに、どうせ死んで天国に行くだけでしたし、小沢勝己として生き返れてよかったのかもしれません。いろんなことに気づかされましたから」

「いろんなことに気づかされた?」

「ええ。私は小沢勝己の姿になって、はじめて家族の絆に気づいた気がします。だから、これからは、沙知絵と柚菜の二人を幸せにするために生きていきます。天国に行って父と母に会うのはその後でも十分です」

「ありがとう。あんたが、そう言ってくれるとわしは救われる。いつかあんたがあの世に来る時には、絶対に天国に行けるようにするから。お父さんとお母さんに会えるようにするからな」

「お願いします。けど、ズルはいけませんよ。私もこれから先の人生、天国に行けるような生き方をしますからね」

「じゃあ、わしは戻るな。バレーを長い時間一人にしておけないから」

「バレーによろしく言っておいて下さい。コーヒーは美味しかったです。けど、サボりすぎないように伝えておいてください」

「わかった。たまに会いに来るから、困った時はなんでも言ってくれ」

 南はそう言うと、足元から順に体が霞のように薄くなり、そして消えてしまった。テーブルの上の

飲みかけの缶ビールと吸殻のたまった灰皿だけが残っていた。


 真っ白なウェディングドレスに身を包む姿は、百合の花のように美しい。

 花嫁は最初のうちこそ緊張していたが、今は来賓者に手を振って笑みを浮かべる余裕ができたようだ。たまに花婿と見つめあう表情は、これまで見た中でも一二を争う幸せそうな表情をしていた。

 その花嫁姿を私は一人、一番遠い席から眺めていた。勝手に涙が出てきた。その涙は嬉しいからなのか、寂しいからなのか、自分でもよくわからない。沙知絵はきっと、柚菜を新郎に奪われた悔し涙だと言うだろう。

 私のテーブルにいっしょに座る人たちは、この場には似つかわしくない私が涙するのを見て、怪訝に思っているのかもしれない。式が始まってから、誰も私に話しかけてこようとしなかった。それでもいい、こうして柚菜の花嫁姿を見ることができたのだから。

 花嫁の父親の知り合いということで、今日はこの席に座っている。花嫁の父親の席には、大沢勝男の遺影が置いてあった。本当はあの席に座り、花嫁から父への手紙をあの席で聞きたかった。

 しかし、それは叶わなかった。花嫁の父親の大沢勝男は五年前に事故で亡くなっているのだ。


 あれから、私は小沢勝己として、沙知絵と柚菜の住む岡山で暮らした。関係はあくまで亡くなった大沢勝男の知り合いということにした。それでも充分幸せだった。

 大沢勝男としての記憶がドンドン消えていく現象は、岡山で暮らし、沙知絵や柚菜と頻繁に顔を合わすようになってから止まってくれた。小沢勝己のどす黒い過去の記憶も顔を出さなくなった。

 家族にはなれなかったが、三人でお茶をしたり、カキオコを食べにも行ったりして幸せな日々を過ごせた。

 小沢勝己として生き返ってからの人生は最初は色の無い人生だったが、今は毎日少しずつ色がついてカラフルになってきている。

 柚菜の結婚が決まった時は、嬉しいというより、嫉妬する気持ちの方が強かった。沙知絵から柚菜に恋人が出来たと聞いた時は、すごく不機嫌になってしまった。

 その姿を見て沙知絵は笑いながら言った。

「やっぱり、あなたは柚菜の父親ね。中身は大沢勝男に間違いないわ」

 それを聞いて喜ぶべきだったのだろうが、私は憮然としてしまった。

 式の最後に柚菜が両親への感謝の手紙を読んだ。

「お母さん、お父さんが亡くなってから、大変だったのに、私を今まで育ててくれてありがとう。これからはわたしのことより、お母さん自身の人生を楽しんでください」

 柚菜は沙知絵に向かって満面の笑みを向けた。沙知絵は涙を堪えるように、少し俯いていた。

 柚菜はその後続けた。

「お父さん、亡くなって寂しかったけど、いつも近くにいてくれたんだね。いつもいつも、わたしたちを見守ってくれてありがとう。これからわたしは、知也さんと共に助け合いながら生きていきます。お父さん、だからこれからはお母さんのことをもっともっとよろしくお願いします」


 柚菜の結婚式から数日後に沙知絵から連絡があった。

「二十年前にあなたと買ったマイホームは、わたし一人だと広すぎるの。私たち、そろそろ次の人生にステップアップしない?」と沙知絵は言った。


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