幸と不幸
背中には激痛が走り、頭がズキズした。この痛みで、私は生き返ったことを実感した。痛くて辛いはずなのに、嬉しくて涙が出そうだった。
地獄へ落とされそうになった時は、何どうなったのかわからず、頭がおかしくなりそうだったので、正直、今はホッとしている。この体の痛みさえ有り難く思う。
布団の中で、生きていることを実感するように、手のひらを開いたり閉じたりしてみた。痛みはあるが、ちゃんと動く。そのまま手を布団から出した。手にひんやりした感覚がする。手を顔にもってくると、ひんやりした感覚が顔に伝わる。そのまま頬を強くつねってみた。頬に痛みが伝わった。この痛みも心地よい。ただ頬の肉が落ちたなと思った。
「せ、せ、先生、先生、ちょ、ちょっと見てください」
女性の声がした。興奮しているようだが、澄んだ心地よい声だった。
「う、うん、なんだ」
今度はしゃがれた男の声だ。
「い、いま、患者さんが動きましたよ。布団から手を出して自分の顔を触ってました。意識が戻ったんじゃないでしょうか」
また女性の澄んだ声だ。あのベテランの看護師だろうか。気のせいか、最初に聞いた時より声が若々しく聞こえた。そしてすごく興奮しているようだ。もう死ぬだろうと諦めていた患者の腕が動いたのだから、興奮する気持ちはわからなくはない。
そのまましばらく、私は頬のあたりを手のひらで擦っていた。
「お、お、おお、ほ、本当だ。手で顔を擦っとる。こ、これは信じられんことだ。この患者はもう助からないと思っていたのに」
男性の声が聞こえた。イケメンの医者の声だろうか。これも最初に聞いた時の声とは違い、しゃがれた声になっていた。話し方もあのイケメンの医者にしては年寄り臭い。
医者も看護師も、最初に聞いた時の声と違って聞こえるのは、二人とも私が生き返ってことに興奮しているせいだろうか。
私は生き返ったことをもっと実感しようと大きく息を吸った。消毒の臭いが鼻をついた。恐る恐るゆっくりと目を開けてみた。天井が見えた。少し黄ばんでいた。もっと真っ白だったように思ったのだが記憶違いだったろうか。
「せ、せ、先生、今、か、患者さんの目が開きました」
また澄んだ女性の声が聞こえた。声が上ずり、興奮度はさっきより増しているようだ。
「あ、あー、ほ、本当だ」
しゃがれた声が裏返った。
私はしゃがれた声の方へと視線を動かしてみた。白髪頭の黒縁眼鏡をかけた白衣姿の男が私の顔を覗きこんでいた。
「気がつきましたか?」
その白衣姿の男が、分厚い唇を動かして言った。しゃがれ声の正体はこの男のようだ。
「先生、良かったですね」
女性の澄んだ声がまた聞こえた。
澄んだ声の方に視線を向けると若くて愛らしい白衣姿の女性が目を大きく開いて私の方を見ていた。潤んだ瞳のなかの黒目が大きくて吸い込まれそうだった。
なんか、おかしい。息を引き取る前と生き返った今と、なぜか医者も看護師も変わっている。
私があの世に行っている間に医者と看護師が両方とも入れ替わったのだろうか。重体の患者なのに、そんな急に入れ替えるものなのかと不思議に思った。
それとも、私はもう助からないと判断して、前のイケメンの医者とベテランの看護師は、助かる可能性の低い私の治療を諦めて他の患者の所に行ってしまったのかもしれない。
いや、それもおかしい。やはり変だ。サウスという男は、私があの世に行っている間、現世では時間が止まっていると言っていたはずだ。そうなると医者と看護師が入れ替わる時間があるはずがない。
サウスが適当なことを言った可能性もあるが、やはりおかしい。後ろに立っていたはずの沙知絵と柚菜の姿を確認しようと首を持ち上げ体を起こそうとしたら首と背中に落雷のような激痛が走った。
「イター」と、つい声が出た。出した声が自分の声ではない気がした。低くて渋い野太い声だった。
「ダメですよ。無理しないでください」
若い看護師が、起き上がろうとする私を押さえつけるように私の肩に手を当てた。
「起こしてもらえませんか」
痛みを堪えながら看護師にお願いした。
「ダメです。まだ安静にしておいて下さいね」
若い看護師が整った眉をハの字にして言ってから笑みをくれた。
「あっ、はい。わかりました」
可愛い看護師にどぎまぎし、布団を鼻までかけて、看護師の顔を覗きこんだ。下半身が勝手に反応していた。手をやると自分のものとは思えないくらいに堅くて大きい。
それからは、おとなしくベッドに横になったまま、ゆっくりと太い呼吸をし心を落ち着かせた。
「意識が戻って良かったですね」
可愛い看護師が笑みを浮かべた。
「は、はい」
私はまた下半身を手で押さえた。やはり感触が以前とは違う。
「このまま回復に向かいそうですが、ただ、全身を強く打っていますのでね、一度、精密検査をしましょうかね。特に頭を強く打っていますからね」
しゃがれた声の医者が言った。
「わ、わかりました」
私は医者の顔を見て返事をした。
「この患者さんの容態は少し落ち着いたようだから、わしは他の患者のところに行ってくる。なにかあったらすぐに呼んでくれるかな」
白髪の医者がそう言ってから病室を出ていこうとした。
「はい、先生」
看護師が病室を出ていく医者の背中に向かって言った。看護師は病室を出ていく医者を見送ってから、こちらに体を向けた。後ろ手に手を組みゆっくりと歩いて私が横たわるベッドの前まで来て私を見下ろした。
「気分はどうです。大丈夫ですか?」
看護師の黒い瞳が私を見つめている。その瞳を覗くと、そこには見知らぬ男の顔が映っていた。
「あ、はい。大丈夫です」
「それはよかったです」
「ところで、私の妻と娘はどこにいきましたか?」
沙知絵と柚菜の姿が見えないことが気になって訊いてみた。
「あなたの奥さんと娘さん、ですか?」
看護師がその問いに対して、首を傾げ私の顔を覗きこんだ。
「そうです。さっきまで、そこにいたと思うのですが」
私はそう言って、私の頭の先の方を指さした。
「やっぱり、頭を強く打ったからですかね」
看護師が眉をハの字にした。
「小沢さん、今はなにも考えずにおとなしく寝ていましょうね。怪我を治すことに専念しましょうか」
「小沢さん?」
私は痛みを堪えて起き上がり、後ろを向いた。沙知絵と柚菜が立っていた場所だ。
しかし、そこには、沙知絵と柚菜の姿はなかった。病室の雰囲気も間違いなく変わっている。そして、この看護師は、私のことを今『大沢さん』ではなく『小沢さん』と呼んだ。
無理して起き上がったので、首と背中に激痛が走った。
「イタタタ」
私はそのままベッドにうっぷせた。
「だから、無理しちゃダメっていってるでしょ。もう」
看護師が少し声を荒げて、うっぷせた私の体に手を当てた。
一体、どういうことだ。私は確かにサウスの言う通りに生き返っている。しかし、変だ。今の自分は自分ではない気がする。私が息を引き取った瞬間の景色と今見ている景色は明らかに違う。真っ白な天井だったはずのに、今見えている天井は黄ばんでいる。医者も若くてイケメンだったはずなのに、さっきまでいた医者は私より歳上に見える。ベテランの看護師だったはずが若くて愛らしい看護師になっている。そして沙知絵と柚菜が枕元に立っていたはずなのに、その姿が今はない。
さっきこの看護師はのことを『小沢さん』と呼んだ。まさか、生き返ってまで私は小沢勝己と間違えられたのではないだろうか。
おでこに手を当ててみた。包帯が巻かれているようだ。それは息を引き取った時と同じだ。頭を触ってみた。羨ましいくらいに髪の毛がフサフサとしている。私の髪の毛は手が地肌に触れてしまうくらいもっと薄かったはずだ。
鼻をつまんでみた。脂ぎっただんご鼻ではなく鼻筋がスーッと通っている。目の辺りや頬に手を当ててみた。腫れぼったい目元は窪んでいる。肉付きのよかったはずの頬は痩けている。触った感じは彫りの深そうな顔だ。
お腹に手を当ててみた。硬くて腹筋が割れている。触り慣れたブヨブヨした贅肉だらけのお腹ではない。
やっぱりここでも間違えられている。きっとこの体は小沢勝己の体なのだ。私はきっと間違って小沢勝己として生き返ってしまったのだ。
「小沢さん、さっきからなにぼそぼそとやってるんですか? どこか痛いところとか痒いところがありますか?」
看護師が心配そうな顔をして、ベッドで横たわる私の顔を腰を折って覗きこんできた。
「あっ、い、いえ、だ、大丈夫です」
「そうですか。ならよかったです」
看護師は折った腰を伸ばした。
「あのー、私の名前は小沢って言うんですかね?」
恐る恐る看護師に訊いてみた。
「えっ、もしかして、小沢さん、自分の名前を忘れちゃったんですか」
看護師が右手を口に当てて目を大きく見開いてた。
「いや、ちょっと、どうだったかなと思いまして」
この看護師にどう説明すればよいのだろうか。
「事故の時に頭を強く打ったみたいですから、少し心配です」
看護師は心配そうな瞳で私を見下ろしている。
「心配おかけして、すいません。ところでここは和歌山県ですか?」
小沢勝己は和歌山県で事故にあったと言っていたはずだ。
「そうですよ、ここは和歌山県有田市です」
「やっぱり」
私は、そう呟いて目を閉じた。「フゥー」と息を吐いて両手で顔を覆った。
間違いない。ここでも私は大沢勝男ではなく、小沢勝己に間違えられ、生き返ってしまったようだ。
きっと、あの時だ。私が生き返ると決まった後、バレーが私の資料を蘇生受付に届けに行った時、私の資料と小沢勝己の資料を間違えたのだ。バレーの細面の顔が頭に浮かんで怒りがわいてきた。
「クソッ」
怒りが勝手に声になって、寝た体勢のまま拳でベッドを叩いた。
「小沢さん、どうしました? 大丈夫ですか」
看護師が澄んだ黒目がちな瞳で私の顔を覗きこんだ。
「いや、す、すいません。だ、大丈夫です」
「もう、びっくりするじゃないですか」
若い看護師はそう言って、ベッドから出ていた私の右拳を優しくさすってくれた。看護師の冷たい手が心地よかった。少し気持ちが落ち着いていくのがわかった。
彼女こそ白衣の天使だ。あの丸い顔のサウスと細面のバレーは自分たちのことを天使だと言っていたが、あの二人が天使なわけがない。あの二人は悪魔だ。こうなってしまったのは全てあの二人のせいだ。あの二人のせいで私の人生はめちゃくちゃだ。本当にこれからの私はどうなってしまうのだ。
「これから私はどうなってしまうのですか?」
この白衣の天使に訊いても仕方ないことかもしれない。
「そうですね。そこは先生に訊いてみないと、あたしからはなんとも言えません。小沢さん、自分の住所とか、生年月日は覚えていますか?」
「いえ、全く覚えていません」
ここは記憶を失ったことにしておくしかない。この看護師に、本当のことを説明したところで信じてもらえないだろう。
きっと、私の頭がおかしくなったと思うだけだろう。
「やっぱり記憶を失っているみたいですね。先生にはこの事は伝えておきます。記憶が戻ってくれればいいんですけどね」
看護師が淡い色をした小さな唇を尖らせた。
「そ、そうですね」
適当に相づちをした。
もともと小沢勝己という男のことを何も知らないわけだから、記憶の戻りようがない。小沢勝己について知っていることと言えば、過去に殺人を犯して、地獄に落ちるような凶悪な男ということだけだ。
私の体、というか小沢勝己の体はその後、順調に回復していった。
体だけは退院できるところまできたんだけど記憶の方がねえ、と医者がしゃがれた声で言った。
記憶さえ戻れば退院できるようだが、小沢勝己としての記憶が戻るわけがない。
小沢勝己に知り合いでもいればいいのだが、看護師の話だと、家族や親戚はいないようだ。職場の仲間や友人もいなかったのだろうか。
仕事は日雇いの仕事をしていたようで、他人との付き合いを拒んでいたのかもしれない。寂しい人生だなと他人事のように思ったが、その寂しい人生のバトンを私が受け取ってしまったのだと気づき、ずっしりと重い気持ちになった。
入院中に見舞いに来たのも事故を起こしたトラックの運転手の男と保険会社の男だけだったらしい。
父親を殺害した男だ。その後も傷害事件を起こしていると聞いた。そんな男が死にかけていても、誰も見舞いになんて来ないだろう。この男と関わりたくないと思うだろうし、そのまま死んでもらった方がいいと思ったのかもしれない。
小沢勝己が生き返ったと知って、肩を落とし、震え上がっている人の方が多いのかもしれない。
もし間違われることなく、大沢勝男として生き返っていたら、私の見舞いに誰が来てくれただろうか。あれこれと友人や職場の仲間の顔を思い起こしてみた。高山と清水と店長くらいは来てくれるかもしれない。
沙知絵と柚菜は、私が生き返ったら手を叩いて喜んでくれただろうか。死ぬ間際の沙知絵と柚菜の顔を思い浮かべると、私が死のうが死ぬまいが興味がないような顔をしていた。考えると辛くなるので考えるのをそこで中断した。
一人で用を足せるようになり、トイレに行って、自分の今の姿を鏡でまじまじと見た。これが今の自分なのかと唖然とした。
本当の自分、大沢勝男の姿とは似ても似つかぬ姿だった。本当の私、大沢勝男の姿は背が低くてぽっちゃり。髪の毛は薄く、顔は丸顔。他人からは恵比寿顔で優しそう、癒されると言ってもらった。決して男前ではないので、そう言うしかなかったのだろう。
今の小沢勝己としての姿は髪の毛はフサフサで黒々としている。鼻が高く頬はこけ落ちている。目は獲物を狙う猛獣のように鋭く光る。
鏡のなかで自分と目が合っただけだとわかっていても体が勝手に震え上がる。左の眉の上に五センチ程のひきつった白く光る傷のせいで、恐ろしさがいっそう増している。
身長は本当の私より二十センチは高くて一八〇センチ以上はあるだろう。スポーツをしていたからか肉体労働をしていたからか筋肉隆々の鍛え上げられた体をしている。
強面で絶対にお友だちにはなりたくないタイプで、反社会的な人間だと言われても誰も疑わないだろう。
これから先、この風貌で生きていかなければならないのかと思うと不安しかない。
この小沢勝己という男はたくさんの人から恨まれているのではないだろうか、反社会的な怪しい人間と付き合ってきたのではないだろうか。
私が退院してから小沢勝己を恨んで復讐したいと思っている人間や一緒に悪事を働こうと企てる人間、そんな輩が自分に近づいてきたら、私はどうすればいいんだろうか。
記憶を失ったということでやり過ごすしかないのだが、それが通用するような相手ではない気もする。
小沢勝己はどんな所に住んでいて、どんな仕事をしていたのだろう。日雇い労働者というのは隠れ蓑で、違法なことに手を染めていたのかもしれない。
これから先、凶悪犯の男として生きていかなければならないのかと思うと鉛を飲み込んだような気分になった。
サウスとバレーに間違って小沢勝己として生き返ってしまったことを知らせる方法はないのだろうか。大沢勝男として生き返るようにやり直しを頼むことはだろうか。
そのためには、もう一度死んでサウスとバレーのいるあの場所まで行くしかないのか。だが、それはリスクが高すぎる。死んで、あの場所まで行ったはいいが、サウスとバレーに会えずそのまま地獄に落とされでもしたら最悪だ。うーん、どうしたらいいんだ。私はフサフサの髪をかきむしった。
トントン、と病室のドアをノックする乾いた音が静かな病室に響いた。私は体を起こし音のするドアに視線を向けた。
医者か看護師だろうか。もしかすると小沢勝己の知り合いが来たのかもしれない。小沢勝己に恨みを持つ者なのか、それとも一緒に悪事を働こうと考えている者なのかもしれない。私は体を硬くして身構えた。
「はい」と言って、そのままドアが開くのを待った。
『ギィー』という軋んだ音をたててドアがゆっくりと開いた。開いたドアの隙間を見ると、見知らぬ男の顔があった。男は病室に入ろうとはせずに、顔だけを覗かせていた。
男はキョロキョロと病室の中を見渡していた。「失礼しますよ」という低い掠れた声が聞こえた。
「は、はい」私はドアの隙間から覗く男の顔をじっと見た。
男は私と目が合った瞬間に満面の笑みを浮かべてドアを大きく開いた。
「小沢くん、大丈夫か?」男はそう言って病室に足を踏み入れてきた。
「え、ええ、だ、大丈夫です」
とりあえずそう返事してから身構え右拳を強く握った。
小沢勝己の仲間のようだ。ただ、見た目は反社会的な人間には見えない。公園などを散歩しているどこにでもいるしがない老人といった感じだ。はじめた会うはずだが、見たことのある顔に感じた。
男の髪の毛は不自然に浮いて歪んでいた。もみあげの辺りだけに白いものが目立つ。多分安物のかつらでも被っているのだろう。それが気になって、吹き出しそうになり、さっきまでの緊張した気持ちが解けていった。男のかける色の入った黒縁の眼鏡もあまり似合っていない。温厚な感じで目尻や額に深い皺が刻まれ、白い髭の間から覗く口元はほころんでいた。
男は「久しぶりだな」と言ってベッドの前に立ち、私を見下ろした。
「はい、そうですね」私は適当に答え、握っていた拳を少し緩めた。
「大変な目にあったけど、命が助かっただけでもよかったな」
男を見ると、ほころんでいた口元を一文字にし唇を噛みしめていた。眼鏡の奥で皺に埋もれる瞳は潤んでいた。涙を堪えているように見えた。
この男とどこかで会ったような気もしたが、公園などで見るどこにでもいる年寄りの顔だと思った。小沢勝己の知り合いだ。私が知っているはずがない。
「小沢くん、今回は本当に災難だったな」
誰だかわからないが、小沢勝己とどこかで繋がっている人物なのだろう。
「心配をおかけしてすいませんでした」
とりあえず、私はそう言ってベッドから出ようとした。
「いいよ、いいよ、無理しないで。そのままゆっくりしててくれればいいよ」
男は両手を前にだし私がベッドから出ようとするのを制した。
「はい。ありがとうございます」
私はそう言って、立ち上がるのをやめベッドの上に正座をした。
「小沢くん、わしのことはわかるのか?」
男が自分の顔に人差し指を向けた。
「すいません。それが記憶がどうもあやふやでして」
頭を掻きながら、記憶喪失のフリを続けるしかなかった。
「そうか、さっき看護師さんが言ってた記憶が無くなっているというのは本当なんだな」
男は寂しそうな視線を私に向けた。
「申し訳ありません」
私はペコリと頭を下げた。
「小沢くんが謝ることないよ。今回はほんとに災難だったね。けど、命が助かっただけでもよかったよ」
男の瞳がまた潤んだ。
小沢勝己のような凶悪犯の男でも、心配してくれる人がいるんだと意外に思った。
一体目の前にいるこの男は何者だろう。小沢勝己とはどういう関係なんだろう。一緒に悪事を働いていた相棒だろうか。いや、この男からそういったものは感じない。どちらかと言えば善人のような気がする。
「私は父親を殺しているんですから死んで地獄に落ちても仕方なかったかもしれませんけどね」
私は適当に言ってみた。
その時、男の眼鏡の奥の瞳が鋭く光った。
「あの事件のことは覚えているのか」
男の声は低く暗い闇に響くような声になった。
「え、ええ、覚えているというか、ふと、そんなことがあったような気がしています」
男の小さいが威圧感のある眼差しに圧倒され目を合わせることが出来なく俯いてしまった。
「そうか。けど、わしのことは覚えていないか?」
「は、はい。すいません」
「記憶が無くなってしまっているのに、あの事件のことだけは覚えているなんて皮肉なもんだな」
男はそう言って唇を噛みしめた。
この男は小沢勝己の過去を知っているようだ。この男から小沢勝己のことを聞き出してみよう。
「もし、よろしければ、椅子におかけになって下さい」
私は病室の隅に立てかけてあるパイプ椅子に視線を向けた。
「そうだな、そうさせてもらおうかな」
男はそう言って、立てかけてある椅子を取り、ベッドの近くまで持ってきて椅子を広げた。椅子に腰をおろしフゥーと息を吐いた。短い腕を組んで私に優しい眼差しを向けた。
「私の過去のことを教えていただけませんか? 父親を殺した時のこととか詳しく知りたいんです」
私が言うと男は私の目をじっと見つめてから視線を宙に向けた。口を尖らせて目を閉じた。しばらく沈黙があった。男は話すべきか悩んでいるように見えた。
「あんたにとっては思い出すのは辛いことかもしれんぞ」
宙にやっていた視線を私に向けてじっと見つめた。
「はい、それでも構いません。ぜひ聞いておきたいです。自分の犯した罪を知らないまま、この先、生きていくのは不安でなりません」
辛い過去なのかと思うと少し怖じ気づいたが、小沢勝己はなぜ父親を殺してしまったのか、その後どんな人生を歩んできたのか。もし、このまま小沢勝己として生きていかなければならないなら絶対に知っておくべきだと思った。
男は組んでいた腕をほどき両膝に手を置いた。男の目は潤んでいた。
「わしの名前は南蓮司だ。あんたはわしのことをいつも蓮さんと呼んでいたが、この名前にも記憶はないか?」
「すいません、思い出せません」
「そうか。わしとあんたが、初めて出会ったのは、忘れもせん。今から三十五年前のことだ。わしが三十五歳の時であんたは十五歳、まだ中学生だったかな」
その後の男の話は私にとって衝撃的なものだった。聞いていて辛くなった。小沢勝己の人生は私の想像を絶するものだった。
三十五年前、交番勤務の警察官だった南蓮司は、その日の夜もいつものように巡回を終えて交番で一人、日誌にペンを走らせていた。いつもと変わらない平和な一日で日誌に書く内容も平凡なことばかりだった。
田舎町で起こる事件といえば、野生の動物が出て田畑を荒らしたというくらいのもので、この日はそれすらも無かった。町の住人たちは、この平和な町で殺人事件が起ころうとは、微塵も思っていなかった。
南が日誌を書き終えて一息ついた時、交番のドアが、大きな音をたて勢いよく開いた。南がドアの方に視線を向けると、開いたドアの前に一人の少年が立っていた。
少年の姿を見た瞬間、南は息をつまらせた。ただ事ではない、何か大変なことが起こったと、すぐにわかった。
「ど、どうしたんだ?」
南の声は裏返った。
少年は肩で息をし、瞬きもせず、南をじっと見た。
大きく見開いた少年の目から出る光は、南がこれまでに見たこともない光だった。希望でもなければ絶望でもない。喜びでも悲しみでも怒りでもない。南に助けを求めているようにも見えるが、南を恐れているようにも見えた。
もしかすると、それらすべてが混ざった光なのかもしれない。
額を怪我しているようで、額から血が流れて顔を赤く染めていた。
「喧嘩か? 誰かに襲わせたのか? ちょっ、ちょっと待ってろ」
少年は言葉を発することなく立ち尽くしていた。
南は奥の畳の部屋に行って押入れから布団を出してきて敷いた。
「とりあえず、そこに横になれ」
少年は無言のままフラフラしながら畳の部屋に上がり布団の上に崩れるようにして横になった。
「すぐに救急車呼ぶからな」
南は少年が布団の上に横になったのを確認してから、机の上の受話器をとり、電話をした。
救急車を呼んでから、引き出しからタオルを探し出し、給湯器のお湯で濡らして、少年の額の傷口を軽く拭いた。少年は苦しそうに顔をしかめた。額には、ガラス片が刺さっていた。ガラスの瓶か何かで額を殴られたのだろうか。刺さっているガラス片を指で丁寧に取り除いた。救急箱から消毒液を出して脱脂綿に湿らせて少年の額に当てた。
「何があったんだ?」
横たわる少年に訊いた。
少年は大きなショックを受けたのだろう。口がガクガクと震えるだけで、言葉を発しようとしなかった。誰かに襲われて、ここまで逃げてきたのだろうか。これは傷害事件かもしれない。そうなると、応援をもらわなければならない。
「何があったんだ。おじさんに話せるか?」
少年を落ち着かせようと、南は、激しく上下する少年の胸に手を当て、優しい口調で訊いた。
ハァー、ハァーと、呼吸の音しか返ってこなかったが、あせる気持ちをおさえ、少年の興奮が落ち着くまで待つことにした。
しばらくすると、少年の体の震えがおさまり、少年がゴクリと喉を鳴らした。
「少しは落ち着いたか」
「……」
少年は声は出さなかったが、コクリと頷いた。
「そうか、おじさんに、何があったか話せるか?」
少年に優しく視線を向けた。
「お、お、お父さんをバ、バットで……」
少年は喉の奥からひきつった声を絞り出した。
「バットでどうしたんだ?」
南が訊くと、少年の体が、またガクガクと激しく震えはじめ、目から涙が溢れ出した。そして、「お、俺は、お父さんをバットで殴り殺したんだー」と窓ガラスが震えるくらいの声で叫んだ。
その後、少年は雄叫びのような声でずっと泣き続けた。
救急車とパトカーのサイレンが静かな町に鳴り響いた。
私は南という男の話に出てきた少年が小沢勝己だとすぐにわかった。小沢勝己は父親をバットで殴り殺したようだ。一体何があったのだろうか。
小沢家は父親の進、母親の佐和、そして長男の勝己の三人家族だった。
父親の進はほとんど仕事もせずに毎日酒と博打と女に明け暮れていた。佐和は毎日朝早くから夜遅くまで働いていた。
事件のあった日も佐和は夜の仕事に出かけていた。夜の仕事といっても水商売ではなく、町にあるホームセンターの閉店業務と清掃の仕事だった。進は佐和が水商売をすることを嫌った。
進は、佐和が一日中仕事をして家を空けていることをいいことに、毎日のように、香水の匂いをプンプンさせる化粧の濃い派手な服を着た女を家に連れ込んでいた。
勝己が学校から帰ってくる前に、女は姿を消しているのだが、たまに勝己が帰った時に女がいることがあった。
勝己が家の引き戸を開けると香水の匂いが鼻をつき、家の中から獣のような女の声がもれてくる。勝己が足元に視線を落とすと、赤いハイヒールが三和土を我が物顔に占拠している。
勝己はそれを見るとそのまま静かに引き戸を閉め、踵を返して、夜遅くまで家の近くをぶらつくようにしていた。
このことは絶対に母親には言えないと思った。
事件の日も勝己はいつも通り学校が終わって自宅へと向かった。三和土にハイヒールがあったら、いつものように、近くをぶらつくつもりでいた。
家の近くまで来ると、いつもの様に前の空地から草野球をする小学生の元気な声が聞こえてきた。
この小学生たちは、陽が暮れて辺りが暗くなる頃には母親が迎えにきて、今日一日のことを楽しそうに会話しながらあたたかい家へと向かい、家族で食卓を囲むのだろうと思った。勝己はそれが特に羨ましいとは思わなかった。自分には別世界の話だと思っていた。
勝己は、野球少年たちの楽しそうな姿を一瞥して家へと向かった。
家の前まで来て、一つ息を吐いてから引き戸に手をかけると、家の中からいつもとは違う怒鳴り声が聞こえてきた。
声の主はすぐに父親だとわかった。いつも聞こえてくる女の獣のような声はなかった。
慌てて引き戸を開けると赤いハイヒールが倒れていた。その周りに母親の灰色に色褪せたスニーカーが散らばっていた。母親が昼の仕事から帰ってきていた。
普段、佐和は昼の仕事が終わると、家に帰らず、そのまま夜の仕事に向かうのだが、この日は昼の仕事が早く終わり、一旦家に帰ってきていたようだった。
そこで、進が連れ込んでいた化粧臭い女と鉢合わせしてしまった。
佐和がどういうことかと、進に問いただすと、進は急に大声でわめき出し暴れだしたようだ。
勝己が三和土に足を踏み入れると、化粧臭い女が出てきた。勝己が女の顔を見ると、女は勝己を一瞥して、三和土に倒れていたハイヒールを立て足を入れた。そして勝己の胸を突き飛ばすようにして、引き戸を激しい勢いで開け、飛び出していった。
勝己は女の後ろ姿を目で追いながら、開けっ放しになった引き戸を力いっぱいにバーンと閉めた。
その間も家の中からは進の怒鳴り声と激しい物音が聞こえてきた。
勝己が家の中に入ると、鍋や食器、置時計やアイロン、掃除機、炊飯器まで、家にある、ありとあらゆる物が部屋に散乱していた。
その部屋の中央で、進が佐和に馬乗りになって、顔を平手で殴っていた。
『パン、パン』という音が部屋に響いた。
勝己は、急いで佐和に馬乗りになる進の体を後ろから抱え投げるようにして佐和の上から引きずり下ろした。
そして、そのまま進の体を上から押さえつけようとしたが、進の方が勝己よりはるかに力が強く、勝己は簡単に突き飛ばされ、タンスに後頭部と背中をぶつけた。
「ガキのくせに親に歯向かう気かー」
進は大声で怒鳴り、手元に落ちていた置時計を手に取って、勝己に向かって投げつけた。
置時計は勝己の頬をかすめ、タンスにぶつかり割れた。
進は立ち上がり、タンスの横で倒れていた勝己の胸ぐらを掴み、頬を思いっきり殴った。そして、今度は倒れた勝己の顔面を蹴り上げた。
それからしばらく、進の暴力は勝己に集中した。
『バシッ、バシッ』と痛々しい音が家中に響いた。
「勝己には手を出さないで」
佐和が進を後ろか押さえようとしたが、佐和は進の右手一本で簡単に殴り倒れされた。
「こいつは、親に歯向かったんじゃ。ちゃんとしつけせんと、まともな人間にはなれん」
進は、勝己を指差しながら、倒れる佐和に向かって怒鳴った。進は、それからも勝己を殴り、蹴り続けた。
勝己は、両手で頭をおさえながら体を小さくして抵抗することなく、進の暴力にじっと堪えた。
自分が進から暴力を受けている間は、母親は暴力を受けずに済むと思った。
進も殴り疲れてきたのか、手数が少なくなり、殴る力も弱くなってきた。進は肩で息をしはじめ、そして、ついに殴る手を止めた。
「お前らは、俺のやる事にいちいち文句言うな」
進は息を切らしながら佐和に向かって言って、そのまま奥の部屋へと姿を消した。
佐和はその後、顔に出来た痣を化粧で隠し仕事へ行く準備を始めた。
勝己は部屋に散らばった物を片付けた。
奥の部屋からは進のグチグチとわめく声が漏れていた。また酒をあおっているようだった。
「勝己、お母さん、これから仕事に行ってくるけど、一人で大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。きっと、父さん、このまま酔っぱらってすぐに寝てしまうよ」
「そ、そうよね。勝己、辛い思いさせてごめんね」
佐和が勝己の腕に抱きついた。
「母さん、仕事頑張って」
勝己は佐和を安心させようと笑みを貼り付けて、佐和に顔を向けた。
「うん。じゃあ、勝己、いってくるわね」
そう言ってからも、佐和はなかなか勝己の腕から離れようとしなかった。
「母さん、心配しなくても大丈夫だよ」
勝己の方から佐和の手をほどいた。
「本当に大丈夫?」
「俺、しばらく外に出て避難しておくから、心配しないで」
「わかった。じゃあ、本当に行ってくるわね」
佐和は、また勝己に近づき、腕を握って勝己を引き寄せた。
「母さん、早く行かないと遅刻しちゃうよ。母さんがクビになったら大変だよ。俺は、今から空き地で遊んでる小学生に、野球でも教えてくるから大丈夫だよ」
勝己はそう言って佐和の顔を覗きこみ、もう一度笑みを浮かべた。
「そ、そうね、じゃあ、行ってくるわね」
佐和はやっと勝己の腕から離れた。
佐和は、三和土に散らばったスニーカーを揃えてから足を入れた。
「やっぱり、今日は休もうかな」
佐和は、スニーカーに足を入れてから勝己の方に振り返り、眉をハの字にして言った。しばらく二人は黙って目を合わせていた。
「俺のことなら大丈夫だよ」
勝己は口角を上げた。
「そう。じゃあ、いってくるから、何かあったらすぐに電話して」
佐和が左手で、受話器を持つポーズを見せた。
「わかった。そうする」
「大丈夫よね、お母さんの仕事場の電話番号わかるわね」
「大丈夫。前に教えてもらって、ここに書いてるよ」
勝己は生徒手帳をポケットから出して、佐和の方に向けた。
「そうだったわね。うん、そうね。大丈夫よね」
佐和はひとり言のように呟いた。
「母さん、外までいっしょに出ようか」
勝己は靴を引っかけた。
「見送ってくれるの?」
佐和は笑みを浮かべ、自分より少し背が高くなった勝己の腕に手を回した。
「うん、母さん見送ってから、散歩しとく」
「勝己に見送ってもらえるなんて、お母さん幸せだな」
佐和は勝己の二の腕に頬を寄せた。
「そう。よかった」
勝己は左手で頭を掻いた。
「勝己、来年はプロ野球、観に行こうか」
「急にどうしたの」
「勝己といっしょにどこか楽しいところに行きたいな、と思ってね。勝己、野球好きでしょ」
「うん、楽しみにしてる」
玄関のドアを開け、二人は恋人同士のように腕を組んで外に出た。
ひんやりした外の空気が勝己の頭を冷やし、あたたかい佐和の体温が勝己の心をあたためた。
空き地から野球少年の声が冷えた空気にこだました。
「じゃあ、ちょっと空き地に行ってくるよ」
勝己は空き地の方を顎でさした。
「わかった。お母さんは仕事行ってくるわね」
佐和は勝己の腕から離れた。もう一度勝己の手を握りしめてから、名残惜しそうに踵を返し歩きはじめた。
勝己は空き地の前で佐和が歩く後ろ姿を眺めた。
佐和は歩きながら、何度も何度も振り返り勝己の方に視線を向けた。角を左に曲がる手前で立ち止まり、くるりと勝己の方に向きを変えた。そして勝己に向かって大きく手を振った。勝己もそれにこたえ大きく手を振った。
「母さーん、頑張って」
佐和の姿が見えなくなって、勝己は急に寂しくなった。勝己は空き地に行くのをやめて、家に戻ることにした。先に散らかった部屋を片付けておこうと思ったからだ。
家に入ると奥の部屋からテレビの音が漏れていた。そして、テレビの音の間を縫うように、「ヒャヒャヒャ」という甲高い耳をつく笑い声が聞こえてきた。品のない、人をバカにしたような笑い声だ。女を家に連れ込んだり母親や自分に暴力を奮ったことを反省する気など微塵もないような笑い声だ。
進の笑い声を聞いた勝己の胸に怒りがマグマのようひフツフツとわき上がってきた。拳を握りしめ怒りで体が震えた。
このままだと母さんが可哀想すぎる。いつか母さんはこいつに殺されるかもしれない。こいつは鬼だ。こいつは生きる資格なんてないんだ。
今、この家にいると、自分まで鬼になりそうだと思った。頭を冷やすべきだと、勝己はまた、外に出ることにした。
最初の予定通り空き地で遊ぶ野球少年に野球を教えることにした。
しかし、野球少年たちは、母親たちが迎えにきて、そろそろ解散するところのようだった。風が冷たくなって、陽が落ちるのも早くなった。
野球を諦め、頭を冷やすためにしばらく町を歩くことにした。
人通りのある商店街の方まで歩いた。同級生が家族四人で歩いているのを見かけた。父親がその同級生に向かって笑みを浮かべて話していた。同級生は頭を掻いて笑っていた。それを見てもやはり羨ましいとは思わなかった。その幸せそうな光景が自分には無縁のものだと思っていたからだ。
一時間ほど歩いてから、家の近くまで戻ってきた。陽は沈み、町の景色は視界から消えていた。まだ家に帰る気にはなれず、暗くなった空き地に足を踏み入れた。
野球少年もいなくなり、月灯りだけに照らされた空き地は、一仕事を終えて休息しているように見えた。
勝己は、空き地の片隅にあるベンチに腰を下ろし、月の灯りで灰色に光る地面を眺めた。
空き地の向こう側にある交番の灯りが見えた。犬がひょこひょこと歩いていた。犬に向かって口笛を吹き、右手を出してみると、犬は勝己の方に体を向け、首を傾げた。犬と勝己の間に金属バットが転がっているのが見えた。さっきの野球少年たちが忘れて帰ったのだろう。犬はしばらく勝己を見ていたが、勝己がベンチから立ち上がると、慌てて逃げて行った。
勝己は踵を返し、灯りもなく闇に沈む自分の家を眺めた。あの家の中には鬼がいる。愛情の欠片もない冷酷な鬼だ。勝己はゆっくりとその鬼のいる家に向かって歩きはじめた。引き戸の前まで来て、ひとつ息を吐いてから、引き戸を開けた。
家の中は灯りが消えてキッチンの窓から漏れる月の明かりをたよりに足を踏み入れた。鬼はいるのだろうか。キッチンの蛍光灯ををつけて部屋を見渡した。
襖が閉まったままの奥の部屋から鼾が聞こえてきた。鬼は酔っ払って眠ってしまっているようだった。鼾のする奥の部屋の前に立った。襖の取っ手に手をかけて息を飲んだ。音をたてないように、こぶし一つ分だけ襖を開けて部屋の中を覗いた。
万年床で大の字になって横たわっている情けない鬼の姿が見えた。目を覚ましたらまた暴れだすかもしれない。母さんが仕事から帰ってきたらまた暴力をふるい出すかもしれない。暴れだしたら自分の力では母さんを助けることは出来ない。
しかし、今なら、と襖をゆっくりと開け部屋の中に足を踏み入れた。音をたてないように散乱する紙屑や空き缶を避け、足の裏に神経を集中させた。
眠っている鬼の前に立ち視線を落とした。情けなく口を開け大の字になった鬼は、全く無防備の状態だ。
「フッフッフッフッ」
情けない表情から笑みが漏れていた。その卑しい笑い声を聞いて体が熱くなった。
家族で出かけて幸せそうにしていた同級生の顔が頭に浮かんで消えた。野球少年が楽しそうに野球する姿が浮かんで、そして消えた。神様は不公平過ぎる。自分が何をしたというんだ。両拳をぎゅっと握りしめた。
勝己は音をたてないように部屋を出た。襖は開けたまま家を出て空き地へと向かった。空き地にはさっきの犬の姿はなく、金属バットだけが残され月に反射して鈍く光を放っていた。
勝己はその鈍い光に吸い寄せられるように大股でゆっくりと歩いていった。足元に転がる金属バットに視線を落とした。その時のそれは野球のバットには見えなかった。鈍く光を放つ凶器のように見えた。勝己は腰を折り金属バットに左手を伸ばした。ひんやりした冷たい金属の感触が手のひらに伝わってきた。金属バットを拾いあげ、グリップの部分を左手で強く握り高く持ち上げ月に向けた。月の中に母親の笑顔が見えた。
「母さん」
呟いてから、金属バットを両手で握りなおしその場で何度も振った。金属バットを振りながら、「クソー、クソー、クソー」と何度も繰り返し声を上げた。父親への怒りが収まるまで振り続けるつもりだった。
しかし、それが収まることはなかった。息が上がったところでやめた。目の前が真っ白になるくらい激しく息を吐いた。
「クソー」と一段と大きな声を上げた。誰もいない静まり返る空き地にこだました。こだまを聞いてから踵を返し、金属バットのグリップを右手で握り地面に擦らせながら家の方へと夢遊病者のように歩き出した。カラカラと金属バットの先がアスファルトを擦る音だけが不気味に響いた。
家に入ると、まだ奥の部屋から鼾が聞こえていた。玄関を上がり右手にバットを握りしめたまま奥の部屋へと向かった。部屋の前で一度呼吸を整えた。
「今ならいける」勝己はそう呟いた。
進は布団の上で口を開けて大の字のままだった。空になった日本酒の一升瓶が大の字になったままの進の右手の辺りで横たわっていた。
佐和に暴力を振るっていた時の進の鬼のような顔を思い出した。止めようとした自分も殴られた。起きている時の進には敵わない。いつも遊び呆けてるくせに腕力だけはある。でも今ならいける、母さんを助けられる。そう思った。
金属バットを両手で握りしめ頭の上に振り上げた。目を閉じ口を開けている情けない進の顔を睨んだ。鼓動が激しくなり胸が苦しくなった。息が荒くなるのをおさえるように息を止めた。
「こいつさえいなければ……」
頭の上に構えていたバットを一気に振り落とした。
『ガシャーン』と音がした。
金属バットが一升瓶を砕いた。勝己は進の頭めがけて金属バットを振りおろそうとしたが、寸前で躊躇し一升瓶に向かって金属バットを落とした。
一升瓶の割れる音で、さすがに熟睡していた進も目を覚ました。進が体を起こし、割れた一升瓶を見てから、勝己の顔を見た。最初は寝ぼけたような目だったが、勝己を見た瞬間にその目がカッと見開いた。
「何しとるんじゃー」
進の怒鳴る声を聞いて勝己は後ずさりした。
進が立膝して割れた一升瓶の細い口の部分を握った。勝己がバットを頭上に振り上げた。進は割れた一升瓶を勝己に向けた。二人はその体勢で睨み合った。勝己の体はブルブルと震えだした。進はそれを見てニヤリと笑った。
「勝己、お前、父親に向かってそんなことしていいと思ってんのか」
進は勝己を睨み上げた。
「あ、あんたなんて、父親とは思ってない」
勝己の声は震えた。
進は、視線を外さず、勝己の顔に割れた一升瓶を向けたまま、立ち上がろうと腰を上げようとした。そして、勝己に向けて右の口角だけを上げバカにしたように笑った。
そのバカにしたような顔を見た勝己は、「ウォー」と声を上げた。立ち上がろうとする進めがけて思いっきり金属バットを振り下ろした。
進は、同時に勝己の顔面めがけて、一升瓶を突き出した。
勝己の額に一升瓶が刺さった勝己の目の前は真っ赤になった。
勝己の振り下ろした金属バットは、進の額をとらえた。進の喚き声が部屋に響き、進はそのまま仰向けに倒れた。進の額から血が激しく飛び散った。床にある割れた一升瓶の欠片が赤く染めていった。勝己は倒れた進の顔面めがけて、もう一度金属バットを振り下ろした。
『グシャ』という音がして、進の動きが止まりぐったりとした。
勝己はそれでも手を止めることなく、何度も何度も金属バットを進の体めがけて振り下ろした。
鬼の頭に、顔に、胸に、腹に、腰に、足に、何度も何度も金属バットを振り下ろした。
「チクショー、チクショー」
最後は勝己の声だけが部屋に響いた。
南の話を聞いて、鉛を飲み込んだような重い気持ちになった。
『忘れたい気持ちはわかります。その時はあなたも未成年でしたし、あなたに殺された男にも問題はありましたからね』
あの世でそんな話を聞いたことを思い出した。
小沢勝己がこの事件を起こした頃、同い年の私は、ここから離れた岡山県でどんな生活を送っていたのだろうかと思い返してみた。
確か高校受験で悩んでいた頃だ。親から『勉強しろ、勉強しろ』と何度も言われることがプレッシャーになり、うっとおしくて腹を立てていた。
勉強するのが辛くて苦痛だと感じていた。好きな女の子がいたが、全く相手にされずに悩んでいた。
今思えば、どれも大したことない悩みで、平凡で、幸せな悩みだったんだなとつくづく思った。
父親は家族のために毎日仕事をし生活費を稼いでくれた。母親はパートで働き、帰ってきてから、家族の食事の支度や掃除や洗濯をしてくれた。
いつも朝食を家族三人で囲んだ時代もあった。父親が亡くなってから母親は女手一つで私を育ててくれた。有難く幸せなことだったと今になって思う。
小沢勝己が父親を殺すと決めて空き地で金属バットを手にした同じ頃、私は平凡で幸せな悩みの中で、母親や友人に護られ生きていたのだろう。
もしかしたら勝己が進に金属バットを振り下ろしたその時間、私は母親が忙しいなか作ってくれた夕食に小さなクレームでもつけていたのかもしれない。
「辛いこと話してしまったかな」
南が話し終えた後、眉をハの字にした。
「いえ、大丈夫です。教えてもらえてよかったです。ありがとうございました」
私はベッドの上で正座をし、背筋を伸ばして南に向かって頭を下げた。
その後、南は私のことを気にかけてくれた。記憶のない私は南のおかげで退院できることになった。
小沢勝己はこれまで日雇い労働者として働いていたようだが、南は、定職に就けるよう、どこか紹介できそうな仕事を探してみると言ってくれた。
私の退院の日には、住んでいた場所すらわからない私のために、病院まで迎えに来てくれ、小沢勝己が住んでいたアパートまで連れていってくれた。
病院から電車に乗って十分、駅から歩いて二十分のところに小沢勝己の住んでいたアパートはあった。二階建ての築五十年の色褪せたアパートだった。
「着いたぞ。ここがあんたの住んでいたアパートだ」
南がアパートに顎を向けてから私に視線を向けた。
「南さん、どうもありがとうございます」
案内してくれたことに礼を言って頭を下げた。顔を上げると南と目が合った。眼鏡の奥の皺まみれの中にある小さな瞳が、今の私にとっては灯台の灯火のように思えた。
「礼なんていいよ。それより、どうだ、ここを見て、なにか思い出せそうか? 記憶を失うまで、あんたは毎日この景色を見ていたはずだ」
「ハ、ハア」
思い出すもなにも初めてくる場所だ。しかし、アパートを眺めながら腕を組んで思い出すフリをした。
「どうだ?」
南が私の顔を覗きこんだ。
「すいません。やっぱり思い出せそうにありません」
私は首を横に振った。
「そうか。まあ、仕方ないな。部屋に入ってみるかな」
「はい」
私は鞄のなかから鍵を取り出した。
「一階の一番奥の部屋だ。行こうか」
南はそう言って先に部屋の方へと歩き出した。
「はい」
私は南の丸い背中を追いかけた。
「ここだ」
南は手のひらで部屋のドアを叩いた。
私は錆び付いた鍵穴に鍵を差した。恐る恐るゆっくりドアを開けると『ギィー』と軋む音がした。開いたドアから部屋の中を覗きこんだ。
「あんたの部屋だ。遠慮せずに中に入れ」
肩越しに南の声がした。
「あ、はい。失礼します」
返事して狭い三和土に足を踏み入れ、中を見渡した。入ってすぐのところにキッチンがあり、右側に風呂とトイレがあった。奥に畳の部屋が見えた。
「さあ、中に入ろうか」
南が立ちつくしていた私の背中をポンポンと叩いた。
「あ、はい」
本当は他人の部屋なので、入るのを躊躇してしまった。靴を脱いで部屋に足を踏み入れた。足の裏に床の冷たい感触が伝わった。主の帰りを待ち続けた、時間が止まったような静かな部屋だった。
古い冷蔵庫のモーター音だけが激しく音をたてていた。ここに帰ってきたのは、この部屋の本当の主ではないことを訴えているようだった。
家具や荷物は少なくて部屋の真ん中にテーブルあり、その奥の台の上にテレビと置時計、写真立てがあった。もっとちらかっている部屋を想像していたがきれいに片付けられていたので驚いた。
万年床で、床に酒の瓶が転がり、吸殻が山盛りになった灰皿と食べ残しのカップ麺、酒の入ったコップがテーブルの上を占拠しているのを想像していた。
すぐに掃除でもしなければならないと思っていたので、きれいな部屋を見て少しほっとした。片付けなければならないのはベランダに干されっぱなしになって、風に揺れている洗濯物くらいだった。
本物の小沢勝己はあの洗濯物を干している時、まさかそれを片付けることなく、死んでしまうとは夢にも思わなかっただろう。私も同じだ。高山と清水と飲んで帰る時には、次の日も三人で仕事の休憩時間に喫煙所で飲み会の続きの会話でするのだろうと思っていた。まさか、自分が死んでしまい別人として生き返ってしまうとは思ってもみなかった。
部屋に上がったが、なぜか落ち着かず、うろうろと部屋の隅々をぐるりと見て回った。テレビの横に置いてある写真立てを手に取って見た。年配の女性がこっちを見て笑っていた。色白で清楚な感じの女性だった。
「この女性は?」私は写真立てを南に向けて訊いた。
「あー、それが佐和さんだ。あんたのおふくろさんだよ。亡くなる一年くらい前の写真だ。きれいな女性だろ」
南が目を細めながら言った。
「佐和さんは何歳で亡くなったんですか」
「うーん、たしか五十歳だったかな。ちょうど今のあんたくらいの歳だったな」
南は遠くを見るような目で言った。
「まだ、若いのに」
私は唇を噛みしめた。
「そうだな。若すぎたよ。きっと心労が祟ったんだろうな」
「優しそうな女性ですね」
「ああ、優しい女性だった。あんたは、この写真をいつも眺めながら酒を飲んでたよ。もっと母親孝行がしたかったって言いながらな」
「そうでしたか」
私はじっと写真に映る女性を見つめた。
「昔はよくここでわしと酒を飲んだんだけどな」
そう言いながら南は床に腰をおろした。
「あなたと私、二人でですか?」
私もテーブルを挟んで南の前に腰をおろした。
「ああ、佐和さんが生きてる時は三人で飲んだこともあるがな。亡くなってからはいつも二人だったな。それも十年くらい前の話だ。懐かしいな」
「十年くらい前?」
私はひとり言のように呟いた。十年くらい前から南は小沢勝己と会っていなかったのだろうか。なら、なぜ、今になって急に南は、小沢勝己の前に現れたのだろう。
私が事故にあったので、心配になって会いにきてくれたのか。もし、そうなら事故のことを誰から聞いたのだろう。
「そうだ」
南はそう言って手を叩いた。パンという音が冷たい部屋にこだました。
「は、はい」
私はそこで思考を止めた。
「せっかくだから今日は久しぶりに軽く一杯やるか」
南が笑みを浮かべながら酒を飲むしぐさをした。
「いいですね」
この際、南からいろいろ話を聞いておいた方がいいだろう。
「じゃあ、今日はあんたの退院祝いということでわしが奢るわ。これから一緒に買い出しに行こうか。二人でよく行ったスーパーがある。そこへ行ってみよう」
南がしわくちゃの笑みを浮かべた。
「はい」
私も自然と笑顔になった。こんな笑顔になったのはいつ以来だろう。別人として生き返ってしまい、どうしようもなく不安なはずなのに不思議だ。
「当時、あんたがよく利用していたスーパーだ。二十分程歩かなきゃならんが、散歩がてらこの辺りの景色を見ておくのもいいだろう」
確かにその通りだ。私にはこの辺りの土地勘が全くないわけだから、南にこの辺りのことをいろいろと教えてもらっておいた方が、今後、役に立つだろう。
すぐに洗濯物だけを片付けて二人で部屋を出た。
スーパーに向かいながら南は小沢勝己が利用していた銭湯や理髪店、ボリュームがあって安くて美味しい定食屋などの場所をいろいろと教えてくれた。
「田舎だが、意外と便利なところだよ。あっちの筋には商店街もあるしな。また暇な時にでも覗いてみるといい」
「そうします。これから行くスーパーを私はよく利用していたんですか」
「そうみたいだな。十年前にあんたと会う時はいつもそこで買い出しをして、部屋で飲んだよ。懐かしいな」
「南さんはお酒は好きなんですか」
「酒は好きだけど、弱いからすぐに酔っぱらっちまってな。あんたの部屋で寝てしまって気づいたら朝だってことがしょっちゅうだったな。あんたは酒が強くて全く酔っぱらわなかったがな」
「私は酒が強かったんですか?」
「ああ、強かったな。あんたはいつも焼酎を飲んでたけど、水でも飲んでるかのようにガブガブ飲んでた。今思えば何かを忘れたかったのかもしれんな」
南が宙に視線を向けた。
「何かを忘れたかった?」
「ああ、あの頃のあんたは苦しかったんだと思う。そういう意味では記憶が無くなった今の方があんたは幸せなのかもしれん」
「でも、記憶がないままは不安です。自分の過去のことは知っておきたいです」
私がそう言うと南は唇を噛みしめて私の目をじっと見て頷いた。
「そうだな」南が横を歩く私に顔を向けた。
「はい」私は首肯した。
そこからは二人は言葉がなくなりスーパーへと歩いた。
「今日も焼酎でいいのか?」
スーパーの入口に着いてから南が訊いた。
「いえ、今日はビールにします」
本当の私は普段はビールばかり飲んでいた。
「そうか、じゃあ、わしと同じだな。缶ビールで乾杯でもするかな」
南の口元がほころんだ。
「はい、そうしましょう」
私も自然と笑みになった。
「わしはビールを買ってくるから、あんたは、つまみになりそうなものを、適当に好きなだけ選んできてくれ」
南はそう言って、そそくさと酒売場へと向かって行った。私はスーパーの店内をゆっくりと見て回った。
大沢勝男として、スーパーの肉売場で働いていた頃が懐かしく思えてきた。考えてみれば幸せだったなと思う。ちゃんと定職があって、少ないとはいえ、毎月決まった収入があった。
家では沙知絵が朝食と夕食の準備をしてくれていた。また、あの頃のように肉売場で働いてみたいなと思った。そして沙知絵の手料理が食べたいとも思った。大沢勝男は恵まれていたんだと改めて思った。
店内にスタッフ募集のポスターが貼ってあるのを見つけた。パート、アルバイト募集とあり、その下に、レジ担当、食品担当、鮮魚担当とあり、そして一番下に書いてあった精肉担当という文字が光って見えた。
ここで働けたらいいのにと、ここで働く自分の姿を勝手に想像した。
「いらっしゃい。今日は牛肉の特売日ですよー」
肉売場の若い男性店員が手を叩きながら大きな声を出していた。店内には活気がみなぎっていた。冷蔵ケースの前にたくさんのお客さんが肉のパックを品定めしている。
「先週買ったすきやき肉、すごくおいしかったわ」
一人のお客さんが嬉しそうに、その男性店員に話しかけていた。
「そうですか。それはよかったです」
男性店員も嬉しそうな表情を浮かべていた。
その表情を見て羨ましいと思った。大沢勝男として働いていたあの頃が懐かしい。私は目を細めてそのままずっと、男性店員の働く姿に見入ってしまった。
「おい、なにしてんだ」
後ろから声がして振り向くと、南が立っていた。
「ああ、すいません」
南の持つ買い物カゴを見るとカゴの中一杯に缶ビールが入っていた。
「じーっと、肉売場の店員を見てたけど、どうしたんだ? 知り合いか」
南が肉売場の店員に視線を向けた。
「いえ、そんなんじゃないです。すごく楽しそうに仕事してるなと思いまして羨ましかったんですよ」
「そうだな。ここの店員はみんな愛想がよくて楽しそうだな。それよりこれ、適当に選んでおいたぞ」
南は買物カゴを持ち上げて私に見せた。
「ありがとうございます。すごい量ですね。重そうですから私が持ちます」
「いいよいいよ。それより、あんた、まだつまみは選んでないのか?」
「すいません、まだなんです」
「そうか、じゃあわしが適当に選んでくるから、ここで待ってろ」
南はまた店内の奥へと消えていった。私は肉売場の前で、もうしばらく立っていた。
愛想のよかった肉売場の店員が、私に対して怪訝そうな表情に変わった。見た目の怖い中年男が買物もせずにボーッと立っているわけだから、怪訝そうな表情になっても仕方ないかもしれない。
仕事の邪魔をしてはいけないと、その場から離れた。南を探すと、すでにレジを済ませ袋詰めをしている姿が見えた。
「すいません」
袋詰めしている南の横に立って声を掛けた。
「おう、やっと来たか。気が済んだか」
南が袋詰めする手を止めて私に顔を向けた。
「はい、気が済みました」
「嘘つけ。まだ名残惜しそうな顔してるぞ」
南はそう言って空になった買物カゴをカゴ置場に放り込んだ。
「そうですか」
私は首を傾げた。
「ああ、してる。自分もここで働きたいなー、て顔してるよ」
南はそう言ってスーパーの出口へと向かった。
「そうですかね」
南に自分の気持ちを見透かされていることに驚きながら、南の背中を追いかけた。
帰りは少し寄り道して商店街の中を歩いた。今時珍しいなかなか活気のある商店街だった。威勢のいい鮮魚店や鮮度の良い野菜が並ぶ八百屋を見て高山と清水のことを思い出した。二人共元気にしているのだろうか。清水は少しは立ち直れたのだろうか。
ソースのいい匂いがするなと思ったら、店頭でお好み焼きを焼いている店があった。美味しそうだった。沙知絵と食べたカキオコを思い出した。
部屋着いてから、すぐに缶ビールで乾杯した。
「退院おめでとう」南が缶ビールを持ち上げた。
「ありがとうございます」
私は南の持ち上げた缶ビールに自分の缶ビールを当ててから一気に飲んだ。久しぶりに飲んだビール。喉を通る感触といい最高に旨かった。
南はビールを少し飲んだあと、好好爺のような顔で私をじっと見ていた。
「つまみは適当に買っておいたぞ。あんたはキムチが好きだったから、それも買っておいたからな」
「私はキムチが好きだったんですか?」
「まあ、なんでもうまそうに食ってたけどな。特にキムチが好きだったな」
南がキムチのパックを開けながら言った。
それから南は煙草に火をつけた。「フゥー」と紫煙を吐いた後、いろんな話をしてくれた。
話の中身のほとんどが小沢勝己がどんな人間でどんな生活をしていたかということだった。
南の口から小沢勝己のことを悪くいうことはなかった。本人? を前にしているということもあるだろうが、南の話を聞いていると、小沢勝己は私が思っているような凶悪な男ではなく、本当は母親想いの心の優しい男だったように思えた。
父親を殺害したことも、殺人は絶対によくないが、南の話を聞く限り同情する余地はある。ただ、父親殺害以外にも小沢勝己は傷害事件を起こしていと聞いている。それについて南に詳しく訊いてみたくなった。
「私は父親を殺害した以外にも傷害事件も起こしたようなんですが、南さんはそのことは知っていますか」
「ああ、山崎信男のことだな」
南は飲んでいた缶ビールの缶をテーブルにコンと置いて、しわくちゃの目で私を見た。
「山崎信男さん、ですか」
南の口から全く知らない名前が出てきた。山崎信男とは一体何者なのだろう。小沢勝己の犯した傷害事件とどんな関わりがある人物なのだろう。
「そうか、山崎信男のことは知らないわな」
「え、ええ。初めて聞く名前です」
南が煙草を灰皿に押しあてて、ニヤリと笑った。
「そりゃそうだわな」
「山崎信男という人のことと私が犯した傷害事件のことを詳しく教えてもらえませんか」
「そうだな」
南が次の煙草を取り出し火をつけた。思いっきり煙を吸い込んでから、「どうしても知りたいのか?」と煙を天井に向かって吐き出しながら続けた。
「はい、お願いします」
「よし、わかった」
南はそう言ってからしばらく煙草を燻らせた。
「あんた、煙草は吸わないのか?」
南が煙草の箱をを差し出した。
「じゃあ、一本いただきます」
私は南が差し出したタバコの箱から一本抜きとった。南がライターの火を近づけてくれたので、タバコに火を点けて思いっきり煙を吸い込んだ。久しぶりの一服だ。地獄に落とされそうになった時以来のタバコだった。少し頭がクラクラした。
「あんたが傷害事件を起こした時の話が聞きたいんだったな」
「はい、お願いします」
その後、南は小沢勝己の起こした傷害事件について口を開いた。
小沢勝己は刑務所を出てから母親の佐和とこのアパートでいっしょに暮らしはじめた。
佐和は小柄で色が白く、年齢より若く見えた。そんな佐和に言い寄ってくる男も多かったようだ。
その中に山崎信男という男がいた。山崎は執拗に佐和に付きまとっていた。
今でいうストーカーだった。二度と結婚するつもりがなかった佐和は交際を断り続けたが、ある日、山崎は部屋に上がりこみ無理やり佐和を自分のものにしようとした。抵抗する佐和の頬を殴り押し倒した。ちょうどその時に小沢勝己が帰宅した。
南はそれを「タイミングがよかったのか悪かったのか」と言っていた。
佐和の体にのしかかる山崎の姿を見た小沢勝己は頭に血がのぼった。山崎の首を掴み佐和から引き離した。そのあと山崎に殴る蹴るの暴行を加えた。佐和が必死で勝己を止めたが、勝己の力が強くて止めることができなかった。
山崎は命こそとりとめたが、瀕死の状態で救急車で運ばれた。
「小沢勝己という男は母親の佐和さんのことが大好きで、彼女を守りたかったんですね」
話を聞いて胸が熱くなりあえて『小沢勝己という男』と言った。写真立てに映る佐和さんの写真に視線を向けた。笑っているが、寂しそうな笑顔に見えた。
「そうだな。あんたは佐和さんにはすごく感謝していた。だから佐和さんを守るためならなんでもしようとしたんだろう。ただ、それが……」
南そこで言葉を呑み込んで天井を見上げた。
「それが、なんですか?」
「まあ、あんたには言いにくいが、やっぱりそういうやり方は間違ってた。それが、逆に佐和さんを苦しめることになった」
その後、南は俯いてしまった。暫く沈黙が続いてから南が一言「すまん」とだけ言った。
確かに南の言う通りだと思った。その状況で小沢勝己も冷静にいることは難しかったのだろうが、小沢勝己のとった行動は佐和さんを苦しめる結果になったのは間違いない。
「いえ、確かに南さんの言う通りだと思います。暴力を振るってしまったことは良くなかったです」
私はそう言って唇を噛みしめた。
それから、私の今後について話し合った。私は、さっきのスーパーで働いてみたいので面接に行ってみると言った。南は少し渋い顔をしたが、頑張れ、とだけ言ってくれた。
南はその日は酔いつぶれることなく帰って行った。
私は次の日の朝、目が覚めてからスーパーにアルバイトの面接がしたいと電話をいれた。二日後に面接に行くことが決まった。南に報告しようと思ったが、南の連絡先を聞いていなかったことに、その時気づいた。
肉売場で働きたい。私はそう思っている。しかし肉を切ったことのない小沢勝己の今の体はついてこれるのだろうか。大沢勝男として、頭では覚えているが体がついてこないかもしれない。そういう不安が少しあった。
柚菜が保育園の時に保護者の徒競走に参加したことがある。学生の頃は足には自信があった。
しかし、保護者の徒競走では、頭は学生の頃のつもりで足を動かしていたが、全く体がついてこなかった。気持ちだけが先走りし上半身だけが前につっこみ、ゴール手前で足が絡まり転んでしまった。
それを見ていた園児や保護者たちに笑われながらも立ち上がり足を引きずりながらゴールしたことを思い出した。
父親がみんなに笑われて、柚菜に恥ずかしい思いをさせたなと心配したが、柚菜が一番笑っていたらしい。
「お父さん、ダルマさんみたいだったよ」
その日の夕食の時に柚菜は笑っていた。あの頃は幸せだったなと思った。
南に面接が決まったことを伝えたかった。南に次はいつ会えるのだろうと思っていたら、玄関で物音がした。振り向くと、そこに南が立っていた。
「南さん」
私の声は弾んだ。
「どうだ、ゆっくり眠れたか」
「ええ、なんとか知らない間に眠ってました」
私は立ち上がり南の立つ玄関まで行った。
「そうか、ならよかった。どうせ朝から何も食ってないんだろ、これでも食え」
南がコンビニの袋を私の目の前に差し出してくれた。
「すいません、わざわざ買ってきてくれたんですか」
私はコンビニの袋を受け取り頭を下げた。
「たいしたもんじゃねえ。おにぎりとお茶だけだ」
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます。どうぞ、上がってください」
私はテーブルの前に置いてある座布団をパンパンとはたいてから置き直した。
「ああ、お邪魔するよ」
南が部屋に上がり、座布団に腰を下ろすとすぐにタバコに火を点けて紫煙を吐いた。
「ちょうど南さんに報告したいことがあったんです。南さんに連絡しようと思ったら、南さんの連絡先を聞いてなくてどうしようかと思ってたところなんですよ」
「そうか」
「南さん、今後のために連絡先教えておいて下さいよ」
南の前に座り、紙とボールペンを差し出した。
「わしは携帯も持ってないし、電話もないんだ。わしの方から、あんたにちょくちょく会いにくるから、報告することがあったら、その時に言ってくれればいい」
南はそう言って紙とボールペンを私の方に押し滑らせた。
「そうですか。でも住所だけでも教えておいて下さいよ」
私はもう一度、紙とボールペンを南の方に差し出した。
しかし、南は「いや、いい」とだけ言って、タバコを灰皿に押し当てた。
南にもいろいろ事情があるのだろう。前科者の私と会っていることは家族には隠しているのかもしれない。家族に内緒でこっそり会いに来てくれてるのかもしれない。そう思うと申し訳なくなった。
南にスーパーの面接が決まったことを伝えた。喜んでくれたが、面接の時に正直に過去のことを話すつもりだと言うと、不安そうな表情を浮かべた。
面接は午後二時からと決まっていた。電話に出た店長の声はおだやかで好感が持てた。南と買い物に行った時の店の雰囲気も良かったし、きっと働きやすい職場だと期待した。しかし、南が心配するように前科のある男をすんなり受け入れてくれるだろうかと思った。
面接の十分前にスーパーに到着し、店内カゴを片付けていた中年の女性に面接に来たことを告げた。
女性が、「少々お待ちくださいね」と柔らかい口調で言って、カウンターに行き電話をしていた。私が面接に来たことを、店長か誰かに内線で伝えてくれているのだろう。
電話が終わり、女性はカウンターから出て、穏やかな笑みのまま私の前まできた。
「お待たせしました。ご案内しますので、どうぞ」
そう言って右手を差し出して先を歩き出した。
私は女性の背中について行った。野菜の売場を通り肉の売場を抜け、奥のドアの前で女性が立ち止まった。
「この奥になります。どうぞ」
女性はそのままドアの奥へと入っていった。私はそれに続いた。
そこから先は店のバックヤードだ。明るい店内とは対照的に薄暗かった。
そのまま女性について薄暗い通路を奥へと進んだ。両サイドには段ボール箱が積まれていた。奥に小柄な男性が立っている姿が見えた。男性の左横から灯りが少しもれていた。
「店長、面接の小沢さんを連れてきました」
女性は小柄な男性に向かって声を掛けた。
立っている小柄な男性が店長のようだ。男性の前まで来て、名札をちらっと見たら『店長 小林』と書いてあった。
「はじめまして、店長の小林です」
男性は背は低いが背筋をピンと伸ばし、両手を前に組んで深々と頭を下げた。電話のおだやかな感じそのままの印象だった。
「はじめまして、小沢勝己です。今日はお時間をとっていただきありがとうございます。よろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げた。
「佐々木さん、ありがとう」
小林は案内してくれた女性に向けて笑みを浮かべて言った。
「はい。では、失礼します」
女性はそう言って踵を返して、この場を後にした。
「どうも、ありがとうございました」
女性に礼を言うタイミングを逃してしまい、女性の背中に向けて頭を下げた。
女性は振り返って、ペコリと頭を下げてくれた。
「頑張ってくださいね」
女性はそう言ってから、踵を返し早足で歩いて行った。そしてドアの向こうへと消えた。女性が去ったあと、店長の小林は私に向かってもう一度頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします」
「では、中へどうぞ」
小林が灯りがもれる部屋のドアを開けた。
私は「失礼します」と言って先に部屋に入った。
「右側の椅子におかけくださいね」
小林が私の後ろから声をかけてきた。
部屋の広さは三畳程度だ。目の前にパイプ椅子が向かいあって置いてあった。私は右側の椅子の前で立っていた。
「どうぞ、堅苦しくかならずに、遠慮せずおかけになってください」
小林がそう言って、笑みをくれた。
「は、はい」
面接なんて何年ぶり、いや何十年ぶりだろうかと緊張した。
椅子に座ってから部屋を見渡した。奥に机があった。机の上はスッキリと片付いていた。パソコンの画面に細かな数字が見えた。
小林はパソコンの画面を消してから私の前に座った。
「狭くて汚いところで申し訳ありませんね」
小林が部屋を見ながら苦笑した。
「いえ、そんなことありません。前に働いていた店に比べれば、本当にきれいです」
「小沢さんは、こういうスーパーでの勤務のご経験はあるんですか」
小林が訊いてきて、「えっ、いえ、ま、間違えました」と慌てて否定した。
大沢勝男の記憶のまま話してしまった。何を間違えたのかと小林は変に思ったかもしれない。前で首を傾げていた。
「間違えましたか」
小林がそう言いながら、背筋を伸ばした。
「いえ、こういう仕事ではありませんけど、これまで働いた職場に比べて、すごくきれいで、雰囲気のいい職場だなと思いまして」
「そうですか。それはありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
お世辞ではない。本当にきれいに整理されている。狭いのは、どこのスーパーも同じようなものだろう。店内はできるだけ広くて明るくきれいにするためにお金をかけても、バックヤードにはお金をかけない。狭くて暗いのが普通だ。
きれいかどうかは、そこで働く人で決まる。整理整頓が出来ているかどうか。そういう意味では、ここのバックヤードは整理整頓されていてきれいだ。この部屋も無駄なものがなく整理整頓されていて好印象を受けた。思っていた通り働きやすい職場だと確信した。
それから、一昨日に南といっしょに書いた履歴書を小林に渡してすぐに面接が始まった。小林からは勤務時間や時給のことなどの確認があった。私は自分のこと、小沢勝己の過去を包み隠さずに正直に話すと決めていた。
交通事故に遭って記憶を失っていることや、過去に父親を殺害したこと、傷害事件を犯したことについて包み隠さず話したが、驚いたことに小林は「その件に関しては承知しております」と平然と、そして少し笑みを浮かべながら言った。
どういうことだ。なぜ知っているのかと不思議に思った。知っていて面接してくれたことに感謝した。
「どうして私が記憶を失っていることや殺人事件や傷害事件を犯していることをご存じなんですか」
私が訊くと、小林はにっこりと笑みを浮かべて教えてくれた。
「小沢さん、南さんて方をご存じですよね」
小林は椅子に座り直してから少し前のめりになって言った。
「あっ、はい。南さんにはよくしてもらってます」
「いい方ですよね。元警察官だそうですね」
「はい、そうみたいです」
「昨日、その南さんが私を訪ねてきて、あなたのことをいろいろと教えてくれました。あなたが殺人事件や傷害事件を犯した過去があることや、今記憶を失っていることなどです」
「えっ、そうなんですか」
「小沢さんは昔犯罪を犯してしまってますが、本当はそんな犯罪を犯すような人間ではなくて、心の綺麗な人だと言ってました。自分が責任を持つから採用しやってほしいとのことでした。あまりに熱心にお願いするものですから、とりあえず採用させていただくことに決めてました」
小林はそう言って口元をほころばせた。
「ありがとうございます」
自分の膝に額がぶつかるくらいに頭を下げた。涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
「いろいろとご苦労されたんですね」
小林の声に顔を上げた。
「いえ、どんな事情があっても犯罪を犯してはいけなかったです」
私が言うと小林は何度も頷いた。
「但し、三ヶ月間は見習い期間ということでお願いします。もしトラブルを起こすことがあれば、その時は即刻辞めていただきます。そういう条件でよろしいですか」
にこやかな表情だった小林の顔が真顔になった。
「はい、雇っていただけるだけで有難いことです。感謝の気持ちしかありません」
今の胸中は目の前にいる小林に対しての感謝の気持ちと南に対する感謝の気持ちであふれていた。また目頭が熱くなり涙がこぼれそうになった。小林に気づかれないように目頭を押さえた。
勤務は明日からと決まり、事務所を出る前に小林に向けて深々と頭を下げた。そこでまた涙が出てきた。堪えきれず床にポツンと落ちた。
アパートに帰ってくると、アパートの前に人影見えた。背が低く丸い体の男、南だった。こっちに顔を向けて、しわくちゃの顔で笑っていた。私はその顔を見た瞬間、保育園児が迎えに来た母親の姿を見つけて走り出す時のように、南の元へと走って行った。
「南さーん」
腹の底から声を出したのはいつ以来だろう。
「よう」
南は相好を崩したまま右手を上げた。その右手にはコンビニの袋がぶら下がっていた。
「南さん、ありがとうございます」
南の前に立ち、深々と頭を下げた。
「その様子だと、面接はうまくいったようだな」
南が頭を下げる私の肩をポンポンと叩いた。
「南さんのおかげです」
私は顔を上げて南の顔を見てからもう一度頭を下げた。
「就職祝いに一杯やろうか」
南が踵を返して私のアパートの部屋の方へと歩きだした。
「はい」
私は南の背中を追った。
部屋に入って、すぐ南が買ってきてくれた缶ビールで乾杯した。格別に美味く感じた。
仕事は明日から行くことになったと言うと、じゃあ、今日は軽めにしておこうと南は言っていたが、私の仕事が決まったことを南は自分のことのように喜んでくれて、買ってきた缶ビールを全て空にしてしまい、最後には、そのまま横になり眠ってしまった。
鼾をかく南に布団を掛け、私も明日のために早めに寝ることにした。電気を消して布団に横になった。流しの前にある窓から月明かりが射し込む。南の鼾が一定のリズムを刻む。鼾が気になるわけではないが、なかなか寝付けない。明日から仕事をする自分の姿を思い浮かべた。大沢勝男として働いていた頃の情景が頭に浮かぶ。高山や清水と売上を競いあって、お互いに意見交換した時の頃を思い出した。レジを打つ独身の頃の沙知絵のすらりとした姿が瞼の裏に浮かんだ。瞼が赤くなった。瞼を開けると、知らぬ間に窓から射す月明かりが朝日に変わっていた。
体は鉛が貼りついているように重く起き上る気になれなかった。首だけを持ち上げ南を覗き見た。鼾はしていなかったが、胸が大きく上下している。まだ眠っているようだ。その南の寝顔に向けて「南さん、ありがとうございます」と呟いた。
「よかったなぁ」と聞こえたので、慌てて南を見た。南は口を開けて気持ち良さそうに眠っていた。寝言のようだ。
南には、いつか本当のことを話し、自分が小沢勝己ではないことを告白すべだと思っている。これまで南と楽しく酒を飲んでいても、本当のことを隠していることが引っ掛かって、楽しく会話できなくなる。いつか本当のことを全て話して、南と朝まで思う存分飲みたい。
アルバイトの初日、肉売場の責任者石原チーフを
小林から紹介してもらった。南に連れられてはじめてこのスーパーに来た時に肉売場にいた男性店員だった。
「小沢さん、今日からよろしくお願いします」
石原は溌剌とした声で右手を差し出してきた。その時の石原の表情は、はじめて石原を見た時のお客さんと楽しそうに会話していた表情と同じだった。石原は若そうだが店長の小林同様、信頼できる人間だと思った。
「こちらこそよろしくお願いします」
私も出来るだけ声を張り右手を差し出した。
初日の仕事は主に肉のパック詰めと値札をつける作業だった。石原はそれを丁寧に教えてくれた。最初はぎこちなかった私だが、徐々に感覚が戻ってきてすぐに慣れた。久々に肉を触った感触がたまらなく嬉しく、そして楽しかった。
石原からは「小沢さん経験者?」と驚かれた。
「ええ、まあ。昔に少し」と適当に返事をした。
「小沢さん、あとですね」
石原はそう言いながら、少し悩むような表情をした。
「はい、何でしょう?」
石原の表情を見て、私の仕事ぶりに何かまずいことでもあったのだろうかと不安になった。
「小沢さんにはこれから売場に立って、売り込みしてほしいんですよ」
石原は少し遠慮がちに口を尖らせていたが、私は売場に立ちたかったので、素直に嬉しかった。
「はい、喜んで」と声を弾ませると、石原は「あ、それです」と私の顔に人差し指を向けた。
石原の顔がパッと明るくなっていた。私はわけがわからず、首を傾げた。
「小沢さん、こんなこと言うと失礼かもしれないんですけど、さっきまでパック詰めしている作業中の真剣な表情はちょっと怖いんですよね。だから接客はどうかなと思ってたんですよ。でも、今の笑顔なら大丈夫です。売場では、その笑顔でお願いしますね」
石原がそう言って口角を上げた。
「わかりました。そうですね、気をつけます」
小沢勝己の外見は確かに怖い。笑顔でないとお客さんが怖がってしまうだろう。石原の指摘は有り難かった。これから小沢勝己として、ここで働いていくには、心しておかなければならないことだ。
私は、取組前の相撲取りのように顔をパンパンと叩いてから笑顔を貼り付け、石原について売場に出た。
「いらっしゃいませー。今日は豚肉がお買い得ですよー」
石原が先に元気に声を張り上げた。
「いらっしゃいませ。豚肉お安いですよ」
私も石原に続いて少し緊張しながら声を出した。
「小沢さん、緊張せずにもう少し元気に声を出しましょう」
石原が耳元で言った。
私は「はい」と頷いてから、深呼吸し、腹の底から声を張り上げた。
「いらっしゃいませー。今日は豚肉がお買得ですよー」
スーッと体の力が抜け、気持ちが清々しく引き締まる思いがした。この感覚は久しぶりだ。
「小沢さん、その調子です」
石原がまた耳元で言った。
「あなた、新人さん?」
年配の女性のお客さんに声をかけられた。
「はい、今日から働いています。よろしくお願いします」
「頑張ってね。ここのお肉は安いし美味しいから、いつもここに買い物に来るの。よろしくね」
お客さんから声をかけられて嬉しくて涙が出そうになった。
仕事の初日は無我夢中で働いて、あっという間に時間が過ぎていった。楽しかった。これまで、大沢勝男の頃、仕事ができることが、こんなに楽しいものとは思わなかった。
初日の仕事が終わって着替えて更衣室から出ると、店長の小林が更衣室の前に立っていた。
「お疲れさまでした。小沢さん初日はどうでしたか?」
「店長、お疲れさまです。石原チーフに教えてもらいながら、迷惑かけないように必死でした」
「疲れたでしょう」
小林が目を細めて私を見上げた。
「ええ、でも、清々しいです。採用してくれて本当にありがとうございます」
体が二つに折れ曲がるくらい頭を下げた。
「いえ、そんな、礼を言われるようなことじゃないです。うちも人手がほしかったので助かります。石原も小沢さんが来てくれて喜んでましたよ」
「そうですか、それならよかったです」
他人から頼りにされ、喜ばれることが、こんなに気持ちのいいものなのかと、改めて感じた。
その後も仕事の方は順調だった。小林も石原も本当によくしてくれた。
しかし、従業員の中には私の過去のことを知って、近寄りたがらない人もいたようだった。私が休憩室に入ると、私と目を合わさそうとせずに休憩室から逃げるようにそそくさと出ていく者もいた。
肉売場のスタッフは石原のおかげで、そんな態度をとる者がいなかったのが私の救いだった。
何とか小沢勝己としてやっていけそうだと思った。
しかし、その考えは甘かったようだ。前科のある人間が普通に生きていくのはそんなに簡単なものではないことを、この後すぐに思い知らされた。
働き始めてから二週間が過ぎた頃だった。その日出勤すると、いつものなごやかな雰囲気とは違い、重苦しい空気が流れていた。
気にはなったが、いつものように出来るだけ元気に挨拶して、男子更衣室へと向かった。更衣室へ向かう通路には従業員が溢れ、立ち話をしている。おかしいな、と思いながらその中を歩いて抜けて行った。歩きながら、私に対する視線がいつも以上に厳しく刺さる気がした。
居心地の悪さを感じながら男子更衣室まで来たら、その奥にある女子更衣室の前に人だかりができていた。
人だかりの一番手前に、小林が眉間に皺を寄せ渋い表情をして立っていた。これまでに見たことのない小林の表情だった。
「おはようございます」
私は取り敢えずその人だかりに向かって挨拶をした。小林がちらりと私を見て、無言で小さく頭を下げた。そのまま男子更衣室に入ると石原たちが着替えをしていた。
「物騒だよな」
副店長の山本が私を一瞥して石原にそんなことを言っていた。
「何かあったんですか?」
石原の横に立ちロッカーのドアの取っ手に手をかけた。
石原は私の顔を見た後、山本に視線を向けた。私もそれにつられ山本に視線を向けた。
山本は「ふん」と鼻を鳴らした。
「女子更衣室で盗難があったみたいなんです」
石原が私の耳元で囁いた。
「と、とうなんですか」
私はつい大きな声を発してしまった。
石原が「しっ」と口の前に人差し指を立てた。
「す、すみません」
体を小さくして頭を下げた。
「女子ロッカーが荒らされてたらしくて、今警察が指紋をとってるみたいです」
爽やかな石原らしくない苦い表情で口元を歪めた。
「そうなんですか」
小林の渋い表情の意味がわかった。
「あんたじゃないだろうね」
背中から声がして振り向くと山本が私に睨めつくような視線を向けた。
「違います、違います」
私は顔の前で右手を何度も振った。
「従業員があんたが来てから、怖がってんだよね」
山本が吐き捨てるように言った。
「山本さん、小沢さんは真面目な人ですよ。仕事を覚えるのも早いですし、なんの根拠もなく疑うのは失礼ですよ」
石原が顔を赤くして山本に向かって声を荒げた。石原のこんな姿を見るのは始めてだ。
「けどさ、前科者でしょ。それも殺人と傷害だって噂だし。今は猫被ってるだけじゃないの」
「山本さん、小沢さんはそういう人じゃありません」
石原が山本に詰め寄った。
「そう人じゃないって、ちょっと一緒に仕事しただけのお前がこの人のことどこまでわかってんの」
山本が詰め寄る石原に鼻がぶつかるくらい顔を近づけた。私はどうすることもできず立ち尽くしていた。
「小沢さんといっしょに仕事したら、そういう人じゃないって、誰でもすぐにわかりますよ」
石原も興奮しているようで、山本に顔を近づけたまま喚いた。
「まあ、石原落ち着け」
山本が石原に圧倒されて後ずさりした。
「僕は落ち着いています」
顔を赤くした石原の鼻息は荒かった。
「そういう人じゃなかったにしてもさ、みんながそう思ってるのは事実なんだ。この人が来てから働きにくいと思ってる従業員も多いんだよ。そこは、石原も社員として考えないといけないだろ」
「みんなの誤解を解くのが僕たち社員の仕事じゃないですか」
「はいはい、わかったよ。石原はお利口さんだからな。取り敢えず警察に早く犯人捕まえてもらうしかないわ」
山本はそう言って、両肩を上げ、私を一瞥して更衣室を出ていった。小林と石原、肉担当のスタッフ以外からは、私は受け入れてもらえていないようだ。
小林店長は、私が過去に犯した殺人と傷害事件について副店長の山本と石原にだけには話しておくが、他の従業員には広まらないように口止めはしておくと言っていたのだが、ほとんどの従業員が知ってしまっているようだった。さっきの山本の歪んだ顔が頭に浮かんだ。きっと彼が広めてしまったんだろう。
結局、警察が指紋を調べたが、女子更衣室から外部の人間の指紋は見つからなかった。内部犯行でしょう、ということで警察の介入は終わった。その後犯人が捕まることはなかった。
これまでこんなことがなかったのに、私が働き始めた途端にこんな事件が起こったと、山本と同じように私を疑う者は多かったようだ。
「なんの証拠もないのに、小沢さんを疑うなんておかしいです。小沢さん、気にしないでいいですよ」
石原はそう言ってずっと庇ってくれた。小林も同じく、私を庇うその姿勢を崩さなかったが、そうもいってられない事態になってしまった。
肉売場以外の多くのパートやアルバイトが私が働き続けるなら退職すると小林の元に押しかけてきた。
小林はみんなを必死に説得するが聞く耳をもってくれなかったようだ。小林も石原も、私を庇うせいで苦境に追い込まれているのがわかった。
ここは私が身を引くしかないと思った。年末を迎えたこの時期に大量の退職者が出たら店が回らなくなる。店にとって大事な時期だ。それくらいのことは私でもわかる。
これ以上、小林と石原にいらぬ負担はかけたくない。私が辞めれば丸くおさまるなら辞めるしかないと思った。
アパートに帰ってからテーブルの上を片付け、買ってきた便箋を広げた。大沢勝男の頃、仕事が嫌で退職願を何度も書こうとしたことはある。しかし、本当に書くのははじめてだ。暫くボールペンを手にしたまま広げた便箋を眺めた。
南は、私が面接に行く前日に私を雇ってほしいと小林に頭を下げてくれた。そのお陰で働けるようになった。小林と石原は私の過去のことを知りながら普通に接してくれた。お陰で楽しく仕事ができた。勝手に涙が出てきた。辞めたくない。しかし、小林や石原にこれ以上迷惑はかけられない。私は辞めるしかない。ボールペンを握りしめて、便箋にまず退職願と書いた。
退職願を書き終えて、ボールペンを便箋の上に置いてそのまま横になった。薄汚れた天井を見ながら、大沢勝男だった頃のことを思い出した。あの頃が幸せだったことを改めて感じた。スーパーの肉売場で出世街道から外れて愚痴をこぼしながら過ごしたこと。沙知絵と柚菜との会話がほとんどなくなったこと。柚菜が生まれた日のこと。沙知絵と結婚してみんなから羨ましがられたこと。母親が亡くなって、この先どうしていいのかわからなくなった時のこと。父親が亡くなってしまった時の悲しかったこと。過去の記憶をどんどんと遡っていった。
しかし、思い出せたのは父親が亡くなった時までだった。それより昔のことを思いだそうとすると激しい頭痛がして思い出せなかった。
そしてどういうわけか、小沢勝己として過ごしていたことが鮮明に記憶に残っていた。私自身が経験したはずのない、父親の進を金属バットで殴った時の手の感触や母親の佐和を助けようとして山崎を殴った時の手の痛み。会ったことのないはずの進の鬼のような表情や母親の佐和の優しそうな表情が交互に出てきた。反対に私の実の父親の俊夫と母親の五月の顔が記憶から薄れていた。
どういうことだろうかと考えた。
今の肉体は間違いなく小沢勝己のものだ。もちろん脳みそも小沢勝己のものだ。ということは、今、脳みそにある記憶は小沢勝己のままということだ。大沢勝男としての記憶があるはずがない。このまま、小沢勝己として生きていくと、大沢勝男としての記憶はどんどん薄れていき、脳みそにある小沢勝己の記憶が膨らんでいくのではないだろうか。
そうなると、いずれは沙知絵や柚菜の記憶も消えてしまうのではないだろうか。いや、それは絶対にダメだ。そうなると大沢勝男は完全に死んでしまったことになる。今の自分の存在は無くなってしまうのだ。
二人の記憶が無くなる前にどうしても沙知絵と柚菜に会いたいと思った。二人にとっては迷惑なのかもしれないが、会って話がしたい。大沢勝男は今、小沢勝己として生き返って、和歌山で過ごしていることを伝えておきたい。
仕事を辞めてから一度岡山に行ってみよう。南に本当のことを伝えてから、私は岡山へ行く決心をした。そして、大沢勝男として生きてきたことをしっかりと脳みそにインプットしておきたい。
次の日の朝、私は小林と店長室で向かい合って座っていた。こうしていると、二週間前の面接の時のこと思い出した。たった二週間だが、ずいぶん昔のような気がする。あの時は小林に履歴書を渡したのだが、今回は退職願を渡した。小林はそれを受け取った時、無念そうに唇を噛みしめたが、止めようとはしなかった。小林の立場を考えるとやむを得ないだろう。
辞める時期は小林に任せたが、早い方がお互いのためだということで、すぐに退職することで決まった。最後に石原にだけは挨拶がしたいと言うと、小林はすぐに石原に内線をしてくれた。
内線が繋がる私が今日で退職することを伝えていた。
「えーっ」という石原の声が受話器から漏れていた。
小林が受話器を置いて、私の顔を見てから、「石原はショックを受けてるようです」と言って目を伏せた。
すぐに石原が勢いよく事務所のドアを開けて入ってきた。
「店長、それはないですよ」
石原は事務所に入ってくるなりそう言った。
「決まったことなんだ」
小林は苦しそうな表情を浮かべた。
「石原さん、いろいろと教えてくださりありがとうございました。せっかく教えていただいたのに、お役に立てず申し訳ありません」
私は立ち上がり石原に向けて頭を下げた。
「小沢さん、これからもいっしょにやりましょうよ。副店長の言うことなんて気にすることないですよ」
「すいません」
私はもう一度石原に頭を下げた。
「石原、新しい人は、また募集するから、小沢さんは諦めてくれ」
「店長、そんな問題じゃないです。うちの人間関係の問題です」
石原が小林の座るテーブルに両手をついて訴えるように言った。
「石原さん、私が店長に辞めさせてほしいとお願いしたので、店長を責めないで下さい。辞めるのは私の身勝手な理由なんです」
私は石原の肩に手を置いた。石原が私の方を見て「小沢さん」と言って涙を浮かべていた。小林の目も潤んでいるようだった。
私は二人の涙を見て、ありがたい気持ちでいっぱいになった。最後に「ありがとうございました」と思いきり頭を下げた。
仕事を辞めたことを南にも報告しなければと思っていると、その日の夕方に南が両手に缶ビールとおつまみを持ってアパートに現れた。
南は「よお」と言って右手を上げ、自分の家に帰ってきたかのように部屋に上がり缶ビールをテーブルに置いて「どっこいしょ」と言って私の前に腰を下ろした。
南は私の方を見てくしゃくしゃの笑みを浮かべていたが、私は仕事を辞めたことを報告しなければと思い、いつものように笑みを返せなかった。せっかく南が小林に頭を下げて働けることになったのに、たった二週間で辞めてしまったのだ。南に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「どうした?」
南は缶ビールを口にしてから、煙草に火をつけて訊いてきた。
私は、仕事場でロッカー荒しがあったことが原因で仕事を辞めなければならなくなったことを伝えた。
南は「うーん」と唸ってから、暫く沈黙した。
「せっかく、南さんが店長の小林さんにお願いしてくれたお陰で働けることになったのに、申し訳ありません」
沈黙の続くなか、私は南に土下座した。
南は辞めるべきじゃない。辞めたらロッカー荒しを認めたことになると言ってくれたが、小林や石原に迷惑をかけながら働き続けることはできないと伝えた。
南は「わかった」とだけ言って、缶ビールを飲み干した。
それから私は南に本当のことを話した。私は小沢勝己ではなく大沢勝男という人間で、事故にあって天国に向かう途中に入れ替わってしまったことを説明した。
そして、私は明日にでも岡山で暮らす本当の家族に会いに行ってみようと思っていると伝えた。信じてもらえないと思っていたが、南は意外にもあっさりと信用した。
「ふーん、そんなことがあったのか。不思議な話だなー」
南はそう言って紫煙を宙に向かって吐いた。南があまりにもあっさり信用してくれたので、私は拍子抜けした。
「はい、不思議な話です。南さんは信じてくれるんですか?」
「そうだな。信じがたい話には違いないが、死後の世界なんて、わしらにはわからないことだらけだからな。それにあんたがわしに嘘つく理由もないしな」
南はそう言ってくしゃくしゃの笑みを向けてくれた。
「信じてくれてありがとうございます」
「て、ことは」
南がそう言って私の顔をじっと見た。煙草を灰皿に押し付けた。
「は、はい、なんでしょう?」
「いや、いい。やめておく」
南はまた煙草を取り出して煙草を持った右手を横に振った。
「なんですか、言ってください」
私は前のめりになって訊いた。
「いや、て、ことはだな」
南はそう言ってから煙草に火をつけて紫煙を吐いた。
「はい、何でしょう?」
「小沢勝己はあんたの代わりに天国へ行ったわけだな」
南は紫煙を吐きながら言った。
「そういうことのようです」
「そうか、天国か」
南は少し嬉しそうな表情をして天井に視線を向けた。
「はい、天国です」
「小沢勝己は天国で佐和さんに会えたのかな?」
南は天井に上がる紫煙を目を細めて眺めていた。
「多分、会えたんだと思います」
「あいつ、今頃、母親孝行してるかな」
「どうでしょう。天国のことはわかりませんが、きっと母親孝行してるんじゃないですか」
「そうだよな。あいつ、本当は優しい男だからな」
「そうみたいですね」
「進は地獄に落ちてるよな」
南は私の顔をじっと見てきた。その目はさっきまでとは違い鋭くつり上がっていた。
「は、はい、そう思います」
私が言うと南は何度も首を縦に振った。
「あんたには悪いが、小沢勝己が天国に行けてよかったと思ってる」
「小沢勝己さんのことを、いろいろとあなたから教えてもらって、天国に行かせるべきだということはわかります」
複雑な心境だが、そう思ったのも確かだ。
地獄行きの審判はコンピューターがやっていると言っていたが、コンピューターではなく、閻魔様がやっていたら、小沢勝己を地獄に行かせなかったのではないだろうか。閻魔様なら、小沢勝己が殺人を犯してしまった事情も汲んでくれたようにも思う。
私がもう一度死ぬ時には、いろいろな事情を汲んで審判してくれるようなコンピューターになっていることを期待したい。でないと、私は殺人犯の小沢勝己として地獄に落とされることになるかもしれない。