天国と地獄
どれくらいの時間、意識を失っていたのだろうか、一分だったのか一日だったのか、それとも一年だったのか全く見当がつかない。
頭上に『天国行き』という文字が出た時は、自分の前を走る他の青い玉と同様に水色の道が右に折れて上昇し、それに沿ってそのまま天国へ行けるものだとばかり思っていた。
まさか『天国行き』の文字が『地獄行き審判』に変わるとは思ってもみなかった。
真っ赤な液体と共に落ちたこの場所は生暖かい湿った空気が流れていた。立ち上がり辺りを見渡してみると赤錆色一色の景色だ。床から赤い水蒸気が立ち上がっている。広い空間で天井が高く体育館のようなところだった。床は水蒸気のせいでモヤモヤとして足元がはっきり見えない。首を左右に振り視線を百八十度動かしてみた。何もない、だだっ広い空間だった。サウナにいるような熱気と湿度だ。
「次、来たね」
「そのようですね」
背中の方から声がしたので振り向いて目をこらした。だだっ広い部屋の真ん中に事務机が二つ並んでいて、それぞれの机に男が姿勢を正し座っていた。さっきの声の主はこの二人のようだ。
向かって左側に座る男は丸い顔をして髪の毛が頼りなかった。額には深い皺が入っていて年齢は私より上で、六十代くらいだろうか。まずその男が立ち上がり「ようこそ」と言って頭を下げた。
右側には色の白い細面の男が座っていた。銀縁の眼鏡をかけ、髪は櫛目がはっきりとわかるくらいの七三に分けていた。銀行員と言われれば信じてしまうだろう。眼鏡の奥に見える目は豆粒のように小さい。真面目で優しそうな中年の男だ。こっちは、私より若く四十代だろう。その男も遅れて立ち上がり頭だけを下げニヤリと笑みを浮かべた。
不気味に思ったが、人の姿を見て、少し心が和らいだ。この人たちに助けをもとめるようと、「すいません、ここは……」と言ったところで、私の体があやつり人形のように勝手にふわーっと浮いて、二人の男の前までスーっと移動していった。
二人の座る机の前まで移動したところで、浮いていた私の体は微かに赤い湯気が上がる地面に着地した。そこで、私は前に立つ二人の男の顔を交互に見た。
この時の二人の男の印象は細面の男の方がしっかりして頼りになるように見えた。
「いったい、ここはどこでしょうか」
私は広い空間を見渡しながら、あらためて訊いてみた。
「ここ、ですか？」
丸い顔の男は人差し指を地面に向けて行った。
「は、はい。ここ、です」
私も人差し指を赤い湯気の上がる地面に向けた。
「ここは地獄の入口でございます」
答えたのは、右側の細面の男だった。男は能面のような表情で言った。
「えっ、じ、地獄の入口？」
驚いて細面の男に顔を向けた。
「さようでございます。ここは地獄の入口でございます」
細面の男は言ってから、口角を上げ私を見てから、隣の丸い顔の男に視線を移した。丸い顔の男の方は俯いていた。
この男たちは一体何者なのか。ここに来る前に頭上に『地獄行き審判』と書いてあったが、今から私は、ここで地獄行きの審判を受けるのだろうか。
その後、二人の男はしばらく言葉を発しようとせず、私の頭のてっぺんから爪の先までを何度も上下に視線を這わせていた。
これが地獄行きの審判なのだろうかと思うと居心地が悪くなってきた。
細面の男は口角を上げ、にこやかな表情に変わった。これで審判の結果が出たのだろうか。にこやかな表情をしているのは、私にとって良い結果なのだろうか。
もう一人の丸い顔の男は真顔で口を真一文字にしていた。少し申し訳なさそうな顔をしている。こっちの表情を見ていると嫌な予感がする。
私は生きている間に地獄に行くようなことをした覚えはない。審判を受けること自体なにかの間違いだと訴えたかった。私は生きている間、地獄に落とされるようなことなど一切していないのだ。
地獄の審判というと閻魔様のような厳つい怪物みたいなのが現れて審判するのだと想像していたが、前の二人の男を見る限り、どこにでもいそうな中年の普通の男にしか見えない。
もしかして地獄行きの審判を受けること自体が間違いで、閻魔様に会う前に、この男たちが私を天国へ戻してくれるのではないかと期待した。
きっとこの後、閻魔様のところへ行く前に間違いがあったと、私に告げてくれるのだろう。だから、細面の男は笑みを浮かべているのだ。
「地獄行きの審判は中止なんですか？」
右側の細面の男に訊いた。地獄行きの審判は間違いで、中止になりました。あなたは、これからすぐに天国に行ってもらいます、という返事を期待した。
「地獄行きの審判ですか？」
細面の男が耳に指を突っ込みながら言った。
「はい、ここに来る前に頭の上に地獄行き審判と出て、そのままここに来たんですが」
「ああ、それね」
「そうです。そ、それ、です」
「地獄行きの審判はすでに終了していますよ」
「えっ、終了してるんですか？ いつの間にですか？」
「結果はこちらです。はい」
細面の男がそう言って机の上に置いてある紙をつまみ上げ、私の前でヒラヒラと揺らした。
私は少し前に出て、その紙に視線を向けた。そこには、『地獄行き確定』と書いてあった。
「えっ、……」
私は言葉を失った。
「この通り、あなたの地獄行き審判は、すでに終了し、確定しております」
細面の男はなぜか笑みを浮かべていた。気のせいかさっきまでの笑みとは違い、バカにしたような嫌な笑みに見えた。
「いつの間に決まってたんですか」
喉がカラカラになり、声が掠れていた。
「確定したのは、ついさきほどですね。あなたにとっては、残念な結果かもしれませんが、ご理解ください」
細面の男がそう言って慇懃に頭を下げた。
「じゃあ、私たちは座りましょうかね」
渋い表情のままの丸い顔の男が細面の男に言って、先に椅子に座った。続けて細面の男も「そうですね」と言って座った。
私は裁判所の被告人のように二人の前に立たされたままだった。
「これで、よしっと」
細面の男が、座ったと同時にさっきの『地獄行き確定』と書いてあった紙に何やら書き込んでから声を出した。
何を書き込んだのか、私は気になったので一歩前に出て首を伸ばし、紙を覗きこんでみた。
細面の男が『地獄行き確定』と書いた下の空白部分に、『バレー』と書き込んでいた。
「バレー？」
私が不思議そうに呟くと、細面の男が私を見て言った。
「あー、これですか？ これ、わたしのサインなんですよ」
「サイン？」
「はい。申し遅れました。わたしは、この度、あなたを地獄へ送る担当になりましたバレーと申します。短い時間ですが、よろしくお願いいたします」
バレーと名乗る男が頭を下げた。
「わたしは、同じくあなたを担当するサウスです。よろしくお願いします」
丸い顔の男が緊張した面持ちで言った。
「一体あなた達は何者なんですか？」
この二人の名前がバレーでもサウスでも、そんなことはどうでもいい。それより二人が何者なのかが知りたい。そしてなぜ、私の地獄行きが確定なのかを訊きたかった。それは絶対に間違いなのだから。
「私たちですか？ まー、天使みたいなものですかね」
「て、天使ですか」
私のイメージする天使とは、見た目がかけ離れていたので、余計にわけがわからなくなった。
「天国からの使いですね。わたしたちも元はあなたと同じ人間でしてね、死んでしまって、今は天国にいるんですよ。それで、あなたのように天国に入れてはいけない人物をここでふるいにかけてるわけです。あとは、あなたのように地獄行きの確定した人がスムーズに地獄へ行けるようお手伝いするため、こうして天国から来ているんです。まっ、ボランティアみたいなものですよ」
余計にわけがわからない。
「お二人が私を天国に行かせないようにして、地獄に行かせるようにしたわけですか？」
「そういうことです」
「そうです」
二人が同時に言った。
二人がなぜここにいるのかはわかった。しかし、なぜ私が天国に行けず地獄に落ちるのかがわからない。それをはっきりさせてもらわないといけない。
「私は地獄に落ちるようなことはしていません。何かの間違いです」
少し興奮してきたのか、声が大きくなった。
「すいませんが、ここでは静かにお願いしますね」
バレーが人差し指を口の前に立てた。不安からなのか、怒りからなのか、体のあちこちから汗が吹き出てきた。
「まあまあ、あなた汗が凄いですよ。あまり緊張しないようにね」
サウスが言った。
緊張しないようにと言われても、この状況で平然といれる人間なんていないだろう。
「なぜ、私がここにいなければならないんですか」
「えーと、それはですね、今からあなたは地獄へ行くわけですが、その前に地獄についての簡単な注意事項をここで聞いてもらわなけれぱなりません。そのためにここにいるんです」
「いえ、そういうことじゃなくて、……」
そういうことじゃなくて、なぜ、私が地獄に落ちなければならないのかを訊きたかったが、バレーがそれを遮って話しはじめた。
「心配しなくて大丈夫ですよ。わたしたちが責任を持ってあなたを地獄へ送りますので、安心してください」
「いやいや、そういうことじゃないんです」
私は右手を激しく横に振った。声が枯れてきた。
「先輩、そろそろはじめていいですかね？」
私を完全に無視してバレーがサウスに向かって訊いた。
「そうですね、時間もありませんしそろそろお願いできますか」
「わかりました。では、さっそくはじめさせていただきますね」
バレーが椅子から立ち上がり、机の前に出て私の方へ向かってきた。
「いやいや、ちょっ、ちょっと待ってくださいよ」
私に向かってくるバレーに両手を前に出して制した。
「そんな嫌がらずに、すぐに終わります。ちょっとした地獄行きの準備だけですから」
「いやいや、その準備がいらないと思うんです」
「いらないと言われてもねー。ちゃんと準備しておかないと、地獄に行った時に困るのは、あなたですよ」
バレーがそう言いながら私の前まできた。
「私が地獄行きのはずがないんです」
「はいはい、わかりました。じゃあ、これね」
バレーが、また私を無視して机の横に置いてあったプラスチックのカゴとバケツを私の足元に置いた。
私はそれに視線を落とした。なんの変哲もないどこにでもある洗濯物を入れるようなカゴと雑巾がけする時に使うような青いポリバケツだった。
「これ、何ですか？」
「今着てる服を全部脱いでそのカゴに入れて下さい。あなたが地獄に行った後でその服は焼却しますのでね。そのポリバケツは後で説明します」
「えっ、こ、ここで素っ裸になるんですか？」
私はバレーの顔を見ながら訊いた。
「そうです。今からあなたはあの穴から地獄に落ちてもらいますのでね、もう服は必要ないですから」
バレーが左後方を指さした。指さす方向に視線を向けると、そこには床に大きな穴がぽっかりとあいていた。その穴は直径三メートル位あり穴の周りに岩が積んであって、露天風呂のようなものだった。その穴から赤い湯気が激しく立ち上がっていた。穴からはお湯が沸騰するようにボコボコと音をたて赤い液体が溢れ床に流れ出ていた。
「私があそこに？」その大きな穴を指さした。
「そうです。あそこが地獄の入口なんですよ。あそこに入ると、あなたの体は一気に穴の底へと沈んでしまいます。あの穴は地獄に繋がってますので、あの穴に入るだけで、あなたはそのまま地獄に行くことができます」
バレーが言い終わってから口角を上げた。
「地獄なんて嘘でしょ。冗談はやめてください」
私は訴えたが、バレーは聞く耳を持たずに私の地獄行きの準備を進めていった。
「これからあなたが行く地獄は、泥沼のような世界です。あなたはこれから先、その泥沼の中で毎日生活することになります。そして、そこで生活する上で問題になるのは、その泥が毎日少しずつカサを増していくということです。そこでそのまま放っておくと、あなたの体は泥の中に沈んでしまいます。そうなってしまうとあなたは、泥に埋もれて身動きがとれなくなってしまいます。そうならないために、あなたはこれから毎日、カサを増す泥を掬い続けなければなりません。そのために必要なのが、このバケツです」
バレーがそう言って私の足元に置いてあるバケツを顎で差した。
「このバケツで泥を掬うんですか？」
「そうです。自分の体が泥に埋もれないようにしないといけませんからね。そのためにこのバケツが必要なんです。それと服を着ていると、泥が服にまとわりついて泥を掬う作業の邪魔になりますので、地獄に行く前にここで服を脱いでもらうのです」
「泥を掬ってからはどうなるんでしょうか」
私は泥を掬いきってしまうと地獄から脱出出来るのではないかと期待し、そう質問すると二人は顔を見合わせて首を傾げた。
「どうにもなりませんが」
バレーが抑揚のない声で私に向かって言った。
「どうにもならない？」
「はい、泥は毎日ドンドン増えてきますから、掬っても掬ってもキリがないんです。延々と泥を掬う作業を毎日繰り返すだけのことです。だから、どうにもなりません」
「そんなことして何の意味があるんですか？」
「何の意味？ そりゃあ生きている間にやった悪事への罪滅ぼしですよ」
バレーがニヤリと笑った。
「ちょ、ちょっと待って下さい。生きている間の悪事への罪滅ぼしといっても、私はそんな悪事は働いておりません」
声は枯れているが自然と大きくなった。
「少し、静かにお願いします」
サウスが表情を変えずに言った。
「ここに来る人は皆さん、そうおっしゃるんですよ。でも残念ですが、決まったことですし、諦めてください」
バレーが眉をハの字にして頭を下げた。
「私が生きている間の何がいけなかったのですか？ それを説明してもらわないと地獄に落ちることに納得がいきません」
「仕方ないですね。それならオザワさん、今からあなたが生きていた頃の悪事について説明しますから、少し落ち着いてください」
バレーがそう言ってから、椅子に座り直し机の上にある資料をパラパラとめくりはじめた。
サウスは隣で唇を尖らせていた。
「待っている間、コーヒーでも飲みますか？」
バレーが資料をめくる手を止め、顔を上げ、私に向かってニコニコと笑みを浮かべてきた。
「コーヒーなんて飲む気になれませんよ。それに私はオザワではなくてオオサワです」
私はバレーの呑気な対応にカリカリしてきた。
「じゃあ、私はコーヒーでも飲みますね。先輩はいります？」
バレーがサウスに訊いた。サウスは左手を横に振っていらないと言った。
バレーは立ち上がり、後ろにあるコーヒーサーバーからコーヒーをいれはじめた。
「お二人とも本当にいらないんですか？」
バレーがコーヒーをカップに注ぎながら言った。
「……」
私は腹が立ってバレーを無視した。サウスもバレーを無視していた。
「じゃあ、わたしだけいただきます」
バレーはそう言って、コーヒーカップを机に置き椅子に座り直した。
「早くしましょうか」
サウスが少し苛ついた様子だった。
「はいはい、では、説明しますね」
バレーはコーヒーを口にしながら、資料に視線を落としていた。
しばらくして、バレーが顔を上げて、私に視線を向けた。
「それでは、あなたが地獄行きに決まった理由を申し上げますね」
そう言ってから、バレーは咳払いして、またコーヒーを口にした。
なぜ、こんな時にコーヒーなんて飲んでいられるんだ、と腹が立った。
「はい」
怒りをグッと堪え、顎をひいて返事をした。地獄に落ちるようなことはやっていない自信はあるが、やはり緊張した。一体何が地獄に落ちる理由なんだ。神に誓って地獄に落ちるようなことはしていない。
「えー、まず、ですね」
バレーがそう言って、唇を舐めてからまた資料に視線を落とした。それから「うーん、これで決まりですかね」と続けた。
何がこれで決まりなんだよ、早く言えよと心の中で叫んだ。
「一番の理由は、やはり殺人、これですね。残念ですが、これだけで決まりです」
バレーが表情を消して言った。
「私が殺人？」
私の声が裏返ってしまった。
「はい、殺人です。やはり、人を殺しているなら地獄行きは仕方ないですね」
バレーがコーヒーカップを持ったまま笑みを浮かべた。
「ま、待ってください。殺人なんて、全く記憶にありません」
バレーの座る机の前まで行って訴えた。
「殺人だけで充分地獄行きが決まりですが、あなたはそれ以外にも傷害事件も起こしています」
バレーが私の抗議に耳を貸すことなく、椅子の背もたれに体を預け淡々と話した。
「本当に待ってください。殺人や傷害なんて、私には全く身に覚えがないことなんです」
「あれー、忘れちゃいましたかねー。たまにいるんですよ、そういう人」
バレーがコーヒーカップを手にしたまま笑いながら言った。そしてまたコーヒーを口にした。
こいつを殺してやりたくなった。殺人を犯して忘れる奴なんて、いるわけないだろ。それに私が殺人なんてするわけがない。コーヒーなんて呑気に飲んでる場合じゃないだろ。私はバレーのコーヒーを飲む姿を睨みつけた。
「次が詰まってますから、さっさと進めましょうか。早く着ている服を脱いでください」
バレーがそう言ってから、コーヒーを飲み干して腰を上げた。
「何かの間違いです」
私は涙声で訴えた。
「じゃあ、服を脱ぎましょうか」
バレーが私に向かって来た。
「ま、待ってください。本当に殺人なんてしていません。絶対に間違いです。しっかり調べてください」
私は後ずさりしながら、近づいてくるバレーの肩を押した。そんなに力強く押したつもりはなかったが、バレーはその拍子に体制を崩し尻餅をついた。
「イタタタタ」
尻餅をついたバレーが腰をさすりながら顔をしかめて私を睨んできた。
「あなた、やっぱり凶暴ですね。ここで暴れたら、地獄行きよりもっと酷い目に合うことになりますよ」
バレーが眼鏡の奥の小さな豆粒のような目をつり上げた。地獄行きより酷いことがあるのかと訊いてみたくなったが、そんなことは、この際どうでもいい。これは完全な冤罪だ。何とか地獄行きを阻止しなければならない。
「私は生きている間、殺人なんてした覚えはありません」
「まだ、認めないの。ハァー、困った人だねぇー」
立ち上がったバレーが腰をさすりながら、大きくため息を吐いた。
「認めないもなにも殺人なんてしていません。間違いです。信じて下さい」
「あなたが忘れたい気持ちはわかります。その時はあなたもまだ未成年でしたし、あなたに殺された男にも問題がありましたからね。同情の余地は十分あります。でもね、やっぱり殺人はダメなんです」
バレーが声を湿らせて言った。
「だから、知らないって言ってるじゃないですか」
私がそう言うと、バレーはじっと私の目を見つめた。唇を噛みしめ辛そうな表情を浮かべていた。
「本当に覚えてないんですか？」
「覚えてないんじゃなくて、やっていないんです。いい加減にしてください。私が一体誰を殺したっていうんですか」
息が荒くなってきた。
「あなたのお父さんですよ」
バレーが唇を噛みしめて目を閉じた。
「あなたのお父さん？」
あなたのお父さんとは私の親父ということなのか。私は首を傾げるしかなかった。親父は私が小学生の頃に亡くなっている。しかし、それは病気で亡くなったはずだ。私は何度も病院へ見舞いに行ったし、亡くなる時も母親といっしょに父親の手を握りながら涙を流していたから覚えている。
「あなたは、十五歳の時に実の父親を殺害していますよね」
バレーが神妙な声で資料に視線を落としたまま言った。
「知りません。全く記憶にありません。私の父親は私が小学生の時に病気で亡くなっています。私が十五歳の時に父親を殺害したなんて、全くのデタラメです」
「本当に忘れてしまったんですね」
バレーが顔を上げてため息を吐いた。
「忘れるも何も私は父親を殺していませんから」
「あのね、オザワさん。申し訳ないですけど、あなたがどんな言い訳をしても地獄行きは決まったことです。残念だけど、変わることはありません。諦めて早く先を進めましょう」
「これから閻魔様が出てきて、最後の審判をするんじゃないんですか？」
ここでダメでも閻魔様に話せばわかってもらえると思った。
「それは、昔のことです。今はコンピューターのおかげで、あなたがここ来るまでに判決は出ちゃってるんですよ。閻魔様の判決が無くなって早くて便利になりました」
バレーが言った。
「それじゃあ、コンピューターに誤作動か何かがあって、この審判に間違いがあったんじゃないですか。コンピューターが間違ったんですよ。すぐに審判をやり直して下さい」
私は必死で訴えた。
「閻魔様が審判していた時代は、閻魔様の気分や体調次第で、いい加減な審判もありましたし、明らかに間違ってることもありましたが、今はコンピューターがやっているわけですから間違えることはないんです。なので、あなたが嘘をついているか、本当に記憶が失っているかのどちらかです。あなたにとって辛い過去なので記憶が失われてもやむを得ないとは思います」
バレーが眉をハの字にして私を見てから、饒舌に続けた。
「閻魔様の時代かー。懐かしいなあ。あの頃は閻魔様の機嫌をとるのが大変でした。機嫌が悪いと、誰でも彼でも地獄行きでしたからね。こうしてのんびりしてられませんでした」
バレーが笑みを浮かべサウスに向かって言った。
「のんびりしているのは、あなただけです」
サウスがバレーにキツイ視線をぶつけた。
「今日の先輩は、いつもと違ってこわいですね。なんかピリピリしてますよ。嫌なことでもありましたか？ 奥さんと喧嘩したとか」
「嫌なことなんてありません。わたしはいつもと変わりません。あなたが呑気すぎるから、苛ついてるだけです」
そこはサウスの意見に賛成だ。人ひとりを地獄に落とすかどうかという時にのんびりコーヒーなんて飲みやがって、何が閻魔様の時代が懐かしいなあ、だ。
「コンピューターが間違えるわけないって言ってますが、現に間違えてるんです。私は殺人なんてやっていません。父親を殺してなんていません。調べ直してください」
サウスの方に必死で訴えた。悔しいからか、悲しいからかわからないが、ずっと涙が止まらなかった。
サウスは私の目をじっと見ていた。その目は少し潤んでいた。このサウスという男ならわかってくれるかもしれないと思った。
「オザワさん、今さら審判を覆すことは出来ません。早く服を脱いで準備して下さい」
バレーが冷たい口調で言った。なにがオザワさんだ。違うと言っただろ。
「さっきから、オザワさんと言ってますが、私はオザワではなくオオサワです」
腹が立ってつい強い口調になった。
「オオサワさんですか。それはそれは失礼いたしました。この資料の名前は訂正しておきますね。オザワカツキさんではなくて、オオサワカツキさんでよかったですね」
「下の名前はカツキではなくてカツオです。私はオオサワカツオです」
「オオサワカツオさん？ あれー、名字も名前もちょっとずつ間違えてましたね。じゃあちゃんと修正しておきます。それからあなたが亡くなった場所はワカヤマ県ですね」
「いえ、ワカヤマ県ではなくてオカヤマ県です」
間違いだらけにため息が出た。そこでふと思った。もしかすると私は今別人と間違えられているのではないか。名字も名前も死んだ場所も少しずつだが違っている。
「名字も名前も亡くなった場所も少しずつ間違えちゃってますねー。不思議だなー」
バレーが笑いながら言った。
私の頭に血がのぼっていった。こいつを本気で殺したくなった。
「少しずつ間違えちゃってますねー、じゃないですよ。不思議だー、じゃないですよ。これって、私の資料と他の誰か別人の資料と間違ってるんじゃないですか」
体が熱くなっているのがわかった。
「もしかして、この人の言う通り資料を間違ってるんじゃないですか？」
サウスがバレーに言った。
「いやー、そんなはずないと思うんですけどねー」
バレーが首を傾げた。
サウスは眉間に皺を寄せバレーを睨み、睨まれたバレーは「あれー、おかしいな」と言って頭を掻いた。
なにがコンピューターだから間違わないだ。最初から資料が間違ってるんじゃないか。それだとコンピューターの審判以前の問題だ。
一体どこで間違えたんだ。オオオサワカツオとオザワカツキ、オカヤマとワカヤマ。
きっと、和歌山県にオザワカツキという男がいたのだろう。その男が殺人を犯したのだ。そしてそいつが地獄に行く予定だったのだ。
ここへ向かう途中に上空で和歌山県の辺りから上がっていく青い光のことを思い出した。きっとあの光が殺人犯のオザワカツキという男だ。
その後、サウスが資料を見ながら、バレーの耳元で何やらコソコソと話をしていた。何をコソコソと話をしているんだ。早く私を天国に行けるようにしてくれ。イライラして貧乏揺すりをしながら、二人を睨みつけた。
コソコソと話すのが終わるとサウスが席を立ち、部屋の奥にある扉に向かって歩きだした。
「ちょっと、どこに行くんですか。逃げないで、ちゃんと説明して下さい」
サウスの背中に向かって怒鳴った。
「逃げるわけじゃないんです。あなたの言う通り資料が入れ替わってしまったようなので、今から今回のミスについて、あの人が我々の上司に報告に行くところです。この先、どうするか指示を仰ぐんです。申し訳ないですが、しばらくお待ちいただけますか」
バレーが眉をハの字にして言った。
「そうですか。じゃあ、私は地獄に行かなくてすむんですよね。天国に行けるんですよね」
「それについては、まだわかりません。上司の指示次第ということになりますね」
バレーが申し訳なさそうな表情で言った。
「指示次第？ 馬鹿にしないで下さい。これは完全な冤罪ですよ。私を天国に行かせなきゃダメでしょ」
私はバレーの座る前まで行ってテーブル叩いた。
「まあまあ、落ち着いて下さい。ゆっくり朗報を待ちましょうよ」
そう言いながら、バレーはまたコーヒーをいれていた。
バレーがサウスが座っていた椅子を私に渡してくれたので、とりあえずそれに腰を下ろした。
まだ、どうなるのかわからない不安はあるが、資料が間違いとわかって少し気持ちは落ち着いた。椅子に座った瞬間に体中の力が抜けた。
「大変な目にあいましたね」
バレーが他人事のように言うのでイラっとしたが、「ええ」とだけ返しておいた。
「お疲れでしょうから、コーヒーでもいかがですか？」
コーヒーと煙草がほしい気分だった。
「そうですね、コーヒー、いただきます。煙草はないですか？」
「煙草ですか、私は吸わないんですが、この人は吸ってますので、あると思いますよ。ちょっと待って下さい。探してみます」
バレーがそう言って、サウスの座っていた足元に置いてある鞄の中を探りだした。きっとサウスの鞄なのだろう。
地獄行きの審判をするような人が他人の鞄を探るのはどうかとも思ったが、一応、私の為にやってくれているのだと思い目を瞑った。
「ありました、ありました。はい、どうぞ」
バレーが鞄から取り出した煙草を箱ごと私の前に出した。一本でよかったのにと思った。
「そんな、一箱もいいですよ。一本でいいです。箱ごと勝手に取ったらマズイですよ」
「大丈夫ですよ。この人、ヘビースモーカーでね、鞄にたくさん煙草が入っているんですよ。だから一箱くらい無くなっても気づかれません。ほら」
そう言って鞄の口を大きく広げて私の方に向けた。鞄の中を覗いてみると、確かに煙草の箱が十箱以上は入っていた。
「本当ですね。鞄の中はほとんど煙草ですね」
「そう。だから、一箱くらい無くなっても。この人は気付きませんよ。きっと今頃、この人もどこかで一服してると思いますよ」
バレーがそう言って煙草を吸う仕草を見せた。
私のことを上司に報告に行ってくれたんじゃないのか。煙草を吸ってる場合じゃないだろ、と思った。
「資料が間違いだったと上司に報告に行ってくれたんじゃないんですか」
「その前に一服でしょ。報告はその後、ちゃんとしてくれると思いますよ」
「そうですか。それならいいんですが……」
「ミスを上司に報告に行くわけですからね、あの人も緊張するんだと思いますよ。多分違うとは思いますけど、もし私たちのミスだったら、えらい怒られますからね」
あんたらは怒られるだけだろうが、私は地獄に落とされるところだったんだぞ、と怒りがわいてきた。
この煙草一箱くらいもらう権利は充分にある。そう思って煙草の封を開け一本を抜き取った。
「ライターと灰皿ってありますか？」
煙草を咥えて訊いた。
「ライターは鞄の中にはありませんでしたね。灰皿もここにはありません。一応ここは禁煙なもんでね」
「えっ、ここは禁煙なんですか。じゃあ、吸えないじゃないですか」
「別にいいですよ。あの人もここでよく吸っていますから。ライターがないなら、あそこにいって赤い湯気に煙草を近づけるとすぐに火がつきます。それからあの地獄行きの穴を灰皿代わりに使ってくれればいいですよ」
バレーは地獄に落ちるという大きな穴を指差して言った。
「あそこで吸うんですか？」
私は大きな穴に視線を向けた。
「ええ、そうです。落ちないように注意して下さいね。落ちちゃうと、そのまま地獄に行ってしまいますからね」
「わ、わかりました」
私は立ち上がり穴の方に歩いて行った。
穴に近づくと、ボコボコという音が不気味に大きく聞こえてきた。穴の前に立つと熱がすごくて火の前に立っているようだった。顔中から汗がダラダラと吹き出てきた。
「危ないですから、顔は近づけないで、手だけを伸ばして煙草の先を近づけてくださいね。それで充分火がつきますから」
バレーが叫ぶように言った。
煙草を吸う環境ではないと思ったが、とりあえず咥えていた煙草を右手に持ちかえて、右手を伸ばし立ち上がる赤い湯気に煙草の先を近づけた。するとすぐに「ボッ」という音がして、煙草の先に火がついた。
「火がつきましたね。そうしたら、穴から少し離れて吸ってください。灰と吸い殻は、そのまま穴に捨ててくれればいいですから」
「そんなことしていいんですか。穴の中に人がいるんですよね」
「いますけど、地獄に落ちるような人ですから気にすることはありません。泥の中に吸い殻が混じる程度のことですよ」
「そ、そうですか。じゃあ、そうさせてもらいます」
少し気は引けたが、言われた通りにすることにした。
私は思いっきり肺の奥まで煙を吸いこんだ。肺に煙が入る感覚がして、少し気持ちが落ち着いた。久々の煙草に頭がクラクラした。
「コーヒー、ここに置いておきますよ」
バレーがコーヒーカップを机の上に置いてくれた。
「ありがとうございます」
礼を言ってから、煙草を吸い続けた。赤い湯気に混じり紫煙が上っていく。
コンビニの駐車場で煙草を吸っていた時のことを思い出した。
あんな所でコソコソと煙草なんて吸わなければこんなことにならなかったのに、まっすぐ家に帰ればよかったと後悔した。
沙知絵と柚菜の顔が頭に浮かんだ。沙知絵と柚菜は今頃、どんな気持ちでいるのだろうか。
私が死ぬ瞬間の病室での二人の表情を思い浮かべた。さほど悲しんでいるようには見えなかった。どちらかと言うとほっとしたように見えた。きっと私が死んで良かったと思っているのだろうと思った。
この先、私はどうなるのか、まだ不安はあるが、殺人の容疑が晴れて少しだけ光明がさしたことは確かだ。きっと、この後、天国に行けるだろう。
煙草を吸い終わってサウスが帰ってくるのを待つ間、椅子に座りバレーがいれてくれたコーヒーを口にした。意外と本格的で豆の香りがする美味しいコーヒーだった。気持ちが落ち着いて、フゥーと息を吐いた。
少しぬるくなった最後の一口のコーヒーを飲み干して、コーヒーカップを机の上に置いた。ちょうどそのタイミングで、奥の扉が開いてサウスの姿が見えた。少し足取りが重そうだった。近づいてきたサウスの顔を見ると、眉間に皺を寄せ唇を尖らせていた。サウスの浮かない表情に嫌な予感がした。
「すいません。待っている間、椅子を借りていました」
私は椅子から立ち上がり、元の場所に戻した。
「ああ」
サウスは、気のない短い返事をして、俯いたまま椅子に腰を下ろした。
「どうでした？」
バレーがサウスに訊いた。
「やっぱり、人違いだった。同時刻に、この方と同じようにトラックに跳ねられて亡くなった男がいた。年齢はこの方と同じ五十歳。名前が小沢勝己、和歌山県に住んでいる男のようだ。その男のデータとこの方のデータがどこかで入れ替わってしまっていたようだ」
「どこで入れ替わったんでしょう？」
バレーがサウスに訊いた。
「最初の仕分けの時か三途の川を渡る前のどちらかだな」
サウスが顔をしかめたまま言った。
「そうですか。それなら、わたしのミスではありませんから良かったです。最初の仕分けの時と三途の川を渡る前のチェックの時のどちらかもわたしは携わっていませんから。最初の仕分けは仕分け担当がやっていましたし、三途の川を渡る前のチェックの時は、先輩が一人でやるからと言って、わたしはやってないですからね。今回の三途の川を渡る前のチェックは、先輩が全てやっていますよね。仕分け担当か先輩のどちらかのミスです。わたしは全く関係ありません」
何が、良かったです、だ。こっちの身になってみろ。凶悪犯と間違えられて、地獄に落とされそうになったんだぞ。私が何も言わなければ、無実の人間をそのまま地獄に落としてしまっていたんだぞ。少しは反省しろよと思った。
「確かに仕分け担当のミスか私のミスのどちらかだ。しかし、間違いがあったことは君も反省しなければいけない」
サウスはそう言って口元を歪めた。
「まあ、そうですけど。何度も言わせてもらいますけど、今回、三途の川を渡る前のデータを取ったのは私じゃなくて先輩ですからね。先輩が一人でやると言ったんですよ。そのことはちゃんと上に報告してくださいね」
バレーはそう言って唇を尖らせた。
「わかった。報告しておく」
「これで、私は天国に行けるわけですか」
この男たちの責任問題なんてどうでもいい。早く私を天国へ連れて行ってくれ。
「まあ、そこなんですが、実は、困ったことになっています」
「困ったこと？」
私はサウスの表情を見て不安な気持ちが膨らんでいった。
「そうなんです。実はですね、地獄に落ちるはずだった小沢勝己という男は、すでに天国に行ってしまったみたいなんです」
「えー、凶悪犯が天国に行ってしまったんですか。そりゃあ、まずいですね。天国の治安が心配ですよ。絶対天国からすごいクレームがきますよ。天国の担当者は、口うるさいですからね」
「今、そのことで、上は頭を悩ませているんだ」
そんなことより、私はどうなるんだ。私も早く天国へ連れて行ってくれ。
「この方はどうなるんですか？ 今から天国に行かせるんですか？」
バレーがやっと私のことを訊いた。
「うーん」
サウスが一段と渋い表情をした。
「どうしました？」
「あなたを天国に行かせるためには、天国に今回のミスのことを報告しなければならないのですが、そのことで困っているんです」
サウスは腕を組んで天を見上げた。
「なるほど、天国の担当者は、まだこのことを知らないわけですね。こりゃあ、厄介ですねー」
バレーは目を大きく見開いた。
「今のところ天国の担当者は気づいていない。だから天国には報告せずこのままにしろというのが上からの指示なんだ」
サウスがバレーに向かって小声で言った。
「て、ことは、この方は地獄に行ってもらうということですか？ それでなにもなかったことにするわけですか。それはこの方が可哀想過ぎますね」
バレーがサウスに訊いてから、私に視線を向けた。私を哀れむような目だった。
「まあ、上の判断はそういうことだ。天国には今回のミスを知られたくないみたいだからな」
いやいや、ちょっと待ってくれよ。生きている間に理不尽なことがたくさんあったが、それ以上に、今回のこれは理不尽過ぎる。それを通り越して、もうめちゃくちゃだ。
死んでまで何故こんな理不尽な思いをしなければならないのだ。生きている間の理不尽さは諦めて我慢してきたが、こればっかりは諦めるわけにはいかない。
私は絶対に地獄には行かない。地獄で泥を掬い続けるなんてまっぴらごめんだ。それも赤の他人の身代わりになってなんてバカにしている。
「じゃあ、どうします？」
バレーがサウスに小声で訊いた。
「うーん」
サウスは腕を組んで唸るだけだった。
「今の私たちの話、もちろん聞こえてましたよね？」
バレーが今度は私の顔を覗きこむようにして訊いてきた。
「ええ、もちろん聞こえてますよ。私は絶対に地獄に行かないですからね。すぐにその小沢という男と入れ替えてください。天国に連絡してその小沢勝己という男を地獄に落として下さい。そして私を天国へ連れて行って下さい」
私は唾を飛ばし訴えた。
「地獄も行ってみると意外といいところですよ。一度行ってみてはいかがでしょう？」
バレーが笑みを浮かべて言った。
こいつ、いい加減にしろよ。温厚な私でもさすがに腹わたが煮えくり返った。
「絶対にダメです。すぐに小沢勝己という男と入れ替えてください。でないと訴えますよ」
私は立ち上がり無意識にバレーの胸ぐらを掴んでいた。
「訴えるって、どこに訴えるの？ そんな訴えるとこなんて、ここにはないよ」
バレーが逆ギレして胸ぐらを握る私の手を叩いた。
「地獄に落ちてから、そこで、今回のミスのことを訴えます。あなた方が間違っていたのに、ミスを隠蔽するために私を地獄に落としたことを」
「だ、か、ら、地獄には、そんな訴えるようなところはありませんよ。一人孤独に泥を掬い続けるだけなんですから、誰とも会うこともないですし話すこともありません。残念ですね」
バレーが馬鹿にするように眉をハの字にして言った。
それなら絶対に地獄に落ちるわけにはいかない。こいつらは今回のミスを闇に葬ろうとしているわけだ。絶対にここで、食い止めなければならない。
「なんとかしてくださいよ。ミスしたことを天国に報告しにくい気持ちは何となくわかります。けど、あなた方はそのせいで地獄に落ちる私のことを考えてくれていますか？ 無実の人間を地獄に落としてしまう罪の意識とかないんですか」
サウスは少し俯いて目を閉じて口元を歪めていた。バレーは両手を後頭部に当て宙に視線をやった。沈黙の時間が続いた。しばらく地獄の穴からボコボコという音だけが響いていた。
サウスが顔を上げた。フゥーと息を吐いた。
「オオサワさんでしたかね」
沈黙のなかサウスの低い声が響いた。
「はい、そうです」
「この度はご迷惑をおかけしました」
サウスが立ち上がり深々と頭を下げた。
「なんとかなりそうですか？」
「今、いろいろと良い方法がないかと思案してみました」
「はい」
「天国に今回のミスを報告せずに、あなたが地獄に落ちなくてすむ方法が一つだけあります」
サウスが人差し指を一本立てた。
「ほ、本当ですか。そ、それはどんな方法なんですか」
私はサウスの前に行って、サウスの両肩を持って揺らした。
「まあまあ、落ち着いて下さい」
「こんな状況で落ち着けるわけないですよ」
私の息は荒くなっていた。
「そりゃ、そうだよね」
バレーが後頭部に両手を当てたままこっちを見て笑みを浮かべながら言った。バレーの言動の一つ一つが癇に障った。
「で、どんな方法なんですか？」
「今から説明します」
サウスが背筋を伸ばして椅子に座り直した。
「は、はい」
「この方に椅子出してあげて」
サウスがバレーに向かって言った。
「椅子ですか？」
バレーがそう言って部屋の中をを見渡した。
「あなたの椅子を貸してあげなさい」
サウスがバレーの座る椅子に視線をやった。
「ああ、こ、これをね」
バレーが自分の座る椅子に視線を落とした。
「そう、この方、無実なんだから、立たせておくわけにいかないでしょ」
「じゃあ、私が立ってるわけ？」
「そう、しばらくだから、それくらいいいでしょ」
そんなことより、早く説明してくれよと思った。バレーもさっさと椅子をこっちに渡せよ。
「はいはい、わかりましたよ」
バレーが不承不承といった感じで立ち上がり椅子を持って私の横に置いた。
「どうぞ、おかけくださいな」
バレーが椅子の座面をポンポンと叩いた。
「では、失礼します」
私は椅子に腰を下ろした。立ったままでもよかった。それより早くサウスの話が聞きたかった。
「では、説明致します」
サウスがテーブルに両肘を置いてから唇を噛みしめた。
「お願いします」
私は背筋を伸ばしサウスの丸い皺まみれの顔をじっと見た。
「まず、今回の件は我々だけの秘密にしておいて下さい」
「わ、わかりました。けど、内容にもよります」
「そうですね。では、説明します」
「はい。早くお願いします」
「まずですね、天国に今回のミスを報告しないとなると、本来地獄に落ちる予定だった小沢勝己を天国から連れ戻し地獄に落とすことは出来ません」
凶悪犯をそのまま見逃すつもりなのかと腹が立ったが、それよりも自分のことがどうなるかが先決だ。
「アララ、小沢勝己という男はラッキーですよね」
バレーが立ったままコーヒーを飲みながら言った。
「仕方ないだろ」
サウスがバレーの顔を睨みつけた。
「そ、そうですね。こうなってしまうと、わたしたちにはどうすることも出来ないですからね」
バレーにいちいち口を挟むなと忠告したい気分だ。早く私がこの後どうなるのか教えてくれ。
「あなた、少し席をはずしてもらえるかな」
サウスがバレーに言った。
そうだ、こいつは邪魔だ。出て行ってもらうべきだ。
「わたし？」
バレーが自分の顔に人差し指を向けた。
「そう、休憩してきていいから、少し出ていってくれるかな」
「あ、そうですか。じゃあ、遠慮なく休憩してきますね」
バレーは踵を返し出口へと向かった。
「十分したら戻ってきて下さい。次がありますからね」
サウスがバレーの背中に向かって言った。
「たったの十分ですか？」
バレーが振り返って言った。
「じゃあ、二十分」
サウスが人差し指と中指を二本立てて吐き捨てるように言った。
「わかりました。それでは失礼しまーす。あなた頑張ってね」
バレーが私に向けてピースサインを出して、奥の扉へと向かって行った。
サウスはバレーが扉から出ていくのを確認してから、私に向き直った。
「それでは、説明いたします」
サウスが椅子に座り直し姿勢を正した。
「は、はい」
「まず」
サウスはそう言って、立ち上がり口元を引き締め私の目をじっと見た。そして続けた。
「あなたにお詫びします。私どものミスでご迷惑をおかけし、本当に申し訳ございませんでした」
サウスは深々と頭を下げた。
この人は、バレーと違って、まだまともなんだな、と思った。
「あ、はい。頭を上げて下さい。謝ってもらうより、この先、私がどうなるのかが早く知りたいです」
「そうですね。それがですね」
サウスは立ったまま頭を掻いて少し言いにくそうにしていた。
「とりあえず、座って下さいよ。あなたが立っていると私も落ち着きません」
「そうですか、なら、遠慮なく座らせていただきます」
そう言ってサウスは椅子に腰かけた。その後、フゥーと太い息を吐いた。その様子を見て嫌な予感しかしない。
「小沢勝己という男が天国に行ってしまっていますので、彼を天国から引き戻しあなたを天国に送るのは至難の技です。その件については本当に申し訳ないです」
サウスは唇を噛みしめた。
至難の技というより、天国にミスを報告したくないだけではないのか、と怒りがこみ上げてきた。
しかし、天国に報告したくないのは、前に座るこの男ではない。この男は板挟みになっているだけなのだろう。
「私は天国に行けないんですか？」
「そういうことになります」
「これから、私はどうなるんでしょうか」
「このまま地獄に落ちてもらえば、済む話なんですが、……」
おいおい、済む話じゃないだろ。私は生きている間に地獄に落ちるような悪事はしていないんだぞ。結局、話が元に戻っているだけじゃないか。
「それはおかしいでしょ。なんで私が地獄に落ちるんですか」
私は立ち上がってサウスの胸ぐらを掴んだ。こいつもバレーと同じじゃないか、と思った。
「ま、待って下さい。落ち着いてください。わかっています。あなたを地獄に落とすことは絶対にいたしません。あなたを地獄に落とすことは、私にとっても辛すぎます」
「じゃあ、どうするおつもりですか？」
サウスの胸ぐらを掴む手を少し緩めた。
「あなたには、生き返ってもらおうかと思っています」
「生き返る？」
「そうです」
「私が？」
自分に人差し指を向けた。
「はい」
「えっ、そんなこと出来るんですか？」
「ええ、あなたは三途の川は渡ってしまいましたが、まだ天国にも地獄にも行っていません。このまま戻ることは不可能ではありません。生き返ってもう少し人間として、人生を続けてみませんか？」
「それがあなたの提案ですか？」
「私の出来ることはそれくらいなんです」
「生き返る、ですか？」
私は小声で呟いた。
「ええ、悪い話じゃないと思います。生きている間に、まだ、やり残したこともあるでしょうし、家族もあなたが死んでしまい悲しんでいます。生き返れば、また人生を謳歌できますし、家族も喜んでくれるはずです」
私が生き返って沙知絵と柚菜が喜ぶのかは疑問だが、もっと人生を楽しみたい気はする。地獄に落ちるよりは遥かに魅力的な提案だ。
「わ、わかりました。でも、死んでしまった人間が生き返るとなると、いろいろ大変なことになるんじゃありませんか。もう、私のお通夜とか告別式とか終わってるかもしれません。もしかしたら、私の体はすでに焼かれているのではないんですか」
「その心配はありません。今のここでの時間は、現世では止まった状態になっています。ですから、今あなたが生き返れば、あなたは病院で息を引き取る寸前のところに戻ることになります。ですから、息を引き取る寸前で蘇生したとお医者様もご家族の方もきっと手を叩いて喜んでくれるはずです。ご家族の方はお医者様に感謝し、お医者様は充実感でいっぱいな気持ちになることでしょう」
サウスがおだやかな笑みを浮かべて話した。
息を引き取る寸前の病室の風景が頭に浮かんだ。イケメンの医者、ベテランの看護師、そして沙知絵と柚菜。私が目を覚ましたら、四人の表情はどう変わるのだろうか。
なるほど、それなら生き返ってみようかという気持ちになった。沙知絵と柚菜がどう思うのかが気になるが、それは、今、気にしても仕方がない。
「では、生き返るということでお願いできますか」
「わかりました。それでは、あなたは生き返るということで手続きを進めさせてもらいます。もう少しだけ時間を下さい」
サウスはそう言って踵を返し、後ろの扉へと歩きだした。ちょうどその時、扉が開いて、バレーが部屋に入ってきた。
「あっ、終わりましたか？」
バレーが部屋に入ってきて、サウスの顔を見て言った。
「あなた、戻ってきましたか。ちょうどよかった」
「どうしました？」
「この方を生き返らせることに決めました」
サウスが私の方に振り返り視線を向けた。
「そうですか、あの方は生き返るわけですか」
バレーもこっちに視線を向けた。
「そうです。今からその手続きをお願いできますか」
「手続きですか？ わたしは何をすればいいんですかね」
「簡単なことですよ。今から資料室に行って、この方の、大沢勝男さんの資料を取りに行って来てください。そして、代わりに、この小沢勝己の資料を資料室に置いてきてください。それが終わったら、大沢勝男さんの資料を持って、蘇生の受付窓口に提出してください。蘇生窓口が、大沢勝男さんの資料を受け取り『承認』のスタンプを押したその瞬間に、この方、大沢勝男さんは生き返ります」
「それなら、簡単そうですね。じゃあ、わたし、今からいってきますね」
「お願いします。寄り道せずに、すぐに資料室に行って蘇生の受付窓口に向かって下さいよ。資料を無くしたら大変なことになりますからね。それから資料は絶対に間違えないようにして下さいね」
「わかってますよ。子供の使いじゃあるまいし」
バレーが唇を尖らせた。
バレーが跳ねるようにして奥の扉に向かった。扉を開けて出ていく前に、私の方に振り返り、私に向かって「よかったですね。ごきげんよう」と右手を上げて笑った。
私は、とりあえず「ありがとうございました。資料の方よろしくお願いします」とだけ言っておいた。
サウスがゆっくりと口を開いた。
「今から、彼が蘇生受付にあなたの資料を提出します。受付が『承認』のスタンプを押した瞬間にあなたは生き返ることになります。あの人が寄り道しなければ時間にして、ほんの五分ほどです」
「えっ、そ、そんなすぐに生き返ることができるんですか」
「はい、さっさと終わらさないとダメですから」
『さっさと終わらさないと』という言葉を聞いて、ミスを早く消したいということだろうと、憤りを感じたが、抗議する気にはなれなかった。
そんなことより生き返った時の気持ちの準備をしておかなければならない。これから、私はあの病室に戻るのだ。
あの時の病室の雰囲気を思い出した。イケメンの医者とベテランの看護師、そして沙知絵と柚菜の様子が頭に浮かんだ。
私はもう助からないと諦めているような空気が病室には流れていた。私が生き返ったら、みんなどんな表情をするのだろう。きっと驚くだろう。サウスが言ったように、喜ぶのだろうか、それとも……。いや、やはり今は考えないことにしよう。
「遅いですね」
サウスがそう言って唇を尖らせた。
「そ、そうですね」
今の私には時間の感覚がなかったので、遅いのか早いのかがわからなかった。
「あいつ、寄り道してるんじゃないか」
サウスが眉間に皺を寄せて私の顔を見た。
「はあ、そうなんですかね」
「あいつ、また、煙草吸ってやがるな」
サウスがひとり言のように呟いた。
「あの人、煙草は吸わないと言ってましたけど」
私が首を傾げながら言った。
「いやいや、そんなことないです。あいつ、そんなこと言ってましたか？」
サウスが右手を横に振りながら、口元を歪めた。
「はい、煙草は吸わないと言ってましたけど」
「あいつは少し時間が空くと、コーヒーを飲んだり、煙草を吸いに行ったりとサボってばかりです。もう困ったもんですよ」
「すごく真面目そうに見えましたが」
「そう。最初はみんな、あいつの見た目に騙されるんですよ。頭が良くて真面目そうに見えるんでね。わたしも最初は騙されましたよ」
バレーが煙草を吸わないと言ったのは嘘だったのか。細面の真面目そうな顔を思い出して閻魔様に舌を抜かれろよ、と思った。
「ああ、やっと始まりましたね」
サウスが私に向けて視線を上下に這わせて言った。
「はい？」
私は意味がわからなかった。サウスが私の方に視線を這わせているので、私も自分の体に視線を向けた。すると、私の体の色が青色に変わっているのがわかった。そして、足元の方からその青色が薄くなり、色が消え透明になっていった。足が消え、膝が消え、腰までが消えた。
「はい。それでは、あなたのこれから先の人生が素晴らしいものになることをお祈りします」
サウスが立ち上がり深々と頭を下げた。
私の体が胸から上だけになった。サウスの姿が霞のように消えて、視界が真っ白になった。そしてフワフワと浮いたような感覚がした。
