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間違われた男  作者: まつだつま
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生と死

 何度も瞬きを繰り返してみても何も見えない。目を開けているはずなのに光を感じない。部屋の灯りを消した時の暗さではない。陽が暮れた奥深い森の暗さでもない。秘境にある洞窟に入った暗さでもない。

これまでに経験したことのない、光を感じることがないブラックホールのような暗闇だ。

 音は聞こえるだろうかと、耳を澄ませてみたが空気の流れる音すらしない。自分の息も、心臓の音も、血液が脈打つ音すら聞こえない。

 今、私は光も音もない世界にいる。私の目と耳は使い物にならなくなってしまったのかもしれない。

 体は動くのだろうかと思い、起き上がろうとしたが全く動かない。

 自分がどうなってしまったのかと思考した。これまであまり使わなかった脳みそだけはしっかりと働いてくれているようだ。怠惰な脳みそを酷使し、今この状態になるまでの記憶を粘り強くたどってみた。

 頭の中に赤い光がぼんやり霞のように浮かんだ。次に耳をつんざくようなサイレンの音が聞こえた。しかしそれが何を意味するのか、この時はわからなかった。

 もっと他に思い出せないかと、もう一度記憶の糸を手繰り寄せてみた。すると、深い湖の底に沈んでいたものがゆらゆらと湖面に浮かび上がってくるように、私の頭の中にあった記憶が映像となってよみがえってきた。


「いってきます」

 娘の柚菜の声が聞こえた。その声は小さくて、低く鉛を飲み込んだような声だった。

「いってらっしゃい。大丈夫?」

 次に妻の沙知絵の心配そうな声がした。

 一人朝食を食べていた私は、食べる手を止め、顔を上げた。柚菜と目があったが、すぐに私の方から視線を外し俯いた。

 次に顔を上げた時には、柚菜はすでに背を向けていた。玄関へ向かう彼女は摺り足気味で歩幅が狭く、足枷でもつけられているようだった。

 沙知絵がキッチンから出て、後を追い柚菜の肩に手を置いていた。

 柚菜は今から学校へ向かうようだが、明らかにそれが嫌だという態度だった。情けない娘だなと、一人舌打ちをした。沙知絵のように優しく接する気にはなれなかった。悩みがあるのかもしれないが、高校生が抱える悩みなど大したことないはずだ。社会人になればもっとたくさんの悩み事を抱えることになる。毎日次から次へと高校生が抱える悩みの何十倍も重い悩みをだ。柚菜は何を甘えているんだ。この調子だと将来が思いやられる。

 柚菜は自宅からバスで三十分くらいのところにある県立高校に通う高校一年生だ。学校がおもしろくないのかもしれないが、そもそも学校なんておもしろいところではないのだ。それを我慢することもせずに態度に出しすぎだ。

 柚菜がああいう態度をとるのは甘えているからだ。沙知絵が甘やかせて育てたせいだと沙知絵の背中にキツい視線を向けた。

「柚菜、元気ないけど、大丈夫なの?」

 沙知絵がまた心配そうに声をかけている。『沙知絵、放っておけ』と怒鳴りたい気分だった。

「うん、大丈夫」

 柚菜の方は相変わらず元気のない声だ。大丈夫と言うのなら、もう少し元気な声を出して、親を安心させろと、心の中で呟いた。

「本当に?」

 沙知絵、しつこいぞ。放っておけ。

「うん、心配しないで」

 柚菜、心配しないでと言うなら、嘘でも元気なフリをしろ。

「無理しなくていいのよ。高校は義務教育じゃないんだし、嫌ならやめてもいいのよ。なんなら通信教育だってあるんだし」

 ここまで甘やかすとは。もうあきれるしかない。

「でも、お父さんが……」

『お父さんが』という柚菜のか細い声が聞こえた。それが耳に引っ掛かった。その後の二人の話し声に神経を集中させたが、その後の二人の声のボリュームは明らかに小さくなり、私の耳に届かなかった。

 必死で耳をそばだたせたが無理だった。耳がダメならと二人の様子に視線を向けた。そこで沙知絵と目が合った。沙知絵は私を一瞥して、柚菜の姿を隠すように私に背中を向けた。

 沙知絵が柚菜の耳元でコソコソと話している。きっと私の悪口でも言っているのだろう。

 二人のコソコソとした会話が終わると、柚菜が玄関で靴を履いて、「じゃあ、お母さん、いってきます。心配しないで、大丈夫だから」と沙知絵に向かって、暗い笑みを浮かべていた。

「わかった。でも、無理しないでね」

 沙知絵が柚菜の背中をポンポンと軽く撫でるように叩いて送り出した。

 沙知絵は、柚菜にだけは優しいなと思って見ていた。優しいを通り越して甘いんだ。最近の私に対する態度とは雲泥の差だ。

 柚菜は私に対しては目を合わすこともなく、『いってきます』の声もなく出て行った。

 普段は私の方が先に仕事に出るので、その時は私が、『いってきます』と食卓に座る二人に声を掛けるが、最近は柚菜も沙知絵も、私を見送ることなく、『いってらっしゃい』の声も無い。

 柚菜が小学生の頃は母娘二人揃って玄関まで見送ってくれていたのにと思うと寂しくなる。

 柚菜が中学生になると、柚菜は私を避けるようになった。そして最近は沙知絵まで私を避けるようになった。

 柚菜は、そういう年頃なんだろうと、なんとか理解し、受け入れたが、沙知絵までが私を避けるようになったことに寂しさを越えて絶望に近いものを感じた。私と沙知絵の関係は知らない間に氷河期に突入していた。


 暗闇の中でそこまで思いだすことができた。この先に何が起こり、私はなぜこんな状況に陥ったのだろう。もう少し記憶の糸を手繰り寄せてみることにした。


 この日、私は仕事が休みで、二人より遅れて起きて朝食を食べていたのだ。朝食といってもシリアルにミルクをぶっかけただけのものだった。私はそれを食事だとは思えなかった。不味いとはいわないが、おやつのようにしか思えない。

 つい最近までの大沢家の朝食は私の好きな和食だった。それが急にシリアルに変わってしまった。たぶん、作るのが大変なのと、沙知絵が年頃の柚菜の好みに合わせたのだろうと思っていた。

 確かに朝から和食を作るのは大変だとは思うが、娘を優先する前に一家の主である私に一言相談があってもいいだろうと思う。

 私は白いご飯に焼き鮭、それと味噌汁にお新香、そんな和の朝食が大好きだ。それを家族揃って食卓を囲んで食べるのが理想だ。沙知絵もそれを知っているはずなのに、全く相談もなく、ある日突然変わってしまっていた。

 朝目を覚ますと味噌汁の香りがしなかった。おかしいなと思い食卓を見ると、シリアルの入った深めの皿がテーブルの上にポンと置いてあるだけだった。

「えっ、なんだこれ?」

 私はシリアルの入る深めの皿を指差しながら沙知絵に訊いた。

「朝御飯、今日からこれにしました」

 沙知絵が平坦で無機質な声で言った。

『俺に相談も無しにか』と私が言うと、沙知絵は言葉を発することなく、大きくため息を吐いてから私を睨んだ。その瞬間、二人の間の空気が氷のように冷えパリッと音をたてて割れた気がした。

 私が子供の頃、母親は和の朝食を毎日のように作ってくれた。メニューは焼き鮭やだし巻き卵、明太子、ひじきの煮物、酢の物、納豆、焼き海苔、梅干し、沢庵など、日によっていろいろと変わった。

 その頃の朝食はいつも父親の拓三と母親の五月と私の三人で食卓を囲んだ。裕福な食卓ではなかったかもしれないが、贅沢な食卓だった。母親の作る朝食は本当に美味しかったし、両親と過ごす朝のその時間が幸せだった。

 その朝食のおかげで、一日を元気にスタートできる気がした。勉強が嫌でも、学校で嫌なことがあっても朝食を食べると元気になれた。

 しかし、そんな幸せだった子供の頃の朝食の時間も突然無くなってしまった。それは私が十二歳の時だった。父親が重い病に倒れ、そのまま亡くなってしまったのだ。

 それからの朝食は食パンを焼いたものと牛乳だけに変わってしまった。母親は父親が亡くなってからめっきり元気を失ってしまった。そんな母親も私が二十五歳の時に父親と同じ重い病に倒れた。

 それからの私は一人で暮らした。一人で暮らすようになってから私の生活から朝食は無くなってしまった。私にとっての朝食は家族の幸せの象徴みたいなものなのだ。

 シリアルを食べ終えて、「ごちそうさま」と沙知絵の背中に向かって、聞こえるか聞こえないくらいの声で言ってからテレビをつけた。

 人気女優が離婚したというニュースが取り上げられていた。二年前から人気女優とその夫の仲は冷めていて別居していただの、夫に愛人がいただの、夫が暴力をふるっていただのと芸能レポーターが声を張り上げている。

 どうでもいいとテレビのリモコンを手に取りチャンネルを変えてみたが、どの局も同じ内容ばかりだった。テレビを消してもよかったが、沙知絵と二人きりで沈黙の時間を過ごす勇気がなかったので、テレビはつけたままにしておいた。

 沙知絵がテーブルまで来て、私の前に置いてある食べ終わった皿を片付け始めた。そしてテーブルの上の空になった皿を取りながら呟いた。

「いっしょに食べてくれたら洗い物が一回で済んだのに」

 沙知絵は言い終わってから、「ハァー」とため息を吐いた。

 そのひとり言のように呟いた声とため息が私の耳に突き刺さった。息だけで発したような微かな声だったが、そこには無数の小さな刺がついていて、私の胸をチクチクと突き刺した。沙知絵がキッチンで洗い物をする水の音まで、刺々しく私を責めているように聞こえた。

『旦那さんが悪いですよ。彼女は離婚するしかなかったんじゃないですかね』

 テレビから聞こえてくる芸能レポーターの声までもが私を責めるように聞こえ、私の耳に突き刺さった。

「私もそろそろ仕事に行きますね」

 洗い物を終えた沙知絵が、せわしなくエプロンをはずしながら言った。エプロンをはずす姿さえも私を責めているようだった。

「あ、ああ、いってらっしゃい」

 沙知絵の方を向いて言ったが、二人が目を合わすことはなかった。

 沙知絵は自宅から自転車で十五分くらいのところにあるショッピングセンターマルナカというところでスーパーのレジの仕事をしている。週に五日、午前九時から午後五時まで長い時間働いている。こんなに働かなければならないのは、私の給料が安いからだと嘆いているのだろう。出世街道から脱落し給料が安い上に家事もろくに手伝わない私にそろそろ愛想をつかせているのだろう。

「あなた、今日、出かけるんでしたよね」

 沙知絵がそう言いながらこっちに向かってきた。

「す、すまん」

 沙知絵に向けて右手のひらを縦にした。

 沙知絵が私の前まで来て、左手に持っていた財布から一万円札を抜き出して私の前に叩きつけるようにして置いた。同時に舌打ちする音が聞こえた。

 その舌打ちする音を聞いた私は体が熱くなった。今日は仕事仲間と飲みに行く約束をした。そのために小遣いを一万円を余分に要求した。たかが一万円でこんな態度をとられるのか。安月給とはいえ、私がこの家で一番稼いでいるんだ。誰のおかげで今日まで生活出来ていると思ってるんだ。私にだって付き合いというものがあるんだ。そんな言葉を喉元で止めて、奥歯をギュッと噛んだ。

 それにしても沙知絵はなぜこんなに私に対して冷たくなってしまったんだろうか。いつ頃から私たち夫婦はこんなに冷めてしまったんだろうか。

 こうなってしまったのは、ここ最近のはずだ。柚菜が高校入学するまではこんなことはなかった。これまでもお互いに不平不満をぶつけ合うことはあったが、今のように刺々しく冷めた感じではなかった。喧嘩することはあったが、知らない間に仲直りしていた。今は喧嘩しているわけではないので仲直りのしようもない。強くはないが非常に冷たい風が二人の間に吹いているようだった。

 沙知絵が私に愛想をつかせ冷めてしまったようだが、なぜ愛想をつかせてしまったのか、その理由が全くわからない。


 暗闇の中でなぜ沙知絵はこんな風になってしまったのか、私に原因があったのだろうか、いろいろと考えてみた。すると、沙知絵と出会った頃の記憶が甦ってきた。

 あの時に沙知絵は私ではなく当時の店長と結婚していたらどうなっていたのだろうか。今ごろ沙知絵の人生は色のついた輝いたものになっていたのかもしれない。沙知絵も今はそう思っているのではないだろうか。

 あの日、あの事件がなかったら、私たちは付き合うことも結婚することもなかった。まともに話をすることもなかったかもしれない。沙知絵にとって私の存在は記憶の片隅にも残らなかっただろう。

 当時、私と沙知絵は、私が今働いている食品スーパーでいっしょに働いていた。

 私は精肉売場を担当し、沙知絵はレジを担当していた。沙知絵はすらりと背が高く、背筋がピンと伸びてショートカットの髪がよく似合っていた。丸みのあるきれいな額にはっきりした目鼻立ちが聡明に見えた。見えただけでなく実際に聡明な女性だった。仕事をテキパキとこなし、アルバイトに的確な指示を出す。他部署とのコミュニケーションもうまくてみんなからの信頼も厚かった。

 当時の店長も沙知絵を信頼していた。そして店長と沙知絵は付き合っている、結婚間近じゃないかという噂もあった。美男美女でお似合いだという人、仕事とのけじめがないと苦言を言う人、本人たちの知らないところで噂は真実のように渦巻いていた。

 店長と私は同期入社だったが、その時点で二人の出世のスピードには大きな差がついていた。

 私も沙知絵に好意を抱いていたが、背が低く小太りの上、若いうちから髪の毛がさびしくなっていたヒラ社員の私が店のマドンナのような沙知絵と釣り合うとは思えなかった。

 それに引き換え、店長はイケメンで、同期のなかでは出世頭だった。私が勝てる要素など微塵もなかった。私は沙知絵のことは高嶺の花だと早々に白旗をあげていた。

 そんな私が沙知絵と距離を近づけることになったのは、ある事件がきっかけだった。その事件は店長が休みの日に起こった。あの日に店長が出勤していたら、私と沙知絵の人生は今とは大きく変わっていただろう。

 あの日は朝から鈍色の雲がどんよりと垂れ下がり、いつ雨が降りだしてもおかしくない空模様だった。店の開店前に店の駐車場を覗いて見ると、案の定アスファルトに黒い斑点がポツポツとつきはじめていた。

 開店して一時間が経過した頃、雨は銀の針のような強い雨になっていて、アスファルトを激しく打ちつけていた。今日は暇な一日になるなと、私は一人、喫煙スペースで空を見上げて紫煙を吐いた。この時は、まだのんびりした気持ちで過ごしていた。煙草を吸い終わってから重い腰を上げ売場を覗いた。

 その時、レジの方から耳を裂くような怒鳴り声が聞こえてきた。何事だろうと怒鳴り声のするレジの方へと向かった。

 すると、レジに立っている沙知絵に向かって、お客さんが何やら大声を張り上げていた。私は慌ててレジのところへ向かっていった。

 怒鳴り声の主は、五十歳くらいの男で背は低くくガリガリの体型をしていた。

「謝ってすむもんじゃねえんだよ。だからちょっとわしに付き合えよ」

 男はそう言って沙知絵の左手首を掴み引っ張った。沙知絵は抵抗していたが、男の力が強くずるずると引っ張られていた。

 なにが起こっているのかわからなかった。とりあえずレジの方へと走って行った。

「やめてください」

 いつも冷静な沙知絵だが、この時はさすがに悲鳴のような声を上げた。

「やかましいわー」

 男も興奮して大声を張り上げた。

「お客様、す、すいません。ど、どうかされましたか」

 私は慌てて男に向かって声をかけた。

 男は沙知絵の左手首を握ったまま、私の方に振り向きぎょろりとした目で私を睨んだ。頬骨が出て顎が張った男の顔は爬虫類のようだった。

「なんだ、てめえ、わしの邪魔する気か」

 男は私に向けて唾を飛ばしながら怒鳴った。まだ午前中だというのに男の吐く息からは酒の臭いがプンプンとした。私は顔を逸らししかめた。

「なんだー、そのツラは。わしは客だぞ。それが客に対する態度か」

 男はそう言って握っていた沙知絵の左手首を離し私の胸をついた。

「も、申し訳ありません」

 とりあえず頭を下げた。男を冷静にさせて帰ってもらうしかないと思った。

 顔を上げてから、沙知絵の方にチラリと視線を向けた。沙知絵は唇を噛みしめていた。目が合うと私に向けて申し訳なさそうに眉をハの字にして小さく頭を下げた。男に握られていた左手首が痛かったのか、右手でさすっていた。

「どうかしたの?」

 沙知絵に声をかけた。

 すると、すぐに男が口を挟んできた。

「どうもこうもねえよ。この姉ちゃんがわしから余分に金奪おうとしたんだよ」

 男はそう言って沙知絵を睨みつけた。

「奪おうだなんて、そんな……」

 沙知絵が反論しようとしたが、私は手で制した。

「さようでございましたか。それは申し訳ございませんでした」

 私は男に向かって深々と頭を下げた。

「謝ってすむかよ。バカ」

 男は私に向かって、ペッと唾を吐いた。それが私のズボンにかかった。ズボンを見ると黄色い痰のようなものがついていた。腹が立ったが、一応お客さんだし、手を出すわけにはいかない。それに腕力には全く自信がない。私はグッと堪えた。

 男の話では、買った酒の値段がレジで間違っていて、それは沙知絵がネコババするつもりで値段をごまかしたんだと怒っているということだった。

 確かに値段を間違えるのはお客さんに迷惑がかかるからあってはならないことだ。

 しかし、だからと言って、沙知絵を外に連れ出そうとするのはおかしい。それに実際は沙知絵がレジで金額を打ち間違えたわけではなく、あらかじめバーコードに登録されていた値段が間違っていたのだ。お酒の担当者が値段を登録するのを間違えたのだろう。お客さんがそのことがわからないのは仕方がない。

 私は沙知絵と男の間に入りお詫びをし、余分に受け取ってしまったお金を返金しようと男に頭を下げて差し出した。

「金なんて、そんなのどうでもいいんだよ」

 男は声を荒げて小銭を持つ私の手を払った。

 小銭がチャリチャリリーンと音を立てて床に転がっていった。落ちた小銭を目で追いかけると、十円玉が身の危険を感じ隠れ場所でも探すようにコロコロと転がりレジ台の下に消えていった。

「そんなはした金は、どうでもいいんだよ。わしの気持ちの問題だ。このままだと気持ちが収まらねえんだ。だから、この姉ちゃんを他の場所に連れて行って土下座してもらうんだ」

 男は卑しい笑みを浮かべ、また沙知絵の左手首を握って連れだそうとした。

「申し訳ありません。それでしたら彼女の代わりに私がお客様と他の場所でお話させていただきます」

 私はそう言った。私も必死だったのだろう。気の弱い私だが、この時は男に対する恐怖心は消えていた。店長がいない以上、自分が何とかしなければならないと思っていた。

 私は沙知絵の左手首を掴むお客様の手首を思いっきり強い力で握った。腕力には自信がないが、毎日のように包丁を握り肉を切っているためか、握力だけは自信があった。男の手首を握る手に力をいれた。

「いてー」

 男が悲鳴をあげ、沙知絵の左手首を離したので、私も男の手首を持つ手を緩めた。

 その瞬間だった。男の拳が私の顔面に向かって飛んできた。

『バシッ』という鈍い音がした。顔面に痛みが走り、目の前に赤いものが飛んだ。頭がボーッとして体がふらついた。

 ふらついて前屈みになった。目の前に靴が見えたと思った瞬間、顔面に衝撃が走った。続けてお腹に鈍い痛みがした。私はお腹が苦しくてそのまま尻餅をつくように倒れた。胃の中から何か酸っぱい固形物が口に上がってきた。

『キャー』という耳をつんざく悲鳴が聞こえた。

 頬に冷たいものを感じて目を開けると、床にうっぷせてしまっていた。起き上がりたいが起き上がれない。たくさんの足音が床に響いて聞こえてくる。

「すぐに警察呼んだ方がいいわ」

 年配の女性の声がした。

「大丈夫かしら」

「それより救急車よ。早く救急車、誰か呼んであげてー」

「どうした、どうした」

「なに、なに、なにがあった」

 次々にあちこちから声が飛んでいる。野次馬たちが集まり騒がしくなってきているのだとわかった。

 倒れたまま首だけを持ち上げると男と視線がぶつかった。男は口を開け青ざめて震えていた。

「お、お前が悪いんだぞ」

 男は倒れる私に向けて人差し指を向けた。そして続けた。

「お、お前が先に手、出したんだからな。だ、だから、お、俺は……」

 男はそこまで言って、すぐに踵を返し、そして「どけ、どけ」と野次馬をかき分け、逃げるように走って店を出て行った。

「警察だ、警察呼べー」

「あいつを捕まえろー」

 そんな声が飛び交っていたが、野次馬たちは誰も行動に起こそうとはしなかった。

「大丈夫ですか?」

 入社二年目の男子社員三宅が私の前に屈んで、声を掛けてくれた。

「あ、ああ、だ、大丈夫」

「大沢さん、立てますか? 肩貸しましょうか」

 三宅が肩を貸してくれた。三宅は学生時代柔道部でガタイがいい。

「ああ、有難う」

 私は鼻をおさえながら三宅の肩に手を置いて立ち上がった。しばらくフラフラしていたので三宅の肩に手を置いたままにした。

 立ち上がってから周りを見渡すと従業員やお客さんの視線が私に集中していた。今の騒ぎで、みんな買物どころではなかったようだ。

「あらー、大変、血が出てる。救急車呼んだほうがいいわ」

 いつも肉を買ってくれる常連の女性のお客様が私の顔を見て、眉をハの字にして言った。

「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です。ご心配おかけしました」

 私はそう言って三宅の肩から手を離し、ふらつきながらも頭を下げた。

 そして、周りを見渡すと「ありゃー」と自然と声が出た。

 私の鼻血がレジやレジ台、床に飛び散っていた。自分のお腹に視線を向けると、白衣が赤く染まっていた。鼻を指で触ってみると指にべとりと赤いものがついた。

「本当に大丈夫ですか」

 沙知絵が心配そうな顔をしていた。

「大丈夫だよ。それより、この辺を汚しちゃって申し訳ないです」

 私は沙知絵に向かって頭を下げ、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、血が飛び散っているレジ台を拭いた。

 しかし、私の色褪せた薄っぺらいハンカチでは焼け石に水だった。ハンカチはすぐに真っ赤に染まり、赤い血をレジ台の上に引き伸ばしているだけで、余計にレジ台は汚れてしまった。

「そんなこといいです。こっちこそ、ごめんなさい。大沢さんは悪くないのに」

 沙知絵がそう言って自分のフワフワしたきれいなハンカチを出し、私の鼻に当ててくれた。ハンカチからすごくいい香りがした。その香りで、そのまま気を失いそうになった。

 この日まで、私と沙知絵は挨拶程度の言葉しか交わしたことがなかった。沙知絵とまともに会話をしたのはこれがはじめてだった。


 次の日は前日とは打って変わって、雲ひとつない真っ青な空が広がる気持ちのいい一日だった。

 前日の大雨の反動で、朝からたくさんのお客さんが買い物に来てくれた。

 昨日の怪我は大丈夫だったとあたたかい声を掛けてくれるお客様もいて、有り難くて胸が熱くなった。今日は天気もいいし、お客さんも親切だし、本当にいい日だなと思った。

 そして、まだまだいいことが続いた。

 私は作業場で忙しく肉を切っていた。すると、ドアの窓から誰かがこっちを覗いている気配を感じた。肉を切る手を止めて、ドアの窓に視線を向けた。小さく四角い窓の向こうに沙知絵の小さな顔があった。

 窓越しで目が合った瞬間、沙知絵がぺこりと頭を下げた。その時、私の胸がピョンと跳ねた。

 私は、どうしていいかわからなくなり頭が混乱した。とりあえず私も小さく頭を下げて、慌てて手を洗い作業場から出ていった。

「お、お疲れさま。どうかしました?」

 私は後頭部を掻きながら挨拶をした。顔が熱くなっていった。

「昨日は助けていただいて有難うございました」

 沙知絵はいつものように背筋をピンと伸ばしてから腰を折った。

「お礼なんていいですよ。それより鼻血でレジの周り汚しちゃったから、反対に迷惑かけちゃったんじゃないかって心配でした。それに助けるどころか、殴られて蹴られてぶっ倒れて、ほんとみっともなかったです」

 沙知絵を前にして体の温度がドンドン上がっていくのがわかった。前日に沙知絵が鼻に当ててくれたハンカチのいい匂いを思い出した。

「いえ、そんな、みっともないことなんて絶対にありません。大沢さん、すごくかっこよかったですし、わたし、すごく感謝しています」

「そ、そう。それなら良かったけど」

「あ、あの、これ、昨日のお礼です」

 沙知絵が紙袋を私の前につき出した。

「えっ」

 私はつき出された紙袋を見た。近くにある百貨店の紙袋だった。

「これは?」と沙知絵の顔を見て訊いた。

「昨日、大沢さんのハンカチ汚れちゃってたので、これハンカチです」

「あ、有難う。あんなボロボロのハンカチなんてどうでもよかったのに」

 私はボリボリと後頭部を掻いた。

「いえ、そういうわけにはいきません。どうぞ、受け取ってください」

 沙知絵が紙袋を持った両手を伸ばしてペコリと頭を下げた。

「あ、ありがとう」

 私は紙袋を汗ばんだ両手で受け取って震える声で礼を言った。


 それ以来、私は沙知絵とよく話すようになった。話してみると、沙知絵に対して新しい発見がいろいろとあった。クールな印象だったが、おちゃめな一面も見せてくれた。優しくておもしろい女性だなと思った。こんな女性と結婚したら明るくて温かい家庭を築けるんだろうなと何となく思った。

 これまで沙知絵に対する特別な感情を心の奥底に沈め蓋をしていたのだが、沙知絵からハンカチを受け取った瞬間、シャンパンのコルク栓が抜けたように、蓋していた感情がどこか遠くへ飛んでいってしまった。

 そして、その特別な感情はシャンパンが瓶から溢れ出るように、ドンドンと止めどなく出てきた。もう自分ではどうすることも出来なくなった。自分の気持ちをおさえることが出来ず、沙知絵に自分の気持ち伝えずにはいられなくなった。

 沙知絵は私のことなど、ただの職場の先輩の一人としか思っていないかもしれないが、とりあえずそれでもいい。自分の気持ちを伝えるだけは伝えたいと思った。

 まず食事に誘ってみよう。それで断られたら諦めよう。食事にきてくれたら、その帰りに告白することに決めた。

 食事を誘おうと決めたが、それからなかなか言い出す勇気が出ず、誘うことが出来たのは、例の事件から一ヶ月後のことだった。女性と二人っきりで食事に行くのは学生の頃以来のことだった。私はイタリアンがいいのかフレンチがいいのか、あんまり背伸びするのはよくないかと、あれこれと頭を悩ませた。

 結局、どこに食事に行くか決まらないまま沙知絵を誘った。沙知絵は快く食事の誘いを受けてくれた。

「うれしいです。喜んで」という沙知絵の言葉を聞いた瞬間、気持ちは舞い上がった。その気持ちを必死で抑えて、沙知絵に何が食べたいかと訊くと、意外な答えが返ってきた。

「わたし、カキオコが食べたいです。女性一人だとなかなか行けないので、大沢さん連れて行ってください」

「えっ、カキオコでいいの」

「はい、わたし、カキオコが大好きなんです」

 カキオコとはこの地域で有名な牡蠣を肉の代わりにお好み焼きにトッピングしたご当地グルメである。私も大好きでよく食べに行った。カキオコなら気兼ねすることはないが、イタリアンかフレンチかで悩んでいた私からすれば、少し拍子抜けした。

 沙知絵にとって、今回の私の誘いが男女のデートというつもりではなく、やはり職場の先輩後輩のつもりだからカキオコをリクエストしたのかもしれないと思い、少しだけ気落ちしてしまった。

 カキオコを食べている間、私はガチガチになり味はわからなかった。前に座る沙知絵は「うわー、久しぶりに食べたけど、やっぱり美味しい」などと言ってはしゃいでいた。その笑顔が可愛かった。

 カキオコを食べた帰り道、予定通り告白はするつもりでいた。断られてもいいと覚悟しているつもりだが、いざとなると、断られることに怯えた。

 沙知絵に自宅まで送らせてほしいというと、沙知絵は胸の前で両手を合わせ小さく手を叩いて「うれしい」と喜んでくれた。その笑顔を見て私の胸はまた跳ねた。

 帰りの電車で、沙知絵が久しぶりに食べたカキオコについて、いろいろと感想を話してくれた。

 私の頭の中は、どのタイミングで告白すればいいのかとパニック状態だったので、沙知絵のその言葉が耳に入ってこなくて空返事になってしまった。それに気づいた沙知絵は、それから言葉を発しなくなってしまった。二人の空気が少し悪くなってしまった。そこから先は言葉を交わすことなく、二人並んで歩いていた。

「大沢さん、今日はごちそうさまでした。楽しかったです」

 沙知絵が沈黙に耐えきれなくなったのか、歩きながら先に口を開いた。

「え、あ、ああ。そ、それはよかった」

 呼吸が苦しくなってきた。

「大沢さんはカキオコ美味しかったんですか?」

「あ、ああ、美味しかったよ。け、けど、覚えてない」

「えー、さっき食べたとこじゃないですか」

「う、うん、でも、緊張しすぎて、も、もう覚えてない」

「えっ、緊張?」

「そ、そう。緊張した。すごくすごく緊張した」

 今、告白しないとこのまま終わってしまいそうだ。

「せっかく美味しかったのに、忘れるなんてもったいないなー」そう言った沙知絵は空を見上げながら続けた。「あっ、そこの角曲がったところがわたしの家なので、もうこの辺で結構です」

 沙知絵がそう言って立ち止まった。

「そ、そうなの。もう着いたの」

「はい、こんな遠くまで送っていただいてありがとうございます。今日は本当にごちそうさまでした」

 背筋を伸ばし、いつものように腰を折ってマニュアルのようなきれいなおじぎをした。

 今告白しないとダメだ。慌てた私は、何を思ったのか、私に向かって頭を下げている沙知絵の両肩をおさえてしまった。沙知絵の体がピクリと動いて後ずさりした。ヤバイ、ひとつ間違えれば痴漢行為だ。

 沙知絵は後ずさりしてから、顔を上げ「えっ」と声を出し、口に手を当て目を見開いて私を見た。睨んでいるように見えた。

「ご、ごめん」

 私は慌てて手を引っ込めた。汗でベトベトになった手をズボンのポケットに突っ込んだ。

「大沢さん、どうしたんですか」

 沙知絵が笑みを浮かべて訊いてきた。沙知絵が笑っていたので、少しほっとした。

「じ、実は」

 そこまで言って生唾を飲み込んだ。

「大沢さん、なんか変ですよ」

「い、いや、じ、実はね」

 ここでまた言葉につまった。沙知絵が眉をハの字にして私の顔を覗きこんでくる。ヤバイ、言えない。でも告白するしかない。ダメでもともとだ。大沢勝男、勇気を出せ。自分に言い聞かせた。

「大沢さん、どうしたんですか。言いたいことがあるなら言って下さい」

「う、うん。今から言う。ちょっと待って」

 胸に手を当て自分を落ち着かせた。でも、やっぱり言えない。ここで沙知絵に振られてしまうより、このままの関係で十分幸せだ。このままおとなしく帰ろう。

「大沢さん」

 沙知絵が俯く私の顔を覗きこんできた。ニコリと笑う白い顔が目の前にあった。そこで目が合った。気持ちを押さえられなくなった。

「お、おれ、三輪さんのことが好きなんだ。だ、だから、今日は思いきって三輪さんを食事に誘ったんだ」

 ついに言ってしまった。体が熱くなった。汗が吹き出て止まらない。呼吸するのも苦しかった。

 沙知絵を見ると俯いていた。唇を噛みしめて申し訳なさそうにしてるようにも見えた。ダメだという諦めの気持ちが体中に広がっていった。

 しばらく俯いていた沙知絵がゆっくりと顔を上げ、私に視線を向けた。その時の沙知絵の目は笑っていた。

「ありがとうございます。すごく嬉しいです。私も大沢さんのことが好きです」

 その言葉に耳を疑った。いや確かに沙知絵は『私も大沢さんのことが好きです』と言ったはずだ。

 沙知絵からのその言葉を頭の中で何度も反芻した。私はそのまま後ろ向きにぶっ倒れそうになった。絶対にこれは夢だ、沙知絵が私のことを好きだなんてことありえない。自分の頬を思いっきり強くつねってみた。すごく痛かった。これは夢ではない。

 夜空に向かって思いっきり両手を突き上げた。三日月が祝福して笑っているように見えた。

 それから沙知絵との交際がはじまった。夢のような時間だった。聡明で優しく綺麗でおちゃめな沙知絵に私は夢中になった。彼女のためなら何でも出来ると思った。沙知絵とあたたかく幸せな家庭を築きたい。私が子供の頃に両親が築いてくれたようなあたたかい家庭を築くんだと心に決めた。

 なのに、そうはならなかった。あの頃の聡明で心優しいおちゃめな沙知絵はどこにいってしまったのだろうか。


 あの頃は幸せだったなと思いながら、また暗闇のなかで、沙知絵と柚菜が出掛けた後の記憶をたどってみた。


 あの後、私は出掛ける予定があった。沙知絵からもらった一万円札を財布に入れ、出掛けるために服を着替えた。

 この日は職場の後輩の高山に誘われ、もう一人の後輩の清水と三人で飲みに行く約束をしていた。

 私と高山、清水の三人は同じ食品スーパーで働いている。高山は野菜売場を担当し、清水は鮮魚売場を担当している。二人とも歳は私より五つ下だ。

 私は精肉売場を担当し、毎日肉を切りパックをして冷蔵ケースにそれらを並べる。お客さんから昨日買った肉が美味しかったと言われるとすごく嬉しい気持ちになるが、仕事の喜びはその一瞬だけだ。お客さんに喜ばれたからといって給料が上がるわけでもない。

 反対にお客さんからクレームが入ると頭を下げ、酷い時は、お客さんが本社に連絡を入れて、同期入社のイケメンの部長が真っ赤な顔をして店に現れる。部長は言いたいことだけを早口で捲し立てて、私の評価を下げて現場を後にする。

 そんな毎日に辟易していた。高山と清水の二人も同じような思いで働いていた。職場からも家族からも見放されて毎日が楽しくなくなった三人組だった。

 だから私たちはよく三人で職場や家庭の愚痴を言うために飲みに行く。思いっきりビールを飲んで、ゲロといっしょに全てを吐き出していた。

 私は入社して二十八年になるが役職は未だにチーフだ。同期の連中のほとんどが現場から離れ課長や部長になってバリバリと会社のために働いている。私だって会社のために真面目にバリバリと働いてきたつもりだが、上からの評価は同期の中では下の下の下だ。

 人事の評価なんて結局は上司の好き嫌いで決まってしまうものだと、出世することを諦めてからどれくらいの年月が経つのだろうか。

 入社した日のことを思い出す。あの頃は希望に満ちあふれ、精肉の担当者としてやりがいがあった。しかしそのやりがいは日に日に削ぎ落とされて、今ではほとんどなくなってしまった。

 この日は高山と清水と三人で盛り上がった。最後のジョッキを空にしてから居酒屋を後にした。

 まだまだ話し足りなかったが、清水がハイペースで飲み過ぎて、やばそうだったのでお開きにした。

 居酒屋を出て、駅へと抜けるシャッター街を三人横一列に並んで歩いた。シャッターが風で揺れ、我々の心のような鈍い金属音を響かせていた。

 清水がフラフラと鈍い金属音に引っ張られるようにシャッターの前に立つ電柱に体を預けた。三人の中で一番アルコールの弱い清水が今日はハイペースで一番量を飲んでいた。

「清水、大丈夫か?」

 私が声をかけたら、清水は電柱に額を当て左手を上げた。

 清水は、「だい、……」と言ったところで言葉を切り、「じょうぶです」という言葉の代わりに、「ゲボッ」と喉の奥から音を出して電柱に額を当てたまま思いっきりゲロを吐いた。

 私は慌てて清水の元まで行き、清水の背中をさすった。

「大丈夫か」

 清水の顔を覗きこんだ。清水の体が痙攣するように震えていた。清水の背中を上下にさする度に清水の口からゲロが温泉がわき出るように噴き出ていた。清水の口からゲロがボタボタと地面に落ちて足元にゲロの島ができている。清水の口から次々と吹き出るゲロが島の上に落ちて、島がドンドン大きくなっていく。それを見て私まで気分が悪くなり吐きそうになった。

 清水は胃の中が空っぽになってゲロが出なくなっても、まだ「オエー、オエー」と喉の奥から音を出していた。

 清水の横顔を覗きこむと、目から涙が溢れ出ていた。涙は清水の目から次々と落ちて、街灯に反射しキラキラ輝きながら、清水の吐いた足元のゲロの島の上にポタポタと落ちていった。

 清水は先月離婚をした。これまで飲みに行く度に奥さんの愚痴をこぼしていた。さっさと別れて自由になりたいと言っていたはずなのに、別れると決まってからの清水はめっきり元気を失っていた。

 清水から離婚することになったと聞いた時、私は、「自由になれるから良かったな」と言ってしまった。

 清水はその時、目尻が上がり、キッと私を睨んだ。

「良いわけないですよ」

 清水はめずらしく声を荒げて唇を尖らせた。

「えっ、そ、そうなのか」

「当たり前です。離婚すると決まって良いわけないです」

「す、すまん。お前、奥さんと別れたかったんじゃなかったのか」

「本気で思ってるわけないでしょ」

 私は返す言葉が見つからなかった。

「そ、そうだよな。すまん」

 もう一度、謝って俯いた。

 自分も沙知絵のことを愚痴ってはいるが、本当に別れるとなるとこうなってしまうのだろうか。

 しかし、沙知絵の方は早く別れたいと思っているかもしれない。目の前の清水の姿は、近い将来の自分の姿なのかもしれない。

 清水は、その後、俯いたまま何も言葉を発しなかった。

 この日は清水を元気づけようと高山が飲みに行く計画をした。私もなんとか清水を元気づけたいと、高山の計画にのった。

 しかし、清水の背中をさすりながら目から落ちる涙を見ていると、この日の私と高山の計画はあまり効果が無かったように思えた。

 清水が少し落ち着いたので、また三人で駅へと向かって歩いた。夜空を見上げると三日月が涙目のように見えた。沙知絵に告白した時に見た三日月と変わらないはずなのに、全く違う三日月に見えた。

 駅まで来て、そこからは三人帰る方向が違い、それぞれバラバラに帰る。

 高山は徒歩で帰り、私と清水は電車に乗って帰るのだが、方向は逆だ。

 駅に着いてから高山が清水はタクシーで帰らせた方がいいんじゃないですか、と言ってきた。意識はしっかりしてきたように見えたが、私もその方が安心だ、と同意した。

 清水をタクシーに乗せるために駅のロータリーにあるタクシー乗り場へと三人で向かった。高山が清水を抱え、私は駅前で待つタクシーの運転席側に回りドアの窓を叩いた。

「すいません」

 俯いていたタクシーの運転手が気付いて顔を上げ私に視線を向けてから窓を開けた。

「はい」

「彼を自宅までお願いできますか?」

 高山が抱える清水に視線を向けて言った。

 運転手は後ろのドアの前に立つ二人を見てから眉間に皺を寄せて、「抱えられてる人?」と私に訊いた。

「はい、そうです」

「大丈夫なの? 中で吐かない?」

 運転手が口元を歪めた。

「大丈夫です。胃の中の物は全部出しちゃってるから、……」

 私はそう言って財布から五千円札を抜き取り、運転手の目の前に出して行き先を伝えた。これで朝沙知絵からもらった一万円はすべて使い切った。沙知絵のつり上がった目が頭に浮かんだ。

 運転手は渋々といった感じで五千円札を受け取り、「フゥーン」と不満そうな息を吐いてから後ろのドアを開けた。

 高山が清水を後ろの座席に押し込んで、運転手に向かって「すいません」と頭を下げた。

 私も「すいません、お願いします」と頭を下げた。

「清水、大丈夫だな。気をつけて帰れな」

 高山がタクシーを覗きこんで言った。

「有難う。迷惑かけたな。もう大丈夫だ」

 清水は右手を上げて高山に言った。

「清水、お疲れ」

 私が言うと、清水は、「大沢さん、今日はありがとうございました」と言って鼻をすすりだした。

「いいよ、いいよ」

 意識はしっかりしてきたようだ。少し安心した。

「じゃあ、運転手さん、お願いします」

 運転席を覗きこんで、運転手にもう一度頭を下げた。

 運転手は私を一瞥してすぐに車を出した。走り出したタクシーの赤く光るテールランプを見ながら、高山と同時に「フゥー」と息を吐いた。

「清水、大丈夫ですかね?」

 高山が私の横に立って訊いた。

「大丈夫だろ。酔いはさめてたんじゃないかな。電車でも帰れたかもしれない」

「いや、そっちじゃなくて」

「えっ?」

 高山に視線を向けた。

「離婚の方ですよ。離婚してあんなに落ち込むとは思ってなかったんですけどね」

 高山が両肩を上げ首を傾げた。

「そうだな。清水も奥さんのこと愚痴ってばかりだったからな。早く別れたい、なんて言ってたもんな。離婚が決まってスッキリしたのかと思ってたんだけど、本当に別れるとなるとやっぱり違うんだろうな。本心は新婚の頃ような関係に戻れることを期待してたのかもな」

 そう言ってから自分はどうなんだろうかと思った。

「大沢さんは、どうなんですか? 大沢さんも別れた方がスッキリするって言ってましたけど、本心は奥さんと新婚の頃のように戻りたいんですか?」

 私の心を読んだかのような高山の質問に、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「いやー、どうなんだろうな? わかんねえな。けど、今のままだと別れた方が嫁さんも娘も幸せな気がするけどな」

 今の私は自宅に帰っても寛げる場所はない。沙知絵の私を見る視線は、ここ数ヵ月、日を追うごとに冷たくなっているように感じる。

 柚菜も年頃になったせいもあるのだろうが、私とは目も合わそうとしない。自宅に私の居場所など全くといっていいほどなくなってしまった。

 自宅は住宅ローンを組んで買った。郊外に買ったばかりに三十分だった通勤時間は二時間近くになってしまった。職場で辛い思いをしても、ローンの支払いのことを考えると、グッと我慢して働かなければならなくなった。

 そんな思いをして買ったマイホームなのに、寛ぐ場所がないなんて本当にやりきれない。何のために私は生きているのかと思った。

 刺々した家庭に帰りたくなくて、ついつい遅くまで飲んでしまう。しかし、小遣いは少ないので、そうそう飲みにもいけない。こんな人生なんてまっぴらだ。やり直したい、そう思ったが、やり直すなんてことできるわけがない。

 高山はここから徒歩で帰れる距離なので駅で別れた。

 高山は私たち三人の中では一番幸せそうに見える。普段奥さんとの会話が無いが、たまに口を開けば愚痴ばかり言われると話していた。

 でも、高山には私や清水のような陰鬱な感じがない。高山になぜそんなに元気なのかと訊いたことがあるが、高山は「まっ、お互い様だから」と言って笑っていた。

 仕事の愚痴を一緒にこぼしいても、高山だけは笑い話のように話す。そして、仕事の評価が低くても、「俺の場合はちゃんと仕事してないから、仕方ないですけどね」と笑う。

 私から見れば高山の仕事ぶりはちゃんとしている。いつもお客さんのことを考え、お客さんに愛想よく振る舞っている。私たち三人の中では一番頑張っていると思う。

「大沢さん、今日は有難うございました。清水を元気にできませんでしたけど、俺はすごく楽しかったです」

 高山がそう言って笑みをくれた。

「俺も楽しかった。また清水を元気づけてやろうな」

 そうは言ったものの、飲みに行くためには沙知絵から余分に小遣いをもらうという高いハードルをクリアしなければならない。

「そうですね、人生はまだまだこれからですよ。楽しみましょうね」

 高山が溌剌とした声で言った。

「そうだよな」

 私の声は風に飛ばされるような小さな声になった。高山のようにはなかなかなれない。

 高山は私に向かって右手を高く上げ大きく振りながら私が駅の改札に向かうのを見送ってくれた。高山はいつも元気で、落ち込まない。強いなと思った。


 高山と別れて駅のホームの階段を上がった。すぐに電車がホームに入ってくるのが見えた。このままホームから飛び込めば楽になるのだろうか、天国に行けば、早くに死別した父親と母親と天国で幸せに暮らせるのかもしれないと、ふと思った。でも、飛び込む勇気なんてこれっぽっちもない。

 駅のアナウンスが流れる。電車が近づいてきて私の目の前に金属の塊が勢いよく滑り込んできた。風圧を感じ、そしてゆっくりとその塊は停車した。乗車位置に立って止まる電車の窓を覗いた。

 電車のなかに立つ同世代の男性と窓越しに目が合った。男性の目はキラキラと輝き、口角はキュッと上がっていた。浅黒い顔に艶があり、毎日が充実して幸せだ、と顔に書いてあるように見えた。仕事も順調であたたかい家庭を持つ人生の成功者のようだった。

 ドアが開いて、道をあけた。その男性が電車を降り、大股で颯爽と歩いて行った。男性はチラっとこっちを見て会釈した。その姿が様になっていた。羨ましいなと思いながら男性の後ろ姿を目で追った。


 電車に乗り込んでから、空いてる席を探した。若者の男性と中年の主婦の間に隙間を見つけ、そこに肩をすぼめて腰を下ろした。ため息をひとつ吐いた後、スーっと意識が遠のいた。

 目を覚ました時には、電車はすでに最寄駅に到着したアナウンスが流れていた。ドアが閉まる寸前だった。私は慌ててドアへ向かいホームへと転がるようにして降りた。ホームにおりてからふらつく体を立て直し、一つ息を吐き、乗ってきた電車が小さくなっていった。

 改札を抜けて、辺りは見渡した。今から二十分かけて急な坂道を上らなければ自宅にたどり着かない。今から坂道を上がり、自宅に着いた時の沙知絵の表情が頭に浮かんだ。また、深くて重いため息が出た。吐いた息が宙で白く濁って消えていった。

 なかなか自宅へと足が向かず、駅前にあるコンビニで缶コーヒーをひとつ買って、前の駐車場の片隅でそれを一人で飲んだ。

 風が冷たくて、体を竦め煙草に火をつけた。煙草を吸うだけでも肩身が狭い時代になったなと思う。夜空を見上げて三日月に向かって紫煙を勢いよく吐いた。三日月の明かりが紫煙をモヤモヤと照らす。

 この一瞬の時間だけが私に与えられた幸せな時間のような気がした。

 煙草を根元まで吸って携帯灰皿に押し付けた。

 これで私に与えられた幸せな時間は終わった。これから急な坂道を上がって沙知絵のつり上がった顔を見なければならない。


 暗闇の中で、そこまでのことは思い出せた。そこからはまっすぐに自宅へと向かったはずだ。寄り道はしていないが、そこからの記憶が全く出てこない。

 そこから先、私はどうしたのだろうか?

 今なぜこの暗闇の中にいるのだろうか?

 思いだそうとしても記憶が出てこない。

 もう一度瞬きをしてみたが、何も見えないままだ。光を感じない。体も動かない。音も聞こえない。風の音すら聞こえない。自分の息する音も聞こえない。

 というか、もしかして、私は息をしていないのではないかと思った。


『キキキキキッー』

 急に耳をつんざくような音が聞こえてきた。この暗闇の状態になる少し前にこの音を聞いたことを思い出した。耳を突き刺す高くて嫌な音だった。

『バァーン』

 続いて鈍い音が聞こえた。

 この鈍い音を聞いた瞬間にコンビニの駐車場で缶コーヒーを飲んだ後の記憶が私の頭によみがえってきた。


 コンビニの駐車場を出て前の信号を渡っていた時だ。

『キキキキキッー』という耳をつんざくような音が聞こえて私は重い頭を上げた。

 すると、目の前にトラックが見えた。その後ヘッドライトが眩しくて何も見えなくなった。「あ」とだけ声を上げた。

『バァーン』と鈍い音がして頭と胸の辺りに強い衝撃を感じた。

 私はコンビニの前の信号を渡る時にトラックにはねられたんだ。やっと思い出した。

 思い出した瞬間に、目の前がパッと明るくなった。

 白い天井が見えた。長い蛍光灯の白い光が目を刺した。暗闇から急に明るくなったせいで、少し視界がぼやけた。瞬きを繰り返し明るさに目が慣れると視界の端に白いものが見えた。

 視線をゆっくりと天井から白いものの方へ移動させると白衣姿の医者らしき男が立っていた。

 顔を覗きこむと年齢は若そうに見えた。三十代くらいだろうか。ボリュームのある黒々とした頭髪の下に小さくて白い細面の顔が覗いていた。眼鏡の奥の切れ長な目はベッドに横たわっている私の顔に向けられている。薄い唇は真一文字のままで平坦な表情をしている。

 その医者の隣に看護師が立っていた。小柄だが横幅は隣の医者の倍ほどはある。鼈甲の眼鏡から覗かせる視線と気だるそうに首を回す仕草にベテランの貫禄を感じた。

 今、私は病院のベッドの上にいるようだ。トラックにはねられた後、意識を失い救急車でここに運ばれたのだろう。

 体は動くのだろうかと手足をバタバタしてみたら意外と簡単に動いた。それもとても軽い。

 首を左右に動かしてみるとスムーズに動く。手足や首に痛みは全く感じない。起き上がろうと首を少し枕から持ち上げた。うん大丈夫だ。次に腹筋を使い体をゆっくりと起こしてみた。やはり痛みもなく、腹筋に力をいれることなく、すーっと簡単に体を起こすことができた。

 体が軽くなった気がする。これまでなら寝ている体勢から脂肪だらけのブヨブヨとした体を起こすのに腹筋に力をこめてもなかなか起き上がれなかった。後ろに手をついて、よっこいしょと声を上げ気合いを入れなければ体を起こすことが出来なかった。

 今は簡単に、ヒョイッと起き上がることが出来た。痛みも全くない。怪我は治ったのだろうか。いや、元々怪我はしてなかったのかもしれない。トラックにぶつかったが奇跡的に無傷だったのかもしれない。

 事故にあって気を失っていたので、とりあえず病院に運ばれ、このベッドに寝かされていただけにだろう。

 このイケメンの医者に詳しいことを訊いてみようとイケメンの涼しそうな目を覗き込んだ。

「あのー、すいません」

 イケメンに向かって声を発した。

 イケメンは私の声が聞こえていないのか全く反応しないで平坦な表情のままだった。

 それに、私はベッドの上で体を起こしているというのに私の顔に視線を向けることなく、じっと枕元を見ている。完全に私を無視している。

 普通の医者なら、患者の意識が戻り起き上がったら、『起き上がらないでもう少し安静にしていて下さい』だとか、『意識が戻りましたか? それは良かったです』だとか、声を掛けそうなものだ。

 イケメンは私に顔を向けることなく、ずっと、平坦な表情で枕元に視線を向けている。

 隣のベテランの看護師を見てみると、同じく私には視線を向けないで、手元の資料に視線を落としていた。

「二人して患者を無視するんですか」

 棘をつけて言ってみたが、全く反応しない。

 背中に人の気配を感じたので、後ろに首を回すと沙知絵と柚菜が立っていた。二人とも医者と同じように私に視線を向けないで俯いていた。

「サチエー」病院の中だが、少し大きい声で呼んでみた。

 しかし、沙知絵からは何の反応もなく、下を向いたままだった。

 残念ながら私の体を心配しているという様子には見えなかった。

 病室という静かにしておかなければならない場所でじっとしているだけのように見えた。私の意識が戻ろうが戻らまいがどちらでもいいといった風に見えた。

「死んじゃった?」沙知絵の隣に立つ柚菜が呟くように言った。

『死んじゃった?』とはどういう意味だ。柚菜の顔を見たら、口を尖らせて気だるそうな表情を浮かべていた。

「ユナ」と呼んで見たが沙知絵と同じく反応がない。

 私は自分のベッドの枕元に、ふと視線を向けた。

 す、すると、な、なんと、ベッドには、私とは別の誰かが横たわっていた。

 私がベッドから出て、立ち上がっているのに医者も看護師も沙知絵も柚菜も誰も気づいていない。

 四人ともベッドに横たわる誰かを見ていた。

 そしてイケメンの医者がベッドに横たわる誰かに顔を近づけて瞳孔を確認してから腕時計に視線を落とした。

「十一月十一日、午前十一時五十八分、今お亡くなりになりました」

 イケメンはそう言って沙知絵に向けて頭を下げた。

「あなた」

 沙知絵がベッドに近づき横たわる誰かに声を掛けた。

「お父さん」

 柚菜もベッドに横たわる誰かを覗きこんだ。

 沙知絵はベッドに横たわる誰かに『あなた』と呼んだ。柚菜は『お父さん』と呼んだ。まさかとは思ってベッドを覗きこんでみた。

 ベッドに横たわっている誰かは頭や顔に包帯が巻かれていて目を閉じていた。一体こいつは何者なんだ。包帯の隙間から覗く顔を覗きこんでみた。よーく見ると、包帯から覗く目元は青黒く腫れあがっているが、私の目元によく似ていた。

 ベッドの上に横たわる誰かは、誰かなんかではない。これは私自身なんだ。私は死んでしまったのだ。

 沙知絵の顔を見た。口元が緩みそうになるのを堪えていて、悲しんでいるようには見えない。柚菜の顔を見た。気だるそうにして首の後ろを掻いていた。

 あの時、トラックにはねられた私は、ここに運ばれて、ちょうど今、息を引き取ったところなのだ。

 そうなると、今のこの私は一体誰なんだ、と自分の体に視線を向けた。すると自分の体が透けていることに気がついた。

 もしかして今の私は死んでしまって魂だけになってしまったのだろうか。私の人生はたった半世紀で今幕をとじてしまったのだろうか。

「サチエー」と叫んでみたが、沙知絵の耳には届かないようだ。ベッドに横たわる誰かに視線を落としたままだった。

「ユナー」と叫んだが、やはり同じだった。

 二人は涙を見せることもなく、表情を変えることなく、ただ、こけしのように立って、ベッドの上で魂の抜けた私の体を眺めていた。そして、最後にイケメンの医者に向かって頭を下げた。なぜか私も二人に倣って医者に向かって頭を下げていた。

 その時、激しい風が吹いて魂だけになった私は吹き飛ばされそうになった。病室の窓もドアは閉まっているのに、どこからこの激しい風が吹いてくるのだろうかと強風に耐えながら辺りを見渡した。どこから吹いているのか、全くわからない。私は強風に耐えようと、体を低くした。風が顔面に当たると目を開けていることさえ辛くなり顔そむけた。

 不思議なことに風を受けているのは、私だけで病室にいる他の四人は風を受けている様子はなく、平然と立っていた。

 病室にある全ての物もおとなしくその場から動かず、風で飛ばされる様子もない。

 風の力が一段と激しくなった。そして、ついに私の体は宙に浮いた。手足をバタバタと雛鳥のように抵抗するが全く効果がない。

 風で浮いた体は、そのまま病室の窓に向かって突っ込んでいく。このままだと私は窓に激突して、割れた窓ガラスで全身血まみれになると思った。恐怖に怯え窓にぶつからないようにと手足のバタバタを繰り返し必死で抵抗した。無駄な抵抗のようで全く効果がない。ドンドン窓ガラスが近づいてくる。もうダメだと、私の力は抜けた。

 窓ガラスが目の前に迫る。ぶつかる瞬間に両手で頭を抱えて目を閉じた。ガッシャーンと激しく窓ガラスが割れるかと思いきや窓が割れることはなかった。

 目を開けると私の体は窓ガラスをすり抜けて病院の外に飛び出ていた。

 四階の病室から飛び出た私は引力に逆らい、そのまま風の力に押されて風船のように舞い上がっていった。

 私は顔面に風を受けながら、また雛鳥のような手足のバタバタを続け抵抗してみた。

 しかし、全くと言っていいほど効果はなく、どんどんと上昇していく。

 さっきまで私のいた病室の窓がみるみる小さくなっていく。病院の屋上の白いコンクリートの床が見えた。屋上には数人の人影があった。人影もあっという間に米粒のようになり病院の駐車場に停まる車も豆粒ほどになった。病院の周りの田畑が碁盤の目のように見える。私は止まることなくまだまだ上昇していく。そして上昇するスピードがドンドンと増していく。

 私は無駄な雛鳥のような抵抗を諦めてしまった。激しい風が私をドンドンと空高く舞い上げていく。最初は怖かったが、途中から遊園地のアトラクションのような感覚になった。

 青く輝く瀬戸内海に小さな島が浮かぶのが見え、瀬戸大橋も見える。瀬戸内海の向こうには四国の山や街並みが広がる。視線を左に向けると淡路島に六甲山も見える。

 風を受けてまだまだ上昇していく。淡路島の形がはっきりわかる高さまで上昇した。大阪湾も見える。関空も見える。その向こうが和歌山県だ。

 和歌山県の上空に青く輝く強い光を見つけた。UFOだろうか。いや違う。たぶん、あれも今の私と同じ魂だろう。今の私も遠くから見るとあのように青くて強い綺麗な光で輝いているのかもしれない。生きている間に強く綺麗に輝きたかったものだと思った。

 雲の中に入ったからなのか、急に視界が真っ白になった。ドンドンと風の勢いが強くなり上昇するスピードが上がっていく。最後は一気にスピードが加速し逆バンジーにでも乗ってるかのように、私は天へと吸い上げられていった。

 真っ白だった視界が急に藍色に変わったところで、ピタリと止まった。足元に雲が広がり周りは藍色の世界だ。ここは死後の世界なのだろうか、とキョロキョロと上下左右に首を動かして見た。

 辺り一面、見渡す限り藍色一色だ。足元を見ると幅一メートル位の水色の道が出来ていた。その水色の道は、眼前に広がる藍色の空間へオーロラのように曲線を描きながら伸びていった。

 足元の水色の道を見ると、氷の粒が敷き詰められたようなものだった。私の体は自分の意思とは関係なく、勝手に水色の道の上を氷の上を滑るソリのように滑りはじめた。

 私は転ばないようにバランスをとり半身になった。スケボーを滑るような体制になった。これまでスケボーの経験など全くなかったのに、意外と転ぶことなくスムーズに滑っていった。

 周りを見ると、藍色の世界に無数の水色の道が走っている。水色の道は次から次へと現れ、藍色の空間に伸びていった。水色の道上を青い玉が勢いよく滑っていた。あれは私と同じように魂だけになった人たちだろう。青空に飛行機雲が何本も重なり伸びていくような光景だ。

 私は水色の道の上を適度なスピードで振動もなく滑っていった。本当にスノボーを滑っているような感覚で、それもかなりのスノボー上級者のような気分でなかなか心地がよい。

 ただ、この先私は死に向かっているのだと思うと複雑な心境になる。私が病院のベッドで息を引き取った瞬間の沙知絵と柚菜の表情を思い出すと、この先生きていても仕方ない人生だとは思った。早くに死別した父親と母親のもとに行った方が幸せなのだと思った。しかし、やはり死にたくはない。もう一度、沙知絵と柚菜と家族三人で幸せに暮らしたい。

 しばらく滑っていくと、目の前に大きな川が見えてきた。川の水の量は多く、色は赤錆色に濁っていた。もしかしてあれが三途の川なのかと見ていると、前を走る青い玉たちは、川の手前で一旦停止をした。

 そして、そのまま水色の道が川の向こう岸まで一気に伸びて、青い玉は水色の道の上を滑り向こう岸へと渡っていた。

 なかには水色の道が川の手前で止まったまま伸びないで、そこからバックして戻っていく青い玉もいた。バックする青い玉は、死に際で助かり生き返ることができた人たちなのだろう。九死に一生を得た人たちだ。私はどうなるのだろうか。三途の川を渡ってしまうのか、それとも引き返すことになるのか。心臓がバクバクと音を立てた。

 三途の川をバックする青い玉は、ほんのわずかだ。ほとんどはそのまま真っ直ぐ川の上に水色の道が橋のように伸びて向こう岸まで渡りきっていた。

 三途の川の手前まで来たところで、急ブレーキがかかるように止まった。願うように両手を合わせた。やはり死にたくはない。頭の上に三途の川と書いてある文字が宙に浮かんで見えた。その文字がチカチカと点滅するのを、じっと見上げた。

 私はここからバックして生き返れるだろうか。もし、生き返れるなら、私は生き返りたいのだろうか、それとも、このまま天国に行きたいのか、自分に問いかけてみた。

 私は生き返ってやりたいことはあるのか、生き返って喜んでくれる家族はいるのか。答えはノーかもしれないが、やはり生き返りたい。いい人生じゃなかったかもしれないが、生き返ったらやり直すことができるかもしれない。

 私は、チカチカと点滅する三途の川の文字を見上げてずっと手を合わせていた。しばらくそのままで何も変わらない。手に力を込め、目をぎゅっと閉じた。そして生き返らせて下さい、と祈ってみた。

 長い時間、止まったまま動かなくなった。目を開けてしばらく見ていると、私ともう一つの青い玉だけが、ずっと止まったまま動かないでいる。

 後ろからくる青い玉はドンドンと私を抜かして三途の川を渡っていく。十個以上の青い玉に抜かされた。ここでもみんなに抜かされるのだと出世街道を思い出した。

 隣で私と同じように止まっている一つと私はバックして生き返られるのではないかと期待しはじめた。

 しかし、そう期待した瞬間に、私の前の水色の道は三途の川の向こう岸まで一気に伸びていった。隣で止まっていたもう一つの青い玉も同じように三途の川の向こう岸まで水色の道が伸びていった。

 結局期待させるだけさせておいて、私はバックすることなくそのまま三途の川を渡りきってしまった。これで私の死が確定したのかもしれない。

「沙知絵、柚菜、高山、清水、みんな、ありがとう。さようなら」

 三途の川を渡りながら後ろを振り返り手を振り心の中で呟いた。

 三途の川を渡ってから五分程進んだ所で、私より少し前の方を走っている水色の道は右にカーブしてから、滝を昇る龍のように上昇して伸びていった。

 そこに乗る青い玉もそのまま水色の道に沿って次から次へと右へとカーブして上昇していった。

 その時、私の頭上に白い文字が浮かんだ。最初はぼんやりした文字で見えにくかったが、徐々に文字がはっきりとしてきた。そこには『天国行き』と書いてあって白い矢印が右斜め上を指していた。

 そういうことか、前を走る青い玉が右へカーブしていったのは、天国へ向かっているのだろう。私もこれから右にカーブして天国へと向かうのだ。

 この時は、そう信じていた。

 ところが、これまで水色の道の上をスムーズに滑っていたのが、急に悪路にでも入ったかのように左右に大きく揺れだしてスピードがガタンと落ちた。

 足元の水色の道を見てみると、氷の粒のようなものが消え色が淡くなってきた。

 スピードは一気に落ちて、今にも止まりそうな徐行運転になってしまった。トラブルだろうか。頭の上の『天国行き』の文字を見上げるとチカチカと点滅をはじめていた。

 後ろからくる他の水色の道は、次から次へと何本も伸びて、その上を青い玉が勢いよく滑り私を抜いていく。それらの青い玉は天国に向かって右へとカーブして上昇していった。

 トラブルに巻き込まれたのは、私だけのようだった。何だろうと腕を組んで頭上に浮かび点滅する『天国行き』の文字を見上げた。

 もしかするとここからバックするのかもしれない。そして生き返れるのかもしれない、と期待した。

『天国行き』の文字の点滅するスピードが早くなった。

『生き返る』という文字に変わるのではないかと、目を凝らしてじっと見た。

「頼む、生き返らせてくれ」そう願って、また手を合わせた。

 私が生き返ったら沙知絵と柚菜はどんな顔をするのだろう。ガックリと肩を落とすのではないだろうか。清水と高山はどうなんだろうか。そんなことを思いながら点滅する文字を見上げた。

 点滅が止まり『天国行き』の文字が消えた。

 右を指していた矢印がルーレットのようにグルグルと回り始めた。回るスピードがドンドン早くなり、矢印が白い円のように見えた。

 それから、矢印の回るスピードがだんだん落ちていき、矢印の形が確認できるくらいのスピードにまでなった。上右下左と順に矢印が向きを変えていく。

 そして矢印がほとんど止まりかけていた。このまま止まるのかと思ったら、そこで白色だった矢印の色が急に真っ赤に染まった。

 真っ赤になった矢印は、そのままゆっくりと回り続けて、上から右へ、そして下へと動いていた。本当にルーレットのようだ。そして真っ赤な矢印が左を指したところでピタリと止まった。

「左?」と呟いてから首を傾げた。どういう意味だろうか、と不安になった。

 矢印が点滅しはじめた。そしてその上に新しい文字が浮かび上がってきた。その文字も赤色っぽかった。最初はぼんやりとした文字で何が書いてあるのか読めなかった。徐々に文字がはっきりとして真っ赤になった。

 真っ赤になった文字を見ると『地獄行き審判』と書かれていた。

「えっ、な、なんだ、それ」

 私の声は裏返ってしまった。

 そこで、足元を見ると真っ赤な液体が流れていた。ガタンという音と共にこれまでの滑っていた道が消え、私は真っ赤な液体とともにまっ逆さまに落ちていった。

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