第一章①-裏2 『パン屋にできること』
――パン屋・ポーテン
窓の外を、薄灰の空気が静かに流れていた。街の喧騒から少し離れたこの工房には、普段なら焼き立てのパンの香りが満ちている。だが今は、重く沈んだ空気と、どこか張りつめた沈黙だけが漂っていた。
「なあ、エリ。やっぱり今日は休みにしよう」
ジャンが作業台の向こうから声をかけた。その口調は柔らかだったが、声音には譲れぬ意思が込められていた。
「さっきから、お前……ずっとボーッとしてるじゃねぇか」
エリは、練りかけたままの生地に手を置いたまま、顔を上げる。
「え……ああ、大丈夫。平気よ、全然」
「いや、ダメだ。お前の“平気”が平気だったためしがねぇだろ」
休憩中のジャンは椅子を押しのけ、静かに立ち上がった。足元の床材がきしむ音が、小さな工房の中に反響する。
「俺はな……ナイユフかカマチ、どっちかに第四王子になってほしいと思ってる。けど、警察軍の連中が言ってた。通報したのは、ザーフだってな」
その名を口にした瞬間、ジャンの顔に怒りの色が走った。
「……あいつだけは、どうしても許せねぇ。わかってるよ、理屈じゃナイユフやカマチに任せるのが正解だって。でも、それだけじゃ終われねぇんだ」
彼は拳を握りしめると、短く息を吐いた。
「どうしても、自分の目で確かめて、問いただして、それでも納得できなきゃ……殴ってでも吐かせてやる」
「待ってよ、ジャン。それって危険すぎる。問いただしたって、何かが変わるわけじゃない。……何の意味があるの?」
エリの声には、焦りと不安、そして戸惑いが入り混じっていた。
「意味なんか知らねぇ。……ただな、このままじゃ気が済まねぇんだよ。俺の中の何かが、じっとしてられねぇって暴れてんだ」
ジャンは、そっとエリの肩に手を添えた。その手は、荒々しさとは裏腹に、どこまでも優しかった。
「だから、頼む。今日はお前は休んでくれ。ちゃんと横になって、しっかり休んでてくれ。……倒れられたら困るからさ」
「でも、私だって……」
「ダメだ。お前が倒れたら、俺……何のためにここにいるのか、わからなくなっちまう」
静まり返った工房の中で、ジャンの言葉がゆっくりと響いた。重く、まっすぐに。




