9.女の敵は女
せっかくの火曜日のクリスマスも、由海は自宅で、一人寂しくすごしたのだった。
結局、水曜日まで休みをとり、次の日から登校するようになった。
光宗にとって、由海との関係は遊びだった。もう仲は修復できそうにもなかった。それについては折り合いがついたわけではない。いまだ傷は癒えず、心も晴れるには程遠かった。
季節はずれの遠雷が轟いていた。スズメバチの巣みたいに不吉な襞のある曇天が広がっている。まるで由海の前途を暗示しているかのようだ。
教室へ入るなり、それは現実のものとなった。
一瞬、祖父の遺影を飾った仏壇のある八畳間にいるのかと錯覚した。
あの天井。木の節みたいだと思った。いくつものクラスメートの非難めいた冷たい視線。
無言の圧力が、なにを意味するか、由海は察した。
教室の中央にある自身の机に向って進んだ。
「ほら、お出ましだよ。光宗センセと寝た人が」
「ヤダヤダ……。てっきり悪阻が酷くって、もっと休むのかと思ってたのに。お腹はおっきっくないようね」
「光宗もあんなさわやかな顔して、面食いだよな。よりによって、庄司とデキてたなんて。ちゃっかりしてやんの」
「アタシもイケメン教師に食べられたーい」
クラスメートの聞こえよがしの囀りが嫌でも耳に入ってくる。
由海は感覚を遮断し、席についた。かばんから数学の教科書とノートを取り出す。
口さがない女子生徒たちの会話が続く。はみ出し者への制裁がはじまっていた。
じきにそれは仲間外れ、無視へとつながっていくだろう。
日本人はいくら時代が進もうと、都会にいようがいまいが、老いも若きもムラ社会のコミュニティに属している。
長い物には巻かれろ。寄らば大樹の陰。貧しくともみんなで横並びなら仲良し。――逆にいえば、出る杭は打たれる。
どんなコミュニティにも独自の価値観や集団意識があり、少数派や多様性の存在を認めたがらないものだ。時代は移ろい、いまでこそ考え方まで変化してきたとはいえ、相変わらず古いタイプの人種はいた。
由海の机に、背の高い女子が寄りかかった。
あまり素行のよくないと評判の桐生 千尋だった。
千尋は上から由海を見おろし、
「庄司、あんたの評判、すっかり学校じゅうに広まってるよ。こんな狭い町だもん。誰かが情報を手に入れ、すぐに拡散しちゃう。みんな退屈してるんだよ。なにか事件が起きないか、ウズウズしてる」
と、言った。
「なんの話か、私にはわかんないんですけど」
由海は黒板を見据えたまま答えた。
「事件が起きたそうじゃん。土曜日の夜は雪が降ってたけど、光宗との仲はさぞかし熱かったんでしょうね」
机の物入れから、そっと彫刻刀を出した。
先端がナイフ状になった切出刀だ。
そっと、プリーツスカートの上から、自身のふとももに突き立てた。
痛みで意識をそらさないと、激情にかられてしまいそうになる。
そのとき、教室の引き戸が開いた。
光宗が現れた。
チタンフレームのメガネは相変わらずだ。鼻の頭に引っかいたような傷がついていた。
教室に入ると、男子生徒の口笛が飛んだ。
女子が拍手し、黄色い声援をあげる。
光宗は教壇に出席簿を置き、朝のあいさつをした。
が、クラスは授業崩壊の状態だった。
誰もがだらけた姿勢で、思い思いの場所を陣取ったまま、席につこうとしない。
窓際で、全身カーテンに包まって魔法使いみたいになった女子生徒の一人が、野卑な笑い声をあげた。
「光宗先生、やっと愛しい人が登校されたんですよ。なにか声をかけてあげたらいかがですか?」
と、由海の方をふり返りながら言った。
「先生よ。ズバリ、庄司とはどういう関係だったんスか」と、こんどは廊下側の最後尾の席にふんぞり返った男子が言った。制服のまえがはだけ、白いシャツが全開になっている。「シレッと涼しい顔してるけどさ。先生もやるよね。我がクラスの憧れの子を奪っといて、懲戒免職はないと? いい年こいた大人がそれでいいのかよ」
教壇に立つ光宗が怪訝な表情を作り、眼を細めた。
「庄司?」と言い、出席簿を教壇の上に立てた。照明の加減でレンズが緑色の光をはね返す。「知らんな。なんで僕と庄司が恋人に結び付けられるんだ? 一教師が生徒に手を出すはずがないだろ。風評被害も甚だしい。――いいか、みんな。SNSの取り扱いには充分気をつけろ。推測だけで先走りするんじゃないぞ。さもないと」
「アンモナイト、だってさ、マジうける!」と、由海の机の上に座っていた千尋が、甲高い声で笑った。千尋は挙手して、「学校じゅうに知れ渡ってるよ、光宗! 職員室で追究されたんじゃないの。それでも白を切ったと?」
光宗は動じない。
たいしたメンタルだった。この分だと、千尋が言ったように、火曜日の放課後に行われた緊急職員会議での糾弾においても、徹底的に否定したのであろう。
たまらないのは由海自身だった。
これほどみじめな気分を味わったことがない。
わずかな間とはいえ、心通わせた仲になったはずなのに――。
真っ向からなかったことにされるのは屈辱的だった。
由海はこぶしを固く握りしめ、歯噛みした。
彫刻刀を持つ右手が震える。床に血の滴が落ちていた。
左斜め前の席の男子がふり返った。
「庄司、気にすんな。光宗はあの程度の男だ。おれは最初からわかってた」
と、言った。
右隣りに座っていた小太りの女子が、身を乗り出し、
「妬けるわん。由海ちゃん、センセと恋仲になっても、男子たちに守られて」と、鼻の穴を広げながら言った。消しゴムをちぎり、塊を由海に投げつけてくる。髪のなかに引っかかった。「でもって、センセに捨てられたら、次はおれにチャンスがあるかも、ってやつじゃないかな? 女は恋に破れたとき、優しくしてくれる殿方になびきやすいそうよ」
由海はこらえた。
敵意のまなざしを光宗に向けたままだ。光宗も甘んじて受けて立っている。
「残念だったね、庄司。あんたの好きになった先生が、まさかこんな薄情な人だったとは」
と、千尋が長い髪をかきあげながら言い放った。
光宗の手のひらを返したかのような仕打ちに、どれほど耐えられるだろうか?
時間が解決してくれると母は慰め、送り出してくれたが、どれほどの罰を受け容れなくてはいけないのだろうか?
あれほど好きだったのに、夜も寝つけないほど欲したのに、いまでは怒りの対象へと変わり果ててしまった。
そのまえに、排除すべきは光宗ではなかった。
女の敵は男ではない。
――女だ。
「千尋、いつまで人の机に座ってんの。どいてくれない? 邪魔なんだけど」
由海は毅然たる態度で言った。
「邪魔なのは、庄司――あんただよ。あんたは私らの輪からはみ出した」と、千尋は鬢にかかった髪のひと房を耳にかきあげて、鋭く睨んだ。「ここは私が占領したもん。あんたの居場所はない。とっとと出ていきな」
その言葉で、由海のなかのスイッチが入った。
外で雷が鳴った。それを合図に彫刻刀をふりかざした。
なにもかもスローモーションの動きとなる。
お父さん、お母さん、おばあちゃん、約束守れずゴメン。またカッとなっちゃった。
もしかしたら、私のせいで日高川町から出ていかなくちゃいけないかもしれない。
そのまえにその手の施設に入れられるか、悪くすれば刑事裁判で有罪になれば前科がついてしまう。
由海は血に染まった彫刻刀を見つめながら、そう思った。
足もとには千尋が顔面を押さえたまま横たわり、身をよじらせてうめいている。
潮が引くように、由海の席を中心に、生徒たちが悲鳴をあげて遠ざかった。
雷鳴が響きわたり、教室は白い光で閃いた。