表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/14

8.怒りの源泉

 五歳の由海は川に入った。

 こうしてはいられない。

 ダンボールの箱はあぶなっかしげに揺れ、しかも子猫たちが一方の船べりに前脚をかけるせいで傾き、すぐにでも沈没しかねない。


 まだ舟は上流の方に位置しているとはいえ、この急な流れだ。あれよという間に下流へと運ばれるだろう。

 川を渡ろうにも真ん中にさしかかれば、背が届かなくなるほどの深みに入る。

 急いだところで間に合いそうもなかった。

 由海は両手でメガホンを作り、


「やめなさいよ! そんなひどいことしないで!」


 と、叫んだ。

 叫びつつ、日高川の深みへと進んでいく。

 男児たちはどこ吹く風。やめるどころか、四人は砂利をつかみ、


「射撃開始!」


 と言うや、投石をはじめたからたまらない。

 浜伝いをゆるやかに進んでいたダンボール舟のまわりに着弾する。

 子猫の悲鳴は聞くにたえない。

 そのうち、誰かが両手で放った大砲級の大石が、舟のそばに落ちた。派手な水柱が立つ。

 波紋のせいで、いよいよ急流に乗ってしまいそうだ。


 川幅は一〇メートル強。

 まだ三メートル進んだかどうか。

 由海の胸までの深さに達した。

 流れがきつい。


 足をとられ、このままでは子猫を救うどころか、由海までが危険にさらされるだろう。

 両手で水をかき、なおも前に歩いた。

 さらに進めば、足がつかなくなるほどの水深になった。


 立ち泳ぎをしたことはなかった。

 それでも我が身をていし、平泳ぎした。

 流れがきつく、下流へと押される。

 

 ダンボールの舟めざして必死に抵抗した。

 対岸の浜辺で、舟の動きに沿って歩いていた男児たちが由海を指した。

 口々に叫ぶ。


「よせよ、由海。邪魔すんな!」


猫舟(、、)がどこまで流れるかの実験なんだよ!」


「おまえまで流されるぞ。やめとけやめとけ!」


 由海は水をかきながら、水面から顔だけを出し、


「やめて! こんなひどいこと、いますぐやめて!」


 と、叫んだ。

 リーダー格が取り巻きたちと目配せし、


「邪魔する奴はゆるさない。こんどは由海を狙おうぜ」


 と、鶴の一声。

 それを皮切りに四人は砂利をつかむと、由海めがけて投げた。

 この年ごろの男子というのは残酷な一面があり、限度を知らぬものだ。


 それでも、由海自身に命中させるのはよくないと無意識が働くのだろう。

 石の雨はことごとく由海のまわりに着弾するだけで、脅威を感じるほどではない。

 とはいえ、しょせん保育園児。コントロールがあやふやだ。

 狙ったつもりではないのに、誤って当ててしまう恐れがあった。


 じっさい当たった。

 左肩に小さなつぶてが命中し、由海は水中のなかで身悶えた。

 その拍子に水を飲み込み、呼吸が乱れた。

 痛みでうまく泳げなくなり、流れに逆えなくなる。

 水に潜り、それでも気力で浮上し顔をあげるも、また水中に没する。


 落ち着け、由海。――由海は自身に言い聞かせた。

 一瞬見えたダンボールの舟。

 幸いにして急流エリアから岸部のゆるやかなコースに乗ったおかげで、速度は落ちている。


 由海はこらえた。

 肩の痛みもなんのその。泳ぎに関しては同年代でトップクラスだったのだ。

 負けるもんか!


 川のなかばをすぎた。

 もう少しで子猫を救える。

 左から舟がゆっくり流れてきた。

 茶トラたちがピンク色の口をあけ、小さな歯をむき出し、鳴いている。

 男児たちの残酷なゲームから、なんとしても助けなくてはいけない。


 手を差しのべた。

 そのときだった。

 こめかみに強烈な一撃が炸裂し、眼のまえに星が散った。

 瞬時にして視界が暗転――。


 リーダー格の男児が放った礫が、頭部に当たったのだ。

 薄れゆく意識のなか、対岸で肩をふりおろした姿勢の男児が、にやっと笑ったのが見えた。

 三人の取り巻き連中が拍手したり、なかには罪の意識を感じるらしく、眼をまるくし、飛びあがる者もいる。


 無情にも、茶トラたちを乗せた舟が由海の手をすり抜けた。

 下流へと押し流されていく。

 子猫の悲痛な顔が眼に焼き付いた。

 由海はさらに水を飲み込んだ。

 泳ぎの達者な大人でも、気道内に水を入れてしまったときはパニックとなり、溺死の要因となるものだ。


 意識が暗闇に閉ざされ、水中に沈む。

 それでも徐々に暗黒へと塗りつぶされていく片隅で、赤黒い色が脈動し、負けじと勢力を広げていった。


 ああああああああああ……ッ!

 よくも……よくも……!

 よくもやってくれたな!


 由海の身内に煮えたぎる思いが爆発した。

 憤怒の感情でよみがえる。

 同時に既視感デジャヴを憶えていた。

 五歳の女児に懐かしい(、、、、)と思わせるふしぎな感覚。

 水中に没し、流れのなかでもみくちゃにされながら、なおも逆らおうとしていた。


 このまま逃がしてなるものか!


 古来より人々に恵みをもたらした川。

 反対に、風雨が長引けば荒れ狂い、人々を泣かせた川。

 両極端の面をあわせ持つ川。

 それはかつての()にも同じことが言えた。優しさと烈しい怒り。


 あれほどあの方をお(、、、、、、、、、)()いしていたというのに(、、、、、、、、、、)裏切られた(、、、、、)


 いま、封印していた激情を解き放つときがきた。

 由海の意に反し、身体がくねくねと動いた。

 たくみに身をくねらせ、流れに逆らい、水面をめざして泳いだ。


 イメージが沸いた。――いま、私は人間ではない。身体は長々と伸び、しなやかな棒状の物体へと変化している。

 うろこ

 しなやかな身体でありながら、硬化した角質層が取り巻いている。

 水の抵抗が減った。


 もうすぐ水面だ。

 白いきらめきが踊っている出口へ近づく。

 水から飛び出た。


 大きく酸素を貪る。

 すぐに血眼ちまなこになってダンボール舟を探した。

 どこにも見当たらない。


 よくも――!

 ならばと、怒りの矛先を対岸に向けた。

 由海の姿を認め、男児たち四人が悲鳴をあげている。


 ただごとではないおびえぶりだ。

 身体に酔いしれるような激情の撹拌かくはんがおきた。

 制御しがたい熱気が渦巻いて収縮し、入り乱れ、やがて狂気じみた放熱。


 由海は水上をすべりながら(、、、、、、、、、)四人に迫った。

 砂利の浜にあがると、右端の男児からつかみかかった。

 渾身のこぶしを男児たちの顔面に叩き込んだ。


 次々と倒していった。

 一撃でノックアウトさせる。

 三人目を打ちのめすと、左端のリーダー格に向きなおった。


 体格のいい男児が両手を顔にかざし、憐れみを乞うた。その顔は恐怖で歪んでいる。

 由海は怒りにまかせ、腹に膝蹴りを浴びせた。

 前のめりになったところを、後頭部に肘鉄を打ちおろした。

 崩れ落ちたところに、ありったけの力をこめて殴りつけた。

 リーダー格は大の字になって伸びた。


 四人は一瞬にして地面に転がり、あたりは打ち水を済ませたかのように静かになった。荒々しい川の音だけが聞こえるだけだ。

 少なくとも息はしている。気絶しただけだ。

 由海はずぶ濡れになったまま、肩で息をし、立ち尽くしていた。

 ふと頭上で、誰かに呼びかけられる声を耳にした。


「そこにいるのは由海ちゃんじゃないの! よかった、ぶじで!」


 近所のおばさんが土手の上に佇んでいた。

 由海はその声で我に返った。


◆◆◆◆◆


「ほら、当たった。だから言わんこっちゃない!」と、着物姿の響子はぴしゃりと言った。「あれほどお盆の時期に水遊びをするなと、口酸っぱく言ったじゃありませんか。あやうく連れていかれるところだった。ご先祖さまが守ってくれたからよかったものを。これも清さま(、、、)のおかげです」


 近所のおばさんといっしょに自宅へ帰るなり、祖母は厳しい口調でまくし立て、濡れねずみとなった由海と、寄り合いから連れ戻した父を責めた。

 由海のこめかみには青いあざがあり、乾いた血がこびりついていた。

 父はさっきからうなだれている。いくつになっても、親にはかなわないらしい。

 由海は、お父さんは悪くないよ、と言おうとして、真横を見た。


 父は下を向いたまま由海を見やり、ぺろりと舌を出した。小声で、


「でも助かったからよしとしよう。男の子たちをぶん殴ってしまったけど、おまえには子猫を救おうとした正当性がある。ましてや女の子の顔に傷をつけやがって。一生(あと)が残ったら訴えてやるからな。だからおれは、相手の親元へ謝罪しになんか行くもんか」


 と、囁いた。


「これ、岳彦たけひこ。反省の色がありませんよ!」


 すかさず近所のおばさんが響子をなだめた。

 たまたま河原を散歩の途中、由海が川のなかでもがいているところに出くわしたのだった。


「そんなに怒らないであげて、響子さん。由海ちゃんは正義感から、あんな行動に出ただけですよ。あんないたずら、見すごすわけにはいきませんわ」


「それにしたって、ずいぶん思いきったことをしでかしたものです。日高川は水かさが増していたはずですよ。勇気と無謀のちがいを知りなさい」


 と、響子。


「まあ、そうおっしゃらずに……。猫ちゃんたちは助かったそうでなによりです。下流でアユ釣りをしていた男性が拾ってくれたらしくて。貰い手にもなってくれたんですから、由海ちゃんの健闘も報われるというものです」


 由海もその釣り客には感謝していた。

 水をたらふく飲まされ、冷たくて怖い思いをしたが、あながち衝動的な行動も無駄ではなかったのだ。

 まさに世の中は、捨てる神あれば拾う神ありであふれている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ