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6.「実験動物なんかじゃない、私は!」

 ボンネットの上でしゃがみ込んだまま、フロントガラスを平手で叩き続ける少女。

 光宗はガラス一枚隔てた向こうの由海を見つめた。

 いきなりやられたときは驚き、バツの悪い思いをした。


 もはや覆水盆に返らずだ。開き直るしかあるまい。

 コンソールボックスをひじ掛けがわりにもたれ、フレミングの左手の法則みたいに指を開いて頬杖をついた光宗。

 まるでスクリーンに映される映画でも観るような眼差しで由海を見た。

 チタンフレームのメガネは冴え冴えとした緑色の光を反射している。


 涙を浮かべ、悔しさいっぱいの表情で射抜いてくる。

 言葉を発しているのが唇の動きから伝わった。

 窓を閉めきり、ヒーターをかけ音楽を鳴らしているので由海の声は届かないのだ。


 し・ん・じ・て・い・た・の・に。セ・ン・セ・の・こ・と・あ・い・し・て・た・の・に。


「やれやれ……事態を収拾せにゃならんようだ。じゃないと近所迷惑になるからな」


 と、助手席の光宗はしらけた顔で、横の女の肩にタッチした。


 女は頬をふくらませ、そっぽを向き、


「あーあ、修羅場になりそ」


 と洩らした。

 光宗はドアを開け、車外へ出た。

 運転席の女もそれにならった。

 というより、自身のポルシェ911のトランクルームの上に土足で乗られ、ガラスを連打されてはオーナーも黙ってはいまい。


「よさないか、由海。だだっ子じゃあるまいし。降りてこい」


 光宗は手でしゃくり、冷たい声で言い放った。

 ミンクのコートをはおった水商売風の女が顔をゆがめたまま由海を指さし、


「なんなの、この子? まさか臣吾しんごの教え子ってわけじゃないでしょうね?」


 と、鼻にかかった声で言った。軽蔑の色を浮かべている。


「そのまさかだよ」と、光宗は肩をすくめて、うんざりした口調で答えた。「ずっとおれのスマホが鳴ってただろ。この子からだ。ちょっと焦らしてやれって、スルーしてたんだが、こんなふうになるとは予想外だった」


 由海はボンネットの上で両ひざをついたまま、光宗を恨めし気に睨んだ。

 なにも事情を知らない人間が見れば、おかしな光景に映ることだろう。

 まるで悪さをした生徒を、罰としてポルシェのボンネットに座らせ、説教しているアングルにも見えた。


「どういうこと、光宗先生? 私とお付き合いしてたのと、ちがうの? 私が未熟だったから、わざと私の見える場所で当てつけしたわけ?」


「見せつけてやれと思ったんだが、由海にはちょっと刺激が強すぎたな。おまえが感情的になったら、どんな女に変わるか興味があったんだ。……まさか、こうまで取り乱すとはな」


「実験動物なんかじゃない、私は!」


 ポルシェの女は、巻き巻きに巻いたダウンヘアのひとふさを指に絡みつけながら、


「まったく臣吾も悪趣味よね。自分んのまえに車停めて、あんたが待ちぼうけしてる姿を見ながら、私たちラブシーン続けてたのよ。なにも知らないで、寒いなか、かわいそ。気づくの遅すぎ」と、言った。ボンネットに手をかけ、艶然と笑った。「ねえったら。いつまでもトランクルームの真上に乗らないでくれる? 傷が入ってたら、あんたのパパに損害賠償、請求するわよ。どうせ親には臣吾との関係、ナイショにしてたんでしょ? なら、わけを説明しないとね。そうなると、ややこしくなるぅ!」


 由海の身内に、狂おしいまでの怒りがみなぎったようだった。眼つきが変わる。


「ゆるさない!」


 由海はヘッドスライディングするかのように、頭から女に飛びかかった。

 つかみかかり、両手で首を絞めた。


「この子、頭、ふつうじゃない!」


「よくも、光宗センセを!」


 光宗がすかさず車のまえをまわり込み、由海を羽交い絞めにした。

 女から離す。


「やめろ、由海。彩香あやかが悪いわけじゃない。おまえと寝るまえからの付き合いだ。彩香の方が本命なんだよ」


「なによ、それ! そんなやり方で世の中、まかり通るってわけ?」


「すまない。女にはだらしない。それが昔から、おれの悪い癖だ。認める。――だがな、おまえの持ち物にされるいわれはない。わかるか? 最近やたらと、おれを縛っただろ? それがダメなんだ。そんなやり方だと嫌気がさす」


 由海は渾身の力で光宗の腕をふりほどいた。ふり向き、正面から向き合う。


「よくも! よくも私をもてあそんだな!」


 かぎ爪で猫パンチのように光宗の顔を引っかいた。

 はずみでメガネが飛んだ。


「あ痛!」反射的に鼻ごと頬を押さえた。見る見る指のあいだから鮮血がしたたった。「……落ち着け、由海。だから悪かったと言ったろ」


「臣吾、ここはひとまず退散しましょ。この子、ちょっとヤバいかも」


 と、彩香が光宗の袖を引いた。光宗も顔に手を当てたまま頷いた。

 二人は車を放り出し、駐車場から逃げようとする。

 彩香にも、少女がただごとじゃないほど取り乱していることを危険に思ったのだ。


「逃げるな!」


「すまん、由海。遊びだったんだ、おまえとの仲は。もう忘れてくれ」


 光宗はメガネも拾わず、道路の真ん中を走りながら叫んだ。

 彩香はコートをひらひらさせつつ、光宗を牽引した。


「遊びだったんだ?」と、由海はその場に立ち尽くし、甲高い声をあげた。濡れた毛布のような絶望が全身を包み込んでいることだろう。さすがの軽薄な光宗をもってして、酷なことをしたと後悔の念が胸を刺した。「忘れてくれですって?」




 二人は二人三脚をするかのように、ぎこちない走り方で遠ざかる。

 光宗はうしろをふり返った。

 アパートの駐車場に、アイドリングさせたままの白いポルシェと、そばで案山子かかしのようにたたずむ由海。

 見ようによっては墓場に突き刺さった卒塔婆そとばにも映った。

 それほどうらぶれていた。


 雪がちらつき、その光景はあまりにも悲しすぎた。

 冷淡な光宗ですら、自身のしでかした仕打ちにうすら寒くなった。

 おれはいずれ地獄に落ちるだろうと思った。


 たしかにこの周辺は街灯も少なく、闇が至るところに広がっている。

 アパートのそばにはいくつかの民家が軒をつらね、反対側にはシャッターのついた工場の倉庫が建っていた。


 光宗たちは県道二十三号線を北に逃げた。

 まえを行く彩香のサンダルの硬い音がこだまする。

 しばらく行けば、左右には田んぼが広がるようになった。秋に収穫を終えていたので、寒々しいだけの空間が茫漠と続いていた。


 夜の九時半すぎ。

 人口が五四〇〇人弱しかいない由良町ゆらちょうだ。県道を行き交う歩行者や車もない。民家の灯りさえ消されていた。


 二人は道のど真ん中を走って逃避行をはかった。

 日ごろの運動不足がたたり、すぐにペースは落ちたが。

 しばらく競歩なみに小走りしたあと、彩香がふり返った。


「あの子、思いついたら、すぐ行動に出ちゃうタイプでしょ。あんなのに手を出した臣吾も臣吾」と、言った。美容室で手間をかけて巻いたダウンヘアが乱れている。「私が学生のころにも、あんな突発的なことやっちゃう女の子がいたっけ。典型的な真性しんせい。恋愛にのめり込んだら見境ないから、いちばん男が逃げたくなるタイプね。しまいには自滅しかねない」


「まさか、あんなふうに豹変するとは思わなかった。女は怖いよ。つくづく思う」


「火傷してから気づいても遅い。男ってホント、愚か」


「来週、学校に行ったらどうなることやら。せっかく念願の高校教師になれたのに、この分だと教師生命、余命いくばくもないかもな」


「また保身ばっかり。クビにされたら、私ん店で雇ってあげるわ」


「ウエイターでか? そこまで落ちぶれたかない。それ以前に、和歌山から出払わなきゃいけなくなる」


「なら、いっしょにどこまでもついてく。……大阪の天満てんまで、姉貴がママをやってる高級クラブがあってね――」




 そのときだった。

 後方で、ガォン!とエンジンを吹かす音が聞こえた。

 タイヤをきしませながら、マシンが動く嫌なそれが続いた。


 なにごとかと、二人は立ち止まり、ふり向いた。

 夜の彼方かなたで、白いポルシェがえらい勢いでバックし、アパートの駐車場から出てくるところだった。

 縁石に乗りあげ、向かいの工場の倉庫に突っ込んだ。

 シャッターが内側にめり込むさまが見えた。


 ポルシェの楕円形の眼に光がともった。

 もういちど、ガォン!と肉食獣の唸り声みたいなエンジン音がこだまし、倉庫からポルシェが不器用な動きで出てきた。

 シャッターがベロリと、舌なめずりするように車の屋根を撫でた。

 発泡スチロールをこすり合わせるような嫌な音がした。

 

「どういうこと、アレ?」


「ひょっとして由海が乗ってるのか? だとしたらまずいぞ」


「なにする気」


「こっちに来るつもりだ」


 ポルシェのリアタイヤがスリップし、煙を吹くほど回転した。

 由海は怒りにまかせ、アクセルをベタ踏みしているにちがいない。

 ゆっくりとハンドルを切って、路上に出た。


 このあたりの県道二十三号線は直線道路だ。

 ハイビームをもろに顔に受け、光宗と彩香は手をかざした。

 手で作ったひさしの向こうをのぞき見た。

 こんどこそ白いマシンが二人に向かってくる。


 はじめこそ危なっかしく蛇行運転したが、すぐに勘をつかんだらしく、加速し、一直線に闇を切り裂いてくる。

 光宗たちは蛇に睨まれたカエルにひとしい。ミケランジェロの立像のように立ち尽くしてしまった。

 不吉なポルシェが迫る。

 猛烈なエンジン音が場ちがいなほど響きわたった。


 とっさに光宗は彩香の肩をつかみ、いっしょにそばの田んぼに飛び込んだ。

 二人は乾いた土の上に投げ出された。

 地面に残った稲株いなかぶで顔を引っかき、二人ともうめいた。

 きそこなったポルシェは闇の向こうに走り去っていった。

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