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2.「特別に君なら教師のままでいてあげよう」

「今日から産休を取られた担任の吉住よしずみ先生にかわり、ピンチヒッターの光宗みつむね 臣吾しんごです。光りと、徳川とくがわ 吉宗よしむねの宗と書いて光宗。吉宗と言えば、しくも和歌山城を居城とし、某時代劇で有名ですね。年齢は三十二歳。独身。どうかよろしく」


 と言って、教壇に手をついた男は白い歯を見せた。たちまちクラスはざわついた。

 笑顔は南アルプスに吹きわたる涼風のようであり、その口調は詩人のように韻を踏んでいた。

 メガネの奥の眼は切れ長で、知性と慈しみが同居しているように見えた。

 その第一印象が由海ゆみの胸に突き刺さってしまった。


 見えざる矢は抜きがたい。

 すぐに由海のなかで破傷風はしょうふうにも似た恋の病が広がり、取り返しのつかないほど重篤な症状にまで陥ってしまった。


 御坊市にある県立日高学園。十七歳になったばかりの由海。

 夏休み明けのホームルームでのできごとだった。

 ひと目で光宗を見初めてしまった。

 思い込んだら突っ走る由海だった。

 なんとか先生と二人きりになれるチャンスはないかと狙っていた。


◆◆◆◆◆


 一週間経ったある日。

 下校時、御坊駅のホームで電車を待っていると、向かいのホームで光宗が立っているのを見かけた。由海とは反対方向に家があるらしい。


 すらりとしたシルエット。

 かばんを小脇に抱えたままスマートフォンに夢中になっている。

 対岸のホームへ渡り、忍び足で近づいた。

 声をかけずにはいられない。

 光宗はおどけて驚く様子を見せるどころか、


庄司しょうじはいけない子だな」と、バツが悪そうな顔で言った。「僕はね、定時をすぎれば赤の他人って主義なんだ。ほんとうだったら、学校を出た時点で教師の仮面をぬぎ、町で生徒を見かけても声すらかけない。不可抗力的に声をかけられたら、それなりに対応するが、少なくともこちらからは声をかけない。見て見ぬふりをする。じゃないと、きりがないからな。線引きはキッチリしないと」


「お忙しい最中に声をかけて、すみません」


 勇み足をした由海はあわてて頭をさげた。


「でも、許す」と、光宗は顔をほころばせた。手のなかでスマホをくるりと回転させ、胸ポケットにおさめた。「庄司は可愛い。特別に君なら教師のままでいてあげよう。――どうだ、これからいっしょに飯でも食いに行くか?」


 いきなりの砕けた返事に由海は戸惑った。

 さすがに二人きりで外食していたところを誰かに目撃されたら、よけいな誤解を招くのではないか。

 思わず一歩うしろへさがったところに、


「心配すんな。僕がいま住んでる由良町ゆらちょうに、うまいお好み焼きを出してくれる店があるんだ。あんがい庶民派だろ? たまたま由良の友人の家へ遊びにいったら、偶然先生と出くわした。思いきって学校のことで悩みがあり相談しようとしたら、立ち話もなんだから、近くの店でお好み焼きを食べながら話そうということになった。――そういうことにしておこう。しっかり口裏合わせるんだぞ」


 と、言った。


「なら、いっしょに行きます!」


 由海の胸は期待で高鳴った。

 二人は紀勢本線のJRに揺られた。

 車中ではおたがい、離れた対面式ロングシートに座った。

 由海はずっと光宗の姿を見つめていた。光宗はいちども眼さえ合わさなかった。

 御坊市をすぎ、日高町に入り、お隣りの由良町に着いた。わずか八分の距離だった。




 紀伊由良駅からバスで乗り継ぎ、おりてすぐが目的の軽食店だった。こじんまりした佇まいだった。

 光宗のすすめもあって、まずはスジコン(、、、、)を頼み、二人で分けあって舌鼓したつづみを打った。

 そのあと、店主が慣れた手つきでイカ玉と豚玉を焼いてくれるのを眺めた。


 たしかに、すじ肉とコンニャクを煮込んだものは絶品だった。甘辛い味付けが染みわたり、さぞかし酒と合うだろう。日本酒党の由海の父なら膝を打つにちがいない。

 はじめ、光宗は我慢していたが、こらえきれず焼酎のロックを注文してしまった。

 喉に流し込むうちに、眼つきが変わっていった。

 言葉づかいまで、やけに馴れ馴れしくなった。


 由海はイカ玉に箸をつけた。

 これもフワフワの生地に香ばしいソースがからみ、大ぶりに切られたイカの食感が楽しい。

 勘定は光宗が支払った。


 二人は店を出て、県道二十四号線づたいに港へ散歩することにした。

 民家やマンションの棟も建ち並んでいるものの、山が近く、閑散とした住宅街。

 日が暮れれば、墓場のように寂しいだろう。


 岬をまわり込むと、巨大なドックが見えた。

 赤白のタワークレーンが屹立し、見あげるばかりのタンカーが横付けされており、由海は圧倒された。 日が暮れた港で、二人は他愛もない会話を重ねた。


 やがておかしなムードにねじれていった。

 由海はいきなり抱き寄せられ、唇を奪われた。

 唇を割って軟体動物のような物体が入ってきて、こねくりまわされた。せっかくウーロン茶で洗い流したはずなのに、口のなかはソースと青のりの味でけがされた。


 光宗を突き飛ばして、走って逃げた。

 鋭い声とともに追ってきたが、相手はロックを二杯、引っかけているのだ。

 ふりきるのはわけなかった。


 どこをどうほっつき歩いて駅までたどり着き、家に帰ったのか記憶がない。

 見ず知らずの人の善意にも助けられ、どうにか日高川町まで帰ることができた。夜の九時にさしかかろうとした時間だった。

 ただいまの挨拶もかけず、風呂場に飛び込んだ。


 熱いシャワーを浴びていると、脱衣所から母が声をかけてきた。

 由海はシャワーの蛇口をゆるめ、明るい声で、


「夏休み明け早々、いきなり文化祭の課題で居残らされたのよ。いまさら日本野鳥の会、委託調査の件でディスカッションしてたら遅くなっちゃった。こんなお粗末な課題を発表していいものかと」


 生物部に所属している由海は、とっさにうそをついた。すでに課題は夏休みのあいだに終えていた。出来もまんざらではなかった。


「お母さん、ハラハラしちゃったわ。てっきり素行のよくない子たちに連れまわされ、おかしな遊びをしてるんじゃないかと思ったのよ。遅くなるなら、せめてLINEぐらいよこしてよね」


「ごめん。ちょっと人間関係でトラブって、気が滅入ってた。次はそうする」


「きっとよ」




 ベッドに入っても、悶々と寝返りを打った。

 心は傷ついたはずなのに、裏腹、光宗のことが忘れられなかった。

 酔ってはいたが、悪気はなかったのだと思おうとした。彼もしょせん人の子にすぎない。職場でのストレスから酒に飲まれることだってあるだろう。

 ちゃんと話しあえば、港でのあやまちは謝ってくれ、もしかしたら誠実な交際ができるのではないか。

 だから由海は忘れることにした。

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