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1.由海のまえにはいつも川が流れていた

 寒空が広がっていた。さっと刷毛はけでひと筆書きしたような雲が浮かんでいる。

 夕闇が押し寄せようとしていた。

 河原に不法投棄されていた貨物コンテナが燃えている。

 風が強く、手がつけられないほどの炎の勢い。

 すぐに長方形の鉄の箱は、灼熱しゃくねつの溶鉱炉と化した。


 炎が膨れあがり、異臭を伴う黒煙があがっている。

 連続してドラムを叩くような音が聞こえた。

 ひとしきりやかましい音が続いたが、やがてそれも途絶えた。


 制服姿の少女はあまりの熱さに手を顔にかざし、なす術もなく見守った。

 やっと追いついた。やっと願いが叶った。

 と、思いきや――。


 またしても私のせいで台無しにしてしまった。

 せっかく眼のまえに立ちふさがるあばがわを渡ったかと思ったのに、私の激情で壊してしまった。

 ――由海ゆみはいまさらながら我に返った。


 そばの日高川ひだかがわのせせらぎを見つめた。いまの時期の水量はたかだか知れている。

 由海の眼のまえには、いつも川が流れていた。

 ふだんは穏やかな川の流れも、風雨が長引けば一転、荒れ狂った激流へと変わる。


 この川は越えられない障壁かべ。いつもそうだ。はげしい流れが邪魔をする。

 追うけれど捕まえられない。欲しいものがスルリと指のすき間から抜けていく。

 こんどこそ、そうはさせない。

 きっと手に入れてみせると思ったのに――。


◆◆◆◆◆


 日高川は和歌山県中部地方を流れる川だ。

 紀州の最高峰、標高一三七二メートルの護摩壇山ごまだんざん城ヶ森(じょうがもり)を源とし、途中、大きく蛇行しながら小又川こまたがわ丹生ノ川(にゅうのがわ)寒川そうがわ初湯川うぶゆがわなどの支流と合わさり、御坊市ごぼうしの河口で太平洋につながっているのだ。長さ一二〇キロメートルを誇る、県内では最長の河川である。


 熊野川、紀ノ川と同じく、古来より上流の地域では林業が盛んで、木材を運搬するためいかだでの川下りが行われた。

 ふだん穏やかな日高川は、豊かな自然の恵みを人々にあたえた。アユやアマゴ、ウナギがよく釣れた。田畑に水を引き、農作物を実らせるのに、なくてはならない存在でもあった。


 しかしながら急流もひそみ、険しい蛇行も多く、ただでさえ和歌山は夏季における雨量が少なくない。

 長雨が続けば、たちまち川は氾濫はんらんし、流域に大きな被害をもたらした。

 なかでも一九五三(昭和二十八)年七月十八日の水害では、二八九人もの犠牲者を飲み込んでしまった。

 このように、川は人々に幸を運んでくれる反面、ときには荒れ狂い、災いの爪痕を残した。


◆◆◆◆◆


「由海、由海や。ちょっとこっちへおいで」


 十三歳のころの記憶。

 どこかで祖母の響子きょうこの声がした。

 勉強机に向かっていた由海は部屋を出、いくつものふすまを開けて、家じゅうをさがした。


 縁側に祖母が端然と座っていた。

 白足袋しろたびがまぶしい。渋い色の着物姿。髪はプラチナのような白髪で、一部のすきもなく整えられている。


 由海は指で示されたそばの座布団に腰をおろした。

 庭ではみごとな黒松がそそり立ち、庭師の男が慎重な手つきで剪定せんてい作業をしていた。春のうららかな日差しが縁側を温めている。


「由海、左腕の袖をめくってごらん」


「めくるの? なんで?」


 思い当たる節があった。

 言われるがままに長袖をずらすと、手首のところに茶色いあざが現れた。稲妻のようにくねくねした模様。


 響子は深いため息をついた。


「なんと因果なことか。ここ最近だね、そのあざができたのは? 昨日、おまえが浴室から出てきたときに気づいたんだよ。私ゃ、肝をつぶすほど驚いたね。――まちがいない。それは庄司家しょうじけに伝わる蛇の紋章だ」


「蛇の紋章」と、茫然と由海はくり返した。「一週間まえから、急に出てきたの。いつまで経っても消えない」


 そう言って、ハタと思い当たった。

 一週間まえと言えば、ちょうど初潮がはじまった時期と重なるではないか。


「まさか、ご先祖と同じ聖痕せいこんを受けてしまったとは」響子は庭師の仕事ぶりを見ながら言った。脚立にまたがった庭師は剪定に集中している。パチンパチンと、小気味よい音がする。「いいかい由海、よくお聞き。蛇の紋様をまとってしまったからには、庄司の女はみな情が深く、とかく男と色恋沙汰になりやすくなる。ときにはその情ゆえに身を滅ぼすこともあるもんさ。おまえにはそうなって欲しくない。私はね、なにもおまえがうとましくてこんなこと言ってるんじゃないんだよ。先人のてつを踏んで欲しくないからこそ忠告してるのさ。おまえに、この土地で伝わる伝承を教えてやろう。この地方どころか、私たちのご先祖さまの話だ。しっかり心に留めておくがいい。いつか同じ境遇にならないとも言いきれない。かつての私のように……」


 と響子は言って、着物の袖をさげた。

 蛇がとぐろを巻いたかのような紫色のあざがついていた。

 由海は生唾を飲み込んだ。

 響子は由海を真っ向から見据えると、さながら講談師の口調で語りはじめた。


「時は醍醐天皇だいごてんのうの時代、延長えんちょう六(九二八)年、夏のころだった。奥州白河おうしゅうしらかわより、熊野へ参詣さんけいに来た二人の僧がいてね――」

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