(1) 序章『自殺』
死にます。
栗原青は揃えた靴の下に書いた紙を挟み、脱力したように落ちていった。
高さは十五メートル。落下予定場所はコンクリート製の石畳。
落下して数瞬、青は弾けるような激痛を最後に何もわからなくなった。
青が自殺を図り、成功する二時間前。彼は教室の机を蹴飛ばしていた。
「ちくしょう。抜け駆けしやがった、あの野郎!」
青が憤慨する理由は数分前に教師から聞いた友人の訃報だった。彼が通う定時制高校で唯一の親友であった佐伯が自殺をしたのだ。死因は電車への飛び込み、明け方の人の動きが活発な時間の出来事だったという。
「本当、信じられない」
「……また死んだんだって、これで何人目?」
教室では青を除いたクラスメイトが佐伯の死を妬むように話していた。一人としてその死に嘆く者はいない。
全員が慣れていた。死というものに対する感覚が正常ではなかったのだ。
元は八年前、世界に異世界から転生した人間が登場したことをきっかけにした異世界ブームが影響していた。その転生者は三歳にして言語を解し、五歳になると当時の世界で概算五十年後の技術を発表した。その頃にはすでに全世界で数十名の転生者が確認され、いずれの者も並外れた知識を有していた。
そして死後、異世界に転生できることが証明できずとも常識となった昨今、今度は空前絶後の自殺ブームが発生した。逃避、絶望、希望、どれも現代に身を任せきれなくなった者たちによる行動である。その波は老若男女問わず、病院や学校、山中や海中、いたるところで自殺は起こった。
「ねぇ聞いて聞いて、さっき数えてみたんだけど四月入ってからこの学校で死んだ人、これで十八人目だった。マジウケる」
「げぇ、最悪。ま、気持ちわからなくもないけどね。もしかしたらあたしも明日には死んじゃってるかも」
「えー、やだぁ。死んじゃダメだって。もし死んだら私も死んじゃうかもよぉ?」
数年前であれば異常だと非難される会話。口では否定しても心のどこかで否定しきれない来世への願望を今では誰もが孕んでいる。
「くそが……っ!」
青は談笑するクラスメイトを尻目に小さく舌打ちすると、静かに教室から立ち去った。
青は階段を登り、上へ上へと歩みを進めた。
今は亡き友人といつもしていたように、青は屋上に通じる扉の前に立ち、財布から鍵を取り出すとそのまま解錠した。屋上は普段、自殺防止のために立ち入りが禁止されているが一部の生徒の間では代々合鍵が出回っており、青もその一人だった。
「あいつ、やりやがった。先に死にやがった。くそが。くそくそ、くそったれが」
屋上の扉を開けた青は悪態をつきながら足早に屋上のへり、フェンスの側へ近づいた。
青が足を止めた先、そこには爪先から腰の高さくらいまである大きな穴が金網に空けられていた。その穴の幅はちょうど二人分ほどである。
「……結局、あいつも俺を必要としなかった。結局、あいつも俺を信用してなかったんだ!」
青は激昂した。文字通り、死ほど重要な約束をした相手に裏切られたのだ。
罵声はしばらく止まず、しかし誰の耳にも届くことはなかった。次第に声は落ち着きを戻し、青はゆっくりと膝を曲げて中腰の姿勢をとる。歩行手段を得た赤子のように金網をくぐり抜けるとちょうど首から先がへりの外に出た。
瞬間、青は全身が総毛立つのを感じ取った。
青が見たものはコンクリートで固めた地面ではなく、『死』そのものである。
今まで何度も言葉の中でやりとりした単語であっても、実際に感じることは生来初めてであった。
「っは、っは、っは……っ!」
顔全体から汗が噴出し、鼻先から垂れる。口元からだらしなく涎が伝い、鼻水と混ざる。唯一、目から溢れかけた涙だけはなんとか押さえ込んでいた。
覚悟は決めたはずだった。心の整理はできたはずだった。
青は両手をついたままその場で硬直し、その状態で二時間、自分の死と向き合い続けた。
二時間が過ぎた。青は金網の外側、細く不安定な足場に立っていた。傍らには使い古した靴と丸めて入れられた靴下があり、さらにその下にはたった四文字だけの遺書が添えられていた。
「時間は充分あった、よな。うんざりだ。誰も彼も、俺自身も」
青は瞼を閉じる。
ひゅう、と風が顔を叩いて耳の方へ流れていく。
しん、と足の裏でコンクリートの冷たさが感じとれる。
たとえそれが計画的であったにせよ、衝動的であったにせよ、へりに立った青は飛び出す決意を固めていたことに変わりない。
「くそったれが」
青は最後に呪詛を吐き出した。それが自分以外の全てに対してなのか、自分に対してなのかは定かでない。
頭を下げるとお辞儀の要領で荷重を前に移す。すると身体は容易く前傾し、彼を死へ誘った。
今まで経験したことのない速さで風を切り、風がやんだ頃にはきっと満ち足りた始まりがあると信じて、青は生を終えた。
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