「ヤマイ」
大切なことを言うとき、先生は目を合わせない。目を合わせることに耐えられないのかもしれない。ぼくも目を合わせるのは苦手だから、都合がいい。
「やっぱり進んでいるね。もう治らないのは間違いないと思う」
モニターを眺めたまま淡々と話しているけど、これは大切なことを言っているってことだ。人が目を合わせないときは嘘をついているって法則は、先生には当てはまらない。
「絶対ってことですか?」
「うん、ほとんど絶対ってことだね」
こういうときは深刻そうな表情をしたほうがいいのかな、とぼんやり考える。ぼんやりしてしまうのも病気の特徴なのだとぼくは知っている。
ずいぶん前から、この病気は流行り続けている。無気力で何もやる気が出なくて、人によっては段々とおかしな行動をとり始めるのだそうだ。とても長い正式名称があるのだが、そんな呼び方をしている人は見たことがない。普通の人は通称で「ヤマイ」とだけ呼んでいる。
「あの、ぼく、プログラムに申し込んでみようかなと思うんですけど」
診察室に貼ってあったポスターを指さしながら言うと、先生はちょっとだけ眉毛を上げて、それもいいかもしれないねと短く答えた。「ヤマイ重症者はキカイの国へ」ポスターの色は明るいけれど、それを眺める人の顔はいつも暗い。
診察が終わり、会計のときに申請書を記入した。すんなり行き過ぎて、ちょっとどきどきしてしまう。引き止められたら面倒だなとか考えていたのが恥ずかしい。
待合室で三十分も待たないうちに迎えが来た。こんなに仕事が早いのは、気が変わる前に回収しようという意味もあるのかもしれない。身元確認をして、係の人と一緒に車に乗る。空港に着くまでの間は窓の外を流れる景色を見ていた。
人工知能やロボットが人間の仕事を代わりにするため、人類の大半は働くことがなくなった。ロボットは美味しい食べ物も、快適な住居も洋服も、楽しめる娯楽まで作り出せるのである。人類は仮想空間を楽しんだりしながら、悠々自適に暮らしていた。
そんななか、人間の中には無気力で何もやる気が起きなかったり、おかしな行動を起こしたりする者が多く現れた。ヤマイ・ショウザブロウ博士型双極性気分変調障害(通称「ヤマイ」)患者である。そのなかには、ときにひどく取り乱して他人を傷つける者までいた。
医者ロボットは人類のおよそ二割がヤマイを患っていると診断し、ヤマイ患者とそうではない人間を隔離して保護することを提案した。人間同士が傷つけあうことを防ぎ、安全を守るためである。
ヤマイ患者の一人一人に希望が聞かれ、人類はロボットに保護された「キカイの国」と、それ以外の「ニンゲンの国」に分かれて暮らすようになった。
だが、その後もニンゲンの国では、ヤマイ患者を管理することができていなかった。そんななか、キカイの国からヤマイ重症患者を引き取ると提案があった。
ぼくの知っているヤマイに関する歴史というのはこんなもので、だいたいプログラムのパンフレットに載っている内容と同じだった。
キカイの国へ渡る間は退屈で、飛行機のなかでプログラムのパンフレットを何度も読み返していた。飛行機の隣の席まで係の人は一緒だったのだが、彼とは結局ほとんど話すことがなかった。