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「五月会選挙のことなのだけれど」
向かいに座った統ちゃんが口火を切りました。
中庭にひっそりとたたずむ四阿。三角屋根が可愛らしく天に伸び、その下の私たちには丸い影を落としてくれます。
五月川にやられた私の弁当は再起不能で、統ちゃんと行野君が分けてくれました。行野君は緻密な萌えキャラの描かれた弁当を、「崩すのがもったいない」などといって逡巡していましたが、統ちゃんに「そのキャラそんなに好きなの? 知らなかったわ。今度はもっと上手く作ってあげるわよ、きちんと全部食べたらね」と言われると、嬉しそうにして私にも分けてくれました。……この二人、どうして仲がいいんでしょう。
「本当は統が出る予定だったのか?」
ご飯を一噛み一噛み味わうようにして食べながら、行野君が聞きます。
「いいえ、私は風紀委員長をやっているから、五月会には立候補できないのよ。だけど、部の先輩を押そうと思っていたの」
統ちゃんは放送部です。今年の放送部は女の園で、それゆえアンチ一条の拠点といっていいのだとか。
「まさか、あんな馬鹿げた策を持ってくるとは思わなかったわ」
「相談役って……そんな名前初めて聞いたよ。五月会はいつから企業になったのかな」
役職がないなら作ればいいじゃない、ということか。やはり、五月会室から追い出された屈辱をはらしたいらしい。
「ん? でも笠原がいなくなって、もっとまともな先生が顧問になったんじゃないの? 名前忘れちゃったけど」
ふと気になって訊ねると、統ちゃんの顔がしかめられました。箸を握る手にぎゅっと力が込められて、関節が白く染まっています。風が吹いて、黒髪が彼女の表情を一瞬隠してしまいました。
「やられたわ。残念ながら、二日前に階段で転んで、全治一か月の重傷よ」
「それ、って……」
このタイミングで、大けが。理由は一つしか考えられない。
「一条派の誰かが……?」
「と、見て間違いないでしょうね。私も詰めが甘かったわ。お見舞いに行ってみたけれど、特に誰に押されたとも証言しなかったわ。本当に気づいていないのか、もしくは別の方法で転ばせたのか――いずれにせよ、証拠を掴むことはもうできないでしょうね」
赤い唇が噛みしめられます。統ちゃんの悔しさが熱を帯びて伝わってくるようで、私も知らず拳を握りしめていました。彼女は犯人を暴けないことだけでなく、先生に怪我をさせてしまったことも悔やんでいるのでしょう。
「済んだことはしょうがないよ。そんなことでへこたれる統ちゃんじゃないでしょ?」
ちょっと挑発っぽく見つめてみせると、統ちゃんの顔に笑顔が戻ってきました。口元がにやりとほころび、目はらんらんと輝いています。
ああ、私は統ちゃんのこんな表情が大好きなのです。
「もちろんよ、当たり前でしょう。放送部のマイク技術と三雲の名をフルに生かして、選挙の場を掌握させてもらうわ」
雲が流れて、明るい光を投げる太陽を覆い隠しました。翳りに沈む世界の中で、統ちゃんは美味しそうに、ご飯を口に運ぶのでした。
▽ ▽ ▽
「おーい、葛城ちゃん借りられる?」
私の名が呼ばれたのは、放課後のこと。私は体育館で、レイアップシュートの練習をしていました。女子バスケ部なのです。
突然の呼び出しに、シュートを決め損ねてしまいます。コロコロ……とよく磨かれた床を跳ねて転がっていくボールを目で追っていると、もう一度声がかかりました。
「あ、葛城ちゃん、いるじゃん。無視するなんてひどいなー」
周りの部員が、練習の手を止めて私に視線を注ぎます。目立たない、何の特徴もない眼鏡っ子の葛城加菜子が、五月会の役員に呼ばれているのですから無理もありません。
「あ、みんなは気にしないで。オレは葛城ちゃんに用があるだけだから」
私をしつこく呼んでいるのは、五月会会計の高岳実弦。髪を赤く染めており、だらしなく着崩した制服は完全に校則違反ですが、もちろん五月会に文句をいう者は誰もいません。
「……加菜子に何か用ですか?」
部長が胸を張って高岳に対峙します。髪を短く切ったボーイッシュで、自分は姉御肌でサバサバしていると自称してしまうような人です。
ほら、頬がちょっと赤くなってます。運動のせいですか、そうですか。
対する高岳の方は、知らない顔が出てきてわずかに目を細めました。しかしすぐに軽薄な笑顔を浮かべると、
「きみ、誰?」
「わっ……私は、女子バスケ部の部長を努めている、遠野晶だ。今は部活中だ。うちの部員を勝手に連れ出してもらうのは困る」
「あっそう。用事ってのは、今年度の予算についてだよ。提出してもらった予算企画書ね。オレ一応会計だから、色々確認することがあるんだよね」
「何か不備があったなら、私でも構わないだろう」
「え? 企画書書いたのは葛城ちゃんでしょ? ばっちり署名してあるから、彼女じゃないとまずいんだよ。……そーゆーわけだから、もういい? 晶ちゃん」
「あっ……」
いよいよ本格的に顔を真っ赤にした部長の横を通り過ぎて、高岳がこちらへ歩いてきました。芯を感じられない気だるげな歩き方ですが、私に定められて微動だにしない視線を受け止めた途端、頭の中に、警報が鳴り響きました。
――こいつには近づくな。
けれど逃げるなんてことができるはずもなく。
私は高岳に連れられて、人気のない渡り廊下で彼と向き合うことになったのです。
高岳は私よりもずっと背が高く、自然と見下される恰好となりました。私の中の警報はまだ鳴り渡っていて、手のひらにじっとりと汗をかいてきました。
「な、なにか、企画書が、間違っていたでしょうか……」
そんなはずはありません。部長にそれを任されたとき、勝手の分からなかった私は統ちゃんに確認を頼んだのです。ミスがあるわけありません。
とすればすなわち、狙いは葛城加菜子ではなく、三雲統に違いない。そう考えるのが、一番納得できるでしょう?
「そんな取って食うわけじゃないんだからさー、もっと気楽にしてよ。あ、企画書にミスはなかったよ。よくやるよねえ、こんな面倒くさいもの。感心するよー。部長に押し付けられたんだろ?」
「そんな……押し付けられただなんて……」
「んー? 女バスの中じゃ、こういう雑務は葛城さんがやるっていう暗黙の了解でもあるわけかな?」
「そ、れは……」
確かに私は、事務作業をほとんど一人でこなしていました。みんな「苦手だから」「向いてないから」「数字嫌いだから」「〆切り過ぎちゃったから」などと理由をつけて、私に頼んでくるのです。
「葛城さん、こういうの得意でしょ?」
そう笑顔を向けて。
私は、本当は字を書くのは嫌いだし、予算を作れば収支が合わないのは日常茶飯事なのですが。
それをそつなくこなせているように見えているのは、全部、全部――。
「ま、でも、葛城さんは三雲統に手伝ってもらってるから、それでいいのかな?」
ええ、統ちゃんが大量の書類を抱えて困り果てている私を見るに見かねて、いつも手伝ってくれるのです。「懲りない人たちね」などと呟きながら。
「よ、用というのはそれだけですか。でしたらこれで、失礼させていただきたいのですが」
勇気を振り絞って背を向けようとすると、
「ごめんって、ちょっと図星つきすぎちゃった?」
笑い声とともに腕を掴まれました。ぎしぎしと骨が軋むような感覚がします。
高岳はうつむく私の顔を覗きこみ、内緒話をするように、囁きました。
「ねえ、三雲篤史君の遺品持ってるの、オレなんだよね」
「え……?」
ざっ……と風が強く吹いて、高岳の赤い髪が燃えているように舞い上がりました。すぐ近くにある瞳は、ほの暗い光を放っていて、知らず知らずのうちに見入ってしまいました。
笑みの形を作る唇が、ゆっくりと動いて、私の思考を奪います。
「三雲篤史君の遺品の行く末はオレ次第。……葛城さん、どう思う?」
「どう、って……」
私は高岳から目が離せないまま、やっとのことで言葉を捻り出しました。
「遺族の方に、……つまり、統ちゃんに返すべきだと思います」
「本当に? 心の底からそう思う?」
「もちろんです」
「へぇー、そっかぁ」
高岳は私を凝視したまま、私が誰にも言わないでいた、心の奥の奥の奥に隠しておいたことを、言い放ちました。
「でも葛城ちゃん、三雲篤史君が好きだったでしょ? その彼の遺品を、みすみす渡していいのかな?」
「な……」
それは。
「まあ、三雲統なら頼めば見せてくれるかもね。でも、全部ってわけにはいかないと思うよ? 例えば、日記。彼、筆まめでね~、毎日書いてたんだ。大学ノートにね、一日一ページ。オレはもう読んじゃったけど、そこには三雲家しか知らないことも結構書いてあったよ。少なくとも、『葛城』ちゃんには教えてあげられないような。――たとえ友達でもね」
そう、私と統ちゃんは友達なのだ。友達だから裏切れない。だから、ずっと、言わなかった。
いま同じ学校に通っていても、同じ教室で授業を受けていても、同じベンチに座っていても、葛城加菜子が三雲篤史に好意をぶつけたら、それは裏切りになってしまうから。
統ちゃんはもちろん、行野君も篤史君も、身分の差なんてちゃんちゃらおかしいと思っています。人間はみんな平等で対等だと信じているのです。そして澄みきった友情を、真っ直ぐにぶつけてくれる。私にはもったいないくらいの。
でも、でも――ちょっとしたことで、引け目を感じてしまうのは、私が下にいる者だから?
統ちゃんの歩き方。彼女は何気なくやっているのだろうけれど、私から見ればハッとするほど美しい。それを当然と受け入れる行野君と篤史君にも、私は壁を感じてしまう。
私の顔色が変わったのに気付いたのか、高岳がにっこり笑って身を引きました。腕が離され、痛みが潮のように引いていく。足から力が抜け、その場にすとんと座りこんでしまいました。
「ま、話っていうのはこれだけじゃないんだけど」
「な、にが……」
「その日記、ここ一か月くらいは一条真妃への愛を綴るポエム集になってるんだよ」
「は……?」
「寝ても覚めても一条さん一条さん。暑苦しいくらいの愛が語られてるよ。ちょっとストーカーっぽかったね。……葛城ちゃん、そんなものを読みたい?」
一条への想いが書かれた、篤史君の文章。
今でも篤史君の流麗な文字は覚えています。私はそれが大好きで、彼と一緒に勉強するときは手元に見惚れてしまったものです。
その文字が、一条を賛美している。
そんなもの。
「オレとしてはさ、別に処分しちゃってもいいわけ。ただ使えそうだなーと思って手元に残しておいただけだし。だから、葛城ちゃんに決めさせてあげるよ」
――篤史君の遺品を、処分してしまうか、渡してもらうか。
すでに統ちゃんに渡してもらうという選択肢を思いつかなくなっていて、自分で自分を嗤ってしまいました。私は、本当にどうしようもない人間です。
見上げると、高岳は横を向いてどこか遠くを見ている風情。そちらに目をやると、甲高い声と一緒に、一条ハーレムが中庭を横切っていくところでした。
「決めさせてくれて――それで私に、どうしろというんですか」
「おー、呑み込み早いね、葛城ちゃん」
高岳はしゃがんで目を合わせると、穏やかな微笑みを浮かべました。
「もちろん、三雲統をスパイしてほしいんだよ」