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「なんてことかしら……」
統ちゃんは昇降口の掲示板に貼られた一枚の紙を見て、右手を額に当てています。呆れてものも言えない、という風情です。
今は肩の辺りで切り揃えられている黒髪が、朝日を反射して淡く輝いています。白い指先は優雅に揃えられていて、その一言だけでも立派な皮肉に見えてきてしまうほどです。
「加菜子、あいつらってどこまで愚かなのかしらね。自分で自分の首を絞めているわ」
掲示板には、こんな文字が躍っていました。
『今年度の五月会選挙について。
毎年五月に行われる五月会選挙は、つい先頃亡くなった三雲篤史君の喪に服す意味で、開催を中止することとなりました。
しかし、それでは生徒を正しく導いていくべき五月会が停滞する恐れもあり、本学の行事も精彩を欠いてしまうでしょう。
そこで、相談役として、二年A組の一条真妃さんを登用することとなりました。
つきましては、一週間後の五月十五日に信任投票を行います。
どうか五月川学園の皆様がよく考えて投票することを願います』
亡くなったのが「三雲」なら、喪に服しても不自然ではないし、むしろ当然の行為としてみんなに受け入れられます。そして相談役に「一条」を採用するというのも、やはり誰も反対できない案です。そして最後に脅しのように付け加えられた一文で、一般生徒は震えあがってしまうでしょう。
しかし、五月会の過ちは――。
「こんなことに『三雲篤史』の名を使うなんてね……。本当に馬鹿馬鹿しいわ。許せない」
統ちゃんの堪忍袋の緒を、激しく切ってしまったこと。今後一体どうなるのかは分かりませんが、顎に手を当てて考え込み始めた統ちゃんの様子から察するに、波乱の選挙となるのは間違いなさそうです。
▽ ▽ ▽
「みんな~っ、私が一条真妃だよっ! よろしくねっ」
掲示が出た日から、一条真妃の選挙活動が始まりました。休み時間ごとに取り巻きを引きつれて廊下を練り歩き、甲高い声をまき散らすのです。正直言ってうるさいことこの上ないのですが、もちろん彼女は気にしません。
昼休み。私は統ちゃんと行野君と一緒に、食堂へ行こうとしていました。
五月川学園の食堂は、貴族たちの舌を満たすという使命に熱く燃えていて大変美味しく、また種類も豊富なのですが、残念ながら価格が高すぎるのです。定食が二千円を超えるって一体どういうことですか。あ、定食じゃなくてフルコースでしたか、失礼しました。
そこで私は、自分で弁当を作ることにしました。寮母さんに頼んで、毎朝台所を借りるのです。材料は実家から送ってもらうことにしています。
しかし、私が手作り弁当を食べている横で食堂の豪華フレンチなどを食べることに、統ちゃんは居心地の悪さを感じるようなのです。私は気にしないから、と言っても譲らず、自分も弁当を作ると強硬に主張しました。行野君は何を考えていたのかは知りません。無表情で、私たちの言い争いを聞いていました。たぶん、何も考えていなかったでしょう。彼は基本、統ちゃんが絡まないと感情も動かない人ですから。私が弁当を食べようが、その辺の雑草を食べようが、気にも留めないと思います。
その頃はまだまともだった篤史君は――
『葛城さんって料理できるの? 僕も手料理食べたいなぁ』
と微笑んでいました。今もその笑顔は私の脳裏に刻みつけられています。
結局は私が折れて、毎日統ちゃんと弁当を作ることになりました。ついでに、男性陣にも用意してあげることにして、私が篤史君に、統ちゃんが行野君に、ふざけてキャラ弁などを持たせました。
統ちゃんは手先が器用で、何やら緻密な絵を描いていることもありましたが、私にはできませんでした。子供向けのシンプルなキャラクターを作って、渡していました。
それを開けるとき、篤史君がどんな風に反応してくれるのかを楽しみにしながら。
「はい、行野。今日の分の弁当」
「ありがとう。感謝して食べる」
「今回の弁当を見てもそう言えるかしらね?」
統ちゃんがこちらを見てくすっと笑います。そうです、今朝統ちゃんに突然オタクの気質が降臨し、無駄にクオリティの高い萌えキャラのキャラ弁を作り出したのです。
まあ、行野君にとっては、統ちゃんが作ったというだけでどんなご馳走にも勝る料理でしょうが……。
たわいのないことを話しながら食堂へ行ってみると、何やら騒がしいことに気づきました。入口には人だかりができています。広いので席がないなどといった争いは起きないはずですが。
「あーあ、嫌になるわね」
人の隙間からひょいと中を覗いた統ちゃんがちいさな顔をしかめました。私もそっと見てみます。
そこには――。
「うふふ~、みんなありがとーっ。マキのために席を用意してくれたんだねっ。マキ、みんなと一緒にご飯食べたいなぁ~っ」
案の定、というかなんというか、一条真妃と愉快な仲間たちが、テーブルを大量に占拠していたのです。いかに食堂が広いといえども、三分の一ほども使われれば場所もなくなります。
いうまでもなく、一条たちはそんなことには頓着せず、悠々と昼食を採っています。いえ、見目麗しい男子を見かけると、
「ねえ、あなたも一緒に食べよっ? 一条真妃ちゃんと相席相席!!」
というわけの分からない言葉を並べて強引にハーレムに組み込んでいます。こういう時だけ一条の名を出すのは、さすがというところですか。
「呆れた……この分じゃ、弁当の私たちの席はないわね。どこか別の場所へ行きましょう。中庭の四阿なんかいいんじゃないかしら。幸い今日はいい天気だし」
統ちゃんはさっさと見切りをつけて、食堂に背を向けました。私と行野君もそれに続こうとしたとき――。
「あっれぇ~? 行野君じゃない~?」
舌っ足らずな声が飛んできました。一条真妃です。
行野君は背が高いので目立ったのでしょう。彼は何も聞こえなかったかのように立ち去ろうとしましたが、人だかりの中から素早く一条親衛隊が出てきて、行く手を塞ぎました。忍者か。
「もォ、ひどいよぉ~! 無視するなんてっ」
一条が飛び跳ねるような足取りでこちらへ向かってきます。統ちゃんがため息をつき、「優雅さのかけらもないわね」と肩を竦めました。
人の山は、自然と一条を通すために道を作ります。いえ、本心は関わりたくないのかもしれませんが。
「ねっ、行野君もマキと一緒にご飯食べようよ!」
「必要ない」
「そんなぁ~、冷たいこと言わないでぇ? あっ、でもでも、クールな行野君も好きだよ?」
「それはどうも」
「今日のメニュー、見た? ムニエルだよ! 美味しそうだよ! マキ、入院してたときはこんな素敵なもの食べられなかったの。それにいつも一人ぼっちだったし……。だから、たくさんの人と食べるのが嬉しいんだぁ。ねっ、行野君、マキのお願い、聞いてくれないかなぁ~?」
可哀想な私アピールですかそうですか。取り巻きの男子たちが「おいたわしい!」とか叫んでいます。もちろん、行野君は眉一つ動かしません。淡々とした響きで、
「俺は、統の作った弁当の方が百倍美味いと思う」
言ってしまった……。
途端に、一条の顔つきが変わります。ちら、と行野君の横に立つ統ちゃんに視線をやり、先ほどとは打って変わった低い声で、
「ふーん、へー、そっかー。三雲さん、弁当なんだぁー」
「そうよ。それがどうかしたかしら。料理上手な女の子って、素敵だと思うのよね」
神託のごとき堂々とした口調で言われて、周りの人垣がざわざわと揺れました。確かに五月川学園の生徒たちの実家には使用人がいて料理を作る必要はありません。でも、料理上手、という言葉には好感度をあげる何かが潜んでいるのです。
また、可愛い女の子が自分のために料理を作ってくれるというシチュエーションは、生家を問わず、健全な高校生男子にはなかなかの破壊力をもたらすようでした。
そんな空気を察したのか、一条が声を張り上げます。
「そっかぁ~、マキはてっきり、食堂で食べるお金もない葛城さんに合わせてあげてるのかと思ったぁ~」
矛先がこちらへ向いて、カッと顔に血が上る。恥ずかしさで? いや、怒りで、です。
なぜ篤史君はこんな女に惚れたのだろう――。
「ね? そういうことなんでしょ? 三雲さんも行野君も優しいから、葛城さんに合わせてあげてるんだよね! も~、ほんとはそんなことしたくないんでしょ? 食堂で食べた方が美味しいもん。だけど、二人は親切だから……」
「一人ぼっちのあなたに、友達と食べるご飯の美味しさは理解できないわ。永遠にね」
統ちゃんがぴしゃりと遮りました。瞳に冴え冴えとした光を宿して、一条を睨み据えています。行野君が統ちゃんを庇うように、一歩前へ出ました。
「……どういう意味かなぁ? それ」
一条の目も笑っていません。いつもの甘えた口調は健在のまま、不気味なコントラストを作り出しています。
統ちゃんはそれを真っ向から受け止めて余裕の表情。くす、と可愛らしく笑って、先ほどまで一条が食事をしていたテーブルを指差しました。
「いいえ? ただ、あなたにはテーブルマナーを教えてくれる友人もいないことを指摘したかっただけよ。――あの白い布はナプキンといって、服を汚さないようにかけるのよ。御存じ?」
統ちゃんの細い指が示している先には、綺麗に畳まれたままのナプキンが置いてありました。明らかに、ナイフやフォークの下に敷く布か何かと勘違いしている様子です。私もマナーを習いたての頃はよく忘れたものでした。
「あ……」
一条の顔にさっと赤みが差しました。ぶるぶると手が震え、もはや可愛らしさを取り繕うことも忘れて、残忍そのものの表情で統ちゃんをねめつけています。一瞬、人間ではない別の何かに見えました。
そのとき――。
ドン、と背後から誰かが勢いよくぶつかってきて、私は手に持った弁当を床に落としてしまいました。その人はよろけた私を助けようともせず、あまつさえ弁当の包みを踏んづけて、真っ直ぐに一条の元へと向かっていきます。
「一条、大丈夫か?」
「うわ~ん、綾治くん! 怖かったよぉ~」
一条がよよと抱きついたのは、背の高い金髪の男子生徒。高い鼻が印象的な、整った顔立ちをしています。
「あら、五月川君。お久しぶりね」
統ちゃんが声を上げました。そう、闖入者の名前は五月川綾治。この五月川学園の理事長の息子です。ハーフであることを生かして、モデルをやっているとかなんとか。金髪も地毛という噂です。
それでいて、当然のごとく五月会書記。天は彼にこれだけのものを与えて、一体何をしたかったのか。
うっかり大事なものを混ぜ忘れていなければいいのですが。
「チッ、統か。こんなとこで何してんだよ。てめーは弁当持ちだろうが」
「そうよ? そして一条さんが食堂を占拠していたから、四阿にでも行こうとしていたところ。これで満足かしら」
「相変わらずいけすかねえ女だな。一条のそばに寄るんじゃねえよ」
「挑発をしかけてきたのは一条さんの方だけれど……それよりあなた、加菜子に言うことがあるのじゃないかしら」
「ああ?」
美形は凄むと迫力が違いますね。もちろん、そんな点で統ちゃんが負けるわけはないのですが。
「加菜子の弁当を落としたあげく踏みつけたこと、きちんと謝罪なさい」
「ハッ」
五月川は鼻を鳴らすと、まるでゴミでも見るかのように、私に顔を向けました。心持ち顎を上げ、じろじろ私と靴跡のついた弁当箱を眺めまわした後、一言、
「――俺がこんな奴に謝る必要性は、見当たらない」
何の迷いもなく、言い放ちました。
それ以外の答えなんてありえないと、信じ切っているようでした。
自分が謝るのは目上の人間に対してだけ――そういう信念が、彼に深く根を張っているのでしょう。謝る理由は、自分が何をしたかではない。相手が誰か、なのだ。
私でも少し考えれば分かることです。統ちゃんは端から彼の謝罪など求めていなかったに違いありありません。その証拠に、彼女は小揺るぎもしませんでした。
ただ、
「そう、よく分かったわ」
艶然と微笑んで、五月川の頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように視線をやって、
「あなたがそういう人間だって、誰もが知っているものね」
華奢な肩をすくめただけでした。