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「なかなか面倒なことをしてくれるわね」
私は腕を組んだ。行野の背後から画面を覗きこみ、ふぅむと唸る。加菜子も首を捻っていた。
「笠原は面倒臭がりだわ。そんなに難しいものにはしていないでしょう」
「じゃあ、誕生日とかかな?」
「いや、英文字と数字の両方が必要だ」
「自分の名前を組み合わせるとか」
加菜子の提案に、行野が画面を見たままキーボードを叩く。ブラインドタッチだ。
――画面は変わらなかった。
「違うみたいだね……ごめん」
「気にしないで。それで方向性はあっていると思うの。ああいう性格の人間は、たいてい名前と誕生日で作るものよ」
「その可能性は高いな」
「自分じゃない……としたら」
三人で顔を見合わせる。誰が合図するまでもなく、口を揃えてその名を出した。
「――一条真妃!」
行野が素早く文字を打ち込む。そこで、ぴたりと手が止まった。ゆっくりとこちらを向き、首を傾ける。
「一条真妃の誕生日って、いつだ?」
その瞬間、脳裏に記憶が浮かび上がった。あれはいつだったか。まだ、桜が咲いている頃だったと思う。談話室で、大喜びの篤史がはしゃいだ声を上げている様子だ。幸せな過去の風景。
一条が転校してきて以来、熱を上げた彼は甲斐甲斐しく世話を焼き、一条ハーレムの中枢までのし上がっていた。どうやら取り巻きの中にも複雑な人間関係と厳格な仕組みがあるらしく、彼はそれを嬉々として語ってくれたのだ。
いわく、一条真妃は大事な人にだけプライベートな情報を教える。それは入院の思い出だったり、家族構成だったり、人によって様々らしい。二蔵長一郎は初恋を教えてもらったとか。そんなもの、金をもらっても受け取りたくないが。
とにかく、地位を上げた篤史は、その大切な情報を愛の証に教えてもらったのだ。
『何よそれ。馬鹿みたいね』
『統、そんなこと言っちゃいけないよ。とてもロマンチックじゃないか。一条さんらしいよ』
『で、何をもらったのよ?』
『一条さんの誕生日だよ。僕は絶対にプレゼントを捧げるんだ。その日はね――』
ああ、もうよく覚えていない。どうでもいいと思って忘れてしまったのだ。記憶の中でしか生きられないものだって、確かにあるのに。
どうして私は、あの時ちゃんと聞いてあげなかったんだろう。
どうしてもっと、家族を大事にできなかったんだろう。
どうして――。
いや、こんなことを考えている場合ではない。早く思いださなくては。脳のどこかには残っている筈なのだ。
じっと黙りこんで頭を振り絞っていたとき、ぽつんと加菜子が声を落とした。
「――一月十八日よ」
静かな響きだった。まるで雪の降る音みたいだ、と胸がぎゅっと縮まった。
窓からの日差しが逆光になっていて、加菜子の表情は闇に沈んでいた。唇が別の生き物みたいに蠢いて、苦しそうに言葉を紡いでいく。
「篤史君が言っていたわ。間違いない」
「加菜子……」
「――絶対に、忘れることなんて、ない」
その思いの深さに、私は立ちすくんだ。もしかすると、加菜子自身も気づいていないかもしれないけれど、彼女はずっと仮面をかぶり続けているんじゃないか。世界に溶け込むために、当たり障りのないもので本性を包み隠しているのではないか……?
だからといって、私が加菜子の友人であることに変わりはないけれど。
「一月十八日だな」
文字が入力される。最後の一文字を打ち終えたとき、音を立てて画面が切り替わった。
「――解除成功ね」
▽ ▽ ▽
次の日。学園の門をくぐった瞬間、生徒たちの大騒ぎが目についた。昇降口の掲示板の前に人が群がり、大声で何かを話し合っている。
「おい、見たかよ」
「ああ、やっぱりそうだったのね」
「あの噂は本当だったんだ」
「おかしいと思っていたのよ」
「――一条真妃は、カンニングをしていたんだ!」
掲示板にでかでかと貼られていたのは、笠原から一条に宛てられたメール画面の印刷だった。そこには小テストの問題と、詳細な解答解説が書かれている。誰が読んでも、誰が見ても、言い逃れのできない紛れもないカンニングだった。
「これでひとまず攻略完了かしら」
「そうだな」
「少しはマシになるといいね」
私と行野と加菜子は、互いの顔を見やってシニカルな笑みを刻む。これくらいで一条が陥落するわけがない。一条グループの力によって、あの女には軽いお叱りがある程度だろう。
それでも、一歩を踏み出した。
私たちは確実に道を作り出したのだ。
「……まあ、これはほんの小手調べね。次は誰にしようかしら」
その後、教師が来て生徒たちは教室へと追い払われた。その日中に笠原のメールは掲示板から剥がされたが、生徒たちのモバイルの中には、しっかりとそれのスクリーンショットが残されている。
正体不明のアドレスから、突然送りつけられてきたからだ。
もちろん正体は不明だから、私にも誰だか見当もつかない。ただ、私はフリーのメールアドレスの取得方法を覚えただけなのだ。
結局、教師自らがカンニングを手伝っていたということでその罪は重く、笠原雄二は学校を去ることになった。五月会顧問にはもっとまともな女教師がつくことになり、私たちのクラスの担任も変わった。
荷物をまとめてすごすごと校門を出ていく哀愁満ちた笠原の背中に声をかける者は、誰もいなかったという。
一条真妃は、笠原にたぶらかされて道を外してしまった可哀想な生徒という役どころに収まった。理事長や教頭から話を聞かれただけで済み、相も変わらずたくさんの男子を侍らせ、お姫様のように振舞っている。五月会室にはもう出入り禁止になったらしいが。
そういえば、私のところに少し接触があった。
笠原が消えてから三日後の朝だったと思う。一人で廊下を歩いていたら、珍しく一人の一条に呼び止められたのだ。
「ちょっとい~い? 三雲さん」
窓から降り注ぐ光が私たちを取り巻いていて、まるでそこだけが世界から切り離されているような雰囲気だった。
「ええ、何かしら。周りの人がいないから、その分落ち着いて話ができるわね」
皮肉な口ぶりにも応じず、一条は凶器を思わせる、完璧な手入れの施された指で、何かをつまみ出した。それはA4サイズのプリントだった。熟した果実のような赤い唇が、てらてらと光る。
「これ、何だか分かる?」
「さあ? 興味ないわ」
そのまま通り過ぎようとすると、素早く行く手を塞がれた。強く肩を掴まれ、指が食い込んで痛い。それでも表情を変えてはやらなかった。
「そんなこと言えるのは、今の内だよぉ? よく見て? これ、三雲さんじゃない?」
プリントされていたのは、笠原のパソコンを持った私が、図書館で印刷しているシーン。防犯カメラから抜いたのだろう。画質はよくなかったが、三雲統ということは十分見て取れた。
私は得意満面の一条に笑いかける。
「そうだとしたら、どうなの?」
「分かんないかなぁ? これ、犯罪だよね? 窃盗か不正アクセスか……両方かも。三雲さん、まずい立場になるんじゃないかなぁ」
「それはないわ」
肩にかかった一条の手を振り払い、彼女の首に指を突きつける。
「世間は案外残酷よ? カンニングを暴いた勇敢な少女として、その子は受け入れられるでしょうね。それよりもその事件を蒸し返せば、大衆は誰かさんのカンニングの事実を思いだすでしょうね。そんなこと、誰も喜ばないんじゃないかしら。――それに」
指に力を込め、
「私は三雲統なの。そこのところを、忘れないで頂戴」
凍りついた一条を放置し、私は歩きだす。もう十分。これ以上何か言ってくることはない。
実はあの印刷は加工されたものだ。本当はあそこには、加菜子と行野もいた。それを、私だけのものに書き替えておいたのだ。
これくらいのことには気づいてくれるかと思ったけれどがっかりだ。正しいデータが完全に消失しているのを知って悔しがる姿を見たかったのに。
これ以上、私の大切な人たちに危害を加えることは許さない。盾となるのは私一人。それでいい。それがいい。
一条の言う通り、他人のパスワードを抜くのは犯罪ですね……。