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「やられたわ」
開口一番、統ちゃんがため息をついて言いました。
名札事件の翌日、昼休みを終えたばかりの五時間目。
今日は五、六と二時間続きで、美術の授業です。といっても先生は出張でおらず、学園内の好きなところで写生をしなさいという課題が出ておりました。
それで私と統ちゃんと行野君は、人気のない月光湖のほとりに絵具とスケッチブックを携えて座っているのです。
月光湖――それは篤史君が消えた場所。
燦々と降り注ぐ眩い光を受けて、湖面は割れた鏡が散らばったようにきらめいています。風に吹かれて揺れる水面の上で刻一刻と光の粒が表情を変え、ぎゅっと胸を締め付けます。こんなところなら、どんなふうに愛を囁いても、すんなり受けとめられそうです。
彼も――一条とここへ来たことがあるのだろうか。
なんてことを、隣で統ちゃんが悩んでいるのにもかかわらず考えてしまいます。落ちるところまで落ちたと思っていましたが、奈落はまだまだ深いようです。
さてさて、約束のためにもここが気合の入れどころ。
髪を風になぶられる統ちゃんの顔を覗きこみ、そっと尋ねます。
「どうかしたの?」
「五月川綾治よ」
目にかかる髪を払いのけ、彼女は眉をしかめました。湖面に踊る光に目を細め、そのまま睨みつけるようにします。
「一条の選挙、私が仕切ろうと思ったという話はしたわよね?」
ええもちろんです。高岳にせっせと情報を運びましたから、しっかり脳に刻まれています。
「そうしたら今朝、放送部に五月川と愉快な下僕がやってきて、放送機材を全て押収していったのよ。『今回の選挙、俺が司会を務めることになった。ついては、機材は全部五月会の管理下に置かせてもらう。司会者権限でな! 当日も俺たちがやるから、放送部に仕事はない!』と高笑いしてね。泣き出す部長を宥めるのに必死だったわよ」
五月川の声真似、やたら上手いです。
一心に統ちゃんを描いていた行野君が、無表情のままチッと舌打ちします。
「どこかで横槍が入ると思っていたけれど、手を回すのが早すぎるわ。五月川に、こんなに迅速な仕事ができるとは信じられない。絶対に誰かが暗躍しているんだわ。そいつの首を押さえないと、今後に支障が出るわね」
私は押し黙ることしか出来ませんでした。膝を抱えて座りこんで、じっと足元を這う蟻を見つめます。そばに置かれたスケッチブックが、風に煽られて真っ白なページをさらしました。
「まあ、いいわ。次の手はとっくに考えてあるから」
統ちゃんは指を立てて、楽しげに教えてくれました。
▽ ▽ ▽
その日の放課後。
適当に写生を終えた私たちは――いえ、行野君は全力投球だったでしょうが――それぞれの部活へ行くことになります。
統ちゃんは怒り心頭の部長の待つ放送部へ。
行野君は楽しい楽しい美術部へ。
そして私は、良いように使われるためバスケ部へ。
いえ。
良いように使われるため、五月会室へ行くのです。
「待ってたよ、葛城ちゃん」
人目をはばかりながら五月会室の重たい真っ黒なドアを開けると、すぐに高岳と目が合いました。くるくる回る椅子に座って、のんべんだらりと雑誌を読んでいます。その後ろの椅子には五月川が、こちらは長い足を傲然と組んで座り、にやにやと笑っています。
五月会室にいるのはこの二人だけで、後は一条ハーレムにでも付き従っているのでしょうか。統ちゃんのせいで一条はほとんど出禁を食らいましたから。
開かれた窓からレースのカーテンを揺らして、気持ちのいい風が入ってきました。
「……まさか本当に葛城が統を売るとはな」
五月川がその時だけは、複雑そうに目を伏せました。それを見て、高岳が声高く笑います。
「いいじゃん、親友に裏切られて傷心の彼女を慰める役どころで。案外ころっと落ちるかもよ? ま、それは普通四瀬行野君に回される役目だろーけど」
幼い子どものようにくるりくるりと椅子を回して遊びながら、手にした雑誌を机に投げ捨てました。
それから、ぴたり、と照準を合わせるように私に体を向けて、
「三雲統は、次は何をするのかな?」
五月川も、じっと凝視してきます。
願いを叶えるためなら、何だってやる。かつて統ちゃんに惹かれたのは、私たちの魂が似通っていたからかもしれません。
自分の中でだけ筋道を通し、周りに何と思われようと構わない。ただひたすら、己が正しいと信じた道を、脇目もふらずに突き進んでいく。まるで愚直そのもの。
だから何だっていう話ですが。
私は高岳を見やり、淡々と言葉を紡ぎました。
「彼女は、反一条派をまとめあげようとしています。放送部ですから、女子の情報ネットワークの要にいるんです。そこから芋づる式に、反一条の男子とも関わりが。……数は少ないんですが」
「なるほどね。それで?」
「今夜、出来る限りの人間を集めて、決起集会と言いますか――一条さんを当選させないよう、作戦を練るようです。人数は、百を超えるかと」
「結構いるね~。で、いつ? どこで?」
簡潔明瞭にして、容赦ない質問。さすがに五月会会計を努めるだけあります。
「消灯後――十二時過ぎと聞きました。男子も女子も集まれるよう、場所は談話室に設定したとか」
「へぇー……」
高岳が面白そうに口角をつり上げる。新しいおもちゃを見つけた猫のように瞳がきらめいて、五月川に顔を振り向け、クッと喉を鳴らし、
「さて、どうする? 五月川君?」
「決まってます。その現場に選挙を仕切る俺が踏み込んでやります。全員その場で捕まえてやる。一匹たりとも逃がしません」
匹って……相手は人間なんですけどね……。
高岳はますます愉快そうに笑みを深めると、繰り返し首を振ってみせました。くるくるっと勢いをつけて椅子ごと回って、
「そーだな、言い逃れのできない状況にしてやれ。君は五月川だから、そこらへんの生徒じゃ太刀打ちできないし」
「当然です。俺は五月川綾治ですから!」
五月川が鼻息も荒く胸を張ります。と、急に眉を寄せて、
「だが統もいるからな……。あいつは三雲だ、油断ならない。しかも今や本家跡取りとなったわけだしな。そうだ、一条も連れて行こう! 統が何か手を打っていたとしても、一条の名前の前には大体の生徒が怯える。反一条だといっても、本人を前にしたら尻尾を巻くだろ」
「いいんじゃねーの、それで」
高岳はくるくる回る椅子を足を引きずるようにして止めて、「葛城ちゃん、ありがとね」とやけに澄んだ目を瞬かせました。
▽ ▽ ▽
午前零時――。
月は雲に隠れ、地上を照らすものは何もない。冷たい風に吹かれる木々の枝が、ざぁ……っと音を立てて不気味に手を揺らす。夜空を飛び過ぎる鳥が、闇に溶けて消えていく。
そんな、夜の、黒く沈む五月川学園の廊下で――。
何やら、楽しげな声が響いてきた。
消灯時刻を過ぎ、壁に取り付けられた明かりは落とされているのに、そこだけが鮮やかに明るい。
声の主が持つペンライトが、闇を払っているのだ。
「うふふ、本当に楽しみだねぇ~、綾治君っ」
「そうだな、統がどんな顔をするか……写真撮ってやるぜ」
足音も高く歩いてきたのは、一条真妃と五月川綾治だった。いや、歩いているというのは正確ではない。一条は五月川の腕にもたれかかっており、半ば引きずられている。
その状態からでも器用に上目づかいをきめながら、
「ねぇ、綾治君?」
「なんだよ」
「どうして、三雲さんのことを呼び捨てにするの?」
「は?」
五月川はきょとんと口を開けてから、ちょっとうつむいて、暗がりの中に顔を隠した。
「まあ……あいつとはちっちゃい頃から、家のパーティーとかで一緒だったし」
「ふぅん?」
「そ、その頃から、皮肉っぽくて、生意気で、嫌な奴だったけどな。しょっちゅう馬鹿にしてくるし、あ、でも――」
そこで何かに思い当たったように言葉を途切らせ、
「統は――いつも俺自身を馬鹿にしてたんだなぁ……」
「そっか。綾治君は寂しかったんだね」
平素の甘やかさの薄れた、凪いだ色の声だった。彼女は五月川を掴む手に力を込める。
「寂しい? 俺が?」
「うん、きっとそうだよ。だって、私たちはずっと孤独だもん。当主争いとか、遺産問題とか。周りには敵ばっかり、でしょ? だから、自分自身を見てくれる三雲さんのことが気になっちゃうんじゃないかなぁ?」
「き、気になってるわけじゃ……」
「そうなの? マキは綾治君のこと、気になってるよ?」
悪戯っぽく瞳が輝く。くるんとカールした睫毛に彩られた目には、茶目っ気と、純粋さと、それから暗く翳った不安……のようなものが詰まっていた。五月川はハッと息を呑み、彼女の瞳から無理やり視線を引きはがした。
「とにかく、今は、統たちを捕まえることが先だろ? 談話室まであと少しだ」
「そうだねっ。選挙をジャマしようなんてひどいこと、どうやったら思いつくのかなぁ~?」
そううそぶく一条は、いつものように舌っ足らずで、たった今まで漂わせていた寄る辺なき子どものような陰は、夜闇に紛れてしまったようだった。
「意地悪な子には、お仕置きしないとねっ」
談話室の前にたどり着くと、彼女は楽しげに、両開きの扉を開け放った。




