5
貧血を起こして昏倒した私は、統ちゃんと行野君に保健室へと運ばれました。門番が「名札を……」と言いかけたのを、統ちゃんが一睨みして黙らせます。
水を飲んで保健室の白いベッドに寝かせられると、気分がずっと良くなってきました。
二人は心配そうに枕元に立って色々世話を焼いてくれましたが、やがて一限が始まるからと、私を残して教室へ行ってしまいました。
ベッドの周りには薄いオレンジ色のカーテンが引かれ、物音がずっと遠く聞こえます。窓が開いているのかカーテンがときおり揺れて、映る物影がぐにゃりと醜く歪みました。
渡された名札は、そういえば、どこへ行ったのでしょう。
頭をちょっと動かして辺りを見回してみても、影も形もありません。さきほどまで、あんなにグロテスクに輝いていたのに。もしかすると、統ちゃんが持っていったのでしょうか。
なんのために?
いえ、それはもうどうでもいいことです。私が考えたって掴めるものではないですから。
私は――そう。私がやりたいことは、たった一つだけなのです。
また風が吹いて、私をぐるりと囲むカーテンがひときわ大きく揺れました。
と――。
「葛城ちゃん。その目は、もう何か決めたんだね」
知らない間に、高岳がそばに立っていました。掴みどころのない微笑を浮かべて、燃えるような赤い髪がぞっとするほど鮮烈です。なんだか自分が、白い皿の上にでも乗っているような気分になってきました。
さっきまで聞こえていた外界の音は今や息絶えて、終わってしまった世界に落ちてきたよう。
沈黙が、耳に痛いです。
「篤史君の遺品、どうする? 欲しい? それともこっちで処分しようか?」
ひょいと顔を覗きこんできます。何の感情も浮かんでいない、硝子玉のような瞳でした。
「それは……」
口が渇いて、声が喉に張りつきました。本当に、これでいいのか? 正しい道を選べているのか?
後悔、しないのか?
幾度も頭の中で自問自答を繰り返し、悶絶し、冷や汗をかき、やっと納得できる答えをすくい上げます。するとやっぱり、私にはそれしかないと確信できました。
私は、葛城加菜子は、
「篤史君の遺品、そちらで処分してください」
それが正解だと、思うのです。
「へぇー、そっか」
高岳がにやりと笑います。私から一歩離れ、少し斜めにかしいで立ちながら、
「葛城ちゃんは、友人を裏切るんだ?」
これで正答、のはずです。
小刻みに震えだす手を必死に抑えて、何度も自分に言い聞かせます。私は何も、間違ったことなんて、してないんだ。絶対に、大丈夫だ。
視線がふっと、高岳から横に流れます。
「ま、いいや。じゃー、お望み通り処分してあげるけど、もちろん条件は覚えているよね?」
当然です。あなたとの出会いは印象的でしたから。
「統ちゃんは、一条の選挙で、その場を掌握したいみたいです」
「そんなことは分かってるよ」
高岳の声音が急に冷えました。私に視線を落とし、瞬き一つ見せません。背中に寒気が走り、身体をぴくりとも動かせなくなってしまいました。
「こっちが知りたいのは、その具体的な方法。ちゃんと働かないと、ご褒美はあげられないよ?」
「具体、的……」
懸命に記憶を掘り起こして、統ちゃんが何を語っていたのか思いだそうとします。彼女は、確かに、私に教えてくれたのだ。そうだ、
「統ちゃんは放送部員ですから、司会をやりたいんです。それに、三雲だったら誰も反対しないでしょうし」
若干しどろもどろですが、満足させられたのでしょうか。高岳は「ふーん」と低く呟いて、ぱっと笑顔に戻りました。たった今まで漂わせていた残忍そのものの空気は、すっかり取り払われています。
「ま、今のところはそれでいいよ。司会ね、りょーかいりょーかい」
「あの、遺品は……」
「え? これっぽっちの情報でやってあげるわけにはいかないよ。一条真妃が相談役に就任したら、燃え滓でも渡してあげるから」
その言い方に、ふと違和感を覚えました。この人は……。
「高岳先輩は、五月会なのに一条真妃派じゃないんですか?」
その途端、口に出したことを後悔しました。
今までとは比べ物にならないくらい凍えきった光がその目に立ちのぼり、気付けば首を絞められていました。ぎりぎりと締め上げられ、空気が喉を通りません。
「次、そんなこと言ったら」
「う……っ!」
「首の骨折るから。分かった?」
「わっ、わか、りまし、た……っ」
呼吸が楽になりました。起きあがってベッドに手をつき、激しく咳き込んで顔を上げると、もうどこにも、高岳の姿はありませんでした。
高岳実弦が一条派かどうかは、禁忌。
なるほど、よく理解しました。
▽ ▽ ▽
結局午前中いっぱい保健室で休んで、私は教室へ戻りました。
私が入っていくと、一瞬、騒がしかった教室がしんと静まり返りました。みんな遠慮がちにこちらに目を移し、すぐに慌てたように視線をそらします。そこでようやく、思いだすことが出来ました。
そういえば、私は名札付きでしたね。
「加菜子、もう大丈夫なの」
入口でぼんやり突っ立っていると、後ろから統ちゃんが呼びかけてきました。いつも通りの優しい表情。気心の知れた私や行野君にしか、見せない顔です。
「うん、もう平気。午後からは普通に授業も受けるよ」
普通に、普通に。前と同じように、振舞えます。
「良かった。食欲はあるかしら? また四阿で、ご飯を食べようと……」
統ちゃんが言いかけたとき。
ざっと足音がして、何者かが私と彼女の間に割って入りました。
「――だから、言っただろ?」
この偉そうな声。五月川です。
彼は驕気に満ちた笑みを面に浮かべて、ひどくご満悦のようです。おおげさに振られる腕の先から、満ち足りた思いが雫となって滴ってきそうなほど。馴れ馴れしく統ちゃんの肩を抱いて、ぐっと顔を寄せました。
すかさず、行野君が間に割って入ります。自分が盾になって、彼女を守らんと睨みを利かせます。だがしかし得意の絶頂にいる五月川は、その視線を軽く受け流しました。
「一条に逆らうとロクなことがないってな。これから先、どうなるか教えてやろうか? 名札を付けた生徒は、そうではない生徒から完全に隔離される。もう始まってるぞ。とりあえず、学校の設備は分断させてもらうことにした。下賤な人間と同じものを使うなんて、俺みたいな高貴な人間には耐えられないからな」
「学費を払っている時点で五月川学園の生徒は皆平等よ。五月川の資金を増やしてくれるのは、あなたの馬鹿にする生徒たちだわ」
行野君の影から出てきた統ちゃんが、五月川の顔を睨みあげます。その横顔のあまりの凛々しさに、周りの生徒がほぅ……とため息をつきました。
本当に、私には不釣り合いの友人です。
友人――と呼んでいいのでしょうか?
葛城加菜子なんかが、三雲統を?
「ハッ」
五月川が鼻で笑い飛ばしました。私を指差し、
「こんな奴はいくらでも取り換えがきくんだよ。なんてったて、五月川学園は崇高な人間が通う場所だ。二倍の学費を払ったって、入学したい奴は大勢いるさ。――なあ、そうだろ、葛城?」
「えっ……?」
それでは。
それではまるで。
私が不正に入学したみたいじゃないか――!!
「口を慎みなさい、五月川綾治」
統ちゃんが冴え凍った声で五月川を制します。その双眸を見れば、誰だって足に力が入らなくなるでしょう。現に教室の野次馬が一人、派手に机を倒してぶっ倒れました。
あ、また一人。
にもかかわらず、調子に乗った五月川の舌は止まりません。統ちゃんの方へ一、二歩歩きだしながら、自分が一番映えるナイスポーズを決めてみせます。
「そうだな。あの親じゃ、二倍どころか普通の学費だって覚束ないだろうな」
「!」
そういうことか。
そういう風に持っていくのか、五月川。
統ちゃんのまとう空気が、急速に凍えていきます。突然雪が降り出したって、驚きはしません。私の腕にはびっしり鳥肌が立って、骨の髄まで凍ってしまいそうなのです。
「気を悪くするなよ、これは事実なんだから。統、お前のことを言っているんじゃない。三雲はうちに並ぶ気高い家柄だ。押しも押されもしない名家で間違いない。お前なら、俺と釣り合いが取れると言ってもいいぞ。でもなぁ、最近の一条への振舞はちょっと目に余るな。一条真妃も怒ってるからな、何されるか分からないぞ。まあ、俺なら上手く仲立ちできるけどな! あ、もちろん統だけだ。他の取り巻きはちょっとな。名札付きなんてもってのほかだ」
「なるほど? それであなたがあの馬鹿げた通達を出したというわけね」
彼女は心底馬鹿馬鹿しいという口調で肩をすくめました。瞳は相変わらず危険な光を放っていますが、怒りの沸点を超えて冷めてきた、というところでしょうか。もしかすると、また何か、私ごときでは考えも及ばぬ策を練っているのかもしれませんが。
「ああそうだよ。いいアイディアだろ? あの名札。色を選んだのは一条だ。いい趣味してるよ」
それは皮肉、でしょうか。
そうですね。確かに、いい色でしたね。あなたたちにとっては、さぞかし素敵な眺めでしょうね。
「ふーん。そう……あなたの名において作られたの。さすが、理事長の息子ともなると、やることが違うわね」
「まあな。俺は特に、可愛がられてるからな」
理事長公認、なのでしょうか。
と、統ちゃんがくすりと笑いました。右手を慎ましく口元にあて、可愛らしく小首を傾げてみせます。
「そうね、確か理事長はここ一週間、海外に出張へ出かけていらしたかしら。それでも、可愛がられている綾治君は、許されるのね」
その響きに、何か不穏なものを感じたのでしょうか。
五月川の表情が、ゆっくりと翳っていきました。ついさっきまでの輝きは失せ、どこか小狡そうに統ちゃんを見上げます。
「……たとえ父さんが帰ってきて命令を知ったとしても、状況は改善しないぜ? 五月川家だって、みすぼらしい人間が学園に入ることを喜んでいるわけじゃないんだ。むしろよくやったと、褒めてもらえるくらいだぜ」
「あらそうなの。御講釈ありがとう。五月川家の考え方はよく把握できたわ」
もう何を言うのも馬鹿馬鹿しいという倦んだ雰囲気で、彼女は五月川に華奢な背を向けました。さらりと髪を揺らし、少しだけ彼を振り向いて、
「あなたが私と同格なんておこがましいわ。やがてそれを思い知る日が来るでしょう」
さっさとどこかへ歩きだしてしまいました。この舌戦を見守っていた人垣が波の引くようにうごめいて、彼女に道を開けます。行野君は素早く後ろをついていきました。そしてふと、私がついてきていないのに気付いて、首を傾けます。
とっさに動きが遅れたのは、五月川の低い呟きを聞いてしまったからでした。
「……統め、思い知るのはお前の方だよ。こっちはもう手を打ってあるんだ」
その手とは、もしかすると――。
私はその場に突っ立ったまま、ゆるゆると考えを巡らせていました。
後悔なんて、ありません。
私は自分にとって、最良の一本を選びました。振り返る心なんて、もう持ち合わせていないのです。




