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ちょっと思いついてしまったので浮気を……。

 あの女が転校してきたとき、私は何をしただろうか。

 何もしていない。学園中があの女に踊らされるのを、ぼんやり見ていただけ。

 誰某があの女の餌食になっただとか、誰某の恋人があの女に盗られただとか、そんなことは私に関係ないと思っていた。私は静かに、友人と学園の隅で息をしていればいいと信じていた。注目を集めることはしないと決意していた。


 ――だから。


 最愛の双子の弟が、あの女に恋してしまったとき、私は何もしなかった。誰よりも賢い彼のことだ、きっと上手くやるだろうと高をくくっていた。あの子が人よりも善良すぎ、誠実すぎ、平凡すぎることを、すっかり忘れていた。顔を合わせるたびに、あの女との楽しい日常を語る彼は、本当に幸せそうだったから。不幸が起こるわけがないと決めつけた。

 そんなわけはないのに。

 今、私の前には、弟、三雲篤史の溺死体が横たわっている。今日は篤史を見ないな、と心配していたところに、担任が呼び出したのだ。


「三雲、落ち着いて聞けよ」


 いつもおちゃらけてクラスを盛り上げる担任が、そのときに限って真剣なまなざしをしていた。私の顔を覗きこんで、じっと息を詰めるようにしている。まるでそうしていないと、私がどこかへ消えてしまうんじゃないかと心配しているかのように。

 私はもう全部を察していた。目が、耳が、鼻が、皮膚が、五感のすべてが、もう三雲篤史がこの世にいないことを恐ろしい鋭さで私に告げていた。


「……篤史に、何かあったんですか」


 自分でも驚くほど低い声だった。担任は私の瞳を見て一瞬たじろぎ、すぐに重々しく頷いた。

「ああ。三雲君は、今保健室に……いるよ」

 いないだろう、たぶん。担任の後ろをついて廊下を歩きながら、ふっとおかしくなった。保健室にいるのは、篤史じゃない。それは篤史の抜け殻で、本当の篤史は、きっと天国とかで相変わらずあの女の話を幸せそうにしているんだろう。


 ――なんて。


 思えるほど私は夢見る女の子じゃないのだ。

 保健室の一番奥。床に敷かれたビニールシートの上に置かれた篤史を見て、心がカチリと音を立てて切り替わった。

 それは誰にも分からないくらいの些細な変化だった。見た目には、家族を亡くして狼狽える内気な女の子。でも、中身は――。

 中身は、弟の殺害を確信して、犯人を見つけようと誓った冷酷な復讐者。


「三雲、しっかりしろ。座れ。水でも飲むか?」


 担任がおろおろして私をベッドに座らせる。私は目をしっかり篤史に釘づけたまま、信じて疑わない。

 篤史は殺された。

 誰かは分からないが。

 それでも、まだ十七歳の弟の命を奪った人間が、この世のどこかでのうのうと息をしている。

 こんな理不尽を許せるなんて、天使しかいないでしょう?

 そして私は天使じゃないのだ。

 渡された水を飲みながら、ずっと隠してきた残酷な化け物が目覚めるのを、静かに待っていた。


▽ ▽ ▽


「統ちゃん、大丈夫……?」


 教室に戻ると、親友の葛城加菜子が不安げな面持ちで迎えてくれた。耳の下あたりで二つに結ばれた黒髪が、心細げに揺れている。彼女とは幼稚舎からの付き合いだ。お互い、家族ぐるみの付き合い。


「篤史君が、その……」


「加菜子」


 胸の前で震える両手をぎゅっと組み合わせている彼女に、優しく言葉を紡ぐ。


「篤史は殺されたわ」


 さっと加菜子の顔から血の気が引いた。穏やかな彼女には、少し刺激の強すぎる話だったかもしれない。だが、どれほどオブラートに包んだって、事実は事実だ。


「どうして、殺されたって――さっきの話じゃ、篤史君は事故だって……」


「なるほど、もう伝達が来たの。やることは早いわね、五月会は」


「うん。五月会長の二蔵先輩が、全校放送で話したの。二年C組の三雲篤史君が、不幸な事故で亡くなった。ついては今日は喪に服するために、休校とする――って」


 五月会というのは、いわゆる生徒会のことだ。私たちの通う私立五月川学園は、世間では良家の子女の通う名門校とされている。なかでも五月会は、毛並みの良い選ばれし生徒たちからなっていて、自主自立をモットーとする学園では、絶大な権力を誇る。だから、休校なども勝手に決められるわけだ。


「へえ、休校? なら話は早いわ。私の見たことを話すから、さっさと荷物をまとめて談話室へ行きましょう。行野も呼びましょうか」


 これから先のことを示されて、加菜子はほっとしたようだ。手早く荷物をまとめ、私のカバンまで持ってきてくれた。


「談話室って、誰かに話を聞かれないかな」


「弟を亡くしたばかりの傷心の私に、誰も近づきたくはないわよ」


 軽く返すと、加菜子は驚いたように目を見開いていた。私の目をまじまじと見、しばらく並んで歩いたあと、一言


「――三雲統が、戻って来たんだね」


▽ ▽ ▽


 四瀬行野、というのが私の幼馴染の名前である。ユキノ、だなんて可愛い名前のわりに、本人は背が高く、いつも無表情だ。私が昔、ふざけて泥団子を投げつけたときも一ミリも表情を変えず、「可愛いから許す」などと言い放つ男だから、もしかすると頭の螺子を一本か二本母親のおなかの中に落としてきたのかもしれない。

 とはいえ、そんな幼馴染でも、篤史の殺害疑惑を話すと表情を変えた。切れ長の目を見開き、行野にしては珍しいほど顔が青ざめている

「……何?」


「だから、篤史は殺されたのよ」


 生徒のために設置された談話室。普段はわいわいと騒がしいが、私たちの周りだけ、やけに静かである。予想通り、皆遺族を遠巻きにしているのだ。丸テーブルを囲んで座る三人だけが、どこか非日常めいていた。


「どうしてそう思うんだ?」


 向かいに座った行野が身を乗りだしてくる。加菜子も目に力を入れている。私はテーブルに肘をついて、ため息をつくように言った。


「――篤史は溺死だったの」


「まさか!?」


 加菜子が目を剥く。行野は読めない無表情で話の続きを促している。唇を湿らせ、私は話し始めた。


「ええ。もちろんおかしいわ。だって篤史は泳げたもの。溺れるわけがないの。……担任から聞いた話では、篤史は今日の朝から姿が見えなかったんだって。昨夜の点呼のときにはいたらしいから、殺されたのは昨日の夜十時から、今日の朝六時までの間ね」


 五月川学園は全寮制だ。いつも鬱陶しい点呼がこんなことに使われるなんて、思いもよらなかった。


「まあ、夜中に寮を抜け出すなんて簡単だから、どうしようもないわね。とにかく、篤史はその間に、月光湖に行ったらしいのよ」


 寮の裏手の森の奥にある、綺麗な湖だ。デートスポットとしても名高い。だが、今は四月で、まだまだ夜は冷えるから、人気はなかっただろう。


「そして、そこで何かがあって――篤史は湖に落ちて死んだ、らしいわ」


「何か、って」


 加菜子が喘ぐように言う。目元が今にも泣きそうに震えていて、手が口を覆っていた。


「そんなの、一つしか考えられないでしょう! 最近の篤史君は、ずっと……ずっとあの女を中心に生きていたんだから!」


 沈黙が落ちた。

 あの女。――一条真妃。

 天下に権勢を轟かせる一条グループの愛娘で、五月川学園の転入生。四月に転入してきた彼女は、その絶世の美貌と手練手管で、あっという間に五月会長、二蔵長一郎をオトした。

 五月会長に目をつけたのは賢いと思う。おかげで彼女は、何をしても許される「お姫様」になった。二蔵だけでは飽き足らず、学園中の男たちに遭いの言葉を囁き、一条ハーレムを築いているらしい。どこの少女マンガだ、と言いたいところだが、これにはなかなか愛だけでは測れない事情があった。


 経済界でも、政治界でも頭一つ抜けて権力を持つ家がある。

 一条、二蔵、三雲、四瀬、五月川――この五つだ。

 上手い具合に数字がついているから、巷ではナンバーと呼ばれているが、とにかく、この名字を持つものは、学園内だけでなく、外界でも圧倒的な力を持つ。

 一条真妃は、ナンバーで、超絶美少女で、五月会長の恋人。

 こんな人間に冷たくしろという方が無理だ。良家の子女の集うこの学園は、ちいさな社会の縮図なのだ。生徒たちは、家を背負って高校生をやっている。

 だから、恋人を一条に盗られたからといっておおっぴらに恨むわけにはいかない。そんなことをしたら、どこにどんなしっぺ返しがあるか分からない。泣き寝入りした少女たちを、私はたくさん見てきたのだ。


 ――でも。


「で、これからどうするんだ、統」


 行野が静かに問うてきた。その目はすでに、答えを知っているようだった。

 二人とも、私の長い友人だ。私自身よりも、三雲統のことを知り抜いているに違いない。


「顔を潰してやるわ。当たり前でしょう? 三雲統を敵に回したことを、一生後悔させてやるの」


 それが私にできる、唯一の償いだと思うから。

 篤史……こんなふがいない姉で、ごめん。


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