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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

闇族の血

作者: T・有田

    《闇族の血》

 ―満月の夜は血が騒ぐ。

 それはいつからそうか分からないが、血が欲しい。身体が血を求めずにいられなかった。血が欲しい、肉が欲しい。そんな欲望を抑えるのは難しかったのだが、今では何とか耐えうるだけの理性を身に付けることが出来た。

 この不条理ともいえる欲求について、一度、小さい頃に父親にその理由を聞いた事がある。それは父親の家系で、何千年も遠い祖先の時代から受け継がれたものらしい。忌まわしき体質、呪われた能力として。父親は結論こそは言わなかったものの、僕は直感した。僕の家系は『人狼』なのだ。

 納得したわけではなかったが、別に悲観的になるつもりはなかった。ただ、『満月を見る』ことを避ければいいだけだ。そう割り切って僕は今まで生きてきた。普通の人間とは全く違う体質を持った僕だったが、それでも何とか平々凡々に日々を送っていた。

しかし……。

     【Ⅰ】

 今は夏真っ盛り。息が詰まりそうな熱い大気と毒棘のような陽射しが、人工物が密集する都心の街並みをじりじりと灼いていた。木漏れ日でさえ、夏の鋭さを感じられずにいられない。ドライブと昼食を終えた耕介と美奈子は、猛暑から逃れようと、そそくさと彼の部屋へと足を進めた。

 二人は街でブラブラとデートする筈だったのだが流石にこんな日に外を歩き回るのは互いに億劫だったのだろう。約束だったショッピングを中止し、クーラーをガンガン利かせた部屋の中で、浮いたお金で少し豪勢な昼食と他愛のない会話を続けていた。

「ちょっとお手洗い借りるわね」

 そう言って美奈子はリビングルームから姿を消した。彼女の後姿が見えなくなったのを確認すると、耕介は深い溜息を付いた。今日久しぶりに彼から美奈子をデートに誘ったのだが、そんなものは表向きの理由だ。

(今日、話すべきか……)

 彼は自分の呪われた体質を告白するつもりでいた。それでいて今になって、少々の不安が残っている。

そういえば彼女と出逢ったのはいつだったろうか。彼は首を傾げ、過去を振り返ってみた。

それは大学を卒業し、社会人としてようやく落ち着いてきた頃だった。二人は同じ部署で働いていて、彼女に惹かれたのは自分からだったかなぁ、と彼ははにかんだ。とんでもなく遠回りな言い方だったが、最初のデートを誘ったのは彼だった。以降、五、六回そんなデートを繰り返してきたが、同じ仕事場で接する機会が多いせいか、数少ないデートでも二人の仲は急速に深まっていった。互いに口数は決して多くはなく、耕介が話そうとしなければ、彼女も無理には話しかけてこない。ただ一緒に居れば安心できる―そんなものはメロドラマの中だけの話と思っていたが、あながち嘘ではないのだと彼は最近思い始めていた。だからこそ尚更彼女には話すべきかどうか悩んでいた。

―自分が人狼であることを。

 小用を終えた美奈子が、すたすた、と彼の居るリビングへと足早にやってくる。スッと椅子を引き、彼の向かいに座る。

「あら、どうしたの?なんか苦虫を噛みつぶしたような顔をして……」

 その屈託のない笑みに、耕介は密かに決意を固めながら、話があるんだ……と重たい口を開けた。

「僕さ……満月を見たら変身するのだ」

 唐突に、かつ突拍子のない話を告げられ、美奈子は怪訝そうな顔をした。

「あら。私のSF映画好きをいいことに、からかってるんでしょ。そんな冗談を言うの止めてよね」

 美奈子は自称、現実主義者を語っている。SF映画こそ好きなものの、それと現実をごちゃ混ぜに考えているつもりは決してしていなかった。耕介もそのことは十二分に知っている。

「本当なんだよ。父親の家系でね。決して逃れられない、呪われた血が僕の中に流れているんだ」

「そんなことがある訳ないじゃない」

「君を信用してるから言ったんだよ。僕が今まで嘘を言ったことがあるかい?」

 美奈子は耕介を睨んだ。人を馬鹿にするのも程がある、そんな思いが彼女の頭を一杯にする。しかし、耕介の顔は真剣そのもので、少なくとも彼が冗談を言っている訳ではないことは確かだった。

「それじゃあ病院に行かないと……」

 その一言に、耕介は身を硬くした。

「医者だって?僕の身体はでも何処も悪くない」

「そうよね。身体はどこも悪くないんでしょうけど……」

「待て。僕の頭がおかしいとでも?そりゃあ、そう思われても仕方ないけど、僕は何処も正常なんだ。医者に行っても治る訳ないんだ。治すところなんて無い」

 耕介は声を荒げた。珍しく感情を顕にした彼を見て、美奈子は一瞬言葉が出てこなかった。

「信じてないね。まぁ仕方ないことだけど……。今までずっとそうだったから、別に気にしてないよ」

 美奈子の困った表情を一瞬だけ見詰めると、すぐに耕介は視線を落とし、ふぅ、と小さく深い溜息をついた。あまりにも淋しそうな表情の彼を見て、美奈子は思わず内心とは裏腹の台詞を口走っていた。

「……分かったわ。信じる。でも、今すぐにその話を信じることは出来ない。少なくとも信じるように努力する。それでどうかしら」

 溜息混じりに美奈子は答えた。確かに彼女は信じてはいなかった。自分のことを狼男などと思い込んでいるなんて、この男は頭がおかしいのではないか、と。しかし、私だけに自分の秘密を打ち明けてくれたという嬉しさの方が勝っていた。

「すっといいよ。とにかく君は嘘をついていない。こんな馬鹿げた話をあっさり信じるほうがおかしいからね。でも、ありがとう」

 耕介は胸ポケットからタバコを取り出しながら、薄く笑った。口の端から尖った歯が剥き出しになったのを見て、美奈子はどきりとした。

ふと、彼女は左手にはめていた腕時計に目をやった。午後六時を回っている。母親との約束で、食事の買出しを頼まれていたことを思い出した。

「今日はもう帰るわ」

「ああ」

 美奈子は耕介の頬に軽くキスをすると、そそくさと荷物を仕舞った。耕介の力なき微笑みにとびっきりの笑みを返す。そして、ゆっくりと、彼の部屋から出て行った。

 太陽が地平線の彼方に消えていく。入れ替わりに月が昇っていく。半分だけ満ちた、不完全な月が。彼が満月の夜に外出を頑なに拒んでいたのには、そんな理由があったのか……と彼女は感慨にふけていた。

(私が何とかしなければ……)

 医者に行きたくなければ、私が治すしかないだろう。この困った妄想を。

 そして確かめるしかない、次の満月の晩に。本当に彼が『狼男』なのかを。

 一瞬、SF好きの彼女の血が騒いだ。

 彼女は、とある荒療法を思いついた。「それならば食事のメニューのついでにあれを買っておこう」と、美奈子は思いを決めた。この状況を楽しんでいるかのように、彼女は小走りに買い物へと向かった。

       【Ⅱ】   

―一週間後。

 美奈子は耕介を、自分の家に誘った。しかし、満月の夜は嫌だと、彼はなかなか首を縦に振らなかった。陽が落ちてからだと満月を意識して、決して外に出ようとはしない。

「夕方頃に来て、うちに泊まればいいじゃない。カーテンもちゃんと付いてるし。そうすれば満月を見ないで済むでしょ。それに腕を揮って料理をご馳走するわ」

 その言葉に耕介はあっさりと快諾した。

 よし!と、彼女は心の中で呟いた。

 前日までに全ての準備は終わっていたのだ。ここで断られては、今までの努力が水の泡になる。満月が完全に昇るまでの間、彼には眠ってもらうことにしているのだ。その為に不眠症を偽って睡眠薬を買っておいたのだった。その薬も既に、昨日作っておいたカレーにしっかりたっぷりと混ぜてある。酒の弱い耕介でも飲めるようにと、少し高級で滑らかワインを準備していた。どれだけ睡眠薬を飲ませれば良いのか、更には満月が頂点に達する時間さえも、彼女は全て計算していた。

(これで準備は万端だけど……)

 詐欺紛いの事をしているのではないか、と美奈子は内心穏やかではなかった。しかし、それも彼の為だと思うと、彼女の胸に渦巻く罪悪感はすぐに消え去っていった。彼は自分の考え通りに動いてくれるのだろうか……、彼女の胸は高鳴っていた。

インターホンが鳴り、耕介の姿を確かめると、そのまま自分の部屋へ招き入れた。満月を意識してか、閉め切った窓をしきりに気にしている。

「おや、今日はカレーを作ったのかい?」

 しかし、ダイニングキッチンに入った途端、カレーの香りが彼の鼻腔をくすぐる。

「そう。昨日の晩から作っておいたの。カレー粉を混ぜ合わせる所から始めたのよ。料理本、片手にだけどね」

 呑気そうに問い掛ける彼に、美奈子は胸を張り、最後の一言にペロッと舌を出しておどけてみせる。

「それは楽しみだ。……ところでこのワインは?」

 耕介は彼女の心配りに、純粋に喜んだ。彼女が注ぐワインに首を傾げる。

「食前酒よ。高かったんだから。……それに雰囲気出てるでしょ」

 美奈子は電気を暗くし、机の上にセッティングされたキャンドルに火を灯す。

「……ワインなら大丈夫だ」

 彼は少し思い悩んだが、グラスを手にとると一気に飲み干す。その後も話がてら二、三杯グラスを空にさせると、彼の眼差しに酔いが回り始めていた。

「さぁ、召し上がれ」

 美奈子は少し早い夕食を差し出した。食前酒に飲んだワインの酔いが消える前に。アレがたっぷり入ったカレーを。


 耕介が机の上にすやすやと寝息を立てながら眠り始めたのは、食事を終えて間も無くだった。後は時を待つだけ。彼女は思い付いたショック療法を始めるべく、静かに準備を始めた。しかし、これ以上ない程の真面目な表情で「満月を見たら変身するんだ」という彼の言葉を思い出し、美奈子は少し怖くなった。そんなことある訳がないと、彼女の知りうる限りの科学的根拠と理性では思っていても、完全に恐怖感を拭うことは出来なかった。

 頭の中に過ぎる雑念を振り払うように、ぶるぶる、と頭を振った。

そして―。

       【Ⅲ】

―ぺチンッ。

 美奈子は熟睡している耕介の頬を叩いた。

 しかし、熟睡していた彼はなかなか起きる素振りを見せず、彼女は再び頬に平手をぶつけた。己の頬に幾度と伝わる衝撃に、ようやく耕介は重い瞼を開けた。

「ん……」

 睡魔の抜けかけた耕介は身動ぎしようとしても、一切動けないことに気が付いた。彼の身体は、窓をしっかりと見るように座らされている。たじろぎ一つ出来ない程までに、手足にはロープが何重にも巻かれてあった。

「なっ何をしてるんだっ!」

 耕介は叫んだ。しかし美奈子は聞こえないふりをした。そして彼女は彼の下半身に跨り、両手で頬を撫で、耳元で囁いた。彼女の艶かしい吐息が彼の耳をくすぐる。

「心配いらないわ。少し辛いかもしれないけど、貴方の妄想を打ち消すにはこれしかなかったの」

 耕介の頬にキスをすると、美奈子はゆっくりと彼の身から離れ、彼に背を向けた。身体を少し伸ばし、カーテンの裾を握る。

「止めてくれ! 違う……違うんだ。これは妄想じゃない。こんなことをすれば君の命がっ……」

 耕介は力強く否定した。しかし、彼の必死な思いは伝わることはなかった。

美奈子は勢いよくカーテンを開けた。空は晴れ渡っていて、一辺の雲もない。広がるカーテンの隙間から、純粋な丸い月光が部屋の中へと注ぎ込まれた。

(本当なんだ。今日だけは……)

金縛りにあったように、耕介は窓の外から目を離せなくなった。空は晴れ渡っていて、一辺の濁りもない。見事なまでの満月。耕介は満月を見詰めた。見続けた。彼が生まれて一度も、見ることのなかった満月。他の人間から見れば、それは凶眼と言われても良いくらい鋭いものだっただろう。

……どくんっ。

一面の黒。一面の闇。他の色を一切受け付けない純粋な心の闇。邪悪な鼓動が、不意に大きく耕介の耳を打ち始める。

どくっ、どくっ、どくん……。

果てしない闇の中で、それは目を覚ました。耕介の身体の中から凄まじいエネルギーが湧き出てくる。ミヂミヂ、と音を立てながら肉体が変化していく。身体中の筋肉が、彼の意識に反して巨大化していく。少しずつ、少しずつ、耕介は何か別のものへと変貌を始めた。強大かつ邪悪で、人の血を啜り、肉を喰らい尽くすものへと。何重にも手足を巻いていたロープも、筋肉の肥大によって呆気なく切れてしまう。縦長い紅い瞳が、貪欲な餓えに爛々と輝いていた。その視線の先には一人の女性がいる。

(……美奈…こ………)

 一気に発動した欲望が、今まで保っていた理性を急速に覆っていく。朦朧とした意識の中で、最愛の女性の名を呼んだ。しかし、彼の人間らしい感情が、完全に切り離されるまで、そう時間は掛からなかった。

「うわ、うわぁぁぁぁっ………」

 美奈子は蒼白な表情で、完全に腰が抜けていた。その場で倒れるように尻餅を付き、後ずさりすることさえ儘ならない。彼の言葉を信じなかった悔恨が一瞬だけ生まれ、次の一瞬には完全に消え去っていた。目の前に出現した怪物の、人狼の恐怖に絶叫が止まらなかった。

怪物はそんな美奈子に、見事にまで生え揃った牙を向けた。怪物は絶叫を止めない彼女の右肩に、容赦なく齧り付いた。10㎝はある二本の犬歯が彼女の肩に深々と食い込ませると、一瞬にして右腕を引き千切った。噴き出した生暖かな液体が、美奈子の顔を濡らす。

「…っっっ!」

 今まで感じたことのないあまりの激しい痛みに、上げたはずの悲鳴は声にならず、初めて吹いた縦笛のように虚しく口の中だけで響く。

怪物は胴体から離れた腕を何度も租借する。ゴクリと、口の中にあるものを完全に飲み込んだ。半開きになった口からは、涎に混じって大量の血液がボトボトと垂れる。彼が人間だった時の理性は一切残っていない。腕を噛み千切られた美奈子の本体からは、止まることなく鮮血が溢れ出している。

「ひっ…あっ………」

 彼女は声が出なかった。舌がぐちゃぐちゃに縺れ、言葉にならない。ただ逃げたい、助かりたいという一心で、彼女は三本になってしまった手足を懸命に動かした。しかし、何度も倒れ込み、数㎝ほどしか進むことが出来ない。窓から飛び降る――そんな考えは心の隅にさえなかった。彼女の住まいは五階建てマンションの最上階なのだ。

「たっ、たすけっ………」

 行き場をなくした美代子はほんの少しの理性を取り戻し、酩酊した頭の中で、とにかく助けを呼ぼうと思った。しかし、力の限り叫ぼうとしたその瞬間。ナイフのような牙が、既に彼女の喉元に突き立てられていた。

      【Ⅳ】         

 怪物は醜い音を立てて、血生臭い息を吐き出した。フローリングの床には美奈子の血と骨が散らばっている。やっと愛することの出来た女性の成れの果てだ。耕介は嫌でもその一部始終を眺めていなければならなかった。彼女の悲鳴、肉が裂け、骨の噛み砕ける音、全てを聞いていなければならなかった。何故なら彼女を喰らい尽くしたのは、紛れもない彼自身だからだ。

怪物の虚ろな瞳。その中に宿るのは、只々貪欲な欲求。耕介の人間としての理性は、心の闇に落ちたまま泣いていた。

…ウルォォッン!

 悪意に満ちた声で、彼は叫んだ。不気味なほどに輝く月光に、彼の牙が煌いた。


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