プロローグ九 三千五百億円の地雷
十二月の第二週、案件は最終局面に入っていた。
篠田が外資案を退けると言ってから、二週間が経っていた。しかしその後、資金繰りの数字が改めて示されると、役員会の空気は静かに変わった。国内案のスケジュールが間に合わないという九条の指摘が、時間の経過とともに現実になってきていた。篠田は何も言わなかったが会議の議題に、鴻洋精工との条件調整が戻ってきていた。
誰もそのことを表立って説明しなかったが、ただ粛々と前に進んでいた。
九条は林と三度目の面談を終え、条件の細部を詰めていた。有馬も、ここまで傷だらけで来ても一応は着地できるかもしれないという顔をしていた。
その週の終わり、九条は法務から上がってきた確認資料に目を通していた。一点、引っかかった。
過去の訴訟案件の一覧に、「継続中」と記された項目がいくつかあった。金額の記載がなかったが、「精査中」とだけあった。九条は法務担当の城島に確認を求めるためにコンタクトをとった。返答は翌日以降になると言われ、胸に妙なざわめきがよぎった。
(精査中、というのは、まだ見えていないということだ。)
その感触を、九条は手帳の端に一行だけ書いた。それ以上は追わなかったのは、まだ全容が見えなかったからだ。
月曜の朝、鴻洋精工側との最終条件確認の場で、それは出てきた。
東洋光電の法務チームが、一枚の資料を提出した。『偶発債務および将来損失見込みリスト(最終版)』というタイトルだった。
林がそれを受け取り、一ページ目を開いた。
部屋の温度が変わった。
リストは四十七項目にわたっていた。訴訟リスク、保証債務、事業撤退に伴うコスト、契約上の潜在的な違約条項、将来損失の見込み額。それぞれに金額レンジが記されていた。九条は合計欄を見た。
最大試算で、約三千五百億円。
(これは、知らせていなかったのではない。誰も全体を持っていなかったのだ。)
林が資料を静かに置いた。表情は変わらなかったが、ただ、隣に座っていた鴻洋精工側の財務担当者が、ペンを止めて静かに息を整えた。
「少し時間をいただけますか」
と林は言った。声は低く、穏やかだった。
「本社と確認します」
「もちろんです」
篠田がと即答した。その声だけが、部屋の中で浮いていた。
休憩に入り、鴻洋精工側が廊下に出た。林が九条の隣に来た。
「九条さん」
と林は言った。
「このリストの内容は、いつ時点で把握されていましたか」
「今朝、初めて全体を見ました」
と九条は答えた。
「各事業部の案件が個別に積み上がっていたものを、財務が一つにまとめたようです」
林はしばらく黙った。
「……本社に上げます。回答には数日かかります」
「分かりました」
林が廊下に戻った。九条は残された資料を見た。四十七項目。それぞれが別の部署の、別の担当者の、別の判断で積み上がってきたものだった。
問題は金額ではなかった。誰も全体を持っていなかったこと、そのことが問題だった。
その日の夕方、社内の緊急会議が開かれた。
篠田、北川、三浦、岸本、法務部長、監査室長。九条と有馬も同席した。
篠田が口を開いた。
「今朝の件について、経緯を整理したい」
北川が先に言った。
「財務として把握していたのは、主要案件の一部です。各事業部から上がってくる情報の全体を、財務が一元管理する体制にはなっていませんでした」
声は淡々としていた。説明しているのか、逃げているのか、境界が見えなかった。
法務部長が続けた。
「法務として確認していた案件については、手続き上の問題はありませんでした。ただ、金額の合算という観点では、各案件を横断的に管理する役割が法務にあったかどうか、確認が必要です」
九条は『確認が必要』という言葉を手帳に書いた。確認が必要、という言葉は、知っていたとも知らなかったとも言わない言葉だ。どちらにも変換できる。
有馬が小声で九条に言った。
「今は責任追及より対処を優先すべきでは」
九条は答えなかった。
有馬はまだ、この会議が危機対応の場だと思っていた。しかし九条には、会議の冒頭から別のことが見えていた。
誰も『なぜこうなったか』を問うていなかった。全員が『自分がどこまで関与していたか』を計算していた。危機への対処と、責任の所在の確定は、この部屋では別の議題として扱われていた。
篠田が最後に言った。
「引き続き状況を精査して、対応を検討します」
対応を検討します。
会議は四十分で終わった。
翌日から、外部の動きが変わった。
銀行団の担当課長から連絡が来た。
「今般の案件については、改めて状況を精査させてください。事前説明が十分でなかった点については、今後の対応に反映させていただきます」
丁寧な文体だったが、内容は距離を取るという意味だった。
機構からは、東の名前で短いメールが来た。
『現状を踏まえ、国内再建案の再検討を含む複数の選択肢について改めて整理したい』露骨ではなかった。しかし『だから国内案の方が安定的だった』という意味が、行間から出ていた。
鴻洋精工側からは、林を通じて正式な連絡が来た。条件の全面再交渉を要求する、という内容だった。出資規模の見直し、追加のデューデリジェンス、スケジュールの白紙化。林の文体は感情を含まなかった。合理的な反応だった。
九条はその三通を並べて読んだ。
(全員が、被害者側に移動した。)
銀行は『十分な説明を受けていなかった』側になった。機構は『より慎重な案を主張していた』に、鴻洋精工は『情報開示に問題があった』と、地雷が爆発した瞬間、誰もがその爆発から距離を取る方向に動いた。それは個々には合理的な行動だった。しかし全員が同時にやると、爆発の中心に誰かを残す構造になる。
東からのメールをもう一度読んだ。文面の端に、短い一文が付いていた。「近日中にお時間いただければ幸いです」。
九条は返信した。「明日の午後、いかがでしょうか」
夜、九条は執務室に残って資料を見直していると、有馬が入ってきた。
「今日のあの緊急会議、これは偶発債務の問題じゃないんですか」
「違う」
と九条は言った。
「では、何ですか」
九条は資料から顔を上げた。
「責任転嫁の号砲よ」
有馬が黙った。
「三千五百億円という数字は、理由じゃない。引き金よ。みんなが待っていた引き金。この数字が出た瞬間、案件を誰か一人の物語にまとめる作業が始まった」
「でも、それは」
「複雑な失敗は、誰か一人の判断ミスに還元されたとき、初めて全員が助かるの。銀行も、機構も、役員も、監査も。複雑なまま終わると、誰も自分の守備範囲を守ったとは言えない。でも、一人の判断ミスに整理できれば、それ以外の全員は"適切に対処した側"になれる」
有馬が九条を見た。
「その一人が……」
「全員が逃げるとき、前に出ていた人間だけが責任者に見える」
と九条は言った。
「私はこの案件で、外から来て、前に出て、外資案を押した。社内に血縁も派閥もない。切っても連鎖損失が最も少ない」
有馬は黙った。窓の外の夜が、静かだった。
「それが分かっていて、どうするんですか」と有馬は言った。
九条は少し考えた。
「まだ一手ある」
会議の翌日、事務局から議事録の確認依頼が来た。
九条がそれを開くと、内容は五ページの文書だった。冒頭に「経緯の整理」とあり、案件のタイムラインが並んでいた。日付、決定事項、関与者。九条は最初のページから順に読んだ。
三ページ目で、手が止まった。
「鴻洋精工との交渉については、九条澪特別顧問の主導のもと進められた」
「外資案の採用に関する提言は、九条顧問より提出された」
「本件交渉プロセスにおける情報管理については、担当顧問の判断に委ねられていた」
どの一文も、事実として間違ってはいなかった。
九条は最後まで読み切った。返信欄に「確認しました」とだけ打った。
有馬がドアをノックして入ってきた。
「議事録、見ましたか」
「見ました」
有馬は何か言いかけたが、九条は先に言った。
「明日、東さんと会います。それまでに林さんに連絡を入れておいて」
「何を伝えますか」
「まだ話がある、と」
有馬は頷いた。部屋を出た。
九条は議事録をもう一度見た。三ページ目の三行。誰も怒鳴っていない。誰も告発していない。ただ、事実が丁寧に、一方向へ並べられていた。
ナイフはまだ、誰の手にもなかった。
しかし儀式は、静かに始まっていた。




