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追放された悪役令嬢は前世コンサルだったので、亡命先で国家運営を始めました  作者: しずか


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プロローグ七 聖女の来航

 機構との会合が終わった夜、九条は一枚の名刺を引き出しから取り出した。三週間前、別の案件の場で受け取ったものだった。鴻洋精工の日本法人、事業開発部門。翌朝、その番号に電話をかけた。

 二日後、林から折り返しがあった。

 最初の通話は三十分ほどだった。互いに立場と目的を確かめる、探りあいに近い時間だった。林は丁寧で、急がなかった。九条が何を求めているかを聞き、自社が何をできるかを簡潔に述べた。具体的な数字は出なかった。会話が終わったとき、九条はこの接触がどこまで実になるか、まだ見えていなかった。

 数日後、林から直接会いたいと連絡があった。九条は場所を指定した。本社から二駅離れたホテルのラウンジ。社内の人間と鉢合わせしにくい場所を選んだ。

林は約束の時刻の五分前に来ていた。四十代の前半、落ち着いた色のジャケット。名刺を差し出した。『鴻洋精工日本法人 Business Development Director 林 誠一』 とあった。席に着くと、まず軽く近況を確認した。業界の動向、東洋光電の現状について林が知っていること。

 九条はその話を聞きながら、相手を測っていた。


(急がない理由が二種類ある。時間を持て余しているか、時間を使う価値があると判断しているか。)


 ひとしきり話が落ち着いたところで、林が鞄から資料を出した。

数字だった。




 資料は十二ページで、過剰な装飾がなかった。表紙に社名とロゴ、次のページから即座に数字が始まった。

 投資規模、出資比率の想定、実行スケジュール、引き受け可能な負債の上限。九条はページを繰りながら、手が止まった。


(本気だ。)


 数字の精度が違った。東洋光電の財務状況を、九条が思っていたより深く調べてあった。コミットメントラインの残高、財務制限条項の抵触リスク、四半期ごとの資金繰りの限界。社外の人間がここまで把握しているとすれば、相当な時間と人手をかけている。


「この数字は」

 と九条は言った。

「いつ時点のものですか」

「先週です」

 と林は答えた。

「週次で更新しています」

 九条はもう一度、投資規模のページに戻った。

 鴻洋精工が持つ事業モデルは、日本の垂直統合型メーカーとは根本的に構造が違う。部品の調達から組み立て、品質管理、物流まで、世界中の拠点を水平につないで処理する。自社でブランドを持たず、メーカーから製造を受託するEMSと呼ばれる形態だ。一見すると技術を持たない工場のように見えるが、実態は逆で、どのメーカーの製品も作れるがゆえに、部品調達と製造コストで世界最高水準の効率を持っている。

 東洋光電の技術と、鴻洋精工が持つサプライチェーンが繋がれば、コスト構造が変わる。九条はその計算を頭の中で走らせた。現実的だった。むしろ、これまで見てきたどの国内案より、実務の絵が描きやすかった。

「一つ確認させてください」

 と九条は言った。

「意思決定のスピードは、どの程度見ていますか」

「決断は本社が持ちます」

 と林は答えた。

「ただ、担当の私に一定の権限が委ねられています。今日ここで合意できれば、来週には本社に上げられます」

 九条は資料を閉じた。

 来週。国内の銀行や機構と交渉すれば、来週という言葉は出てこない。

林が少し間を置いてから、言った。

「一つ、聞いてもいいですか」

 九条は顔を上げた。


「九条さんは、なぜこの案件にここまで関わっているんですか」

 予想外の問いだった。九条は少し考えた。

「会社を立て直す仕事をしているので」

「それは答えになっていないですね」

と林は言った。穏やかだったが、はっきりしていた。


「この案件は、あなたにとって得より損の方が大きくなりつつある。それでも続けている理由が、私には興味があります」

九条はしばらく林を見た。この男は交渉の数字だけでなく、交渉者の動機まで測っている。

「立て直せる可能性がある案件を、立て直さずに終わらせたくないからです」

と九条は言った。

「それだけです」

林は小さく頷いた。値踏みの頷きではなく、確認の頷きだった。




 林との面談から数日後、九条は篠田、北川、三浦の三人だけを集めた小さな会議を設定した。

 資料は林から受け取ったものをベースに、九条が国内案との比較表を追加したものだった。数字を並べれば、差は明らかだった。

資金規模、実行スケジュール、引き受け可能な債務の範囲、統合後の意思決定の一元化。どの項目でも、鴻洋精工からの提案が国内案を上回っていた。

三人は黙って資料を見た。

 最初に動いたのは北川だった。ページをめくり、数字を確認し、また戻る。その手が止まった。

「……数字だけ見れば、こちらの方が筋が通っていますね」


 言い切ってから、北川は少し視線を落とした。自分が言ったことの重さを、言った後で測っているような間だった。

 篠田は何も言わなかった。資料の比較表の一点を見たまま、動かなかった。九条は篠田の手を見た。机の端を、指先でわずかに押さえていた。資料を閉じようとして、閉じられずにいる手の形だった。

三浦が口を開いた。

「問題は、数字の外にあります」

「分かっています」

と九条は言った。

「ただ、数字の外の問題を議論する前に、数字の中の現実を共有しておく必要があると思います。国内案のスケジュールは、今の資金繰りに対して間に合わない。それは事実です」


 三浦が何かを言いかけた。口を開いて、止めた。

 その沈黙の意味を、九条は理解した。三浦は反論を持っていない。ただ、この数字を受け入れることが何を意味するかを、体が先に知っていた。

 篠田がようやく顔を上げた。目が疲れていた。

「外資に頭を下げる、という話を、どう社内に説明するか」

「頭を下げるのではなく、最も再建確率の高い相手を選ぶ、という説明をします」

「同じことに見える人間が、社内にはいる」

 九条は答えなかった。同じことに見える、という認識自体が問題の本質だったが、それを今ここで言っても意味がない。篠田は間違ったことを言っていない。ただ、間違っていないことが、何も変えない場合がある。

三人は資料を持ったまま、散会した。


 接触の話が漏れたのは、その三日後だった。

 最初は業界専門紙の短い記事だった。『東洋光電、外資との接触を検討か』という見出しで、情報源は『関係者』とだけあった。九条はそれを朝に確認し、午後には別の三紙が同じ内容を追いかけていた。

 翌朝、トーンが変わった。

『日本の技術が海外に』『雇用はどうなる』『国内勢への裏切りか』。見出しが並んだ。テレビのニュースも拾い始めた。コメンテーターが『国益を守るべき』と言い、別の識者が『グローバル化の流れは避けられない』と返す構図が、何度も繰り返された。

 九条は画面を見ながら、議論の質を確認した。

 誰も東洋光電の資金繰りの限界について話していなかった。国内案のスケジュールが実行不可能に近いことも、話題に出なかった。議論は『どちらが国益か』という問いに収斂していて、『どちらが会社を生き残らせるか』という問いは最初から存在していなかった。


(議題の設定から、負けている。)


有馬が執務室に入ってきた。

「ネットの反応が荒れています。九条さんの名前が出始めて……」

「見ました」

「一つ、気になる記事があって」と有馬は言いにくそうに続けた。「業界紙ではなく、ウェブの匿名記事なんですが……九条さんの前職の案件について書いてあります。あるプロジェクトで、九条さんが推進した海外連携案が途中で頓挫した、という内容で」


九条は少し間を置いた。

「内容は」


「事実と違う部分が多いと思いますが、読んだ人間には分かりません。今日だけでかなりの数、拡散されています」

九条はコーヒーを置いた。批判されることは想定していた。外資案を推進する人間として名指しされることも、ある程度は想定の範囲だった。しかし前職の案件を掘り起こして、事実と異なる形で拡散する。その角度は、想定していなかった。


(情報を持っている人間が、意図して流している。)


 社外ではない。この情報は、社内にいる人間にしか届かない種類のものだった。

「どうしますか」

 と有馬が言った。

「続けます」

 と九条は言った。

「ただ、誰が流したかは調べておいて」


 報道が出た翌日、林から連絡が来た。

「状況は把握しています」

 と林は言った。

「こちらとしては、引き続き進める意向に変わりありません。ただ、御社の社内環境が難しくなっているなら、進め方を調整する必要があるかもしれない」

「具体的には」

「情報管理の強化と、公式発表のタイミングの設計です。今の状態で報道が先行すると、交渉そのものが成立しにくくなる」

 九条はメモを取った。林の言葉は正確だった。交渉が漏れれば、社内の反発が固まる前に世論が先に動く。世論が動けば、役員たちは数字より空気に引っ張られる。

「もう一点」

 と林は続けた。

「九条さんが今、社内でどういう立場に置かれているか、ある程度は分かっています。もし必要なら、弊社側から篠田社長に直接コンタクトを取ることもできます。九条さん一人に交渉の負荷を集中させることは、我々も望んでいません」

 九条は少し間を置いた。


(この男は、交渉の構造まで読んでいる。)


「その申し出は、今は保留させてください」

と九条は言った。

「ただ、覚えておきます」

 電話を切ったあと、九条はしばらく窓の外を見た。林の申し出は誠実だった。しかしそれを受け取ることで、九条がこの案件における唯一の推進者という構図が崩れる。それは今は守っておきたいものだった。




 その週の終わり、社内の空気が変わった。

 廊下ですれ違う社員の目線が、以前と違った。挨拶は続いているが、その後に続くはずの言葉が来ない。昼に食堂へ行くと、いくつかのテーブルで会話が止まった。止まったことに気づいた人間が、また話し始める。その間が、以前はなかった。

 有馬が夕方に執務室へ来た。

「役員の何人かが、非公式に産業振興機構側と連絡を取り始めているようです。城島さんの動きから、それが分かりました」

九条は手帳を置いた。

「篠田さんは」

「表向きは何もおっしゃっていません。ただ、三浦さんが今日、北川さんと長く話していたのを見ました」


(数字が正しくても、空気が傾けば人は空気に乗る。)


 九条は窓の外を見た。夜の街灯が、低い位置に並んでいた。

 正しい案を持っている。数字はそれを示している。しかし数字を見ている人間と、空気を読んでいる人間は、同じ部屋にいても別の現実を生きている。この会社の意思決定は、後者に傾きつつあった。

「有馬」

と九条は言った。

「林さんとの次の会議の前に、一度だけ篠田さんと個別に話したい。設定できますか」

「やってみます」

 有馬が出ていった。

 九条は机の上の資料を見た。数字は変わっていない。現実も変わっていない。変わったのは、それを受け取る場の温度だけだった。



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