プロローグ六 有能なる共犯者
産業振興機構との二回目の会合は、前回より小さな会議室で行われた。
機構側の出席者が一人増えていた。四十代後半か五十代の初め、グレーのスーツに白いシャツ、ノーネクタイ。名刺には『事業再生担当シニアディレクター 東』とあった。
会議が始まると、東はしばらく黙って資料を見ていた。他の機構側の人間が冒頭の確認事項を進めるあいだ、東だけがペンを動かさず、数字のページで止まっていた。
十分後、議論が統合スキームの時間軸に差しかかったところで、東が初めて口を開いた。
「一点確認させてください」
と東は言った。声は低く、余分な抑揚がなかった。
「統合完了までの想定期間が十八ヶ月とありますが、この間の運転資金の手当ては、現在の借入枠の範囲内で対応できますか」
北川が答えた。
「現時点では……ギリギリのラインです」
「ギリギリ、というのは、コミットメントラインの財務制限条項が来期第一四半期に抵触する可能性がある、という理解でよろしいですか」
北川が少し目を見開いた。
「……はい、そうです」
「であれば、十八ヶ月というスケジュールは、現実的には成立しないかもしれない。スキームの前提を見直すか、資金手当ての別線を先に確保する必要があります」
会議室が静まった。
有馬が九条の隣でわずかに姿勢を正した。九条はそれを横目で見た。有馬の顔に、期待と安堵が混じっているのが分かった。
九条は東を見た。
(この男は、分からずに言っているのではない。)
統合案の弱点を、東は初見の会議で既に把握していた。数字の読み方に無駄がない。資金繰りの限界を、事前に試算してきている。それは準備の問題だけではなく、何をどの順番で見るかを知っている人間の動き方だった。
会議が続いた。東はその後も、技術統合の摩擦コスト、意思決定系統の複雑化、資本政策の不整合について、機構側の立場から率先して問題点を口にした。
有馬がメモを取る手を止め、九条に小声で言った。
「ここまで分かっているなら……」
九条は短く首を横に振った。
会議が終わり、参加者がそれぞれ荷物をまとめ始めたころ、東が九条の隣に来た。
資料を重ねながら、自然に距離を詰めた動き方だった。
「九条さん、でしたね」
と東は言った。
「少しよろしいですか」
二人は廊下の端へ移動した。外は曇りで、低い雲がビルの上層を隠していた。
九条は先に言った。
「これは救済ではありません」
東は何も言わなかった。続きを待った。
「失敗を隠すための失敗です」
東は窓の外を見た。少しの間があった。怒りではなく、反論でもなく、ただ間があった。
「その通りです」
と東は言った。
九条は東を見た。
「ですが」
と東は続けた。声のトーンは変わらなかった。
「外資に渡した責任を取る者はいても、国内で失敗した責任を取る者はいません」
また間があった。
「この国では」
と東は言った。
「正しい選択より、責任の所在が曖昧な選択の方が通ることがあります」
九条は反論できなかった。
その間に東は資料を抱え、人の流れに戻った。九条はその場に少し残って東の言葉を、頭の中で分解した。
大型の再建案件では、単独で決断した者に責任が帰属しやすい。複数の省庁、複数の機関、複数の金融機関が関与するほど、後から「総合的な判断だった」という説明が成立しやすくなる。関与者が増えるほど個々の責任が薄まり、最終的に誰も責任を取らない構造が生まれる。これは個人の悪意ではない。制度の設計がそうなっている。
東はその構造を利用しているのではなく、その構造に従っている。だから厄介だった。構造に忠実な人間は、個人を説得しても動かない。動かせるとしたら、構造そのものを変えるか、構造の外から力を持ち込むかしかない。
(どちらも、今の私には手が届かない。)
廊下の灯りが、白く均等に落ちていた。影のない光の中で、九条は次の手を探し始めた。
エレベーターを待つホールで、東が再び隣に来た。
九条は足を止めた。
「一つ聞いてもいいですか」
と東は言った。
「九条さんは、外資案の方が合理的だとお考えですよね」
「数字の上ではそうです」
と九条は答えた。
「私もそう思います」
九条は東を見た。
「では、なぜ」
「国は正解を選ぶ組織ではありません」
と東は言った。エレベーターの表示灯を見たまま、静かに続けた。
「正解だったと証明できない案より、失敗しても責任が拡散する案の方が通ることがある。外資案は、決めた瞬間に決めた者の名前が残ります。国内案は、仮に失敗しても関与者全員の判断として処理できる」
「分かっていて、そちらを選ぶ」
「分かっているから、そちらを選びます」
扉が開いた。二人が乗り込み、扉が閉まった。
東は正面を向いたまま言った。
「九条さんのような方が、この局面でどう動くかは興味があります」
九条は答えなかった。
扉が開き、東は先に出た。振り返らなかった。
九条はホールに残り、閉まっていく扉を見た。
(敵ではない。しかし味方にもならない。最も厄介な種類の人間だ。)
ビルを出ると、外は冷えていた。街灯が点き始めていた。
有馬が九条に並んだ。しばらく歩いてから、口を開いた。
「あの人と九条さんは、何が違うんですか」
九条は歩みを止めなかった。
「同じだけ見えていて、違う選択をしている」
と有馬は続けた。
「状況も数字も、統合案の無理も、全部分かっているのに」
「見えているものは同じ」
と九条は言った。
「でも、何を最適化しているかが違う」
「何を、というのは」
「私は再建確率を最適化しようとしている。あの人は責任の配置を最適化している」
有馬がしばらく黙った。
「……それって、変えられないんですか」
「個人は変えられない」
と九条は言った。
「制度を変えるか、制度の外から力を持ち込むかしかない」
有馬がまた黙った。今度は少し長かった。何かを考えている沈黙で、諦めではなかった。
「制度の外から、というのは」
九条は答えなかった。駅の入口が見えてきていた。
その夜、九条は執務室に戻った。
外の街灯が窓に反射していた。デスクの引き出しから、一枚の名刺を取り出した。三週間前、別の案件で会った人間から受け取ったものだった。海外企業の日本法人、事業開発担当。
九条はその名刺をしばらく見た。
東の言葉が頭にあった。国内で失敗した責任を取る者はいない。国内案は、構造として勝てない。東の見立ては正確だった。だから国内案を選んでいる。
しかしその論理は、同時に別のことも示していた。
国内の構造が閉じているなら、外から開けるしかない。
九条は受話器を取り、番号を押した。
コール音が三回鳴り、相手が出た。
「夜分に失礼します」
と九条は言った。
「先日お会いした九条です。一度、改めてお話しできますか」
窓の外で、街灯の光が風に揺れた。




