プロローグ五 日の丸という名の幻想
朝、九条が執務室に入ると、有馬がすでにデスクの前に座っていた。手元には業界紙が三紙、画面にはニュースサイトが開いていた。
「読みましたか」
と有馬が言った。
九条はコートを掛けながら、有馬の画面を確認した。
産業振興機構が東洋光電の再建支援に向けて検討を本格化させている、という記事だった。見出しには『国内技術を守る』『雇用維持を最優先』『外資流出に歯止め』という表現が並んでいた。別の紙面には『政府、産業基盤の防衛に本腰』とあった。
有馬は画面から目を上げた。
「銀行だと今期処理の話しか出なかったんですが、機構が入るなら、もう少し長い目で見てもらえるかもしれないですね」
九条はコーヒーを取りに立った。返事をしなかった。
廊下に出ると、社内の空気が違った。銀行団会議のあとの、あの沈んだ静けさではない。総務の人間が小声で話しながら笑っている。エレベーターで乗り合わせた経理の担当者が、九条に『なんとかなりそうですね』と声をかけてきた。
(なんとかなりそうならばいいが…)
九条はコーヒーを受け取りながら、朝の三紙を頭の中で並べ直した。三紙が同じ語彙を使っていた。『国内技術』『雇用』『外資流出阻止』。語彙が揃うのは、発信源が一つか、あるいは誰かが意図して言葉を統一したときだ。どちらにしても、今朝起きたことは報道ではなく、絵の設定だった。
社内で誰も、記事の中身を確認していなかった。安心しているだけだった。
産業振興機構との初会合は、霞が関に近い貸会議室で行われた。
機構側は四人。担当ディレクター、審査担当、法務、そして記録係らしき若手。関係省庁から来たと思しきオブザーバーが二人、壁際に座っていた。東洋光電側は篠田、財務担当の北川、管理部門の三浦、そして九条と有馬。
会議室は銀行団のときとは空気が違った。明るく、整然としていて、資料のレイアウトまで洗練されていた。机の上には分厚い資料が配られ、表紙には『東洋光電ホールディングス 事業再生支援の基本的考え方(案)』とあった。
担当ディレクターが口火を切った。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。機構としては、東洋光電さんの持つ技術基盤と雇用の重要性を深刻に受け止めており、国内産業の観点から積極的に関与する方向で検討しています」
篠田が深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大変心強く思っております」
会議はそこから、銀行団のときとは違う語彙で進んだ。事業のポートフォリオ、技術の棚卸し、雇用者数の内訳、サプライチェーンへの波及。論点は広く、表向き丁寧だった。
九条は資料を繰りながら、質問の向きを測った。
機構側が繰り返し確認しているのは、事業の回復見通しではなかった。外部への説明のしやすさ、支援スキームの対外的な構造、世論がどう受け取るか、そして『外資への売却という選択肢をとらなかった理由』をどう説明できるか。それらが、質問の密度として際立っていた。
再建計画そのものの実現可能性については、丁寧に触れて、丁寧に通り過ぎていった。
銀行は会議室のどこかに数字があった。この会議室にあるのは、言葉と絵だった。
午後、九条は机の上に会議資料と統合スキームの概要を広げた。
読むほどに、違和感が積み上がった。
統合先として想定されている国内企業との技術的な整合が弱かった。製品ラインも、生産体制も、重なる部分より摩擦になる部分の方が多い。意思決定の系統は複雑化し、資本政策には説明しにくい前提が含まれていた。時間軸も問題だった。スキームが実働するまでの期間が、資金繰りの限界より長い。
しかし資料のトーンは前向きだった。課題はすべて『今後の検討事項』として後ろに送られていた。
(この案は、勝てる確率を最大化するために作られていない。)
九条は資料を閉じ、窓の外を見た。冬の午後の光が、低い角度でビルの壁を照らしていた。
今の政権は強かった。強いから、むしろ判断が複雑になっていた。
政権の中には、外資の受け入れを成長の証として歓迎したい力がある。海外から資本が入ることは、この国への投資の証だと見せられる。そういう論理も、政権の内側には確かにあった。
しかし同時に、別の力も働いていた。東洋光電のような会社が外資の傘下に入る絵は、見出しになりやすい。『また日本の技術が海外に渡った』。その一行が、世論では政策の失敗として読まれる。象徴的な企業ほど、見え方の管理が難しくなる。
二つの力が、政権の内側で拮抗している。その結果、案件は『最もうまくいく選択』ではなく、『どちらの力にも言い訳できる選択』へ向かいやすくなる。
外資売却を決めた瞬間、責任者の名前が残る。国内再編を試みて失敗した場合、責任は組織の中に拡散する。機構が関与し、省庁が了承し、銀行が同意し、役員会が決議した。誰もが関与したということは、誰も単独では責任を取らないということだ。
(これは再建案ではない。見栄えのいい敗戦処理だ。)
官が守ろうとしているのは技術でも雇用でもない。『守ろうとした』という記録と、誰の名前にも帰属しない責任の霧だ。建前はきれいで、耳触りもいい。だからこそ、実務の無理が後ろに送られ続ける。
夕方、資料室で有馬が九条を捕まえた。
「一つ確認させてください」
と有馬は言った。今日の会議の感想ではなく、何かを整理した顔だった。
「機構は、何を守るために動いているんですか」
九条は有馬を見た。先を促すように黙った。
「銀行は……自分たちの貸借対照表でしたよね。では機構は」
「政策の物語と、責任の置き場所」
と九条は答えた。
有馬が眉を寄せた。
「物語、というのは」
「国内で守ろうとした、という記録よ。事業が成功するかどうかより、どういう絵が残るかが先に来る」
「でも」
と有馬は言った。
「国内技術を守ろうとすること自体は、間違いじゃないですよね」
「間違いじゃない」
と九条は言った。
「だから厄介なのよ」
有馬が黙るが気にせずに九条は続けた。
「正しい言葉が看板になると、実務の検証が後ろへ回る。誰も"雇用を守ることに反対か"とは言えない。"技術流出を容認するのか"とも言えない。言葉が正しいから、案の精度を問う声が出にくくなる。あの資料はその構造を使っている」
有馬はしばらく考えた。それから言った。
「……銀行は数字の話しかしなかった。今日の会議は数字がほとんど出なかった」
「代わりに言葉が出た。言葉と、責任の位置でね」
有馬の表情が少し変わった。理解したというより、問いが一段深くなった顔だった。
その夜、九条は執務室に一人残った。
机の上に、午前中の会議資料と並べて、別のファイルを開いた。外資系投資家からの打診と、海外企業との非公式な接触記録。数字と実務の観点からは、こちらの方がはるかに筋が通っていた。資金の規模、意思決定の速度、サプライチェーンとの接続、再建後の事業像。どの角度から見ても、今日の国内案より現実的だった。
(だから、通らない。)
外資案は筋が通っているがゆえに、政治の場では扱いにくかった。
案の精度が高ければ高いほど、国内案の無理が際立つ。比較が明確になれば、なぜ劣る案を選んだのかという問いが生まれる。その問いには答えが要る。答えに責任者の名前が要る。外資受け入れを成長戦略として見たい力が政権内にあるとしても、象徴企業の案件でその名前を刻みたい人間はいない。正解を選んだ責任より、不正解を選ばなかった言い訳の方が、後の政治には使いやすい。
無理のある案ほど関与者が増え、関与者が増えるほど責任が分散する。完璧な案は、決断した者の名前を鮮明にする。
九条はファイルを閉じた。
(ならば、どこから動かせるか。)
手帳を開き、一行だけ書いた。それから照明を消した。
翌朝、有馬が執務室に入ってきたとき、九条は窓際に立っていた。外は曇りで、ビルの輪郭が白い空に溶けている。
「昨日の話、ずっと考えていました」
と有馬は言った。
「機構の人間が全員、政治的な絵を描くことだけを考えているとは思えないんです。中には本気で立て直したいと思っている人もいるんじゃないかと」
九条は窓の外を見たまま答えた。
「いるでしょうね」
有馬が少し間を置いた。
「それなら、話が通じる余地があるんじゃないですか」
「だから厄介なのよ」
と九条は言った。今度は振り返った。
「分からないから歪むのなら、説明すれば変わる。でも、全部分かった上で別の選択をする人間は、説明しても変わらない。分かった上で選んでいるから、論理では崩せない」
有馬が九条を見た。
「そういう人間が、次に出てきます」と九条は言った。「たぶんもうすぐ」
有馬は何かを言いかけ、やめた。窓の外の白い空が、室内に薄く反射していた。
九条は机に戻り、手帳を開いた。昨夜書いた一行の下に、もう一行足した。
その内容を、有馬は見えなかった。




