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追放された悪役令嬢は前世コンサルだったので、亡命先で国家運営を始めました  作者: しずか


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プロローグ四 深夜の講義Ⅰ「BSの番人」

 会社を出てからも、有馬の体の中に何かが残っているかのように上の空だった。

 エレベーターを待つあいだも、エントランスを抜けるあいだも、外の空気に触れてからも、その何かが抜けていく気配がなかった。足は動いているが、目の焦点が定まっていない。九条にはそういう状態の人間の見分け方が分かった。言葉を選んでいるのではなく、言葉がまだ形を探しているときの顔だ。

 本社ビルから二本入った路地に、カウンターだけの小さな店があった。九条が以前から知っている店で、遅い時間でも静かに開いていた。有馬に視線を送ると彼はそれに気づきこちらの顔をみた。


「飲む?」


 有馬は一瞬だけ迷ったようだが、

「はい」

 と答えた。


 店に入ると、カウンターに先客が一人いたが、端の席との距離は十分だった。古い木のカウンターに、小さな照明が落ちている。外の街灯とも、オフィスの蛍光灯とも違う、黄みの強い灯りだった。九条はビールを頼み、有馬も同じものを頼んだ。

 グラスが来るまで、二人は何も言わなかった。


 最初に口を開いたのは有馬だった。

「今日の会議、ずっと引っかかっていて」

 九条はグラスを持ったまま、続きを待った。


「銀行って、もっと厳しく事業の中身を見てくると思っていたんです。再建計画の実現可能性とか、どの事業が本当に生き残れるかとか。でも実際に出てきたのは、今期の分類をどう維持するかとか、引当をどの規模に抑えるかとか。そういう話ばかりで」

 有馬はグラスを置き、少し前のめりになった。


「事業が回復するかどうかを見ずに、どうやって支援の判断ができるんですか。それって結局、問題を先送りしているだけじゃないですか」


 言い切ってから、少し声のトーンを落とした。


「……おかしいですよね、やっぱり」


 九条はグラスを一口飲んだ。

 おかしい、という言葉が出たことが、九条には興味深かった。有馬はまだ、銀行の行動を『間違い』として処理しようとしている。間違いなら正せる。異常なら修正できる。しかし問題は、今日の銀行側の行動が、彼らの論理の中では完全に正しかったことだ。

「一つ聞いていい」

と九条は言った。

「あなたが再建計画を作るとき、何を一番最初に見る?」


有馬が考えた。

「事業の将来価値、です。この会社が三年後、五年後にいくら稼げるかの見通し」


「そう」

と九条は言った。

「それがPLを見る、ということよ」


「銀行が見ているのはPLじゃない」

と九条は続けた。

「自分たちのBSよ」


 有馬が眉を動かした。


「PLを見る人間は、この会社が将来いくら稼げるかを見る。成長の角度、市場でのポジション、技術者が残るかどうか。再建後の絵を描くために、現在の事業を見る」

 九条はカウンターの木目をしばらく見てから、続けた。

「BSを見る人間は違う。この会社が倒れたとき、自分の資産がどれだけ傷むかを見る。融資先企業は彼らにとって、成長の物語を持つ主体ではない。貸借対照表の資産の欄に載っている、健全性を左右する対象だ。その会社が再建に成功するかどうかより、貸した金が焦げつくかどうか、焦げつくとしたらいつ、どの形で自分たちの損失になって返ってくるかを見ている」


 有馬は黙って聞いていた。グラスに手をかけたまま、飲むのを忘れていた。

「だから今日の会議で、彼らが分類維持と引当規模を気にしていたのは、怠慢でも慎重すぎるのでもない。あれが彼らの仕事の中心なのよ。不良債権処理は、企業の死の問題ではなく、自分たちの自己資本が傷む問題として返ってくる。それが銀行という制度の設計だから」


 有馬が小さく息を吐いた。

「……だから、大きく勝つ再建より、今は傷を確定させない延命を選ぶ」

「そういうこと」

 有馬はグラスを一口飲んだ。それから視線をカウンターに落とし、しばらく黙った。


 少し間があった。


 店の奥で、先客がコートを手に立ち上がった。扉が開き、冷たい外気が一瞬だけ入ってきた。扉が閉まり、また静かになった。

「でも」

と有馬は言った。声が少し硬くなっていた。

「それでは企業が死にます」


 九条はグラスを置いてから目を伏せた。

「ええ、彼らの仕事は企業を生かすことじゃない。自分たちが死なないことよ」


 有馬が九条を見た。反論しようとしている顔だったが、言葉が出てこなかった。

九条は続けた。

「おかしいと思う気持ちは分かる。でも、おかしいのではなく、ゲームが違うのよ。あなたが参加しているゲームは、この会社をどう立て直すかというゲーム。彼らが参加しているのは、自分の貸借対照表をどう守るかというゲーム。同じ会議室で、同じ資料を見ながら、全員が別のゲームをしている」

 有馬は虚空を見上げた。その表情は失望なのかどうかは判別はつかない。


 ここで九条が言わなかったことがある。全員が合理的に自分のゲームを正しくプレイすると、どうなるか。銀行は分類を守り、役員は今期を越え、誰も会社の未来に責任を負わない。個々の判断はすべて正しく、全体として会社は死ぬ。部分が積み上がって、全体が消える。それが制度というものの残酷さで、誰かが間違っているから壊れるのではなく、全員が正しく動くから壊れる。

それを言葉にするのは、今夜ではないと九条は思った。有馬がいま受け取れる量ではない。


 有馬がしばらく、カウンターの木目を見ていた。

「九条さんは」

 と彼は言った。

「最初からそう見えていたんですか」

 九条は少し考えた。

「最初から、ではない」


 有馬が顔を上げた。

「数字で優位なら通る余地があると思っていた時期はある。合理的な案を出せば、どこかで誰かが動くはずだと。でも、何度か見ているうちに分かった。案件がこじれるとき、最後まで問題になるのはプランの質じゃない。誰が先に損を認めるか、誰の責任で決めるか、その一点で止まる」


 九条はグラスを回した。黄みの灯りが、液体の中で揺れた。


「日本の企業再建でよく起きることがある。事業の将来価値より、誰が先に損失を確定するかが先に来る。銀行も、官も、役員も、みんな自分の損失を最小化しようとする。そのこと自体は責められない。問題は、その結果として全体最適が誰も担わない状態が生まれることだ」

 有馬は静かに聞いていた。

「あなたが今日感じた違和感は、捨てなくていい」と九条は言った。「ただ、違う論理で動く相手を、善意で誤読しないこと。彼らは悪人じゃない。別のゲームをしている人間よ。それだけ」

 有馬はしばらく黙っていた。それから小さく頷いた。まだ全部は受け取りきれていない顔だったが、向き合おうとしている意志は見えた。


 店を出ると、夜の空気は冷たかった。路地には人気がなく、遠くの大通りの灯りだけが白く滲んでいた。

 二人は駅の方向へ歩いた。しばらく、どちらも話さなかった。有馬の足音が、九条より半歩遅れていた。


「一つだけ聞いていいですか」と有馬が言った。

「どうぞ」

「銀行の次は、何が来るんですか」

 九条は少し間を置いた。

「銀行はまだ分かりやすいのよ」と九条は言った。「数字で動くから」

 有馬が続きを待った。

 九条は答えなかった。

 信号が変わり、二人は渡った。駅の入口が見えてきたところで、九条は立ち止まった。

「おやすみ」

 それだけ言って、九条は改札の方へ歩いた。

 有馬はしばらくその場に立っていた。冷たい空気の中で、今夜聞いたことを頭の中で繰り返した。銀行は分かりやすい。では分かりにくい相手とは何か。数字で動かない人間とは、どういう論理で動くのか。

 答えは来なかった。駅の構内アナウンスが、最終電車の時刻を告げていた。



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