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追放された悪役令嬢は前世コンサルだったので、亡命先で国家運営を始めました  作者: しずか


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第五話 この国を、最初から数え直す

 父が帰宅したのは、日が落ちてしばらくしてからだった。


 レイナは廊下の端から、玄関に入ってくる父の背中を見た。上着を脱ぐ動作が、いつもより少し重い。上着を脱ぐときの呼吸はわずかに普段よりも長めに息を吐いていた。今日の会議も、うまくいかなかったのだろう。


 叩き上げの官僚は、帰宅の動作に正直だ。前世でも同じだった。クライアント先の財務部長が夕方に戻ってくるとき、鞄の持ち方一つで今日の交渉の結果が分かった。言葉より先に、体が話す。


 エレナが玄関に出てきて、夫の上着を受け取った。今日はどうだった、とは聞かない。それがこの家の作法だった。代わりに今夜の夕食の話をした。シチューが煮えている、パンも焼けている。ヴィクトルの顔が少しだけほぐれた。


 この家では、母が父を支える形がいつもそうだった。言葉ではなく、食事と温度で。政治の話は一切しない。しかしその「しない」ことが、父にとっての休息になっている。エレナがそれを意識しているかどうかは分からない。ただ、長年の夫婦の間に自然に出来上がった形だった。


 レイナは廊下の端に立ったまま、その場面を見ていた。


 かつての世界でも、組織の中で正論を言い続ける人間は、家に帰ると口数が減った。戦い続けることは消耗する。特に、正しいのに負け続けるときは。父が今どれほど消耗しているか、帰宅の動作だけで十分に伝わった。


 夕食の席は、いつも通りだった。


 エレナが今日の話をしている。近所の屋敷の庭が綺麗だった、来月また茶会がある。ヴィクトルは相槌を打ちながら、スプーンを動かしていた。レイナは適切な間隔で頷いていた。


 しばらくして、エレナが話題を変えた。


「そういえばレイナ、最近よく手紙が届いているわね。マルセル家の坊ちゃんと、それからデュラン商会の子とも?」


「はい。お茶会でお会いした方々と」


 エレナが微笑んだ。


「まあ、社交が上手ね。お母様も鼻が高いわ」


 ヴィクトルがスプーンを置いた。


「マルセル家とは、何を話している」


 静かな問いだった。責めているわけではない。しかし食卓の空気が少し変わった。


「北部の農産物の話です。街道の様子とか」


 ヴィクトルが黙った。


 レイナは父の顔を見ながら、頭の中で照合していた。北の農地が痩せている。作るのをやめた農家が増えている。取引にかかる費用が積み上がるほど、生産者は合理的な判断として生産をやめる。怠惰でも無能でもない。市場が機能しなくなったとき、個々の人間が下す判断としては正しい。しかしその正しい判断が積み重なると、国全体の生産力が静かに失われていく。レオンが手紙に書いてくることは、その構造の現場報告だった。


「デュランとは」


「商会の最近の取引の話です」


 またヴィクトルが黙った。


 物流が詰まると商人が金融にシフトする。それ自体は合理的な判断だ。荷を動かすより金を動かす方がコストがかからない。しかし国全体でそれが起きると、実物経済が縮小して金融だけが膨らむ。金融は実物経済の上に成立している。実物が縮めば、いずれ金融も崩れる。アンドレが手紙に書いてくることは、その前兆だった。


 エレナが少し首を傾けた。


「あら、ヴィクトル、そんなに難しい顔をして。子供たちのお手紙のやり取りくらい、いいじゃありませんか」


 ヴィクトルはエレナを見て、少し表情を緩めた。


「そうだな」


 しかしレイナを見る目は変わらなかった。


「お前が話している相手は、どういう立場の人間か、分かっているか」


「分かっています」


 父と娘の間に、短い沈黙が落ちた。エレナだけが、その沈黙の意味を読めていない。


 既得権益を持つ勢力が改革を封じる構造は、歴史の中で繰り返されてきた。特権を持つ者が変化を拒み続けた結果、誰も望んでいなかった崩壊が訪れる。その崩壊は、改革を拒んだ者が最も恐れていた形でやってくることが多い。ローランが宮廷の動きを書いてくるたびに、その構造がこの国でも進行していると感じた。レオン、ローラン、アンドレ。三人が偶然ではなく、この国の構造の三つの断面をそれぞれ見ている。


 ヴィクトルが食事を再開した。それ以上は聞かなかった。しかし何かを確認した顔だった。


 エレナが話題を変えた。今度は来月の茶会の話だった。レイナは適切に相槌を打った。


 食事が終わりかけた頃、ヴィクトルが静かに言った。


「一つ、話しておくことがある」


 エレナが立ち上がりかけて、夫の顔を見て、また座った。


「北の農村で、噂が広まっている。祈りによって土地を豊かにする女がいると。精霊石と呼ばれる石を生み出す力があるらしい。民衆の間で広まっている。王宮にも報告が上がってきている」


 レイナは黙って聞いた。


 エレナが少し不安そうな顔をした。


「まあ、怖い話ね。でも本当に土地が豊かになるなら、いいことじゃないの」


 ヴィクトルは妻を見て、静かに頷いた。


「そうかもしれない」


 しかしレイナには、父の顔が妻に向けたものと、娘に向けたものとで微妙に違うことが分かった。


 食後、エレナが使用人と片付けの話をしながら席を立った。


 父と娘だけが、食卓に残った。


 蝋燭の灯りが揺れていた。外は静かだった。


「精霊石の噂を、お父様はどう見ていますか」


 ヴィクトルが少し間を置いた。


「民衆が信じたいものを信じるとき、政治はそれを止められない」


「それは、この国の構造を変えますか」


「変えない」


 少し間があった。


「しかし見えなくする」


 レイナは黙った。短期的な解決策が現れるとき、長期的な問題が隠れる。業績が悪化した会社に突然大口顧客が現れたとき、経営陣はそれを奇跡と呼ぶ。しかし依存が深まるほど、構造的な問題は先送りされる。そして大口顧客が離れたとき、会社は以前より深く壊れている。精霊石がその構造と同じかどうか、まだ分からない。しかし父の顔が、嫌な予感を裏付けていた。


「お父様、一つ確認させてください。この国の問題は、関所だけではないですよね」


 ヴィクトルが娘を見た。


「続けろ」


「物流が詰まっている。商人が金融に逃げている。議会では正論が通らない。それぞれが別々の問題に見えますが、根は一つだと思っています」


「根とは何だ」


「今の仕組みで利益を得ている人間が、変わることで失うものの方が、得るものより大きいと思っている。だから誰も動かない」


 ヴィクトルがしばらく娘を見ていた。


「合っているか、と聞きたいのか」


「はい」


 また少しの間があった。蝋燭が揺れた。


「合っている」


 それだけだった。


 ヴィクトルが立ち上がった。椅子を引く音が静かな食堂に響いた。扉に向かいかけて、一度だけ立ち止まった。娘の方を振り返らずに言った。


「帳簿だけ読んでいた頃より、ずいぶん遠くまで見えるようになったな」


 それだけ言って、出ていった。


 レイナは蝋燭の灯りを見ていた。


 この国では、正しい答えを持っているだけでは足りない。それは今日、父が教えてくれたことではなかった。父はずっと前からそれを知っていた。そしてそれでも正論を言い続けていた。なぜか。


 まだ、答えが出なかった。


 精霊石の噂が、頭の隅に残っていた。


 この国の病が、少しだけ見えた気がした。霧がすべて晴れたわけではない。ただ、今日よりも明日の方が、見える景色が広がっている。そんな予感がした。


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