プロローグ十二 美しい敗北、そして再誕
会見は午後二時に始まった。
会場は本社一階の多目的ホールだった。椅子が百席ほど並び、前方に長テーブルと演台が置かれていた。カメラが六台、フラッシュがすでに何度か光っていた。
九条は舞台袖で、開始五分前まで立っていた。コートは着ていなかった。スーツの上着だけで、会場の冷たい空気が腕に来ていた。有馬が隣にいた。何も言わなかった。
PR担当の社員が来て、「お時間です」と言った。
九条は頷き、演台へ歩いた。
席に着くと、フラッシュが一斉に増えた。目の前に記者が並んでいた。カメラのレンズが、一列に向いていた。
用意された原稿があった。九条は一度だけそれを見た。それから顔を上げ、マイクの前に座った。
「このたびの件について、関係者の皆様に多大なるご迷惑とご心配をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます」
頭を下げた。
フラッシュが鳴った。
原稿の言葉は、真実ではなかった。少なくとも、全部は。交渉の主導をしたのは九条だった。外資案を強く推したのも九条だった。しかし偶発債務の管理不全は九条の責任ではなく、意思決定を曖昧にし続けた役員たちの問題であり、情報を統合しなかった組織構造の問題だった。それは記録の上では、九条の判断ミスとして整理されていた。
だが九条は、その原稿を読んだ。
真実を守るより先に、守るべきものを逃がした。逃がしたから、もうここでの真実には執着する必要がなかった。
記者からの質問が続いた。九条は一つひとつ、準備した言葉で答えた。声は乱れなかった。手も震えなかった。ただ、どこか遠いところから自分の声を聞いているような感触が、ずっとあった。
会見が終わったのは、三時を過ぎていた。
舞台袖に戻ると、有馬がいた。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
九条は椅子に座った。ヒールを脱いで、少し足を伸ばした。体の中に、長い時間の疲れが一気に来ていた。
スマホを見た。
メッセージが入っていた。名前は知らなかった。ただ、東洋光電の内線番号の形式だった。本文は三行だった。
「今日のこと、見ました。ありがとうございました。私たちは続けます」
九条はしばらくその三行を見ていた。
送ってきた相手が誰かは分からなかった。技術者二百人の中の誰かだということは、分かった。名前もなく、詳しい説明もなく、ただ「続けます」とだけあった。
その短さが、かえって重かった。
長い言葉を送れる状況ではない。しかし何かを言わずにはいられなかった人間が、最短の言葉を選んだ。その選択の跡が、三行に残っていた。
九条は画面を消した。
窓の外を見た。空が白くなり始めていた。
東洋光電は、これからどうなるか。
鴻洋精工が傘下に収める。それは既定路線だった。買収価格は偶発債務の開示で大幅に引き下げられる。交渉力は完全に鴻洋精工側に傾いていた。しかし鴻洋精工は買収を止めない。なぜなら、彼らが本当に欲しかったものは価格ではないからだ。
外資がこういう案件に入るとき、ブランドを買うわけではない。製品ラインを買うわけでもない。製造プロセスの知識と、それを担う人間を買う。東洋光電という看板は残るかもしれないし、消えるかもしれない。しかし看板の下にある技術と、その技術を持つ人間は、形を変えて次の場所で生きる。
外資傘下に入ることで変わるのは、意思決定の重心だ。株主が変わり、経営の優先順位が変わり、何を守って何を切るかの基準が変わる。それは喪失でもあるが、同時に、腐りきった意思決定構造が一度リセットされるという意味でもある。日本の大企業が自力では変えられなかったものを、外からの力が変える。それが正しいかどうかとは別に、そういう構造がある。
九条が守った二百人は、その変化の中で生き残る種だった。新しい意思決定構造の下で、彼らが何を作るかは、まだ誰にも分からない。五年後か、十年後か。しかしあの三行が届いた人間たちは、続けると言った。
それで、十分だった。
会見の三日後、雨が降っていた。
九条は一人でいた。会社との契約は正式に終了していた。荷物はすでに引き取っていた。有馬とは昨日、短く話した。「また連絡します」と有馬は言い、九条は「うん」とだけ答えた。
夜、アパートの部屋で九条は椅子に座っていた。机の上に何もなかった。スマホと、鍵と、それだけだった。
体の重さが、いつもと違った。
ここ数週間、ずっと動き続けていた。交渉、会議、文書、電話。眠る時間を削って、食事を後回しにして、それでも動いていた。その緊張が、今夜一斉に抜けていた。
窓の外で雨が降っている。街灯の光が、濡れた路面に反射している。
九条はテーブルに手をついた。立ち上がろうとして、できなかった。
(次は。)
その言葉だけが、頭の中に浮かんだ。
次は、政治も、感情も、欲望も、全部前提条件として扱ってやる。正しい案が通らないのは例外ではなく、構造だ。その構造を最初から計算に入れた上で動く。今回はそれが遅かった。次は最初から知っている。
視界が少し狭くなった。
椅子から、静かに落ちた。
目を開けると、光があった。
蝋燭の光だった。天井が高く、石造りで、空気が冷たかった。
九条は、自分が椅子に座っていることに気づいた。長い机の端の席だった。周囲に人がいた。男たちが、長机を囲んで座っていた。羽根ペンと羊皮紙を持ち、難しい顔をしている。
言語が分からなかった。いや、分かった。分かるが、聞き覚えがなかった。
机の上に紙が置いてあった。数字が並んでいた。通貨の単位が違ったが、数字の意味は読めた。
(財務の会議だ。)
九条は視線を動かした。男たちを、一人ずつ見た。
誰もが、何かを守ろうとしている顔をしていた。数字ではなく、自分の立場を。この国の財政ではなく、この会議での発言権を。
東洋光電の役員会議と、同じ顔だった。
(なるほど。)
その瞬間、視界が揺れた。
蝋燭の光が遠くなった。男たちの声が、水の中を伝わるように遠くなった。
九条はその感覚の中で、ただ一つだけ思った。
(次は、最初から知っている。)
光が、白くなった。




