プロローグ十一 深夜の講義Ⅱ「最後の資産」
翌朝、九条は東に電話をかけた。
「昨日のメール、ありがとうございました」
と九条は言った。
「一つお願いがあります。今夜、時間をいただけますか。場所はこちらで用意します」
東は少し間を置いた。
「内容は」
「技術者の話です」
また間があり、今度は長かった。
「……分かりました」
と東は言った。
「七時以降であれば」
電話を切ったあと、有馬が九条を見た。
「東さんを呼ぶんですか。機構側の人間を」
「東さんは機構の論理で動いている。でも、東さんが本当に守ろうとしているものは、機構の論理とは少し違う」
有馬が眉を寄せた。
「どういうことですか」
「東さんは、国内産業の技術基盤を守りたいと思っている。国内案を押してきたのも、外資に渡したくないからじゃなく、技術が散逸しないようにしたかったから。だとしたら、今夜の話は東さんにとって筋が通る」
「機構の立場と矛盾しませんか」
「矛盾する。だから夜に呼んだ」
有馬は少し黙ってから、「林さんにも連絡しますか」と言った。
「午後に入れて。東さんとは別の時間で」
夜七時、本社から離れたホテルの小会議室に東が来た。
九条と有馬だけがいた。資料は一枚も置いていなかった。東は部屋を見回し、椅子に座った。
「正式な場ではないですね」
「正式な場では話せないことです」
東は九条が話すのを持った。
「東洋光電の技術者が二百人います。この案件がどう決着しても、会社の器が変わる過程で、その人たちが散ってしまう可能性が高い。研究開発の核になっている人間たちです。製品ラインではなく、それを作る知識を持っている人たち」
「続けてください」
と東は言った。
「その二百人の雇用を、五年間保証する。研究予算も現行水準を維持する。その条件で、鴻洋精工に技術と人材の引き継ぎをさせる。東さんに頼みたいのは、機構としてその条件の履行を監視する立場に入ってほしい、ということです」
東は黙った。
「機構が関与することで、鴻洋精工側への拘束力が増す。東さんの立場から言えば、外資の手に入る技術を、国内の監視下に置き続けることができる。矛盾ではなく、機構の目的に沿う」
「それは、東洋光電本体の再建とは別の話ですね」
「別の話です」
東は長い間、九条を見ていた。
「あなたはこの案件で、社会的には終わることになる」
と東は言った。感情のない声だった。
「そうなるでしょうね」
「それを前提に、この話を持ってきている」
「はい」
東はテーブルを見た。しばらく何も言わなかった。それから顔を上げた。
「個人として、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なぜそこまでするんですか」
九条は少し考えた。
「会社は救えなかった。でも、会社の中にあった種は救えるかもしれない。それだけです」
東はしばらく黙り、それから小さく頷いた。値踏みでも同情でもない頷き方だった。
「条件の詳細を整理してください。見てみます」
翌日の午後、林が来た。
九条は条件を一枚の紙に書いて渡した。
技術者二百名の雇用五年保証、研究予算の現行水準維持、日本国内の研究拠点の存続、機構による履行監視。
林は紙を読んだ。読み終えて、少し間を置いた。
「これは、会社本体の条件ではなく」
「人と技術の条件です」
と九条は言った。
「会社の器がどうなっても、これだけは守る、という条件」
林は九条を見た。
「九条さんはこの案件から降りることになる、という理解でいいですか」
「そうなります」
「それを前提に、この条件を出している」
「はい」
林は紙をもう一度見た。
「本社に上げます。ただし、一点だけ確認させてください。この条件は、誰から出たものとして伝えますか」
九条は少し考えた。
「東洋光電の再建関係者から、という形にしてください。私の名前は出さなくていい」
林がわずかに表情を変えた。それまでのビジネスライクな顔から、何かが少しだけ滲んだ。しかしすぐに戻った。
「……分かりました。週内に回答します」
林が帰ったあと、有馬が言った。
「名前を出さなかったのは」
「名前が出ると、条件そのものへの評価より先に、私への評価が前に来る。今の状況では逆効果です」
有馬は黙った。その沈黙の中に、何かを言いたくて止めている気配があった。
その夜、二人は会議室に残っていた。
有馬がコーヒーを二つ持ってきた。九条の前に一つ置いて、向かいに座った。
しばらく、どちらも話さなかった。
「一つ、聞いてもいいですか」
と有馬が言った。
「どうぞ」
「この案件に来たとき、こうなることは分かっていましたか」
九条はコーヒーを持った。
「全部は分からなかった。でも、こういう案件がどう終わるかは、ある程度見えていた」
「それでも来た」
「来た」
有馬はしばらく自分のコーヒーを見た。
「……九条さんにとって、再建って何ですか」
九条は少し考えた。
「数字を合わせることじゃないと思ってる」
と九条は言った。
「会社を建て直すことでもない、厳密には」
「では」
「いつかまた花が咲くための種を、どんな泥にまみれても守り抜くこと。それが再建だと思ってる」
有馬は九条を見た。
「今回の、技術者二百人の話が、それですか」
「そう。会社という器は救えなかった。でも、器の中にあった種は持ち出せる。五年後か十年後か分からないけど、あの人たちがどこかでまた何かを作る。それが残れば、今回の仕事はゼロじゃない」
有馬はしばらく黙った。長い沈黙だった。
「……九条さんはこれから、どうなるんですか」
「業界からは消えます。しばらくは」
「それで、いいんですか」
九条はコーヒーを一口飲んだ。
「良くはない。でも、選べる」
有馬が何かを言いかけた。九条は先に言った。
「有馬、あなたはこの仕事に向いてる。ただ、一つだけ覚えておいて」
「何ですか」
「正しい案が通らないことがある。それは仕事の失敗じゃない。だから、正しくても通らなかったとき、最後に何を守るかを先に決めておくこと。それがなかったら、通らなかったことだけが残る」
有馬は黙って聞いていた。
九条はコーヒーを置いた。
三日後、林から連絡が来た。
「本社の回答です」
と林は言った。
「技術者二百名の雇用五年保証、研究予算の現行水準維持、国内研究拠点の存続。この三点について、合意できます」
九条は手帳にメモを取った。
「機構の監視条件は」
「そちらは、東さんと直接詰めていただく形で。弊社としては機構が関与することへの異存はありません」
「分かりました」
「一点だけ」
と林は続けた。
「この条件の成立には、九条さんが公式の場で今回の交渉経緯について説明することが、実務上必要になると思います。正式な意味での謝罪かどうかは別として、表に立つ必要がある」
「承知しています」
「……それでも、進めますか」
九条は少し間を置いた。
「進めます」
電話を切ったあと、九条はしばらく手帳を見た。
会社は救えなかった。しかし条件は取った。
あとは表に立つだけだった。
その夜、東から短いメールが来た。
「条件の詳細、確認しました。機構として監視の立場に入ることを、個人として検討します。正式な手続きは別途、ただし動けます」
九条はそのメールを読み直した。『個人として』という言葉が、東らしかった。制度の外側で動く覚悟を、最小限の言葉に圧縮していた。
返信を打った。『ありがとうございます。詳細は改めて』
送信してから、九条は椅子の背にもたれた。
有馬がドアをノックして入ってきた。
「東さんから何か」
「動いてくれます」
有馬が少し息を吐いた。
「……じゃあ、成立したんですか」
「まだ細部がある。でも、骨格は通った」
有馬は少し間を置いた。
「九条さんが消えることと引き換えに」
「消えるのは、業界上の九条澪です。それは、今夜の仕事とは別の話」
有馬は九条を見た。何か言おうとして、しばらく止まった。それからただ―-
「分かりました」
とだけ返答した。
九条は窓の外を見た。街灯が、いつもと同じ高さで並んでいた。
会社を救えなかった。しかし種は持ち出せた。
それで、今回の仕事は終わる。




