プロローグ十 生贄の儀式
偶発債務リストの提出から三日が経った。
その間、対策会議が四回開かれ、説明資料が五本作られた。関係各所への報告ラインが整理され、九条はそのすべてに参加し、すべての文書を確認した。
会議では誰も九条を名指しで責めなかった。声を荒げる人間もいなかったが、議論は丁寧で、言葉は慎重、場の空気は終始危機対応の体裁を保っていた。
しかし文書は正直に記載されている。
対外説明資料の第三稿に、こう書かれていた。「鴻洋精工との交渉については、外部顧問の主導のもと進められた経緯があり」。社内向けの経緯メモには、「外資案採用の方向性は顧問提案に基づき検討された」とあった。銀行団への説明文書には、「交渉プロセスの情報管理については担当顧問の判断に委ねられていた部分があった」という一行があった。
どの一文も、事実として間違っていなかった。
九条は三つの文書を並べた。実態は、役員全員が曖昧だった。銀行団も積極支持ではなかった。機構も対案を政治的に使っていた。しかし文書の上では、九条が強く推進し、周囲はリスクに留意し、確認不足が一部残った、という構図が整いつつあった。
誰かが改ざんしたわけではなかった。それぞれが自分の立場から見て必要な補正をかけた結果が、最も切りやすい形へ自然に収束していた。
(複雑な失敗が、一人の判断の物語へ編集されていく。)
九条は文書を閉じ、手帳を開いた。一行書いた。
翌朝、九条は早く出社した。誰もいないオフィスで、コーヒーを一杯入れ、窓の外を見た。冬の朝の光が、低い角度でビルの壁を照らしている。
昨日の文書を、頭の中で並べ直した。
銀行は「事前説明が十分でなかった」。機構は「より慎重な案を主張していた」。役員たちは「リスクに留意していた」という主張をしている。それぞれの動きは個別には合理的だった。しかし全員が同じ方向に動くと、その中心に誰かが残る。
(敵意より厄介なのは、皆が少しずつ自分を守った結果として一人が沈む構造だ。)
九条はコーヒーを飲みながら、自分の条件を数えた。
外部から来た人間。社内の派閥に属していない。過去の功労も血縁もない。前に出て意思決定を促した。外資案という名前の残る選択肢を押した。切っても社内の連鎖損失が最も少ない。
一つひとつは偶然ではなかった。再建案件に外部顧問を入れるとき、組織はしばしばこの配置を無意識に求める。前に出て動く人間が必要で、しかし最後に切れる人間も必要だ。その二つの条件を同時に満たすのは、外部からきた人間だけだ。
自分は失敗したのではない。最初から、負け役に置かれやすい配置だったのだ。
その認識は、自己憐憫ではなく、ただの構造分析だった。
その日の昼、東から連絡が来た。
「進め方にやや前のめりな部分があったと、関係者の間では見られているようです」と東は言った。電話越しに、声のトーンは変わらなかった。
「外部人材として大胆な提案が先行した面は、今後の整理の中で言及されることになると思います」
「東さんの見解ですか」
と九条は聞いた。
「関係者の総意に近いものです」
電話を切ったあと、九条はしばらく天井を見た。
役員側は社内統治の維持のために、銀行側は自分たちの説明責任回避のために、機構側は国内案の正当性を補強するために。それぞれ別の理由から動いて、結果として同じ整理に乗っていた。利害が違う三者が、この一点だけで一致した。
誰も露骨には言わない。ただ「進め方に問題があった」「確認が不十分だった」「外部人材の判断が先行した」という言い回しが増える。それは事実の一面ではあるが、全体ではない。しかしその一面だけが記録に残れば、それが真実になる。
(単純な悪者が必要なとき、物語は最も切りやすい人間を選ぶ。)
午後、九条は一人で小会議室に入った。
机の上に、白紙を一枚置て考えをまとめ出した。会社を救うために必要だったこと。実際にやったこと。やれなかったこと。そして、今起きていること。
書き終えて、一度読んだ。
読み終えて、少し間があった。九条は窓の外を一度見て、また紙に目を戻した。
それを折って、上着のポケットに入れた。
九条は立ち上がり、窓の外を見た。午後の光が、街に均等に落ちていた。
会社は救えなかった。正しい案を持っていても、数字で勝てる局面でも、人間社会では負けうる。それは今回、初めて抽象論ではなく、実感として分かったことだった。
しかし今ここで問うべきは、なぜ負けたかではなかった。
(会社はもう間に合わない。では、何を救うか。)
その問いだけが、まだ答えを持っていなかった。
夕方、有馬が執務室に来た。
資料を持っていた。昨日の対外説明文書の最新版だった。
「読みましたか」
と有馬は言った。声が普段より低かった。
「読みました」
有馬は資料を机に置いた。
「……これは、事実と違います」
九条は有馬を見た。
「外資案の推進を主導したのは九条さんだけじゃない。篠田社長も、数字を見た上で一度は進める方向に動いた。北川さんも、資料を見て筋が通っていると言った。それが記録に残っていない」
有馬の声は上ずっていなかった。感情的に叫んでいるわけでもなかった。ただ、事実を一つひとつ確認するような言い方で、そして最後だけ、少しだけ間があった。
「止めた人たちまで、慎重だった側に回っている」
九条はしばらく黙った。
「有馬の言っていることは正しい」
と九条は言った。
「でも、それを今どこへ持っていくか」
有馬が少し黙った。
「……持っていく場所が、ないということですか」
「争っても、会社そのものはもう救えない」
と九条は言った。
「それは、私が負けたということとは、少し違う」
有馬は九条を見た。
「少し違う、というのは」
「会社は間に合わない。でも、まだ間に合うものがある」
有馬はその言葉の意味を、すぐには理解しなかった。ただ、九条の目が、もう後ろを向いていないことだけは分かった。
夜、九条は執務室に残った。
街灯が窓に反射していた。机の上に、今日書いた紙の折り紙が置いてあった。しばらく、それを見ていた。
それから手帳を開いた。
この会社にいる技術者のこと。研究開発の核になっている人間のこと。特定の製品ラインを支えている現場の知識のこと。それらは会社という器が消えても、次の場所へ移せるものだった。会社そのものは救えなくても、その中にある種だけは、未来へ持ち出せる。
連絡すべき相手が、二人いた。
一人は東だった。もう一人は林だった。
どちらも、この案件で九条と同じだけ構造を理解している人間だった。東は制度の内側から動く。林は制度の外側から動く。九条が求めるものは、その二人が別々の理由で持っているはずだった。
九条は手帳を閉じた。
会社を救えなかった。しかし何かを次へ渡すことは、まだできる。
それが今夜、九条が決めたことだった。




