プロローグ一 黄金の独房
午前九時ちょうど、九条澪は東洋光電ホールディングス本社のエントランスを抜けた。
ガラス張りの吹き抜け、磨かれた石床、整列した観葉植物。受付には若い女性が二人、完璧な所作で立っていた。経営危機の渦中にある企業にしては、ビルは不自然なほど清潔のように感じた。活気がないわけではない。むしろ逆で、余計なものをすべて削ぎ落としたあとの、形式だけが残った秩序がそこにあった。
案内を担当した総務部員は三十代前半で、声のトーンが一定より上がらず、会社の現状については何ひとつ語らない。ただ、九条を先導する歩幅が、廊下の混み具合とは関係なく常に小さかった。
(何を言わないかで生き延びてきた人間の歩き方だ。)
エントランスの壁面には、創業期の白黒写真から始まる年表が続いている。白物家電の大量生産、国産ブラウン管の普及、映像機器の輸出拡大、そして次世代表示デバイスへの転換。九条はすでに財務資料と業界レポートで時系列を把握していた。だから年表を読みながら確かめていたのは、事実ではなく温度だった。どの局面を誇り、どの失敗を薄く書いているか。社史とは企業が自分に向けて語る言い訳の構造であり、その省略の仕方に、意思決定の癖が出る。
この壁で言えば、次世代パネルへの転換が英雄的な決断として描かれ、その後の市場環境の変化には一行も触れていなかった。
(公式ナラティブと数字の乖離は、想定通りだ。)
エレベーターが閉まる直前、九条は思った。
(この会社は数字を見る前から、すでに現在形では経営されていない。)
エレベーターは役員階で止まらず、さらに上の階へ向かった。
扉が開くと、廊下の絨毯が変わった。薄い灰色から、足音を吸う濃い茶色へ。ほんのわずかな変化だったが、九条はすぐに気づいた。
通された先は、応接スペースになっている。重厚な木製の扉がいくつか並び、入り口には磨かれた表札に特別顧問。名誉参与。相談役と記載されている。肩書は多様でも、九条の目にはひとつの意味にしか映らなかった。責任からは降りたが、影響力からは降りていない人々のための区画。
待合の花は、昨日活けられたばかりなのか、生気にあふれ花も色鮮やかに咲いており、手入れに手が抜かれていない。
やがて年配の秘書が現れ、「まず顧問の皆様へご挨拶を」と自然な口調で告げた。
九条は一拍だけ間を置いた。外部コンサルタントの着任初日に本来会うべき相手は、依頼元の代表取締役と財務責任者だ。顧問や相談役は会社法上の機関ではなく、業務執行の権限も責任も持たない。その席に本来いない人々のところへ、最初に通される。
秘書はそれを命令ではなく習慣として言った。
(この会社の問題は、数字の外にある。)
案内の総務部員が、無意識にネクタイを直した。浅くなった呼吸を静かに息を整えている。人は、恐れていない相手の前では、そこまで身体を整えない。
応接室で待つあいだ、九条は机に置かれた社史集と周年誌を手に取った。
東洋光電ホールディングスの前身が、戦後の復興期に家庭用電気機器の製造から始まった中堅メーカーであることは知っている。高度成長期の拡大、映像機器による国際展開、九十年代の次世代パネルへの転換も。数字はすでに頭の中にある。
だから社史を読む理由は、事実確認ではない。
九条がページを繰りながら探していたのは、この会社が何を「正史」として選んだか、だった。
創業四十五周年の章に、大型パネル工場の起工式の写真があった。そこに添えられた当時の社長の言葉が、一段組みで引用されていた。
「この投資は、今後十年の市場を見越したものです。需要は必ず来る。問題はいつ来るかではなく、来たときに備えているかどうかです」
写真の日付は、リーマン・ショックの三年前だった。
(この人は間違ったことを言っていない。だが、需要が来る前に体力が尽きた。そしてこの会社は、それを誰かの失敗として書いていない。)
ページを戻した。投資の決定が記された章と、その後の業績が記された章のあいだに、やけに短い節があった。「市場環境の変化と対応」というタイトルで、本文は三段落しかない。事業の成功が企業文化になり、企業文化がやがて反証不能の信仰へ変わるとき、投資判断は意思決定ではなく歴史の継承になる。そうなった会社では、失敗した投資さえ誰かの責任ではなく、守るべき物語の一部に変わる。三段落しかないその節は、そういう会社が書けるぎりぎりの敗北の記録だった。
財務デューデリジェンスで確認した数字と、この社史の省略の構造は、きれいに一致していた。そしてその構造は、先ほど秘書が発した一文とも一致している。意思決定の正統性が現役経営陣ではなく退任した旧経営陣に残っている会社では、改革案は取締役会を通過するだけでは動かない。まず別の場所で、別の論理で、承認を得る必要がある。社史が失敗を誰の責任にもしないのと同じ理由で、誰も顧問への根回しをおかしいとは思わない。どちらも、同じ病理の別の顔だ。
秘書が茶を置き、「本日はまず顧問の皆様、その後に社長以下との顔合わせとなります」と告げた。
九条は頷くだけで返した。
(この順番を誰も異常だと思っていない会社に、事業再生の手順だけを持ち込んでも無意味だ。)
彼女はメモを取らなかった。最初の論点は、売上でも利益でもない。誰が、いま、この会社を決めているのか。それだけを頭の中に置き直した。
通された部屋には、元会長だった人物がいた。七十代か。白髪を整え、薄い色の眼鏡をかけ、仕立てのいいスーツを着ている。穏やかな微笑み、抑制の利いた口調、過不足のない歓迎。表向きは完全に退いた人間の振る舞いだった。
しかし九条は、同席している現役役員たちの視線の置き場所を見ていた。発言があるたびに、二、三人が元会長の方へ目を向ける。確認ではない。許可の確認だ。
元会長は創業精神と技術者への敬意を語り、「この会社は数字だけで裁けるものではありません」と言った。九条は礼をもって受けた。いま反論しても意味がない。重要なのは、この人物がまだ会社の格を代表する審級として扱われているという事実の方だ。衰退企業に残るこの種の権威は、怒鳴らない。露骨に命令もしない。誰が誰に先に視線を向けるか、それだけで十分だからだ。制度は紙の上で終わるが、序列は身体に残る。
会話の終盤、元会長は柔らかく微笑んだまま言った。
「改革は必要でしょう。しかし急ぎすぎれば、社員はついてきません」
九条は同じ温度で答えた。
「ついてくるべき相手が現在の経営陣なら、その心配は理解できます」
その一瞬だけ、室内の空気が静止した。
元会長は小さく笑った。怒りではなかった。値踏みだ、と九条は判断した。そして言いすぎたかもしれない、とも一瞬だけ思った。思ったが、撤回する気にはなれなかった。これは挑発ではなく、診断だった。少なくとも、自分の中では。
現経営陣との初会議は、別の会議室で行われた。
社長の篠田、財務担当役員の北川、事業担当役員の岸本、管理部門の三浦、そして秘書室から一名。配られた資料は百ページを超えていた。業績推移、セグメント別損益、資金繰り表、事業別の進捗、再建方針の骨子。数字は揃っており、フォントも統一されていた。
(この資料を作るのに、何人が何日かけたのだろう。)
九条は表紙だけ確認して、資料を机に伏せた。北川が微かに眉を動かしたのを、九条は見た。
「まず現状認識を合わせたいので、数字を直接うかがいます」
と九条は言った。
「北川さん、今期末の手元流動性はいくらですか」
北川が即答した。
「連結で二百八十億円です」
「コミットメントラインの未使用枠は」
「百五十億。ただし財務制限条項があります。来期第一四半期に純資産比率の条件を一つ抵触する可能性があります」
「メインバンクには報告済みですか」
「先月、非公式に。先方の反応は、現時点では静観という感触です」
九条はメモを取った。静観、というのは静観ではない。条件が揃えば動く、という意味だ。
「岸本さん」
と九条は続けた。
「映像デバイス事業の今期の営業損益の見通しを教えてください。セグメント単体で」
岸本がファイルを開いた。
「修正後の社内見通しでは、通期でマイナス四十三億の予定です」
「前期は」
「マイナス二十八億でした」
「固定費の構造は変わっていますか」
「……変わっていません」
「では赤字幅が拡大している原因は、主に売上の減少ですか、それとも原価の悪化ですか」
岸本がページを繰った。
「どちらかと言えば、売上の減少が主因です。ただ、部品調達コストも上がっています」
「いくら上がっていますか。前期比で」
また間があった。今度は岸本ではなく北川がファイルを見た。二人が資料を見比べる。数字がどこにあるかを探している。
(セグメント単体の原価構造を、財務と事業が別々のファイルで持っている。)
「確認して、後ほどご報告します」と岸本が言った。
九条はそこで一度引いた。数字を持っていないのではない。数字がどこにあるかを、即座に答えられない。それは管理の問題ではなく、この会社で誰もその問いを立てたことがない、という問題だ。
「わかりました」
と九条は言った。
「一点だけ確認させてください。今期中に事業の選択と集中を断行するとして、撤退の基準はすでに決まっていますか。たとえば何期連続赤字、あるいは営業損益がいくら以下、といった形で」
篠田社長が答えた。
「それは……現在、検討中の段階です」
「誰が、いつまでに、決めますか」
間があった。管理部門の三浦が、小さく咳払いをした。
「社内の合意形成を経て、適切な時期に」
(適切な時期に、というのは決まっていない、ということだ。)
九条はさらに続けた。
「では、公式権限を持たない相談役・顧問各位への事前説明は、慣行として必要ですか」
今度は誰もすぐには答えなかった。北川が水を飲んだ。岸本が資料をめくるふりをした。篠田が
「必要というより、配慮として」
と言い換えた時点で、答えは出た。
再建案件で最初に見るべきものは、損益計算書ではない、と九条は改めて思った。赤字の会社は立て直せる。赤字だと全員が認めている限りは。だが誰も現在の名前で経営を引き受けていない会社は、数字以前のところで止まる。日本企業の再編がこじれるとき、最後まで手がつけられないのは資産ではなく、たいていこの現在の不在だ。
九条は最初の提言を置いた。
「再建を始める前提として、二点お願いがあります。一つ目は、名誉顧問フロアの廃止と相談役・特別参与を含む非公式意思決定回線の停止。二つ目は、セグメント単体の損益と固定費構造を一枚に整理した管理資料を、来週月曜までに作成してください。今日お配りいただいた資料は連結ベースが中心で、どの事業が出血しているかが見えません」
沈黙があった。反論は出なかった。だが、それは賛成でもなかった。
やがて三浦が、絞り出すように言った。
「最初のご提案……顧問フロアの件は、社内が持ちません」
九条は初めて、三浦を正面から見た。五十代。疲れた顔だった。保身だけで言っているわけではなかった。本当にそう信じていた。だから厄介だった。会社の秩序がすでに、現在の制度ではなく、過去への配慮によって維持されている。それを信じている人間は、嘘をついていない。
「わかりました」
と九条は言った。
「では管理資料の方から始めましょう。月曜に見せてください」
一つ目はいったん引いた。引いたのは諦めではない。順番の問題だ。数字を揃えれば、誰がどこで止めているかが自然と見えてくる。
会議室を出たのは夕方だった。西日が廊下のガラスに薄く反射していた。
有馬が小走りで追ってきた。二十七歳。大学院でオペレーションズ・リサーチを学んだあと、九条の所属するファームに入って三年目になる。今回のアサインメントで、九条の下についた。
「最初にあそこへ切り込むとは思いませんでした」
と有馬は言った。声を抑えていた。
「業績とか資金繰りの前に」
九条は歩みを止めなかった。
「数字が悪い会社なら、立て直せるわ」
有馬はしばらく黙った。エレベーターホールに向かう廊下を並んで歩きながら、何かを反芻しているような顔だった。
「……でも、数字は悪いですよね、実際」
「悪い。でも、それだけじゃないの」
「どういう……」
「誰もいま決めていない会社は、数字の問題じゃないのよ」
有馬がまた黙った。今度は少し長かった。何かを理解しかけて、しかし掴みきれていない顔だった。その中に、困惑と、自分でも気づいていない昂ぶりが混じっていた。
エレベーターを待つ短い沈黙の中で、上層階の表示灯が一度だけ点いた。まだあそこに誰かいる。
九条はそれを見上げたまま、ほとんど独り言のように言った。
「この会社は赤字なんじゃない。現在形で経営されていないのよ」
扉が開いた。二人が乗り込み、扉が閉まった。
下降する箱の中で、有馬はまだその言葉の意味を掴みきれずにいた。だが九条だけは、最初にメスを入れる場所をもう決めていた。




