優しさは鎖のように
「……ッ……」
抱きしめたアカリは少し身じろぎしたが、俺が少し力を入れると大人しくなった。
「……ツシマさん……」
「ごめんアカリ……なんだかお前が消えてしまいそうで思わず」
俺の言葉にアカリはびくりと肩を震わせた。
(何故こんなに怯える?……まさか記憶が戻ったのか?)
「私は、あなたを置いてどこにも行きませんよ……」
「アカリ……」
アカリの声は元の調子に戻っていた。いつものあの穏やかで優しい口調に。
(やはり今日はおかしいな、アカリも。俺も)
振り向いたアカリの顔は、先ほど見せた虚ろな姿が嘘のようになくなっていた。
ああ、この顔だ。この目だ。壊れているのに死んでいない目。アカリの目……
俺はホッとして腕を緩めた。
アカリのぬくもりが離れることが、少し寂しかった。
「ふふ、私がいなくなると思って心配だったんですか?」
ああ、そうだよ。
そんなこと求めてはいけないのに。なんでだろうな……
俺はお前の旦那を追い詰めたのに。
「私はどこにも行きませんよ」
俺に向き直って繰り返すアカリの言葉に、また俺はホッとした。
夕食を買って、アカリはこの家に戻ってくる。そのことが俺の心を満たしていた。
こんな生活は、いつか壊れるとわかっているのに。
*
「じゃあ行ってきます」
「ああ、気を付けてな」
アカリは買い物に出た。
俺は何気ないふりをして、ベランダからその後ろ姿を見送った。
小さな背中。
迷いなく歩く足取り。
(逃げないよな……)
そんな考えが浮かんだ瞬間、胸がひやりと冷えた。
何を恐れている?
俺は、ただ面白そうだから拾っただけ。
アカリがいなくなったところで、困る理由などーー
「……いや、ある」
小さく呟いて、自分で自分に舌打ちする。
ーーこの家が、また元の冷たい箱に戻ってしまう。
「そんなのは許さない。大丈夫だ、アカリは帰って来る」
(私は、あなたを置いてどこにも行きませんよ……)
アカリはそう言ったのだから。
「ああ、クソッ……なんなんだよ!」
優しさやぬくもりは遠い世界のことだと思っていたのに。抱きしめたアカリの華奢な肩が、壊れそうな身体が忘れられない。
優しさという鎖が澱のように心に絡みつく。
*
日暮前にアカリは帰ってきた。当たり前のように。
「ただいま帰りました」
俺はその声にまたホッとして、思わずアカリを抱きしめてしまった。
「ツ、ツシマさん?荷物が……」
「俺が運ぶから、しばらくこのままでいさせて」
「……はい……」
ああ、認めるよアカリ。
もう俺はアカリがいない世界なんて考えられないんだ。
やがてそろそろと、アカリは細い腕を俺の背中に回してきた。
(チクショウ、可愛い……)
「ツシマさん、震えてるの?寒い?」
「……黙って……」
何も考えたくない。今はただ、抱きしめあって。このぬくもりだけを感じたいんだ。
*
夜になり、アカリは夕食を用意した。
今夜は鍋だった。
「今夜は寒いですから。先程ツシマさん震えてましたし」
「……いや、あれは……」
アカリはそう言って微笑み、卓上コンロに火をつける。
湯気が立ち上り、部屋が一気に温まる。
それだけで胸が少し楽になる自分に気づいて、また苦しくなる。
「……アカリ」
「はい」
「……いや、なんでもない」
名前を呼んだだけで、心臓がうるさく鳴った。
もし今、もし今この穏やかな時間が壊れたらーー
俺は、何を失う?
アカリの記憶が戻る日。
アカリが真実を知る日。
この食卓が、二人で囲む最後の日になるかもしれない。
(……嫌だ)
そんな感情を持つ資格は、俺にはないとわかっていても。
*
アカリは家事をひととおり終え、いつものように頭を下げた。
「おやすみなさい、ツシマさん」
「ああ……おやすみ」
アカリは自分の部屋へ向かった。
俺はその背中を見つめていた。なぜか胸が締めつけられ、呼吸が浅くなった。
(この日常は、砂の上に立っている)
少しでも動けば、崩れる。
真実という一言で、すべて終わる。
それでもーー
それでも俺は、今日という一日が終わってしまうのが、怖かった。アカリの背中が遠ざかっていくのが、怖かった。
「アカリ、待って」
「??」
「今夜からは一緒にいてくれないか?」
俺のその言葉に、アカリは一瞬目を見開いたが、やがてゆっくりと頷いた。
アカリのその様子を見て、俺は今日何度目かの安堵で胸を撫で下ろす。
今日からは冷たくもない。慣れた寂しさでもない。
「おいで、アカリ……」
言葉にすれば、もう戻れない。
俺はアカリというぬくもりを、ついに手放せなくなってしまっていた。
二人とも破滅に向かっているように見えますが大丈夫でしょうか?
最後まで読んで頂きありがとうございました。




